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自己慰安と自白

 いわゆる「普通の」恋愛ができない。好きな人と付き合ったその先の行為が気持ち悪くて仕方ない。普通ならば通るべき道を拒まずにはいられない自分がいる。
 どうして人間は裸で抱きあわなくてはならないのだろう。服を着たまま抱きあうことが人類の最高到達点なのではないか……といった内容のツイートを見たとき、全くもってその通りだと思った。
 だけどそれは普通じゃない。普通だったら男と女が結婚したあとは子どもを作るのだ。家庭をもって生きることを幸せと呼ぶのだ。その前提となる裸の付き合いは、種の存続のためにも、人類の一員として生きるならば当然の通過点であるはずなのだ。
 わかっている。そのくらいのこと、とうの昔に知っている。だけどどれだけ頭では理解していてもどうしても気持ち悪くて、ほんとうに気持ち悪くて、全身が拒んでしまう。吐き気がして泣いてしまいそうになる。きっと私は人間に向いていないのだ。

 上手く隠して生きていたつもりだった。性について大っぴらに語る人とも上手く話を合わせていたし、電車で赤ちゃんと目が合ったら微笑んであげることだってできた。妊娠・出産には素直におめでとうと言えたし、恋愛の話も得意ではなかったけれど普通程度にはできたはずだ。

 でも多分そんなことなかったのだと思う。

 先日、テレビドラマのなかで、ある男が妊娠した彼女の大きくなったお腹に顔を近づけて「俺をパパに選んでくれてありがとう」と言うシーンを目にしたとき、心の底からギョッとした。そして一瞬暗くなった画面に写った私の、ひどく気持ちの悪い顔を見た。
 信じられない。気持ち悪い。そのテレビドラマで笑いあっていた二人を受け入れられないとでも言いたげな表情だった。今までも気がついていないだけでこんな表情を人前で晒していたのかもしれないと思うと、ゾッとする。

 また別の日、久しぶりに男の幼なじみと会った。その人は酒に酔って私の肩にポンと手を置いたのだが、その瞬間、人生で一番ギョッとした。今すぐにその手を払い除けたいと思った。でも身体は上手く動かないし、そんなことで過剰な反応をするのもきっとおかしいことなのだろうと思うと何もできなかった。気持ち悪くて、吐き気がした。でもそれはその幼なじみへの嫌悪ではなく、人と人の肌の触れ合いということに対する嫌悪だった。
 男女問わず、少し触れるだけなら耐えられるのだが、身体の一部を掴まれるとか接着面積が大きいと、ものすごくギョッとしてしまう。女友達が冗談で腕を組んできたときも、身体が固まってしまってどうすることもできなかった。
 もう隠せない、ということを実感する日々が続く。ただのボディタッチにさえ過剰な嫌悪感を抱くようになってしまったことが、一層「きっとこれは普通じゃない」という思いを強くさせる。

 付き合った「その先」が嫌いだ。だからその結晶である子どもも嫌いだ。でも生まれてきた子どもに罪はないし、愛し合った二人に罪がないこともわかっている。だから嫌いにはなりきれない。ただ、自分がその立場になることを想像しただけで身の毛がよだつ。息が浅くなってギョッとする。妊娠だとか出産だとか、祝福すべきものだと頭ではわかっているのに、人間の身体のなかにもう一人人間が入っている状態が気持ち悪くて、どうしても受け入れられない。ましてそれが体内から出てくるなんて。
 生物学的な女同士あるいは男同士なら子どもができることはないのでまだ安心できる。でも、付き合ったその先に性行為がある描写は総じて苦手だ。なんでそんなことしなきゃいけないんだろう。なんでそれが当たり前とされているんだろう。私には受け入れられなくて、意味がわからない。
 だから哺乳類はみんなみんな嫌いだ。雄と雌が交尾をして子孫を残す仕組みが、その本能が嫌いだ。猫だけは特別で好きだ、と常々言ってはいたが、ほんとうはそんなことない。猫も人間もみんな一緒だ。みんなみんな気持ち悪い。そこに目をつぶれるかどうかの違いしかない。人間は気持ち悪い。

