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【要約あり】小川未明「詩の精神は移動す」

▶詩の意味を問う名文

 たまたま見つけた小川未明の詩論(大正11年(1922)のもの)が素晴らしかったので、シェアします。

 小川未明といえば、国語の教科書で「野ばら」を読んだ方も多いのではないでしょうか。世間的には童話作家・小説家として認識されている小川未明ですが、その未明が詩論を書いており、しかもそれが、私が自分の詩に求めているものをドンピシャで言語化したものだったので、目の覚めるような嬉しさがありました。
 テキスト化してくださった青空文庫さんに感謝です!


▶小川未明とは

小川未明(1882-1961)
 小川未明は、新潟県上越市高田出身の小説家・童話作家です。
 明治15年(1882年)、現在の幸町で旧高田藩士の家に生まれ、中頸城尋常中学校(現 高田高校)へ入学。早稲田大学学生時代に、坪内逍遥や島村抱月、ラフカディオ・ハーンらの指導を受け、小説家としての地位を築きました。
 その後、小説を書くかたわら、数多くの童話を創作しました。昭和36年(1961年)、79歳で死去するまで約1,200編の童話を送り出し、「日本のアンデルセン」として、現在もたくさんの読者に親しまれています。代表作には「赤い蝋燭と人魚」、「野ばら」などがあります。

小川未明文学賞ホームページ
https://gakken-ep.jp/extra/mimei-bungaku/


▶要約(500文字):小川未明「詩の精神は移動す」

古いものが破壊されてできた新しいものが、単に古いものがそのまま形を変えたものであったなら、それは創造ではない。詩においては、その詩がどんなに快いものであっても、そこに含まれる思想が従来のものであるなら、それは私の求める詩ではない。旧文化に安住し、その時代の感情に陶酔している人々には、本当の意味での詩はない。子守唄が子どもを寝かしつけるために、舟唄が舟を漕ぐ苦労を忘れるために、糸とり唄が歌う少女を自ら感傷的な気持ちにするためにあるように、単純な目的のために唄われる歌があってもよい。しかしそれらは、私の求める詩ではない。今までの詩が休息の状態に足をとどめているものだとするなら、私達の詩は疑いと激動の中から生まれる。詩はその時代の生活の炎だからだ。新しい生活・新しい世界を求め、それに最も敏感である詩人なら、破壊と建設の姿が詩に現れないはずがない。生活に対して愛を感じている人達が何か感激を感じる時、その中にはいつでも詩が含まれている。子守唄・舟唄・糸とり唄を作るにせよ、私たちが詩として人々に与えるものは、従来のものと同じでよいだろうか。今日の詩人はもっと詩の王国が移動したことに対して覚醒しなければならない。


