曇りの夜明け

曇りの夜明け前には、何も始まらせまいという強い意思を感じる。(誰の?)

昨日の酒が残ったか、右足がじんじんと痛んで眠れない。真っ暗な部屋のベッドの上で、意味もなく体の上下を入れ替えたり上体を起こしたりしていたが、ついに灯りをつけてしまった。午前三時半すぎ、腹が減りすぎてもう寝直すことは不可能に思えた。しばらくの何も考えない間のあと、コンビニ行こうと思い立った。どうしてもなにか温かくて塩気のあるものが食べたくなった。

普段は夜明け前の散歩のときにはiPodを欠かさない。夜明け前に聞いてこそ輝く音楽というものをたくさん持っている。今日はしかしそれは余計に感じられた。寝間着にしているジャージにTシャツという出で立ちのままサンダルをつっかけて外に出た。

四時前、まだ夜は明けていない。薄明は始まっていたかもしれない。星っ子一つ見えなかった。全天曇っていたからだ。七月になったとはいえ肌寒く、半袖一枚で出たことをすぐに後悔した。絶対に肉まんが食べたいと思った。なんとなくで歩きだしたら、コンビニへの最短経路ではなく通学路のほうへ出てしまった。遠回りになるがそれを楽しむ余裕はあった。

夜明けというものが本当に好きだ。朝焼けにともなう空の色の移ろいが好きでたまらない。暗から明への変化というところにも、夕焼けと比べたときの良さがある。朝焼けは春、夕焼けは秋といってもいいだろう。こんなにドラマチックなことが毎日普通に起こっていて、それをほとんど毎日見逃しているということに時々驚愕する。しかし、どうしようもなく曇っている日にはそんな奇跡的な色の変化を見ることはない。ただぼんやりと空が白んでいくだけだ。ここからまた新しい一日が始まるのだという希望なんて一切与えてくれない。ほの暗い道路脇の側溝のふたの上を辿っていった。たまにふたがガタと鳴る。

まだコンビニの看板がまぶしく感じる程度に薄暗い。入店と同時に肉まんやら唐揚げやらを温める機材にまったく生気が感じられないことに気づいた。中身もなければ電源も入っていなかった。考えてみれば肉まんから最も遠い季節かつ時間帯である。あてもなく狭い店内をさまよった。男性店員と制服を着ていない謎の女が仲良く品出しのようなことをやっている。なんとなく自分が二人の雰囲気に水を差したようなばつの悪さを覚えて、奴らが陣取る弁当コーナーの列の見回りを後回しにした。女は早々に去ったので俺は四川風麻婆豆腐丼にありつくことができた。ついでにコーンチョコも買った。

店を出る。交差点の信号が静かに点滅していた。こんな夜明けに一体誰を急かしているというのか。信号たちは律儀にも直交する信号と変化のリズムを美しく調和させながら、まったく無意味に赤になったり青になったりときどき黄色になったりしていた。空はさらに明るくなっており、看板のまぶしさは減っていた。東の方向は少し雲が切れてほの赤く染まり、そのおかげで上方が青っぽい色をしていることも認識できるのだった。鳥が起きてきた。ピンク色のババアが向こうから走ってくる。健康のためという全く感心しちゃうような理由で起きているに違いなかった。すれ違う一瞬俺が側溝のふたを譲った。

深夜の信号機、引き出しの腕時計、遠く離れた恋人、誰も見ていない時に世界はどうなっているか。時計を見ていない瞬間、そいつは止まっているかもしれないし、まったくめちゃくちゃな数字を指しているかもしれない。そう考えることもできるが、誰も見ていない時にも無言で働いているからこそ見られる瞬間に意味を持つことができるのが時計というものだ。無意味に思える誠実さが意味のある瞬間を支えている。別にこんな意味ありげなことを言うために散歩に出たわけではなかった。雲がちな夜明けに当てられたに違いないのでさっさと帰宅してあたためてもらった麻婆豆腐をかっ込んだ。過剰なしょっぱさはこの時間帯にちょうどいい。一緒に買ったチョコは意味もなく遠慮して袋を一つしかもらわなかったために麻婆の熱にやられてどろどろになった。

眠らないまま午前六時、もうこれから始まる一日を失ったと言って間違いない。さすがにもう寝る以外の選択肢は取れない。やはり曇りの夜明けは、それを起きて迎える人間に何ももたらさない。帰りがけに見たあの赤に、この期に及んで少し期待をしてもいる。

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