外灯が照らすもの
弓子は最近、妙な噂を耳にした。
住んでる住宅地にある小さな公園に、深夜になると、幽霊が出るという。
その幽霊は男らしいのだが、何をするわけでもなく、ただベンチに座っている。
人を脅かすわけでもない。
ポツンと、そこにいるだけらしい。
この道は夜になると、パタッと人通りが途絶える。
何度か痴漢が出て、襲われそうになった女性もいる。
だから女性は遅くなると、決してここを通らないようにしている。
女性だけではない。男性も別の道を歩いて帰宅する人が多い。
何故なら一時期、“オヤジ狩り”と呼ばれる事件が多発したからだ。
深夜、仕事を終えた中年男性が歩いているところに、高校生数名のグループが現金目的で男性を襲う、というもの。
この事件以降、この道を男女共に歩かなくなった。
「ただいま〜」
「お帰りなさい。今日も遅かったわね」
「先月2人辞めたから、そのしわ寄せがどうしてもね」
「そう、会社も早く新しい人を雇ってくれるといいわね。弓子の帰りが遅いと、お母さんも心配で」
「心配かけてごめんね。でも今の経営状況から人を入れるのは、たぶん無理だと思う」
弓子が母と話していると、大学3年の弟の優馬がお風呂から上がってきた。
「姉さん、お帰り」
「ただいま優馬、バイトは行ってるの?」
「行ってるよ。家庭教師が一番稼げる」
「責任があるんだからね。ちゃんと合格させてあげるという」
「大丈夫。今まで俺が教えた子は全員受かってる。それより俺見たよ」
「見たって何を」
「姉さんも知ってると思うけど例の幽霊だよ」
弓子は驚いて優馬を見た。
「優馬、あの道を通ったの?危ないから別の道で帰りなさいって云ってるのに」
「昨日はかなり遅くなっちゃったら、早く帰りたくてさ。やっぱり一番近道だしね。
そしたら居たんだよ、幽霊が」
「冗談云ってるの?」
「本気に決まってるだろ、姉さんが疑り深いんだよ」
☆☆
「それ幽霊ではなくて人間なんじゃない?」
「いや違う。人間じゃなかった」
「どうしてそう言い切れるのよ」
優馬は考えていた。
そして、ゆっくり話し出した。
「生気が感じられないんだ。生きてる感じがしない、というか。それに……」
「なに、黙っちゃって」
「顔がさ、違うんだよ」
「顔が違う?どんな風に?」
「上手く云えないけど、そんなにハッキリ見た訳でもないし」
「ふーん」私は夕食を食べながら、そう云った。
☆☆
「あっ、完全に馬鹿にしてるだろ」
「馬鹿にはしてないけど、なんかねぇ」
「もういいよ。姉さんも遭遇すればいいのに」
母親が優馬を睨んだ。
「弓子にあの道を使わないように云ってるのよ?何かあったらどうするの。お父さんに何て説明するの?それじゃなくても単身赴任先で仕事が大変なのに。あなたも他の道にしなさいね、優馬」
「なんか俺、悪者になってる。はいはい、この話しはおしまいです」
優馬は自分の部屋に戻って行った。
その夜、弓子は優馬の話しを思い出していた。
本当は、私もその幽霊を見たいのよね。
でもあの道を通るのは勇気がいるからなぁ。幽霊より痴漢の方が怖いし、諦めるしかないか。
弓子は、ベットに入ると照明を消した。
☆☆
今日は日曜、やっと仕事が休みだ。
「このところ土曜日も出勤してたから今日はゆっくり休めるわ、やれやれ」
今はまだ真夜中だ。
トイレに起きた弓子は、そんな独り言を呟くと、ベットに入った。
もう一度寝ようとしていた弓子だが、ベットから起き上がった。
平日と違って日曜日なら、痴漢も出にくいかも知れない。
優馬の話しも気になる。
弓子は決心した。
パジャマを着替えて、音を立てないように、静かに外へ出た。
ここからあの公園までは、10分で着くはずだ。
持ってきた懐中電灯で道を照らし、弓子は足早に向かった。
そして公園が見える場所まで着いた。
電信柱に隠れるようにして、弓子は公園を覗いてみた。
小さな公園の割には、外灯が煌々と明るく感じる。
静まり返っていた。
「今夜は幽霊も休み?何も居ない」
弓子は諦めて帰ることにした。
来た道を戻り始めた、その時。
微かな音が聞こえた気がして、弓子はもう一度公園を見た。
耳に全てを集中させて、僅かな音を探す。
うっ うっ
泣き声がする?押し殺した声で誰かが泣いているのだ。
弓子はもう一度、よく目を凝らして公園を見た。
木々に隠れてよく見えないが、確かに誰かがいる!
