見出し画像

 甘酒買いに

私の最初の記憶は、これかな?と、
思うことがある。

まだ幼稚園に行く前だから、3歳になるかならないかだ。

そんなに小さな頃のことって、覚えているのだろうかと思ったりする。
けれど結構、記憶に残っているものだ。

はっきりとではなく、瞬間、瞬間のことが、幾つも脳に刻まれてるような感じだろうか。


私はこの思い出が好きだ。
たいしたことではないけれど、頭の中で思い描くと、幸せな気持ちになれる。


もう辺りも暗くなった時刻に、私は頼まれごとをすることがあった。
それは、いつも父からだった。

「莉子、田所さんの店で、甘酒を買って来なさい」

いま思うと、もう暗いのに幼い私に買いに行かせるなんてと、少しだけ
憤りを覚えるが。

けれど、この時の私は嬉しく感じていたらしい。
ちょっとだけ、大人になった気がしたのかなと推測する。


お財布を、スカートのポケットに入れると私は家を出る。

田所さんのお店とは、お米屋さんだ。
そこに甘酒は売っていた。
私自身は、甘酒は苦手で、匂いがするだけで逃げたい気持ちになった。


「莉子ちゃん、いらっしゃい。甘酒ね」

ガラスの引き戸を開けて、お店に入ると、綺麗なおばさんが話しかけてくれる。

私が頷くと、おばさんはにっこりして、「ちょっと待ってね」と云うのだ。


おばさんは、棚の上の方にある
甘酒を取ると、紙の袋に入れた。

「はい、甘酒。莉子ちゃんは偉いね。
一人で買い物が出来て」
そう云って袋を渡してくれる。


私は預かって来たお財布を出すと、お金をおばさんに払う。

「ありがとう。今お釣りを渡すからね」

そして、おばさんは、お釣りと一緒にサイコロキャラメルを私にくれる。


「ちゃんと、買い物が出来たから
ご褒美」
そう云って私を見るおばさんの笑顔は、とっても優しい。

「ありがとう」
私は母に云われた通り、必ず御礼を伝える。

おばさんは、嬉しいそうに、うんうんと云うのけれど、そのあと急に寂しそうな顔になる。

そしてレジの横に置いてある、写真に視線が移る。


その写真には、私より歳上の小学生の男の子と、おばさんが笑顔で写っている。

その頃の私には、その子が誰なのか判らなかった。

おばさんは、ハッとして私を見ると
「気をつけてお帰りね」
と笑った。


私は嫌いな甘酒の入った袋を胸に抱えて、薄暗い街灯の灯る道を歩いて家に帰った。

いったい、この甘酒は誰が飲んでいたのだろう。
ここは忘れている。

お使いに行くようにと云ったのは
父だ。

けれど、大酒飲みの父が甘酒を飲むとは思えない。

母でもない気する。

たぶん、祖母だったのではないか。
体の弱い祖母は、一日を布団で過ごしていた。

同じ部屋には祖父も居た。
祖父は元気だったけど、祖母と同じ部屋から出て来ることは、滅多になかった。


ご飯とお風呂の時以外には。


この家には、まだ独身の叔母も住んでいたのだが、申し訳ないことに
まるで記憶に残っていない。

その叔母は、かなりのお喋りな人だったのに何故、覚えていないのだろう。

記憶って不思議だ。


ある日、私は母に尋ねた。
「お米屋さんのレジのところにある、写真の男の子は、だあれ?」

母は、お米をとぐ手を止めた。

そして、ゆっくりと振り返ると私を見て、こう云った。


「息子さんよ。莉子ちゃんにいつもサイコロキャラメルをくれる、あのおばさんの子供さん」


「ふ〜ん。でも見たことない」

母は真剣な、そして毅然とした表情で云った。
「莉子ちゃんが、もう少し大人になったら話すわね」

そしてまた、お米を研ぎ始めた。


私は子供ながらに、何か漠然とした深刻さを感じた。
きっとこれ以上は訊かない方がいい。
そう思った。


家は急に引っ越すことになった。

父が会社を家族に一言の相談も無しに、辞めたのだ。

そして独立するという。

父に独立を薦めた人が、同じ横浜市内に住んでいたが、距離があった。


それで父は、その人の近くに引っ越すことに決めたという。

この時の私には、こういった事情など、もちろん知らなかった。

かなり月日が経ってから、母に教えてもらったのだった。


甘酒を買いに行くのも、残り少なくなった。

この日も私は父に云われて、お米屋さんに向かっていた。


「わーーー!」
「ううーー!」

急に大きな声が聞こえて、私は怖くなり、立ち止まってしまった。


「どうしよう……」

そう思っていたら、お米屋さんの
おばさんの声が、訊こえてきた。

何て云ってるのかは、判らなかった。


けれど私は、おばさんの声を訊いたら、安心したので歩き出した。


すると、お米屋さんの前で、おばさんと男の子が立っていたのだ。

「ああーーー!」

男の子が、さっきのように叫び始めた。

すると、おばさんが男の子をギュッと抱きしめたのだ。


気がつくと、何人もの人たちが、その様子を見ていた。

おばさんには、そんなこと関係なかった。
ずっと男の子を抱きしめている。

やがて、男の子も叫ぶのをやめて、静かになり、目を瞑ると体をおばさんに委ねた。


そうだ。おばさんは、男の子のお母さんなんだ。

この時の、息子さんを強く抱き締める、お母さんの姿を、多少はぼんやりしては来たが、忘れることはない。



私は引っ越して、新しい家に住むことになった。

幼稚園に行き、小学生になり、いよいよ中学に通うようになった。


その頃になって、私はお米屋さんの息子さんのことを、母から話してもらった。

息子さんは病気で、自分の思う通りにならないと、暴れたり大声を出したりといった症状が現れるそうだ。


お米屋さんの店主である、おばさんの旦那さんは、そんな息子さんを恥ずかしいと思い、山の中で、ひっそりと暮らす、祖父と祖母に預けたのだ。


その息子さんは、数年前に病気で亡くなったと母から訊いた。

叫ぶ息子をギュッと抱きしめていた、おばさんは元気でいるだろうか。

一緒に暮らしたかっただろうに。


大人になって、何故か甘酒が飲めるようなった。

あんなに嫌いだったのに。

お米屋さんは、まだ営業してるだろうか。
あの店の甘酒が、飲みたい。
おばさんにも逢いたい。


今度は自分の為に、甘酒買いに。
あの店へ。


      了














この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?