成長するってこと

いろいろ考え事をしていたので久しぶりにnote書きます。

「成長」という言葉の強さ

「成長」とは何かと考えていた。
いろんな人が重要そうに説く、あの「成長」のことである。

ここで考えたいのは、生物の成長ではない。
よく経済やそれに類するものとして語られる「成長」について。
人によっては「成長」は絶対的に歓迎するものであり
そのこと自体が様々な行為の目的となるものである。
「成長なくしては…」などという人もいる。

それはたびたび、一方通行的に語られて
「このことが達成できた、次はこれだ」というように
無限に続く矢印みたいに続くものとして不可避的に目指される。

成長って、それがすべて?

でも、その言葉の本来の意味を考えてみると
本当にそれでよいのかと疑問が浮かぶ。

確かに生物は成長する。

だがしかし、できることが増えていくのは人間であれば
せいぜいが20歳くらいまでであろう。
それが30歳、40歳、50歳、60歳、70歳…というように
年齢を重ねるにつれて、できないことがどんどん増えていき
最終的には呼吸をすることもできなくなって死んでいく。

そう考えると、成長という言葉は一生のうちのごく一部を切り取って
一方通行の部分だけを見せているものなんじゃないだろうか。

生物の営みの初めから終わりまでを見通してみると
そこには成長ではなく変化という言葉の方がふさわしいように思う。
できることも増えていくが、できないことも増えていく。
生物は生まれてから死ぬまで、否応なしに変化していく。
(変質と言ってもいいかもしれない)

プラスとマイナスだけの世界から離れられるか

それであれば、「成長」を強制するということは
きっと生物にとって歪みが出てくるのではないか。
曲がったものを無理やりにまっすぐにするかのように。
もしかすると折れてしまうかもしれない。

実際に、「成長」を強制されることは、自分にはきつい。
しかも「成長」を強制する場合の多くは
「あれができた」「これができた」というように
ポイント制のような形で「成長」を測られる。

確かにそれはわかりやすい。
ポイントをたくさん取ることができれば
それは「成長」の証明になるからだ。

でも、本当にそれでいいのかなと自分は思う。

なんというか、人間の尺度じゃない気がする。

だって、できなくなることだってたくさんある。
それは本当にマイナスポイントなのだろうか。

もしそうなのであれば、年齢を重ねることは
絶対的なマイナスでしかなくて
それってなんだか悲しいことじゃないか。
(加齢を拒否するのではなく、素敵に加齢できる人間に、私はなりたい)

できれば、そういった「成長」を絶対視する尺度で測られないで
変化していくことを認められるような環境で
生活することができたらなあと思うのだ。

そういうところにいつかはたどり着きたいなと
思うだけで考えはまったくまとまらないのだけれども。

おまけ

今回の記事のタイトルはこの曲から(ただの連想ゲーム)。
このでこぼこしたぎこちないグルーヴ感はこの後も洗練されることなく続き
丸山さんによって永遠のものとなった。

そう考えると、サニーデイって成長をすることなく
変化し続けてきたバンドなのかもしれない。

(新譜もめっちゃよかった)

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