西川泰功「SPAC -静岡県舞台芸術センターを批判する」への応答

僕は、顔を知っているわけでもないし、直接話をしたことがあるわけではないけれど、西川さんのSPAC批判について、少し書こうと思います。言葉が多少荒っぽくなってしまいましたが、私もまた議論に際して感情的になってしまうし、西川さんのような議論をすべきだと熱っぽくなってしまうからだと思ってくだされば幸いです(もちろん、議論に対する批判は大歓迎です)。

西川さんは、ブログ記事内にあるように、2009年から一年間、静岡県舞台芸術センターの制作部で働き、その後静岡で文芸家として活動をされています。ブログに「SPAC-静岡県舞台芸術センターを批判する」(2016年8月)という記事があり、当時、劇場で働いていた人の声としてとても貴重な記事になっています。

「SPAC-静岡県舞台芸術センターを批判する」http://nin2pujya.exblog.jp/23381528/

1 アンチテアトル  http://nin2pujya.exblog.jp/23349334/

2 精神の再生産  http://nin2pujya.exblog.jp/23371569/

3 二本の垂直性  http://nin2pujya.exblog.jp/23375877/
4 生命のポリフォニー  http://nin2pujya.exblog.jp/23378694/
5 賭博の果て http://nin2pujya.exblog.jp/23380444/

念の為に書いておくと、私はSPACに2015年より所属しており、こうした「批判」を書くことは、少なからず私の職場での評価に影響するものだとは思いますが、そうした“評価”を恐れて何も言わないことの愚行もないと思いますので、やはり勇気を持って書こうと思います。

■「文化ぎらい」

西川氏が「1 アンチテアトル」で批判していることは、私なりに解釈すれば「文化」のブルジョワ的専有ないし私有化という問題圏だということになりますが、指摘されている地域文化の衰退の結果が正しかったとしても、この指摘の仕方だと「お金がある組織が、貧乏な地域を食い荒らした」みたいな形にしか見えず、文化のブルジョワ的私有化の問題を指摘しきるには、少し問題を歪曲しているように思います。

例えば、「シアタースクール」や「スパカンファン・プロジェクト」「こども大会」などの企画は、上記の批判の範疇には入らないことになると思いますが、文化のブルジョワ的私有化という観点から言えば、結局のところ応募してくる子どもたちはある程度恵まれた家庭の子供ばかりである、という点に対しても適用すべきことのように思われます。

僕が去年、印象に残っているのは「スパカンファン・プロジェクト」の振付・演出をしているメルラン・ニヤカムさんが、貧しい子どもたちにも応募して踊って欲しいといっていたことです。お稽古事にも通えないような経済状況の子どもたちにも、通ってもらえるようになって初めて、SPACの人材育成事業に税金を使っていることの意義が見いだせるのではないかと思います。

■「公益性」の議論

西川氏の議論の中で特筆すべきは「芸術総監督の公益性」についてです。

「3 二本の垂直性」の中で分析された、芸術総監督が、いかに組織の中で独裁化していくか、という部分は(日本の)創造型劇場を議論する上で、今後も貴重な論点となり続けるだろうと思います。

大前提から話をすると、私はこの文章を読んで、こう疑問を持ちました。


「もし、宮城聰がSPACではなく、ク・ナウカの演出家だったら、このような批判を受けただろうか」と。西川さんは「公益性」の議論を、税金を使っている、という点において議論しているように見受けられます。つまり、この論旨の運びだとプライヴェートな企業であれば問題にならなくなってしまうのです。

税金の使用有無で、事業の公益性を測ろうとすると、現実的な問題を語れなくなってしまうのではないでしょうか。例えば、私企業の土建屋や私企業のメディアの賄賂問題や不正問題、銀行の税金の不払いなどは、先の「公益性」の議論の中には当てはまらないことになってしまいます。

改めて言うべきかもしれませんが、組織が公的なものであろうと私的なものであろうと、倫理的な観点から批判をするべきでしょう。そうでなければ、全てのオカルトも、その閉鎖性から正当化されてしまうことになります。

だから、私は西川氏の議論が、作品の解釈・批判にまで行き着いて欲しかったと思います。例えば、川口典成氏による「SPAC『マハーバーラタ』ステートメント批判」 (http://www.wonderlands.jp/archives/26551/) の如き批判ですね(これも残念ながら、作品については語っていませんが)。

私は、宮城聰演出作品の論ずるべき核は、宗教観だと思っています。が、芸術と宗教の関係から、宮城聰演出作品を論じた批評は、まだ見たことがありません。

(付言しておくと、『宮城聰の演劇世界』ですら、まともな批評になっているとは思えませんでした。とても丁寧なリサーチでしたが、批評家が現場で働いている人たちの労をねぎらって、何になるんでしょう! 演劇批評は、いつから、そんなに立場が弱くなってしまったのでしょうか。)

参考『宮城聰の演劇世界』青弓社、2016年

http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-7388-8

■演技部と創作・技術部に対する意見

「5 賭博の果て」で、ようやく演技部(※俳優部ではない)と、創作・技術部(※技術部ではない)の批判が登場します。が、ここで西川氏は宮城聰の劇団制を評価しています。