 この考えに生まれたときから気づいていたら良かったのに、と何度も思った。単に物心ついたときから性欲がなかったとか、あるいは性行為を知ったその瞬間から嫌悪感や不信感に自覚があったとかなら、もう少し楽な話だったと思う。だけどこんな自分の性質に気づいた原因が何であるか自分でもはっきりとわかっているし、自分でも気持ち悪くてどうしようもないのだけれど性欲はあるので、ノンセクシャルなのだと主張することはできないようにも思われる。強いて言うなら、広義的な意味でのノンセクシャルとでも言ったところか。

 私のこの考えがノンセクシャルと呼ばれるものに近いことは最近知った。そしてそれが性自認とはまた異なるセクシャルマイノリティであることも。マイノリティ、と言われてようやく自分が「普通じゃない」ということを自覚した。マイノリティ側に立って初めて「普通」に心から憧れた。ノンセクシャルだと言ってしまえば、自分で自分にラベリングできて少しは気持ちも楽になるが、だからってこの考えが拭えるわけではない。みんなと同じように「普通の」恋愛ができるわけではない。それが悔しくて悔しくて仕方ないのだ。


 いつかどこかで吐き出してしまいたいとずっと思っていた。でも隠しきれるなら隠していたいとも思っていた。こんな話は人に聞かせるものじゃないから。だけど先日のテレビ画面に写る自分自身の歪んだ表情を思い出すと、隠しきることはできないという思いが強くなる。このまま隠そうとしたって、いずれもっと苦しむことになる。
 だから私がどういう考えをしていて、どうしてそんな考えをしていることに気づくようになったのかを、もう全部話してしまおうと思う。前置きが長くなってしまったが、ここからが本題だ。


 「人を好きになる気持ちが分からない」と、恋愛に関する話を振られるたびに私は答えたものだが、あれは嘘だ。小学生の初恋の人以外に好きになった人くらいいる。それなのに前述のようなことを言っていたのは、その方が楽だからである。
 恋愛感情が分からない、と言ってしまえば恋バナはそこで終わりである。告白だとか付き合うだとか、ましてやその先の話なんて絶対に振られることはない。だから前もって自分の身を守ろうとしていたのだ。話したくない話題をそもそも振られないようにするために。

 私は性行為に対して普通じゃないくらいの嫌悪感を抱いている。官能小説だとかいわゆるエロ漫画は別にどうってことはないのだけれど、ドラマや映画にそういう場面があったらギョッとしてしまう。創作物には見えなくなってしまうからだ。ファンタジーと同等の扱いをして、自分には全く関係のない話だと思っているときは何の問題もなくいられる。性にオープンな人の話も、私とは無関係だと思っているときならば聞いていて別に問題はないのだ。だけどドラマや映画など、現実的で生々しいものは受け入れられない。多分、無意識のうちに自分を重ねてしまっていることが原因だと思う。

 好きな人とは裸の付き合いをしたいと思うのが普通だと人は言う。付き合ったら「そういうこと」をするのが普通だと。結婚したら子どもを作るのが普通で、恋人同士互いに性欲は満たし合うものなのだと。
 恥を乗り越えてでも欲を満たしたいと思ってしまうのが普通?そもそもセックスをするのが普通?セックスしなきゃ真の愛とは言えないのが普通?普通なの?
 私にとってそれらは全く普通じゃないのに、世間一般ではそれが普通で、当然私もそうだと思われている。付き合ったらセックスするのが普通だと思われていること自体は別に構わないのだ。世間一般の普通と個人の普通が違っていることは往々にしてある。
 でも、これに関しては世間一般の普通と私の普通が違っていたら本当に困るのだ。好きな人ができてもセックスはできないなんて、そんな人間と付き合える人はほとんどいないだろう。ましてこんな私が好きになった人が私と同じようにセックスをしたくないと思っている人である確率はどのくらいだろうか?

