残酷という名の感謝
僕と砂羽は駅のホームから大海原が迫るように見える町を、目的もなく、ただ歩いていた。
大都会の横浜駅から電車に乗って、ホームから海を眺めるためだけに来る人もいる、そんな駅。
改札を出て、田畑を眺めながら、海に向かう。
歩き疲れた僕たちは、たくさんあるテトラポットの一つに座ることにした。
「あ〜、気持ちがいいです」
砂羽は目を閉じて、海風に吹かれている。
以前から乗っている電車で、この駅に停車するたびに、いつかこの駅で降りて、散策をしようと僕たちは話し合っていたのだ。
けっこう歩いたけれど、取り立てて何も無い、静かな町だった。
ただ、ポツンポツンと建つ家々に、夏みかんの樹が必ずと云っていいほど、あるのが印象的ではあったが。
「剛志先輩、お腹が空いた」
砂羽に云われて、僕は胸ポケットからスマホを出した。
もう午後2時を過ぎている。
「砂羽、昼飯を食べに行こう。ただこの辺りには、店がほとんど無いな。電車で移動するか」
「剛志先輩、わたし一軒だけ飲食店があったのを見ました」
「へえ、何を食べられる店だろう」
「お魚みたいでした。定食屋さんみたいな感じの建物で」
「砂羽は魚でいいのか?」
「はい、目の前が海だし、それだけで新鮮な感じがするし」
「よし!行くか。僕も急に腹が減ったよ」
砂羽は、テトラポットから降りて、走って来た。
そして僕の腕に、しがみ付いた。
「どうした、急に。お腹が空き過ぎて貧血じゃないのか?」
砂羽は僕の顔を見て、キスをせがんだ。
砂羽の背中に手を回し、僕らはキスをした。
ものの10分も経たずに、店に着いた。
建物は、割と古い印象だが、家族経営なのだろう。
温かみを感じる。
「いらっしゃいませ」
店に入ると、捻じりハチマキを巻いた店主らしき男性が声をかけたきた。
「ご覧の通り、ガラガラですから好きな場所にどうぞ」
砂羽は、窓際の席にサッと座った。
そしてテーブルの上のメニューを見ている。
僕も椅子に座って、店主が渡してくれた、おしぼりを袋から出した。
メガネを外し、眼の辺りを拭いた。
「おしぼりで顔を拭いてると、中年のおじさんみたい」
砂羽が少し不満そうに見ている。
僕は黙って拭き続けた。
「剛志先輩はまだ、大学4年でしょう?
そういう姿、私は見たくない!」
「でもさ、暑さの上に潮風で、顔がベタついて、気持ち悪いんだよ」
砂羽は、納得のいかない顔をしている。
「それより何にするのかは、決まったの?」
「アジのたたき定食にする」
「旨そうだな。僕はアジフライ定食にしよう」
店主に注文を伝え、僕はコップの冷えた水を飲んだ。
「剛志先輩」
「同じ歳なんだから、その先輩は止めようよ、砂羽」
「でも剛志先輩は現役で合格したけど、私は一浪だから、やっぱり先輩だし」
「まぁ砂羽の好きに呼んでいいよ」
「剛志先輩は、大学を卒業したら、予定通りに留学するの?」
「するよ。1年間だけど、オーストラリアに、ホームスティするんだ」
「そう……」
「嫌か?砂羽は」
「寂しいなって、そう思ったから」
「たったの1年だ。アッという間だよ」
砂羽は、黙ってしまった。
僕は窓の外を見た。
店内は、薄暗いが窓の向こうにはキラキラ光る海が広がっている。
その差に一瞬だけ、目がやられた感じになるが、元に戻るのも早い。
眩しくて、光ってて……きれいだな。
砂羽、キミには分からないだろうが、僕はずっと砂羽が眩しくて、そして……
苦しかったよ。ずっとね。
「アジのたたき定食、お待ち」
「はい、私です」
「じゃあ、こっちのアジフライ定食は、お兄さんだ。ごゆっくり」
「旨そうだ。さて食べるか」
僕がアジフライに、かぶりつこうとした時、砂羽の様子が変なのに、気がついた。
「砂羽、どうかした?食べないの?」
砂羽はジッとしている。
視線をたどるとアジのたたき定食がある。
えっ!もしかして、これか?
