空気の温度 (2)
仕事からの帰り道、チラチラ雪が舞っていた。
「ひょっとして初雪か?もうすぐ2月になる。今年の初雪は遅かったんだな」
「おーい、理玖」
豊が走って来た。
「どうした。そんなに急いで」
僕は立ち止まり、豊の顔を見た。
「急なんだけど、明日、部署の皆んなで、飲みに行くことになったんだ。ほら先日、大きな契約が取れたろう?それもあってらしい。理玖はどうする。参加できる?」
皆んなで飲みに、か。
僕は考えた。
飲みに行くのは嫌いじゃない。
だけど、食べるのが、少しばかり厄介だから。
「理玖が偏食なのは、皆んな知ってる。だから気にしないで、自分が好きな料理を注文したら、どうかな」
ガタン!
音の方を見たら、速水さんが自販機で、ジュースを買っていた。
身を屈めて、彼女が取り出したのは、“つめた〜い”方の缶コーヒー。
雪が降る中、冷たい方を飲む人がいるんだ。
僕が、そう思っていると、
「速水さんて、一年中、暖かい飲み物は飲まないみたいだよ。コーヒーだろうが何だろうが」
豊が、そう云った。
「好き嫌いはあるからね。誰にでも。好みとかさ」
咄嗟に出た言葉だった。
豊は不思議そうな顔で、僕を見た。
「ほら、僕も偏食だろう?側から見れば変わった人に映ると思うし」
(なに無気になってるんだ僕は)
「理玖の云う通りかもな。真夏に熱々のラーメンを食う人も、珍しくないし。人それぞれでいいってことだな。
それで明日、どうする」
飲み会ーー。
「明日はパスするわ。豊が急いで教えてくれたのに。悪い」
「判った。急だしな。それじゃ」
豊はそう云うと、走って会社に戻って行った。
僕は自販機を見た。
けれど、もう速水さんの姿はなかった。
僕に、初めて彼女が出来たのは、大学生になってからだ。
同じサークルの女の子で、戸川華恵という。
半分以上、遊びのサークルは名は、
[歌唄い]といった。
歌うことが好きな人間の集まりだ。
ギターやキーボードが弾ける人もいたし、僕のように楽器は何もできない人もいる。
上手いも下手も関係ない、サークルの居心地は、僕にとっては楽で好きだった。
たまに、皆んなでカラオケに行くこともあった。
「オレ、腹減った」
「同じく!」
「カラオケの食べ物って、侮れないよな」
「とにかく何か注文しよう。俺はポテトの山盛り」
「それ、鉄板!」
瞬く間にテーブルは、食べ物に侵略された。
僕が食べられるのは、僅かだったけど、そんなことより、歌を聴いたり歌ったりに気持ちが向いていた。
延長した僕等は、カラオケに4時間立て篭もっていた。
最初は同じ電車に5人乗っていた。
今は僕と戸川さんの2人だけだ。
「柳君って、少食なのね。いつも余り食べないでしょう」
「少食なわけでもないんだ。それより戸川さんが、僕のことを、よく見てるんで、驚いてるよ」
「華恵で、いいよ」
「え」
「戸川さんじゃなくて、華恵って呼んでも……いい」
僕は戸惑っていた。
これって。ようするに彼女は僕ーー
「理玖が降りる駅よ」
そう云うと、彼女から先に電車を降りた。
僕の頭の中は、“理玖”と呼ばれたことよりも、アパートの自分の部屋の散らかり具合だった。
(ちゃんと、掃除しとけば良かった)
僕は華恵と、付き合い始めた。
華恵は積極的で、世話焼きなタイプだと知った。
「これも食べられないの?想像以上に理玖の好き嫌いは、酷いのね」
酷いって云われてもなぁ。
好き嫌いとは違うし。
やっぱり同じに思うんだな。
仕方ないか。
「大丈夫よ。私が必ず理玖の好き嫌いを、治してあげる!」
初めて出来きた彼女だけど、それは無謀だと云いたくなった。
自分で云うなと思うけど、偏食を治すのは、かなり困難なんだ。
この為に、お袋を泣かせたことも
あって、自己嫌悪で苦しんだこともある。
医師からは、摂食障害になりかけていたと訊いていた。