私が所属するのが、まさに創作・技術部なわけですが、西川氏の制作部に対する議論に比べて、演技部及び創作・技術部への議論の鈍さといったら・・・! もっと、批判しても良いんじゃないかと思います。

税金をいくら使っているか、という金額のことはさておき、やはり静岡県に海外からアーティストを呼んで作品を作るだけの環境と人材を持っているSPACというのは、それなりに存在意義があるのだと私は思います。作品を買い付けるだけの劇場から、一緒に作品を製作できる、しかもヨーロッパの一流の芸術家に「SPACの俳優・スタッフは素晴らしい」と言わしめるだけの組織を築いた、ということは特筆すべきことなわけです。

そして、西川氏も認めているように、創作の現場では、必ずしも宮城聰の「カリスマ性のダダ漏れ」は起こっておらず、宮城さんに反発する人もいれば、宮城さんよりも良い提案をする人もいます。これをもって「クリエイティブ」とは言えませんが、ここに来て西川氏のSPAC批判は、単に制作部に限った話になってしまうように思えてなりません。

■SPACの労働環境

確かに、SPACの労働環境は良くない。長時間労働に低賃金。キャリアを形成する間もなく管理職になってしまうし、ノウハウと知識のある良識ある人たちは辞めていってしまうという悪循環を招いている……。これは何もSPACに限った話ではなく、日本の労働環境全体の問題でもあります。こうした大きな問題の縮図にいるような気持ちにすらなります。

あまりポジティブな話ではないことに変わりありませんが、お金で解決できないことがあまりに多すぎるから、人間がこの職場では問われてしまいます。追い詰められた人に対して優しく声をかけたり、仕事の優劣で人のことを評価しないようにするとか、嫉妬心で人を貶めたりしない、など。普通、一般企業や集団にありそうなネガティブな点も、ここにはあまり散見されません。もちろん、人間ですから、全くないわけではありません。そして、根本的な問題はいくつかやはり転がっています。

しかし、この職場ではとにかく人間が問われます。だから、長時間労働や低賃金に対して、人間がセーフティネットとして機能しています。

この点は、議論するのに最も難しいところであり、同時にどんな議論をするにしても考えなければならないところです。人間同士の助け合いの輪に、入れるか入れないかで、SPACで働くことにやりがいを感じるか、疎外感を覚えるかは、変わってくるでしょう。そして、このセーフティネットの構築こそ、唯物論的な議論なのです。

西川氏の芸術の公益性の議論の中で、欠けているというか、論点としてズレてしまっていると感じたのはここです。制度や組織の汚点を語る一方で、人間の素晴らしさを賞賛する。このズレが、議論を弱くしてしまっているように思います。そして、これを議論できるのがSPACで実際に働いたことがある人の特権であり、他の文化関係者には議論できない部分なわけです。

だから、私はオープンな場で、組織と人間について語るための語彙を持つべきだと思いますし、議論を深めていくべきだと思っています。

そこで蓄えられた議論は、将来的にSPACに次ぐ創造型劇場を作ることになるだろうと思います。

■SPAC批判から得るべきもの

私の展望としては、「SPAC批判」ないし「SPACの労働環境の悪さ」は、SPAC以外に”創造型劇場”を作る際に、活かすべきではないかなと思います。一つの劇場に問題を担わせるには、あまりに大きな問題のように思われます。もちろん、SPACを批判していくべきだし、それによって良い作品、良い劇場にしていくべきです。

しかし、私が悲しいと思うのは、SPACを辞めていった人たちの中で、演劇の仕事を嫌いになってしまった人たちがいるということです。SPACは労働環境が良い方ではありませんが、ここで得たプロとしての職能を、他の劇場や現場で活かしてくれれば、それが”公益性“に叶うことなのではないかと思います。

そろそろまとめにかかると、西川氏の議論を、「文化のブルジョワ的私有化」という観点から捉え直すことで、議論は制作部に限らず、芸術総監督性、演技部、創作・技術部にも及ぶだろうということです。

例えば、静岡在住で、SPAC以外の現場でも出演をしている俳優もいます。また、スタッフの中でも自分の作品を作るような人が出てきています。SPAC批判の中で指摘されているブルジョワ的な要素は、少しずつですが緩和されている事例があるのです。こうした事例が、もっと増えていけば、恐らくは「1 アンチテアトル」の問題はある程度解決されるように思います。

そして、SPACの労働環境が悪いのは、必ずしもそこで働いている人だけの問題ではなく(もちろん、それも大きい問題だということは認識した上で)、構造的な問題も含んでいるはずです。これについては、すぐに解決することはできません。が、SPACを辞めた人たちが、SPACで培った職能を活かすことによって、そしてOB会のような人的なネットワークが生まれて、セーフティネットが広がっていくことによって、ある程度緩和される問題であるとも私は思っています。

以前、文芸部の大岡さんに「日本では、もう創造型劇場はできないだろう」と言われてしまいました。が、どうでしょうか、SPAC批判を次の創造型劇場を作るという方向に活かすことによって、議論を建設的かつ肯定的にしていくことはできないでしょうか。きっとその方が、批判は実行的かつ唯物論的になるでしょう。私の考えがたとえユートピア的だとしても、ユートピアを持たなければ、現実に抗うことはできないし、理想主義的・理念的になりがちな芸術理論も、現実的な地に足のついたものにならないのではないかと思います。

2016/10/16