弓子は少しずつ公園に近づいてみた。
すると誰かが、こちらに背を向けてベンチに座っている。
うっ うっ うっ
泣いているのは、この男性だ。
弓子はどうしたものかと考えていた。
このまま帰ることも出来る。
けれど弓子は、どうしても泣いてる人を、放ってはおけない性格だった。
公園の中に入ることにした。
☆☆
泣いてるその男性の、肩も背中も震えていた。
弓子が傍に近づくと、その人は泣くのを辞めた。
身体中が緊張しているのが伝わってくる。
弓子は声を掛けてもいいものか、迷っていた。
「こ、来ないでください」
その男性は、背を向けたままでそう云った。
「あの、どうかなさったのですか?」
その場に立ったまま、弓子は尋ねた。
男性は、黙ったままだ。
弓子は決心して、男性の前に廻った。
目の前に弓子が現れて、驚いた男性は、思わず弓子を見た。
弓子は自分の口を両手で塞いだ。
こうしないと声を上げそうだった。
男性は、その様子を、見て慌てて下を向いた。
男性の顔は……申し訳ないが、直視するのが難しかった。
こんな真夜中でも、外灯の明るさが全てを照らす。
男性の顔半分は肌の色が茶色だった。
唇は、めくれ上がり通常の3倍の大きさまで腫れている。
片方の目は、垂れ下がる瞼で塞がれていた。
男性は弓子に背を向けたまま立ち去ろうとした。
「待ってください」
弓子は思わずそう云っていた。
☆☆
男性は立ち止まっている。
「あの……あの、お話ししたいでのですが」
「……」
「だから、もう一度ベンチに座って欲しいんです」
「……僕に話しが?なんでですか」
「それは……私にも分からないのですが、でも、お話しができたらいいと、思って」
男性は、黙っている。
私はこの人と、どんな話しをするつもりなんだろう。
弓子は自分でも、分からなかった。
でも、このまま離れてしまうのは、何か違うような気がした。
男性はまだ黙って立っている。
無理だろうか。
弓子が半ば諦めかけた時、男性は小さな声で、
「分かりました」
そう云って、弓子に顔を見られない様に、ベンチに戻った。
「ありがとうございます。隣りに座ってもいいですか?」
弓子の言葉に男性は、かなり驚いたようだ。
「嫌ではないんですか?僕に近づくの、気味が悪くないんですか?」
弓子は、
「そんな事、ありません」
そう云って、男性の隣りに座った。
2人共、そのまま黙って座っている。
すると男性が、
「顔のことですよね。あなたが話したいことは」
「はい。そのことはお聴きしたいです」
弓子は正直に認めた。
☆☆
男性はただ黙っている。
「でも、話したくなければ無理にとは言いません」
男性は、考えている様子だった。
そして、ゆっくりと話し出した。
「僕の父が、事業に失敗して多額の負債を抱えてしまい、焼身自殺をしたのです。
会社の倉庫の中で、父はガソリンを撒き自身にも頭からかけました。
その場に僕もいたんです。父を止めるために」
「焼身自殺……」
「父がライターを着火した途端、倉庫内は火の海になり、瞬時に僕にも炎が襲いかかりました。僕は命は、助かりましたが、全身大やけどを負いました。それがこの顔になった理由です」
弓子には、思い当たる事が有った。
この事はニュースで見た記憶がある。
けれど、まさか自分がそのご家族の一人にお会いすることになるとは、思いもしなかった。
この国の医療の高さを持ってしても、ここまでなのだとしたら、よほどの火傷だったのだろう。想像を絶する。
☆☆
「話してくださり、ありがとうございました」弓子は深々と頭を下げた。