「砂羽、アジのたたきは食べたことは、ある?」
砂羽は首を横に振った。
「これが嫌なんじゃない?」
僕が指で指した先には、さばかれたアジが、骨だけになって、ピクピク動いている。
薄っすらピンク色の身を付けて。
砂羽は固まっていた。
僕はテーブルに合ったペーパーナプキンでアジの姿を覆った。
けれど、その下で、やはりピクピクは続いている。
砂羽は、ナプキンを剥ぎ取ると、ムシャムシャと、たたきを食べ始めた。
僕は呆気に取られたが、自分もアジフライをパクつく事にして、ご飯をワシワシ、口に運んだ。
アジフライは、身が厚く、ふっくらとして旨い。
米もいい物を使っているようだ。
「人間て、残酷だよね」
砂羽がそう云いながら、たたきを食べている。
「どうせなら、最後までやってあげればいいのに。どうして生かしておくんだろう。
酷いと思う」
砂羽は怒っていた。
怒りながら味噌汁を飲んだ。
「これは、新鮮ですよという意味らしい。
でも、確かに残酷かもな」
「残酷だ、絶対!」
「日本には、生きたまま食べるという食文化があるんだよ。◯◯の踊り食いとかね」
「可哀想、そんなの可哀想です!」
僕はもう何も話さなかった。
早く食べて帰ろう、それしか頭に無かった。
店を出てから駅まで、僕らは一言も会話をしなかった。
別に僕が砂羽に対して、気分を害された、
とかの理由ではなく。
ただ、話すということを、したいとは思わなかっただけで。
砂羽も、ただ歩く事に集中しているみたいだ。
駅で少しの間、海を眺めていた。
「似てるんだ」
急に砂羽が口をきいた。
「似てるって何と何が」
「海の青色と剛志先輩の、メガネの縁が」
「そうかな?確かに濃い目の青だけどね」
「似てるよ、とでも。先輩のメガネの縁は、海色だったんだね」
「そうだとしたら、綺麗だな」
砂羽は微笑んでいる。
電車が来るまで、僕らは夕陽が沈みかかった海を見ていた。
この時の風景は、その後も忘れる事はなかった。
年が明け、僕は大学生活を終えた。
そして、オーストラリア留学の準備に取り掛かり始めた。
砂羽とはあまり、会わなくなっていたが、別にケンカをしたとかではない。
ただ、なんとなく。
理由はなかった。
オーストラリアに出発の日がやってきた。
親には見送りはいいからと、云っておいた。
自分一人で出発したかったから、友人も誰も来ない。
砂羽には飛行機の時刻だけ、メールで知らせておいた。
僕はロビーで、紙コップに入ったホットコーヒーを飲んでいる。
時刻を確認し、
「そろそろ行く時間だ」
そう云って僕は椅子から立ち上がった。
「剛志せんぱーい」
驚いて、声の方を見ると、砂羽が走って来る。
そしてハアハア息を上げながら、勢いよく僕に抱きついた。
「あ〜良かった〜、間に合った」
「来てくれたんだ」
「うん、来たよ剛志先輩。ホントはギリギリまで迷ってた」
「なんで迷うのさ」
「それは……泣くのが嫌だったから!」
そう云うと、砂羽はもう一度、僕に抱きついた。
「アッという間だよね?1年なんて、そうでしょう先輩」
「そう、アッという間だ」
その時、僕が乗る飛行機のアナウンスが流れた。
「じゃあ、行って来るよ、砂羽」
「行ってらっしゃい、剛志先輩」
「最後に砂羽にお願いがある」
「なに?お願いって」
「先輩は付けずに、剛志と呼んで欲しいんだ」
砂羽は、頷き、
「気をつけて行ってらっしゃい、剛志」
「ありがとう、砂羽。元気でいろよ」
「元気でいるよ、たったの1年だもん」
僕はエスカレーターに乗り、手を振った。
砂羽も振り返した。
見えなくなるまで、お互いに手を振った。
そして僕を乗せた飛行機が飛び立った。
ただし、行き先はオーストラリアではないが。
日本を出てから3ヶ月が経った。
僕は今、ヘルシンキで暮らしている。
そう、フィンランドの首都だ。
大学に受かった時に僕は昔から憧れていた北欧旅行に行った。
そしてこの国の全てが好きになった。
まぁ物価は高いけど。
帰国してからも、密かにフィンランド語の勉強を続けて来た。
だから仕事探しには困ることもなく、すんなり決まった。
僕が働いているところは、旅行代理店。
日本語とフィンランド語の両方話せるので、重宝がられている。
今日も仕事を終えて、今は自分の借りてる部屋にいる。
窓を、開ければすぐ海だ。
僕は、かけてるメガネを外し、しみじみと見た。
「海色のメガネか」
いつかのホームからの海を思い出して、懐かしくなる。
僕は、お袋だけには連絡先を教えてきた。
……砂羽のことが、本気で好きだった。
砂羽も僕のことを同じように思ってくれている。
そう信じていた。何の疑いもなく。
けれど、僕は見なくてもいいのに見てしまったんだ。
砂羽が男と車の中で浮気をしている現場を。
自分でいうのは変かも知れないが、僕には、疑うという気持ちが、あまり無いのだ。
馬鹿みたいに、直ぐに信じてしまう。
けれどそれで嫌な目に合ったことは無かったんだ。
けれど……。
今になってみれば自分が知らなかっただけで、何回も裏切られていたのかもしれないが。
だから砂羽の浮気は衝撃だった。
それでも僕は、「別れる」
とは云えなかった、何故なら本気で砂羽を好きだったから。
ずっと大切にしようと決めていたから。
その強い決心は、簡単には消えない。
浮気を知りながら、1年以上、付き合ってきた。
けど、こんな馬鹿な自分でも、もう限界だった。
大学を卒業と同時に、砂羽と別れようと、決めた。
なるべく遠くに離れたかった。
それでこの国なら、なんとか生きていける気がして、こうしてやって来た。
コン コン
時間が来たようだ。
恋人が迎えに来てくれた。
これから2人で食事をして、その後は……
裏切る人間の気持ちを知ろうと思ってね。
砂羽には感謝してる。
人を信じ過ぎることの怖さを、彼女が教えてくれたから。
感謝してるよ、砂羽。
ありがとう。幸せにな。
じゃあ行くよ。
了
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