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白い花

実家の近くには川が流れている。

土手はジョギングや散歩をする人たちに人気がある。

以前、私も気が向いた時にウォーキングをしに来たりした。

けど、ある時期を境に土手には脚が向かなくなった。

理由……。

それが自分でも分からないでいる。


春だった。


土手には若い緑をした草と、色々な種類の花々が咲き始めたその頃から。

私は土手に近づくのが怖くなった。

ある風景を目にして……

ここには来たくなくなった。


会計事務所に勤めて10年になる。

仕事は社会保険労務士をしている。

今は車でクライアントのところに向かう途中だ。

窓からの風が心地良い。


信号待ちの時に、横断歩道を渡る園児の集団が前を歩いていた。

一人一人が誇らしげに手をあげている。

その姿に、口元が緩んだ。

一人、遅れて歩く子がいたが、青信号の間に無事に渡れた。

「良かった」


信号が変わり車を発進させたら、急に不安感に襲われた。

胸が痛い。

私はハンドルを切り、車を停めた。

何がそんなに不安なのか。

自分に問いかけても答えは出ず、医師に診てもらったことがある。

不安神経症らしい。だが理由が分かったわけではない。

軽い薬を服用しているが治る気配がない。


最近ちょくちょく不安に呑み込まれそうになる。

私はよほど、『春』と相性が良くないらしい。

香山栞 36歳

独身の一人暮らし、それがわたし。


父、母、祖父と祖母、そして年子の弟の6人家族。

だが、気付いたら母の姿が家から消えていた。

まだやっと二歳か三歳の私だったが、母の姿が家から無くなったことだけは、なんとなく感じていたはずだった。


大泣きもして家族を困らせたことだろう。

程なくして父は再婚した。

父の選んだその女性を嫌いなわけではなかった。

ただ、一緒に暮らして何年経ってもお互いに打ち解けられずにいた。

なんとも云えない気不味さが、無くなることはなかった。


高校の時、私はずっと気になっていたことを祖母に訊いてみた。

私を産んだ母のことを。

父との離婚の原因が知りたいと。

祖母は困った表情をした。

少しの間、部屋は静寂に包まれた。


「ふぅ」と、ため息を付くと、祖母は話してくれた。

離婚の原因、それは母の手癖の悪さだったそうだ。

家族のお財布から抜き取ることは、しょっちゅうで、何度云っても繰り返す母に、本気で治す気があるとは思えなかった。

祖母はまた、ため息をつくと、そう云った。


けれど父は最後まで母が窃盗をしなくなることを信じてたらしい。

家の一部をリフォームするのに、母の実家の材木屋に手配をして欲しいと、母に60万円を渡したのだ。


祖父、祖母共に反対する中、父は母に現金を預けた。

父にとっては一つの賭けだったのかもしれない。

そして母は……。


流石の父も、これは駄目だと諦めたらしい。

離婚となった。


これが祖母から訊いた、母が家を出て行った理由らしい。

母に、本当に治す気が無かったのかは、分からない。

《窃盗症、クレプトマニア》とも云うらしい。

母がこの病いでは無かったとは言い切れない。

けれど……。


もう、昔のことだ。


ある日、仕事を終えた私は、あの土手に行ってみることにした。

段々と、近づくに連れて自分の動悸が忙しくなるのを感じた。

そして土手への階段を昇っりきった。


風が少し強く吹いている。

もうすぐ陽が沈む西の空。

私はゆっくりと視線を下に向けた。


小さな白い花がたくさん風に揺れている。

それを目にした時に、自分の心臓を強く掴まれた気がした。


いやだ こわい いかないで やだやだ

ママーー!


私はその場でしゃがみ込んだ。

ぼんやりとした映像が、脳裏に浮かんだのが、はっきりと分かった。


女の人が、大きなバックを持って、この土手を歩いて行くのが見えた。

遠ざかる後ろ姿。

あれは、母だ。


何故、自分はここに居るのだろう。

その時、後ろから声が聴こえた。

「栞ちゃん、お母さんにバイバイって云ってあげなさい」


祖母の声だった。

まだ幼いわたしの記憶には残らないと思ったの?

自分の母親と、お別れさせてあげたかったから?


しゃがんでいた私は、その場に座り込んだ。

涙が止まらなかった。

小さな白い花たちに囲まれて、私は戻っていた。


あの時間に……。


       (完)


 



        






































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