今敏のことを「ヒーロー」だと考えていた頃のこと

「今敏について、なにか話はありますか」というマシュマロを貰ったので、少し書きます。

▼今敏の作風

 『彼女の想いで』(脚本・設定で参加)→『千年女優』(監督)の順番で観たこともあり、僕の中で今敏作品は「女性の底知れない感情の引力に引き込まれるも、その夢に心の底からは耽溺できず現実に回帰し(拒絶され)、惨めに生きていく中年男性のコントラスト」という強い色を持っています。彼のそのようなモチーフは『妄想代理人』『パプリカ』へと、そして時間が許せば『夢みる機械』へと引き継がれるはずだったようです(本人の記述より)。

▼今敏の扱う女性モチーフ

 彼の扱う「女性の感情」というモチーフは、押井守が『ビューティフル・ドリーマー』で、宮崎駿が『風の谷のナウシカ』で描いたようなグレートマザー ≒ 母性原理というようなものでありません。というよりは、男女の別なく持っている類いの、自分自身の感性への信頼や、どうしても逆らいがたい情動(イド)のようなものだったように、僕は考えています。

 少し寄り道しますが、今振り返ってみると、今敏(1963年生まれ)、幾原邦彦(1964年生まれ)、鶴巻和哉(1966年生まれ)という、同時代に生まれた3人のアニメ監督の作品を学生の時分に観たことは、僕の中での女性キャラクターの描かれ方に対する見方に、大きな変化を生みました。
 まず今(敏)は、先に述べたように、誰の心にもある感性・創造的現実と理性・労働的現実との相克を、女性と中年男性に仮託して描きました。
 幾原は社会の鋳型を内面化していない女性を、鶴巻は男性の意識に対して超越的な女性を描いたように思います。

▼アニメ制作の研究・批評家としての今敏

 今敏は制作の過程を細かく分析するタイプの、アニメ制作に対する研究者でもありました。彼は大友克洋の漫画アシスタントという経歴もあり、アニメ制作においては、レイアウトの監督や、設定・プロップのデザイナーとしてそのキャリアを始めました。当代随一のアニメーターであり続ける井上俊之は、彼のレイアウト能力は最初から非凡なものであったと述懐しています。今敏はその精密な絵コンテで知られますが、それはむしろ「レイアウト集」として見るべきなのかもしれません。

※『アルプスの少女ハイジ』での宮崎駿が描いた大量のレイアウトや、『京騒戯画』で林祐己が大量に作成した、小サイズのレイアウトのように…

 一方で、TVシリーズ『妄想代理人』では、絵コンテではなくむしろ『彼女の想いで』で見せたような脚本スキルによって、作品全体をマネジメントしたようです。彼ほどアニメ制作を文章を使って自覚的に解体できた人間はいないと思います。

▼今敏への思い

 そしてもうひとつ。あまり話したことはありませんが、今敏は自分にとってヒーローでした。

 ヒーローやアイドルは、他人の人生の一部を背負って生きています。僕はクリエイティブをやることは基本ないですが、労働をしている傍ら、どこかで「自分ができなかった、クリエイティブなことで世界になにかを問う」ことを、今敏であれば、今も必ずやってくれているだろうという、そういう信頼を彼に寄せていたのです。それゆえ今敏の死によって僕は、今敏によって背負われていた、自分の人生の一部が途切れてしまったように感じました。

 僕が誰かのクリエイティブに対して、そのように過剰な期待を乗せることはもう無いと思います。それはそれで健全なことなのだとは思いますが、しかしそれを知るのがもう少し遅かったとしても、僕は困らなかっただろうと思うのです。

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