#【花と結婚した女】
昨夜も熱帯夜だったけど、今朝、窓を開けると涼やかな風が入ったきた。
連日の猛暑で、スーパーの飲料水やアルコール類、アイスクリームの棚は、ほぼ空に近い。
店員さんが言うには、郊外にあるこの店は、親会社に受注しても、後回しにされてしまうとの事だった。
早朝から営業しているその店に、私はスポーツ飲料のペットボトルを買いに行く為、家を出た。
それにしても、最近の中高年の健康志向には驚かされる。
店の近くにある公園は、かなりの広さがあるのに、ラジオ体操に参加している人数が多いため、手を広げると、隣の人にぶつかりそうだ。
「みんな頑張るなぁ」
そう思った時、シャワーのような音が聞こえてきた。
振り返ると、ケーキ屋の店員さんが、花壇の花に水を与えていた。
ここの花壇は実に見事に手入れをされているので、一年中、様々な花が咲いている。
特に薔薇とチューリップの時期は、写メを撮る人が絶えない。
口々に、「綺麗ね〜」「香りもいいし、素晴らしいわ」と言いながら、パシャパシャと写真を撮る日が続く。
世話をしている店員さんは、40歳になるかならないか、くらいに見える。
まだ独身らしい。
ケーキ屋さんで働いて、お花を育てるのも上手いとなると、女性としてはポイントが高い気がする。
まぁ私の勝手な妄想だけど。
今の時代は、独身でも幸せに暮らしている人は、たくさんいる。
だから、彼女の好きに生きるのが一番いいと私は思っている。
「それすら、大きなお世話だよね」
買い物をして帰宅すると、日曜なのに、夫が起きていた。
「ただいま、ずいぶんと早起きだね、将暉」
「昨夜の熱帯夜で汗をかいて、気持ち悪いからシャワーを浴びてきた」
「いいね。私も 早めに食事の支度をしたらシャワーを浴びようかな」
「なぁ、菜々子。5階に越してきた人ってどんな感じ」
「それが分からないのよ。夜に越して来て、その後も挨拶とかもないし」
「じゃあ、男か女かも分からないんだな。でも、エレベーターの中で会うとかは?」
「将暉、うちは1階だよ。エレベーターに乗るのは、自治会費の集金当番になった時ぐらいだし、顔も性別も知らないのに、会っても分からないと思うよ」
「そうかぁ……」
「なんでそんなに5階の人が気になるの?」
「ベランダだよ」
「ベランダ?ベランダがどうかしたの?」
「菜々子はマンションの南の方は、行かないから知らないと思うけど、僕は毎日、通勤で通るだろ?すごいぞ、5階」
「すごいって、どんな風にすごいの?」
「白い布が何枚も何枚も垂れ下がっていて、全く何も見えないんだよ」
「う〜ん、よく向かいの棟の視線が気になる人はいるけどね」
「いや〜、そんなレベルじゃないと思うけどなぁ。菜々子も機会があれば見てみるといいよ」
「うん、分かった。今度みてみるわ」
その晩は、料理を作るのが面倒になり、外食にした。二人ともイタリアンが好きなので、近所にある割とリーズナブルなお店で食事をした。
帰り道、私はベランダのことを思い出して、見たくなった。
将暉に言って、南側を通ってみることにした。
「あれだよ、5階のベランダ」
私は視線をベランダに移した。
「何?…あれ…」
「な、変だろう?」
将暉の話した通り、白い布で窓ガラスも見えない。角部屋なので横にも布を下げている。
風で、布が動かないように、重しのような物が布には着いている。
「怖い……」
「大丈夫だよ、1階の僕らには、ほとんど関係ないから。さ、帰ろう」
将暉は簡単に言うけど、例の集金当番が、もうすぐ回ってくるのだ。
将暉の帰宅は遅いので、毎回わたしが集金をしている。
イヤでも、5階のあの家に行かなければならない。
その晩は、なかなか寝付けなかった。
あの異様なベランダの光景が目に焼き付いてしまった。
でも、怖がっていても仕方がない。
「別に命を取られるわけじゃなし。集金したら、サッサと帰ればいいんだ」
「なんか言った?」
「あ、ごめん。なんでもないから、将暉はゆっくり寝ていいからね」
「あ〜い」
そして、遂に5階に行かなければならない日がきた。
順番に集金をして廻り、最後に例の家の前に来た。
私は、生唾をゴクリと飲み込むと、インターフォンを押した。
しかし誰も出て来ない。
もう一度、鳴らしてみる。
静かなままだ。
私は帰ることにした。ホーっとため息が出た。
それは安堵のため息だった。
翌朝、新聞を取るため、ポストを開けに行くと、そこには一通の封筒が入っていた。
封筒には、あの家の部屋番号と、金額が書いてあり、中には自治会費が入っていた。
名前はどこにも書いてなかった。
私は、ゾクっとして、急いで家に戻った。
夕方遅くに、トラックが止まる音がしたが、私は別段、気にも止めなかった。
「ベランダの布が全部なくなっているぞ!カーテンもない。中は真っ暗だ」
将暉が玄関に入るなり、そう言った。
「え!なんでだろう!」
「あの家の住人は引っ越したんだよ」
夕方の、あのトラックは、引っ越しのだったのだ!
それにしても、引っ越して来たばかりなのに、もう出て行ったんだ。
「最後まで、奇妙な人物だったな」将暉が呟いた。
翌日、ケーキ屋の前に、人だかりが出来ていた。
近づいてみると、ドアに貼り紙があった。
〔急で申し訳ありません。当店は昨日で閉店とさせていただきます。
御愛顧いただき感謝致します〕
「ずいぶん急ね」
「このお店のケーキ、好きだったのに」
「花壇はどうなるのかしら」
「もったいないわよね、こんなに綺麗に手入れがされてるのに」
帰宅した将暉にこの話をした。
「5階に居た住人と、ケーキ屋さんの人は同一人物だな」と、将暉が言う。
「ふっふっふ」
「何?気持ち悪い」
「菜々子は、梶井基次郎は読んだ?」
「一冊だけ、『桜の木の下には死体が埋まっている』だっけ?」
「ピンポン。良く出来ました」
「それがどうしたのよ」
将暉が話しをしかけた時、インターフォンが鳴った。
出ると警察の人だった。
「遅くにすみません。5階に住んでいた人のことで、お話しを訊いて廻ってまして」
「1度も顔を見てないですよ。男性か女性かも知らないです」
警察の人は、ため息をついた。
「みなさん同じことを、おっしゃいます」
居間に戻ると将暉が真剣な表情でテレビを見ている。
「菜々子、さっきの話し、どうやら本当になりそうだぞ」
「梶井基次郎の?」
将暉はゆっくり頷くと、テレビを食い入るように見た。
「5階の住人だけど、どうやら女性だ。それも詐欺師」
「詐欺師って、どんなことの?」
テレビには、結婚詐欺師の容疑者が映っているが、まだ決まったわけではないので顔はぼかしを入れている。けれど背格好は、花壇の世話をしていたケーキ屋の女性そのものだった。
「たぶん、ケーキ屋の花壇の世話をしていた女性と5階に住んでいた人物は同じだな。犯人は結婚をちらつかせ、男から金を巻き上げて、相手が不審に思い始めると、殺害して花壇の下に埋めてたらしい」
翌日、花壇には、大勢の警察の人が集まっていた。
テープを貼ってあるので、私たちは近づけないが。
合図と共に、一斉に花壇を掘り始めた。
いったい何名の被害者がいるのだろうか。
桜……いや、綺麗な花壇の下には、死体が埋まって…いる。
(完)
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