映画「哀れなるものたち」試写会。【ネタバレあり】


希望を持つようになったらおしまいだよ。
/寺山修司


昔、webで映画評論を見ていた時。
そのレビュワーによって延々と書かれていたのは、シナリオや演技や演出の技巧についてではなく、「映画がジェンダー的に正しく描かれていない」という不満だった。それを読んだ僕は、モヤモヤした気持ちになった。

という、前置きっぽい書き出しでスタートしてみる。


映画「哀れなるものたち」試写会に参加。
普段と違う場所だな、と思ったら東京国際映画祭の会場での上映。
そういうのもあるんだな。

映画のあらすじや内容については公式サイトが一番いいと思うけれど、ダイジェストだけ引用。

「天才外科医によって蘇った若き女性ベラは、未知なる世界を知るため、大陸横断の冒険に出る。時代の偏見から解き放たれ、平等と解放を知ったベラは驚くべき成長を遂げる。」


有名な監督が、実力派俳優を使い、奇想天外な小説を映像化。
さらには、権威ある映画賞を受賞したとか。
それを観た自分の感想は、とても珍妙なものになった。

というのが今日の感想のゴール。


いつものように、ネタバレしないように書くけど、限界があるので気になる人は映画館に行ってください。


さて。

この映画はとある女性の冒険譚となっている訳だけれど、外殻の特徴が二つある。

一つは画面を構成しているアートの美しさ。
あまりに完璧なので、役者達の絵的な不完全性が見えてしまうレベル。
(が、パリで出てくる老女は完全だった)
CGとセットで作られた狭くて奇妙な世界を、次々と冒険していく様子。
絵作りも空間も展開のすっ飛ばし方も「絵本を映画にしたよう」という描写が一番ぴったりくると思う。

もう一つは、かなり強烈なブラック・コメディ成分が入っている事。
笑いを取るための下品なSEXシーン(とグロシーン)がタップリと入っていて、そういうのが好きな人にはたまらない作品になっている。

この全くエロくないSEXギャグシーンは、主題である「主人公の成長」に深く絡んでいる体裁を取ってるんだけど、でも多分、監督なり原作の人が好きでやってるやつだと思う。そういう匂いがする。

ともかく、美しいアートと下品なSEXのサンドウィッチが大好きな人は、ここで読むのを止めて、劇場に観に行った方がいい。


一方でテーマはとてつもなく難解に感じられた。
難解、というか、自分の解釈が信用できない、というか。

今手元には解説チラシがあるんだけれど、そこには
「セクシャリティと社会的制約」
「女性をコントロールする男性に対する痛烈な風刺」
という文字列が書かれている。

映画の中身をあらすじで説明してみても、確かにそういう内容になっている。抑圧的な男が登場する世界で冒険することを通して、無垢な女性が性的・社会的に解放されていく。コメディを通じた社会問題の告発、的な。

だけれど、僕の最終的な結論としては、本当に、全く、本当に、真逆の感想を持ってしまっている。

だからこの映画を「女性解放・人間成長の映画だ」と思っている人、思いたい人は、ここ以下には立ち入らない方がいい。


いやもうだめだ。内容に触れずに説明できない。
以下【ネタバレあり】です。


疑念が生まれたのは、ラストのシーン。

終盤、主人公の成長を阻む邪悪な男が登場する。
あまりにも邪悪過ぎて「2023年の映画にこんなシンプルな悪者出てくるの?」というレベルのキャラクター。
でも、有名な監督ですよ。その人がこんな敵を出す?
なにか理由があるんじゃない?

その悪役を、主人公は簡単に打破し、制裁を下す。
内容は映画を見てもらえればと思うけど、悪役はブラック・コメディらしい、残虐な仕打ちを受ける。

その様子を、主人公は、楽園のような場所で、見下ろし、笑う。
観客も笑う。

さらし首や見世物小屋を楽しむかのような、風景。
あまりにも悪趣味な構図。


思い返せば、主人公のキャラクター造形にも違和感があった。

女優エマ・ストーンの演技の偏りなのか、監督の指示かはわからないけれど、この主人公はずっとパワフル、悪く言えば傲慢な性格で進み続ける。

依存も挫折もしない。つまり、一度たりとも自立した精神性を失う事がない。成長と称して追加されるのは、知識ばかりであり、精神の変容・成長なども存在しない、ように見える。

得られる知識ですら、微妙に歪んでいて。
特定のイデオロギーを舐める程度に触れてみたり、貧困問題に場当たり的な解決をさせたかと思えば、味見程度に同性愛に寄っていったり。

高齢者や、黒人や、優しい男性も登場するんだけれど、なにかこう、身の入ってない、飾りのような感覚を拭いきれない。女性の自立を娼館を通して描くのも、ユーモアの範疇なんだろうか。

そんな「冒険」の果てに、主人公が到達するラストシーン。
バカにでもわかる悪役に対し、インスタントな制裁を下して嗤っている者達。

そこにいる人間達の属性を箇条書きにすると、この映画の底しれない不気味さが浮かび上がってくるように思える。新たな秩序で世界を圧してる者達の姿が。

いやでも、本当にこれ、監督は意図してやってるの?
だとしたら、最後の方のエマ・ストーンの笑顔カット持ってくるのはすごすぎるでしょ。邪悪にも程がある。


当然、この映画は悪役たる旧体制(男性)を称揚もしていない。
ちゃんと抑圧的で、幼稚で、単純に描かれている。

タイトルは「哀れなるものたち」。
この映画は、我々を、そう、女性も男性もその他大勢のあらゆる存在を含めた、「全ての我々」を冷笑しているんじゃないのか?

ついでに、制作者自身も、その対象に含まれている。
というのは、せめてそうであって欲しいという、個人的な願望なんだけど。


……以上が、僕がこの映画から受けた印象というか感想というか妄想というか、なんかそういうやつだった。きっと、自分の歪んだ心が、映画を間違った方向に解釈してしまったんだろう。うん。


というところで、最初の話題に戻る。
あのジェンダー問題に囚われたレビュワーの話。

自分も同じ事をやってるよね。
この映画の魅力はもっと他にあるのかな。
いやでもな、うーん。
あれ、もしかしてこの映画はそういう「映画を観てない連中」を嘲笑ってるのかな。

ということを、グルグルグルグル考える訳です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?