見出し画像

映画『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』

1972年に早稲田大学で起きたリンチ殺害事件を、関係者インタビューと再現ドラマで綴った映画。
被害者は、学内の革マル派から中核派のスパイと疑われた一般学生。言葉では知っていた「内ゲバ」の内実の凄惨さに、気が遠くなる。

この映画で焦点を当てている1人の学生のほかにも、内ゲバでは100人以上の死者が居ること。
きっと負傷者はその何倍も居ること。
それが自分の生まれるたった18年前に起きていたこと。

そんな衝撃の連続に頭が追いつかず、疑問が次々と蓄積していく。

例えば、どうして普通の学生がそこまで暴力的になってしまったのか、
どうしてその矛先が資本主義ではなく同じ共産主義に向かったのか、
身内をリンチすることが本当に革命に繋がると思っていたのか。

答えは分からないけど、映画の中に出てきた「コップの中の嵐」という言葉がヒントだと感じた。内ゲバは一部の過激派同士がコップの中で勝手に争っていただけで、当時の一般社会にとっては他人事だったそう。

コップの中で孤立したくない1人1人が結びつきあって、その相互作用の中で勝手な正義が増幅していって、コップの中の敵を倒す大義名分を与えられる。きっとコップの中には非暴力を主張した人も居ただろうけど、誰かが暴力を始めてしまい、コップの中で報復が連鎖していく。でも誰もコップの外の不正には目もくれない。

そんな、現代に通じるエコーチェンバーの心理を見た気がした。

でも「現代に通じる」にしても、この映画で描かれる70年代と自分が知っている90年代以降はあまりに空気が違う(大学の自治会なんて無かったよな…?)。映画の中で学生が池上彰に「内ゲバの影響は今の日本にも表れているのか」と質問していたけど、確かに質問しないと分からないくらい自分もその影響は感じられない。池上彰はこの質問に「バリケードに使われないように机と椅子が床に固定された」と答えていたけど、きっと内ゲバの負の産物はもっと目に見えない形で国民の意識の中に残っているんだろうと思った。
例えば、誰かの政治的な言動を「ヤバい人」と忌避したり、共産党を信用しなかったり……というスタンスとか。あと大学のカルチャーとか(個人的には今でも「経済の慶應」に対して「政治の早稲田」というイメージがあり、それぞれの長所だと思っている)。

もしくは、内ゲバの産物が見えづらいのは、そもそもまだ終わっていないからなのかもしれない。というのも、この映画でインタビューされていた当時の学生たちの口調からは、70歳を超えた今も、当時の行動を反省する様子があまり感じられなかった。80年前に外国と戦った戦争と違って、当事者がまだ元気に生きていて、当時の敵同士が和解しないまま同じ社会で生きているから、あまり内ゲバは語られないのかもしれない。

いずれにせよ、こうやって見えない糸を感じとらないと、現在からは隔絶しているように思われる70年代。でも「関係ない昔のこと」と切り捨ててしまえば、人間はきっと気づかないうちに同じ歴史を辿る。当時の大学生が何を見て何を感じたのか、想像を巡らせることが大事だと思う。

この映画には、再現ドラマに出演した若い俳優たちが事前に日本左翼史を学ぶ様子や、当時の学生の心情を考える様子も収められている。やっぱり「人の靴を履く」うえで演劇は最適なワークショップだと思う。演劇が重要なキーになっているドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』を思い出した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?