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映画 Pure Japanese の被験者として得たモノは何か?

企画したDEANさんが実験装置と称したこの作品を体験し、自分自身にどんな効果があったのか?それを書き記しておきたいと思います。


何度か劇場で鑑賞し、その都度新しい発見がありました。
冒頭の奉納舞台で鍛錬をする立石の美しさと木刀を振り下ろす際の映像と音、劇場で見てこその迫力を感じました。殺陣の美しさや純粋な立石の狂気を感じさせる無の表情の怖さ。そして秘めた暴力性が発動する瞬間、なぜか怖さよりもスッとする爽快感を感じ、嬉しそうに事務所を出るアユミに共感しました。


しかし何より、日本人としての自分を意識する機会となったことは自分に変化をもたらしました。

私が初めて映画館に行った日、期せずしてロシアがウクライナに侵攻。国と民族について否が応でも考えさせられた日に、立石に会いました。
PureJapaneseキットでの判定が100%だった高揚感の後、正装で葬儀に参列し、街頭のニュース映像を呆然と見つめる立石の姿は単一民族国家の幻想を疑いもしない日本人を見ているようでした。信じていたものは危うく、足元から崩れる可能性を突きつけられる。立石は私よりずーっと若く海外生活を経験し広い視野を得たはず、しかし言語OSの狭間で、いじめによって歪んだ幻想を抱いてしまったのか?私は此処で暮らし日々の生活の中で幻想を抱き続けてきました。

PureJapanese キットにより弄ばれた感のある日本人。しかし幻想が根付いている日本だからこそ、判定が50%だろうが20%だろうが、自分は100%日本人と確信しているから流行りモノの域をでない。最初から遊びだと解っているから一喜一憂して、面白がる。社会現象として取り上げられても、それは食品の産地偽装に似て騙されたから憤っているだけにしか見えません。食中毒などの身体的被害がなければ、当事者以外何処か他人事で、世論が囃し立てるだけのような気がします。
しかし、純粋な立石はキットの結果で自分が日本人であるという確信を強くしたのでしょうか。
幻想に気づく立石、と私。日本人の定義とは?今まで考える機会のなかった疑問。

そこで、心臓に刃を受けた後の立石の独白が始まり、日本人として死にたいはずなのに、母のことを語るのは英語。日本人の魂の象徴として語る線香花火は、余りにも儚い。夜空を焦がす大輪の花ではなく、目の前で消えていく線香花火は、民族の存在の儚さを象徴しているように思えました。信じていても、すぐに消えてしまう。母の悲しさも垣間見えました。

これから先、自分の人生の中で何か決断を下さなければならない時、立石の存在を思い出します。此処にいる自分の足元を見て、日本人として何が出来るか、何をすべきか、決断の度に可能性を問い質す。これはこの映画に出会っていなければ考え至らなかったところです。
もし、大好きなアクション映画として楽しむだけだったら、自分の足元を見る機会はなかったでしょう。これはDEANさんが起こした感想祭の発信のおかげです。

とはいえアクション映画好きな自分は、子供の頃に夢中になった忍者映画やカンフー映画を楽しむ気持ちでワクワクして劇場に向かいました。期待感は十分満足!忍者の殺陣と居合いのような太刀捌き、そして最後に鍛え上げられた肉体同士の戦い。後半で激しくなる血飛沫舞う殺し合いは目が離せない、何度も見たいシーンの連続でした。

一つの映画をこんなに色々な角度から見たり考えたりしたのは初めてです☺️
この経験も大切なものとなりました。

劇場公開が終わり、やがて配信やBRなどで観る機会がくるでしょう。
画面が小さくなったとしても感想祭で知った考察や感想の数々を以って見れば、小さいながら見え方が変わってくるのでは?希望的観測ですが。
何より映画館で見てほしいというDEANさんの想いは多くの人に伝わり、ドリパスでのイベントや追加上映という形になりました。もしかしたら、また劇場で立石に会う日が来るかもしれない、諦めずその日を心待ちにしています。


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