 このことをわざわざ大っぴらにする必要はないと思うけれど、大学生になってからこんな話題が身の回りに増えてきて、今まで以上に生きづらさを感じるようになってしまったから、ここで全部吐き出してしまいたいのだ。
 それに、こんな私の生き方を隠したまま誰かと付き合えたとしても、いざ「そういうこと」をすることになったときに「実は私は……」などと言い出しては迷惑だし、無闇に人を傷つけることになるに決まってる。
 何より、好きになった人には幸せになって欲しいと思うものだから好きな人に私のセクシュアリティを押し付けたくもない。普通の恋愛ができる人は普通の恋愛ができる人同士で幸せに生きるべきなのだ。
 そう分かっているから、始めから全て避けて通るしかない。始めから恋愛を避けるしかない。好きになっても報われることはきっとほとんどない。多分、「普通の」恋愛ができる人たちからすると私には人を恋愛的に好きになる資格がないのだ。


 こんなふうに気づいてしまった原因は父親と母親にある。でも、その原因を作ったのは私自身だということも自覚している。
 私は、父親の手帳と母親の日記を見たのだ。父と母の離婚話が持ち上がった頃、私の知らない二人の過去を知らねばならぬと無駄な好奇心と決意を胸に、ちょっと引き出しを開けてしまったのである。そこに書かれていた内容は小学生の私には受け入れ難く、中学生の私には刺激が強すぎ、高校生の私には嫌悪感以外何も感じないものであった。
 他人の手帳と日記を見ることは罪だ。法で裁かれることはなくても、やってはいけないことだ。だからこうして苦しむことになったのは当然の報いだと言われればその通りである。でもそもそも私がそんなものを見ようと思った原因を作ったのは両親であるし、娘が知って不快に感じる過去を築いたのも両親だ。誰のせいでもないのかもしれないが、私の苦しみの原因が両親と私自身にあることは明白なのだ。
 以下は家族の現状と、手帳と日記から読み取った内容である。


 私の父親と母親の関係はもうすっかり冷めきっている。いや、冷めているというよりはむしろ熱いのかもしれない。二人はお互いのことを多分きっと憎んでいる。
 父と母が出会ったとき、二人は失恋したばかりだった。そういう人同士が互いを引き寄せ合うのはよくあることだ。二人は付き合いはじめ、結婚するに至る。だけど、どうやらその頃から既に二人の関係はおかしかったようだった。母親は父親の結婚式の準備のやり方が利己的であると感じ、もう既に父のことが気に食わなかったらしい。結婚する前から結婚に不安を抱いていたとも言える。

 結婚式が終わった日の夜、父は母を抱いた。母は泣いていたらしい。もう疲れているからやめてくれ、と言っているにも関わらず「結婚して初めて」を大切にしたいからと無理強いしたのは父親だ。もうその時点で反吐が出る。
 二人は新婚旅行へ行く。行った先でも父は泣いている母を抱く。ここについては父親の手帳と母親の日記とで、まるで幸福度合いが異なるので気味が悪い。父親はずっと機嫌がよく「Hの何が悪いんや。俺は快楽主義者だからな」などと書き連ねているが、一方で母は疲れたとばかり書いている。幸せになれるのだろうか、と不安を吐露する部分もある。私は自身のことを快楽主義者と宣う父親のことが気持ち悪くて嫌いでどうしようもなくなってしまう。

 母親が姉を身ごもった頃であろうか、父親が浮気をする。これは父親が昔使っていた携帯(通信機能はないがテトリスができるからゲーム機代わりにという理由で姉に譲り渡し、私の手にも渡った)のメールから見つけた事実だ。浮気相手とのメールには暗証番号をつけていた。母親からのメールは非難がましいものばかりになっていく。
「なんでメールに暗証番号なんてつけているの?」
「なんであなたはいつもそうやって」

