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『中動態の世界 意志と責任の考古学』國分功一郎

要約
現代の諸言語は、能動態と受動態の二項対立を前提としている。でも実際の日常は、「する(能動)」と「させられる(受動)」に区分できない行為にあふれている。例えば誰かにお金を差し出す行為は、現代語では能動態で記述される。でももしカツアゲでお金を差し出しているのであれば、その行為は受動的とも言える。逆に寄付であった場合でも、その行為の裏には無意識の名誉欲があったかもしれないし、そもそも「お金があればこの人は助かる」という考え自体もどこかで学び得たものだし、100%自発的な行為は存在しない。そんな曖昧な現実が、行為の方向を重視する現代語ではどちらも能動態で記述され、「主体」が決定される。そして行為の方向の発端として、主体の「意志」というフィクションが作り出され、そこに「責任」が押し付けられてしまう。

一方の古代ギリシャは、行為を方向でとらえず、完結性に注目する。同じ行為であっても、それが主体の外側に影響していれば能動態、主体の中で完結していれば中動態で記述する。

つまり、現代語の能動態・受動態は現実を説明する方法の1つにすぎない。17世紀のスピノザが説明した能動態・受動態も、現代語のそれとは性格が異なる。スピノザによれば、「ある人・物の中で変化が生まれたとき、その変化がその人・物の本性で説明できれば能動であり、外部からの影響であれば受動である」。スピノザの能動態は古代ギリシャ語の中動態に近い。

このように古代ギリシャ語の中動態、もしくはスピノザが提示した中動態的な思考で捉え直すと、寄付とカツアゲの例も違って見えてくる。

まず、人は絶えず新しい情報や出来事に触れていて、人のある行動の発端を説明することはできない。でも人の中にはインプットをアウトプットに変換する関数のようなもの(=本性)があり、本性に従って行動している限りは能動的。一方で、外部からの力が本性を圧倒し、関数が壊れた時、その結果として行われる行為は受動的。このように定義して初めて、寄付は多分に能動的で、カツアゲは多分に受動的と言える。


感想
多分半分も理解できてないけど、「意志と責任の考古学」という副題は言い得ているなぁと思った。
確かに能動態・受動態で成り立つ言語は行為者が誰であったかを強調するし、その行為者に「意志と責任」を負わせてしまう。でも「リンゴを食べる」という行為でさえ、リンゴを売った人、リンゴを育てた人、リンゴが食べ物であることを教えた人……が関係していて、自分1人の意志が唯一無二の純粋な出発点ではない。「社会で成功する」みたいな複合的な行為ならなおさら。その人の意志や自助努力ではなく、その人の置かれた環境が大いに影響している。「犯罪を犯す」という行為だって、その人を悪者として排除する前に、その人が置かれた社会環境に原因がないか考えるべき。

そうやって「自由意志」の存在を疑っていく考えは、たぶん上野千鶴子の東大の演説以降、特に広まっているように思うし、自分自身の信条にも一致する。だからこそ、この本の中で「意志」が発明されたものとして扱われていて、その論者としてハイデガーやハンナ・アーレントが言及されていることには、どこか勇気付けられるものがあった。

「考古学」という比喩も絶妙。例えば土器が出土したとき、それを食器だと思ってしまうのは現代人のバイアスであって、本当はそれは楽器だったかもしれないし、祭祀用具だったかもしれない。こうやって古を考える学間が考古学であり、中動態が存在していた古代ギリシャ語はもちろん、17世紀のスピノザのテキストも現代の常識を離れて解釈する必要がある。現代の受動態・能動態に翻訳された思考で「誤訳」することを避け、古代ギリシャ話の世界に飛び込んでいく筆者はまさに考古学者だと思った。

言語は思考の枠組みであって、異なる言語を学ぶことは自分の中で常識だった考え方を相対化することに繋がる。自分の常識を相対化できるほど、きっと異なる常識に寛容になれるはず(自戒込めて)。機械翻訳がどれだけ発達しても、言語学習を続ける意味はそこにあると思う。

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