▶全文:小川未明「詩の精神は移動す」

詩の精神は移動す
小川未明

 物が新しくそこに生れるという事は、古い形が破壊されたということを意味するに他ならない。単に破壊というと不自然のように感ずるけれども、創造というと、人々には美わしい事実のように思われる。若しも古いものが其のまゝ形を変えたものであったなら、それは創造ではないだろう。
 即ち存在の意義を別個のものとして、新しく生れるということに於て、創造は私たちに歓喜をよびおこす。
 詩はついに、社会革命の興る以前に先駆となって、民衆の霊魂を表白している。例えばこれが労働者の唄う歌にしろ、或は革命の歌にしろ、文字となってまず先きに現われるということは事実である。そして、芸術の形をつくるのである。それは最も感激的に、短い言葉である。魂の赤裸々な叫びを見せている。それが詩である。
 いまこゝに、どんなに快い調子が繰り返されていても、如何にそれがある優しみの感じを人の心に与えても、その中に含まれている思想が依然として在来のものであったなら、私はそれを求むるところの詩という事が出来ない。極端に言えば、旧文化に安住している人々には、又その時代の感情に陶酔し、享楽している人々には、ほんとうの意味の詩はない筈である。
 子守唄は子供を寝かしつけるための歌であり、又舟乗りの唄は、舟をこぐ苦労を忘れるための歌であり、糸とりの唄はたゞその唄う歌の節に少女自からを涙ぐましむることによって自らを感傷的な気持にすれば足りるというであろう。そういうような単純な目的のために唄われるものであるなら、その目的を達すればそれでいいのである。在来のこの種の歌の中で、身の不運を嘆いたり、生のたよりなさを訴たりする者があっても、それは単純なリリシズムの繰り返しにしか過ぎなかった。そしてそれによって、その時代をうかがう事が出来ても、それらの詩には、それ以外の目的を見出すことが出来ない。それは何んの為かというに、それらの人々が、その時代に安住しておったからである。もっと適切に言ったなら、安住の世界を、その時代の生活は、それを肯定として、趣味の上に求めるより外になかったからである。所謂(いわゆる)牧歌的のものはそれでいい。それらには野趣があるし、又粗野な、時代に煩わされない本能や感情が現われているからそれでいいけれど、所謂その時代の上品な詩歌や、芸術というものは、今から見ると、別に深い生活に対する批評や考案があったものとも思われないものが多い。それは詩歌のみならず、凡ての芸術はいつの時代にもその時代の文化の、擁護を以て任じて来たからである。現在に於いても、大凡の芸術は、これまでの文化の擁護と見做されていると見るのが至当であろう。
 然し敢て言うが、これらは私の求むるところの詩ではない。私達の詩は疑から始まっている。今迄の詩が休息の状態、若しくは、静息の状態に足を佇めているものとしたら今日の詩は疑と激動の中から生れてくる。然しこうした詩の徴候は或は現在の生活に限られている現象であるかも知れない。しかし、芸術は其の時代の霊魂である。鏡である。詩は其の時代の生活の焔であるからだ。私たち今日の凡ての努力、それは精神運動の上に於ても、また社会運動の上に於ても、少しく心あり、覚醒する者ならば、先ず何物かを形の上に心の上に求めつゝある事は事実であろう。即ち皆んなは新しき世界を新しき生活を求めている。その世界は生れなければならない心の中に又形の上に、生まれなければならない。然し私達が創造を考えるとき、破壊を考えずにいられようか。
 人生の進歩というものは徐々として、時に破壊と建設の姿をとる場合もあるけれど又急速に飛躍して、其れを達しようとする場合もある。今私達の気持はどの点においても慌(あわた)だしさを感じている事は事実だ。最も敏感である詩人に、この気持が分らない筈がない。また、詩に現われない筈がない。
 前にも云ったように、幾度快よいリズムをくりかえしても、如何に柔かな感じや、快よい気分をそゝろうとしても、既に覚醒きっている心の人には、何らの新しいものとなっては響かない。たゞ単的に古い文化を破壊し、来るべき新文化の曙光を暗示するもののみが、最も新鮮なる詩となって感ぜられる。
 私たちが少くとも生活に対して愛を感じている人達が、何か感激を感ずる場合には、いつでも其の中には詩が含まれている。
 詩は文字の上のみに現われると限っていないけれど、文字の上に書かれた詩に、またこの感激がなくてはならない。私達が今日子守唄をつくるにせよ、舟唄をつくるにせよ、また糸とり歌をつくるにせよ、それが在来のものと同じでいいだろうか、新時代の光を浴びようとしつつある、また浴びなければならないそれらの子供に対し、労働者に対し、少女に対して与えるものは、今迄のそれでいいだろうか、今日の詩人はもっと詩の王国が移動したことに対して覚醒しなければならない。

青空文庫より 小川未明「詩の精神は移動す」
https://www.aozora.gr.jp/cards/001475/files/51761_46442.html


▶おまけ:Chat GPTによる要約(ちょっと薄味…?)

この文章では、新しいものが生まれる際には古い形が破壊され、破壊という言葉は不自然に感じられるが、創造という言葉は美しいとされています。詩は社会革命の先駆けとなり、労働者や革命の歌として人々の魂を表現し、感激的な叫びを通じて創造されると強調されています。在来の歌や文化に安住することは真の詩を生み出さないとし、新しい時代にふさわしい詩は破壊と創造のプロセスを経て現れるべきだと主張されています。また、詩は疑念と激動から生まれ、現代の慌ただしい感情や進歩への欲望が詩に表れるべきだと述べられています。この詩的な表現は、革新的であり、古い価値観や文化を超えて新しい世界を形成する意義を強調しています。

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