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ギュスターヴ・モロー美術館に行く貴方へ


パリ9区にはヌーヴェル・アテーヌと呼ばれ、以前には実際にその名前のレストランがあった界隈がある。

そう言えば19世紀後半にそこがカフェになった時にアーティスト達が出入りしていた時の事を少しだけ書いた記事があったのを思い出した。短いのですぐ読み終わるから良かったら一読してもらえると嬉しい。

そうして考えるとこの時代のパリでのアートの世界は本当に狭い。

そのカフェの近くに<ギュスターヴ・モロー美術館>はある。
この界隈自体素敵な邸宅ズラリの住宅地である。
私はここに来るときはいつもメトロ12号線ピガールの駅からジャン・バプティスト・ピガール通りを真っ直ぐ降り、途中からカトリーヌ・ド・ラ・ロシュフコー通りを行くと全部で10分程で到着。

小さくて目立たない。
下手すると通り過ぎてしまう可能性があるのでご注意。
或いはメトロ駅ラ・トリニテから急な坂を登ってきても良いし、距離的に一番近いのはサン・ジョルジュ駅からかな。

階段を数段上ると左手に受付がある。
手続きを済ませると見学順路の説明がある。
予約は特に必要ない。

小さいからといって見るべきものはたくさんあるので、しかもここに来る人たちは少なくともギュスターヴ・モローの名を知っているので皆真面目で真剣ムードが漂っている。
さて、先ずは館内の雰囲気を。写真撮影はok.ただしフラッシュは厳禁。
これはルーヴル美術館をはじめとしてフランスどこの美術館でも共通の注意事項。
作品に触れるなんて言うのは問題外。

この階段を上ると最上階なので是非。
絵画も皆素晴らしいがこれも芸術品といっても良いのでは。
これはモロー本人の設計である。さすが御父上が建築家であり、芸術にも大変興味をお持ちだったというだけのことがある。その影響を受け継いだのかどうかは定かではないが、うっとり。

作品もどれも魅力的だが場所によっては展示の位置が高すぎて近づいてじっくり観られないものがあるのがチビの私的には残念。
しかしそれにしてもなんて上手く展示されているのだろうか。

その中から数点、

などが頭に浮かぶ。

ギュスターヴ・モロー
<レダ>
1865年


私が大好きなレダ。
階段の真横にあるからすぐにわかる。
スパルタ王テュンダレオースの妻と白鳥に変身したジュピター。
この神話のテーマを描いた巨匠はレオナルド・ダ・ヴィンチをはじめとして数名頭に浮かぶがその中でもこれが一番好き。
何が好きかって、先ずは色が好き。女性の表情がすき。白鳥の野生的仕草と愛情溢れる仕草の調和が好き。中心のカップルと背景のバランスが好き。エロティズムの表現も好き。
好きという表現はすべて独断であるが、とにかく好きな作品だ。

一通り壁に掛けられた絵画を堪能した後カーテンの後ろのデッサンも観ることが出来る。
スツールがいくつか用意されているのでそこに座りながら眺めることができる。

これは独断と偏見で選んだので、「あの作品も紹介して。」とかいう声も覚悟。
何せこれだけの数だもの。

そもそも私とモローの馴れ初めは大学の授業であった。
と言ってもこの授業は美術史選考の学生が美術の一般知識を取得するためのものだったのであまり深くは突っ込まなかったし、その授業の教授の講義は常に面白かったが結論がいつも<ファム・ファタル(致命的な女性)>だったのはよく覚えているので私の結論もそちらの方に傾いてしまうのは仕方がない。

特に沢山描いているサロメに関しての
<ファム・ファタル>は魔性の女と考えたら全て納得するかな。女性が持つ本来の魅力を駆使して男性を屈服させ、どんな願いも叶えてしまうという、そんな面を描いたと言われる。

そう、モローはただの神話や聖書の世界だけでなく、それを展開させて人間の内面に訴えかけるものを描き出し、それが作家や評論家達に高評価されたという。


さて、美術館に話を戻すと、その後実際にモローが生活したアパルトマンコーナーを見学して終了。

満足この上なしなのは保証付きだからパリ滞在を今後計画していてギュスターヴ・モローに興味がある人は是非この美術館に行ってほしい。
また、既にパリに滞在している方はすぐにでも。たとえ仕事がアートに関係なくても何かしらにインスピレーションを得ることが出来ると思うから。

なにせギュスターヴ・モローは自らの生徒であったマティス、ルオー、マルケ達のような画家だけでなくその時代の評論家のユイスマンス、さらにはあの<失われた時を求めて>の作者であるマルセル・プルーストにも多大なる影響を与えた強者なのである。

それでは実際にどんな人物で、どんな方法で物事を進めて行ったのかというと、
1891年より、パリの美術学校、エコール・デ・ボザールで教壇に上がるようになったそうであるが、生徒の中には先述のようにアンリ・マティスやルオーなどがいた。

「あらー、マティスには指導なんて必要なかったのでは?」

それはそうかも知れないけれど。

意外と手取り足取りで生徒達を指導していったのではなかったようだ。

美術学校の教壇ては自らを<橋>に例え、「貴方達のうち何人かが渡って行くでしょう。」と言ったそうで、つまり、モローのやり方に共感を持ったものだけがついてきてくれれば良いのであって、そうでなければ無理してついてくる必要はないと言い切ったのであった。
具体的なアドヴァイスといえば色彩について常に可能な限り想像力を働かせて多様性)独自性を持たせることであろうか。

実際には自宅の書斎に希望者を集めて毎週日曜日、あるいはほぼ毎日話しを聞かせていたらしい。

また、ルーヴル美術館での模写を皆に推奨した。
具体的には例えばアニバル・カラーシュの<狩り(La chasse)>をコピーしたマティスの同タイトルの絵は現在グルノーブル美術館に所蔵されているということだし、エドゥアール・マネの<兎を抱えた少女>などはモナリザの部屋で原作のラファエルのものと並んで展示されている(先日貸出になっていたけれど、まだ返ってきてなかったらごめんね)。

このように一定の条件を守りながら名作の模写をするように画家達に勧めたのはモローであったのだ。

今でもルーヴル美術館等で模写をしている人を時々見かけることがあると思うが、あれは許可を貰っていて、時間や場所も定められているし、何でも良いからやっているのではないのだよ。

モローのアーティストとしての一面と作品と教育者としてのイメージを重ねて考えるのにはこういったことを知るのが大切かと思うのでこれからも引き続き注目していきたい。

私の些細な情報が誰かの役に立つと良いのだけれどと願いながら。






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