男性は「……いえ」とだけ返事をした。
「お名前、教えてください。私は、伊東弓子です。29歳です」
「僕は、岡部と言います。21に今日なりました」
「えっ、今日がお誕生日ですか?」
岡部は、頷いた。
「それは、お誕生日おめでとうございます」
岡部は、頭を下げた。
そして、そのまま黙ってしまった。
「岡部さんのお住まいは、どちらですか?」
弓子の質問に、
「決まってないんです。あちこち移動してます。テント生活なので」
「お母さんは……」
「母は、あの事があってから、行方が分かりません」
「食べる物はどうしてるの?」
「僕は働いていないので、収入がありません。あちこちのコンビニから出た廃棄処分のお弁当を主に食べています」
岡部は、21歳でホームレスをしているのだ。
弓子の目から涙が流れた。
なんて過酷な運命なのだろう。
弓子が泣いているのを見た岡部は、
「泣いているのですか?僕のことで」
「だって、余りに……」
「僕なんかの為に泣かないでください。
涙がもったいですよ」
弓子は思わず岡部を見た。
初めて岡部は弓子のことをはっきりと見ていた。
顔を隠すこともなく。
片目は瞼で塞がれているけど、もう一つの目が、弓子のことを見ていた。
小さな公園にしては、外灯が明る過ぎると思っていたが、そのおかげで今は岡部のことをはっきりと見ることが出来る。
そう、弓子は初めと違い、今は岡部のことを、真っ直ぐ見ることが出来ていた。
弓子を見ている岡部の目は、ちゃんと生きている。
“この人は、まだ負けてない!”
弓子はそう感じた。
それくらい、岡部の目は光を放っている。
☆☆
「伊東さん、今はどこの会社も、僕のことを雇ってはくれません。だから僕は、自分だけで出来る仕事がしたいんです」
弓子は黙って聴いている。
「必ず、そういった仕事に就きます」
「岡部さんなら、きっと叶えられると思います。あなたなら、出来ますよ」
弓子の言葉に岡部は嬉しそうに、微笑んだ。
「それに伊東さんからは、誕生日プレゼントを頂いたし、何年ぶりかの幸せな誕生日です」
「私からのプレゼント?それは何のことでしょう」
「伊東さんの涙です。僕の為に泣いてくれました。僕は時々、父や母を思い出して泣くことはありますが、誰かが自分のことで涙を流してくれるなんて、なかったから」
「伊東さん、ありがとうございました」
弓子はまた泣きそうになっていた。
岡部は、そんな弓子を見て、立ち上がり、丁寧な、お辞儀をした。
「伊東さん、そろそろ僕は行きます」
弓子も立ち上がり、2人は握手をした。
お互いに元気でいましょう、そう云うと、岡部は暗闇の中に消えて行った。
月曜の朝、弓子が朝食を食べていると、優馬が眠そうに起きてきた。
「おはよう、今朝は早いのね」
「友達と出かける用事があってさ」
そう云って、あくびを何回も繰り返してる。
「優馬、あなたの方が、よっぽど生気が無いわよ」
「失礼だな、いったい誰と比べてるんだよ」
弓子はそれには答えず、仕事に出かけた。
私も頑張ります。心の中でそう呟きながら、弓子は会社へ向かった。
岡部が文壇の世界で大活躍しているのを弓子が知ったのは、10年後だった。
彼の本を手に取ると、顔写真が小さく載っていた。
その顔は、堂々としていた。
弓子は小さく頷いた。
来週、この書店で、岡部のサイン会がある。
弓子は、今からその日が来るのを心待ちにしている。
(完)
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