 そうこうしているうちに姉が生まれる。これだけ冷めきった関係なのに子供は生まれるのか、と思う。そういうところも気持ち悪く、どうにも受け入れ難い。
 そうこうしているうちに、私も生まれた。どんな経緯であったとしても、私は生まれたことを感謝すべきなのだろうか。子どもを作ろうとしたこと、すなわち私を生み出そうとした理由がどれほど不純でも、私は感謝すべきなのだろうか。
 というのも、その頃の母親の日記にはこう書かれていたのだった。
「子どもがいたら何か変わるかもしれない」

 この文を読んだとき、ああ私はこの家庭を変えるために生まれてきたのか、と思った。父親の利己的な振る舞いに傷ついた母親を慰めるために生まれてきたのか、と。馬鹿みたいだ。ほんとうに馬鹿みたいで、気持ち悪い。
 小学一年生の頃までは家族で遊園地に行ったこともあった。船に乗ったりお祭りに行ったり。写真には「幸せな家庭」が写っている。私たち家族はみんな身を寄せあって写真に写る。

 ギョッとしてしまうのだ。幸せだと思っていたものは全て嘘でしかなかった。私が知らないだけだった。
 そのことに気づいたのは小学三年生の頃。母親は父親と離婚したらどう思う?と私と姉に尋ねるようになった。父親には実家に帰ってもらって母親はこのまま今の家になんとか住み続けるか、お金がなくなったら別にアパートを借りて暮らすか、あるいは母親も実家に帰ることになるが、あなたたちはどちらについて行きたい?と。
 無知な私はほとんど毎週末通っていた父方の祖母の家が広い日本家屋で私の大好きな田舎にあることが魅力的で、今通っている小学校に通い続けられるのならば父親の方について行きたい、と言った気がする。それから、一軒家なら猫が飼えるから、と。
 無知だった。馬鹿だった。
 離婚だなんて寝耳に水で、私はずっと、私たち家族は仲の良い至って普通の関係なのだと勘違いしていた。だから私はそんな話をしているあいだもふざけて笑ったり、無駄に小学生らしからぬ冷静なことを言ってみようとしたものだ。
 姉は私とは違って父親と母親の事情を知っていたらしい。でも姉が何と答えたのかは覚えていない。離婚だなんて突然で、なぜそんな話が出てきたのかもよく分からないのにどんどん暗くなっていく会話が辛くて怖くて、最終的に私は泣いた。離婚しないで、などと言ったのかもしれない。かなり記憶は曖昧だが、いつの間にかこの話は立ち消えになった。
 私たち家族は、下宿している姉を除いて今でも一緒に暮らしている。

 母親と父親の関係は冷めきっている。このあいだ、母親は父親に向かって「まだ実家に帰らないの?」と言った。遠回しだが、事情を理解している人間からすると非常に直接的な「出ていけ」という意味の言葉だ。
 こんなふうになってしまった人々でも、まだ家族なのだ。私と母は血が繋がっていて、私には父の血も流れている。母親と父親は赤の他人でも、私にとって二人は他人じゃない。二人の血がずっとずっと流れている。
 もう、その事実が気持ち悪い。
 嫌がる人間をねじ伏せる行為を実の父親がしていたなんて許せない。その血が自分にも流れていることが気持ち悪い。自分を慰めるために私を生んだ母が憎い。嫌いな男といつまでも暮らすしかない母の遺伝子を受け継いでいることが悲しい。そんな両親から生まれたという事実も私が生まれた理由も家族という関係も、全部全部嫌で、気持ち悪くて、受け入れることができない。

 自分はこうなりたくない、そんなことはしたくない、という気持ちがあまりにも強くて、幸せそうな家族を見かけるだけで息が詰まるようにもなってしまった。
 優しそうなこの親は、ちゃんと合意の上で子どもを作ったのかしら。純粋な望みからこの子どもは生まれたのかな。この子はずっと幸せな家族に囲まれて生きていけるのだろうか。
 そんなことばかり考えてしまって、そんなことを考えている自分が気持ち悪くて、ああきっと私には無縁の世界なのだろうな、と思う。