華恵は、かなり料理に力を入れて、彼女なりに工夫をしたメニューを作ってくれた。
「これならどうかな。理玖の嫌いな食材も入ってるけど、ペースト状にしてみたの」
毎回、華恵は僕の部屋に来ると、料理を作るようになっていた。
それが僕にとって、段々と苦痛になってしまった。
僕も正直に話せば良かったんだ。
それも出来ないまま、彼女が作ってくれた料理を、僕は食べた。
食べたというより、噛まずに飲み込んでいた。
「食べられたのね!やった〜」
華恵は、まるで跳ねてるように喜んだ。
けれど、この日とうとう我慢が出来ずに、僕は口を押さえて台所へ行くと、シンクで嘔吐してしまった。
彼女のことを、僕は見れなかった。
数分後、何も云わずに華恵は僕の部屋から出て行った。
ドアが閉まる音と共に、幕は降りた……。
昼だ。
僕はいつもの海苔文字を見ると、
箸で文字の部分を口に入れた。
今日のミッションは何だ。
どうやら、この可愛くならんでる
ミニトマトのようだ。
別に生のトマトが食えなくても、トマトジュースは飲めるんだし、ミートソースも食べてるんだ。
それでいいじゃいか。
今夜、帰ったらお袋に話そう。
そういえば、今日はラーメンの匂いがしない。
隣りを見てみた。
戸川さんは、サンドイッチをほうばっている。
珍しいとなと思った。
サンドイッチは買うと、結構高いから。
僕が勝手に、速水さんは節約してると思い込んでいただけか。
それに、どうやら手作りみたいだ。
速水さんが、こっちを向いた。
「ごめん。じろじろ見てしまった。
美味しそうだなと思ってつい」
速水さんは、にっこりして僕に
「よかったら、どうぞ」
と、ハムとチーズのサンドイッチを
差し出した。
「せっかくだけど、僕はーー」
「あ、私こそ、ごめんなさい。柳さんの苦手な食材なんですね」
「残念だけど、そうなんだ。でも気持ちだけでも嬉しいよ。ありがとう」
速水さんは、少しの間、黙っていた。
「柳さんは、いつから偏食になったんですか」
「小学校の高学年の頃からなんだ」
「それまでは、偏食ではなかったんですね。何かきっかけがあったのでしょうか」
僕は、話そうか、迷った。
「不躾なことを訊いて、申し訳ありませんでした。訊かなかったことにしてください」
速水さんは、そう云うと、ペットボトルの冷えたミルクティーを、コクンと飲むと、サンドイッチを食べた。
「こっちこそ、気を使わせて、すみません。僕が偏食になったのは、オヤジが原因なんです」
「柳さんの、お父さんが、ですか?」
僕は頷くと、話し始めた。
「僕のオヤジは、かなりのスパルタな人間で、僕に嫌いな食べ物があるのが、許せないんです」
速水さんは、真剣に訊いていた。
「ある日、僕の大嫌いな魚を、無理矢理、口に押し込んだんです」
「えーー」
「口から出したら、許さんぞ!ちゃんと噛んで食え!」
そう云われたんです。
「そんな」
「鬼の形相で睨まれて、僕は嫌いな味が口に広がって、気持ち悪いのと、詰め込まれて苦しくて、泣きながら食べました」
ふぅ……。
僕はカップのお茶を一口飲んだ。
「けれど、このことは、お袋には話さなかった。ただでさえ仲がいいとは云えないオヤジとお袋なので、これ以上、関係を悪化させたくなかったから。そうなるのが、小学生の僕は……怖かった」
気がつくと、速水さんは、泣いていた。
「変なこと話してしまって」
彼女は、首を振り、
「違うんです。私も父によって、食べることに、関心が無くなってしまったので。何を食べても一緒で。
大切なことを一つ、自分は失ってしまったんだなって……」
彼女は、両手で顔を覆い、指の間から、涙が溢れていた。
僕は、このとき、速水さんのことを、
思い切り抱きしめたいと、そう思っていた。
続く
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