 ほんとうは私だって好きな人と付き合って、結婚して、幸せに暮らしたいけれど、付き合ったらやることをやらなきゃいけないし、結婚したら子どもを産むのが当然だと思われる。二人だけでいつまでも幸せに生きることなんてできない。少なくとも、「普通の」恋愛ができて「普通の」結婚をしたいと思う人とは私は恋人になることも家族になることもない。なれるはずもない。
 だけど、私もそちら側になりたかった。当たり前を当たり前だとも思わないくらい当然のこととして受け入れて生きていたかった。こんな理由で性交渉を嫌っているから、男女にとらわれない性交の方がまだ受け入れられると思っているのかもしれない。男と女の性行為によってしか、私は生まれてこれなかったから。
 ああ、男にやられる側の女に生まれたくなかった。子どもを産む役割のある女に生まれたくなかった。
 男だったら子どもを産まなくて良い身体の仕組みだから妊娠などという恐ろしい現象も体内で起こらないのに。男だったら。私が男だったら。
 別に私が男になれたら解決する話でもないだろうけど、もうこんな考えをすることでしか自分を慰めてやれない。




 こんなことをつらつらと書いても何にもならないのだろう。ただの自分語りと同レベルのものでしかないのかもしれない。それでもこんな考え方をしてしまうせいで、「彼氏/彼女欲しい」というセリフを聞くたびに一瞬身構えてしまうような、「子どもは何人欲しい?」という質問に対してその前提の違いに頭が真っ白になってしまうような、そんな日々が辛くて仕方ないということを吐き出してしまいたいのだ。

 誰も「性行為を気持ち悪いと思いますか?」などと聞いてきたりしない。いずれ通る道と誰もが考えているからだ。性の話がタブー視される以前に、肉体関係を受け入れられるのが当然だという考えが蔓延しているからだ。
 私は、こんな人間なのに人を好きになってしまう。でも人を好きになってしまったらずっとその恐怖に怯えて生きることになるのだ。いつか私も?とずっと怯えて生きてしまう。そんな自分が嫌だ。でも人のことを好きになるのを止めることはできない。そんな自分も嫌いで気持ち悪い。でももうどうしようも無いのだ。


 別にこんな私に配慮して生きて欲しいなどと言うつもりは全くない。みんな好きな人と好きなように結ばれて子どもを産んで人類を繁栄させてくれたら良い。でもどこかで先にカミングアウトしておかないと、遅すぎることが多々あるのだ。先に私はこういう人ですよ、と言っておけば無駄に傷つかなくて済む。
 私は自分の身を守りたくてこの文章を書いている。そして自分の気持ちが少しでも楽になれば良いのにと思いながら。

 もしかしたらいつかこんな考えを失って、誰かと結婚して子どもを産む日が来るのかもしれない。そんな日が来たら良いなと思う反面、まだそれを気持ち悪いと思ってしまう。
 でもそんな日が来たとき「あのときは性行為を気持ち悪いとか言ってたくせにやることやってんじゃん」と思われるのは嫌だなとも思う。そのときは、私はやっとこんな考えを変えることができたんだなと思ってくれたら嬉しい。それが諦めではないことを今の私は願っている。

 私はこの世のみんなが幸せな家庭で生きて欲しいと思う。私と同じように性交渉を望まないけれど誰かを好きになってしまう人も幸せに生きることができたら良いなと思う。
 一人で生きることを幸せと捉える人もいることは分かっているし、それはそれできっと素敵で幸せなことだろう。でも、それならそれで私もそちら側へ行きたい。今みたいにどちらにも身を寄せられず、宙ぶらりんに生きる状態をやめられたらそれで良い。

 性に対する自覚は周りがどうこう出来るものではないので、自分で認識を変えるか受け入れるか以外に道は無い。それでも幸せな選択ができたら良いと思う。幸せになりたい。いつか幸せになりたい。

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