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出発

僕は言葉そのものでありたい、絶えず生成し変化する、日の光が笑うようにせせらぎの中で笑っている、動いている、生きている、そのように僕の生きることは書くことで、書くことが生きることであればどれだけいいだろう、と思う。僕は、ただ言葉としてありたい、寝ても覚めても戯れる世界の光のように、絶えず僕もありたい、あるということを感じていたい、存在の幻惑の渦中にありたい。ああ、いったいどんな書かれた小説なら、すべての書かれなかった小説よりもいいものだろう? もしも書くことが可能なのだとしたら、それはどんな風にだろう、本当に書かれるということが、新しくはない、なんてことはありえない、もしもそれが本当に書かれるなら、それは絶対に価値のあるものだ、それ以外はすべて書かれなかったのと同じなんだ。僕が本当に当たり前のことを言っているように思える? もし書きたいのなら、君はまったく新しくなくてはならない、それはまだ書かれていない、という意味においてまったく新しいのではなく、また書かれた、というように新しいものでなくてはならない、君は、それが新しい、ということがどういうことか、本当にわかってる? 新しいということは、それがオリジナルということは、そこになにかそれまでになかったものが、見つかるというのではなく、付け加えられるということなのだ。ああ、世界は絶えず新しさを待っている、世界は発見させるのではなく、新しく、単純な意味で、創り出される、もしもそれが新しいものなら、それが無視されるなんてことはありえない、もしもそれが新しいものなら、それは世界を決定的に変えてしまうだろう、すべての発見的なもの、過去的なもの、再認的なもの、模倣的なもののすべてがそれに倣うだろう、そして新しいものは世界を変えてから世界の中に埋もれるだろう、世界は新しいものをその先頭に付け加えて、何食わぬように回り続けるだろう、君は知っているか? 世界をまったく違うものに変えてしまうことが、世界にとっては極く当たり前のことであるということを、世界が膨張しながらその秩序のバランスを保っているのだということを、爆発は次の瞬間に収束を始めるのだということを、そして世界にとって価値は、というと言葉が固すぎるけれど、世界にとって価値はその新しいものだけなのだ、それ以外はただのシステムであり、君が本当に生き生きとしているのなら、君は絶えずはみ出しているということにもなるのだ。ああ、オリジナルたれ、個性的たれ、自分という個性にたどり着け、そのために君は君の生を生きなければならない、君は君の形を思い出さなければならない、君は君を取り戻さなければならない、いいや、君は個性という強度に足りるほど頑丈か? 僕の話をしよう、君にとっては君でもある僕の話を、僕は旅を始める、僕は僕自身の身体を使って、ある実験を始める、僕はまず僕自身を言葉そのものに変えてしまうことで、その生のあり方への、ある厳密さを獲得する、君たちにとってすべての変化するもの、例えば笑い、光、それらを見つけ出すことだ、そしてすぐにでもそれ自体になってしまうことだ、というよりも、自分さえもそうなのだ、絶えず変化するものなのだということを認識することだ、絶えず揺れ動くもの、絶えず戯れるもの、絶えず欲望するもの、絶えず、例え静的であるときでも、動的であるものとして自分自身を捉えることだ、だから君はそれを選ぶべきだ、しかし決定してしまうのはダメだ、君はそれを選んだ、しかしそれになってしまうというのでは、本当はダメなのだ、君はそれであることを常に保留すべきだというか、それであることを更新し続けるべきだというか、君は、それがそれであるということの中に閉じこもってしまってはいけない、君はそれになってしまってはいけない、例えば君には音楽が向いているか? スポーツが向いているか? だけど君は君自身でありながら、君自身というものを君自身という檻から解き放ってやらなければならない、君は犬か、それとも狼か? ああ、君は君でありながら、君と言われたその瞬間にはもう君であることをやめていなくてはならない。僕は自分を言葉に変えてしまった、風に変えた、光に変えた、君の脳の、その飛びこそが、君を戯れているものなのだとしたら? 僕はただ、認識の話をしたいのではない、僕はただ、こちらからだけではなく世界の方からも、いつでもその様を一変させてしまう、そしてもうどれが本当で嘘ともつかない現実が広がっているのだということを、言いたいのだ、ああ、僕はもうこれ以上言葉を噛み砕くことができない、僕は僕のを、単純に、旅、と言ってしまう以外はできない、それは旅なのだ、あるいは変化だ、あるいは笑いだ、これらの名詞は、意味的に決定されるのではなく、石の具体と抽象を備えた存在の決定的な不決定さそのものなのだ、合わせ鏡の簡単なトリックからも、君は逃れられやしない。わかるかな? 存在は存在の最小単位だ、まったく意味を持たずに変化、移動するものであり、君たちはそこにいるのではなくそこを通るのだ、君たちはそれであるのではなくそこにいるのだ、君たちは無限に意味をすり抜けるものだ、これは旅だ。



 ああ、寂しい、こんな夜だった、そのとき僕がいたのも、僕はどこからこの物語を始めようか? いいや、そもそも、どのように書こうか? 手紙? 日記? 小説のように! それとも僕は記憶に刻み込んでおくか、死人の骨みたいに海へとばらまくか……この物語はこんな夜に始まる、僕は一人ぼっちで、その男がいることを知っていた。ああ僕はどうして知っていたというのか、落ち着いて、最初からやることだ、そうだった、こんな物語はいつもそのような夜にたどり着くのだ、始まりも、終わりも、どちらも夜に隠してしまえ! 物語は始まるのでも終わるのでもない、それは続いている……さて、その男の名前は理玖という。理玖は久保というやつの従妹で、都会に出て小説家をやっていた。それが今度諸々の事情で実家に帰っきており、僕がその分野に並々ならぬ関心を抱いていたことを知っていた同級生の久保君が、ふと僕に漏らしたその一言で、僕はその理玖という奴に合わせてもらえることになったのだ。ああ、今度は、僕は誰だ? 慣習通り、こっちから始めるべきだった。僕は高校生さ。田舎の普通の進学校で、ここには僕と、久保と、ひよりと美見と蓮見と、そんな人たちが通っている。僕は不真面目な方で……そうだ、僕の名前は葉子と言う。こんな名前だけど、性別では一応男の子の方を選択している、生れも育ちも、というわけだ。それで、そうだ、僕は初めからそれらのすべて知ってたわけではなかった。後々みんなにもそのことはわかるさ。さて、みんなって? 僕は誰に書く? 一応聞いておくが、もしかしてその君という奴の正体の候補として、この僕という奴の名前も挙がっている? それならいいさ……僕は、そうだ、理玖と初めて会ったとき、僕は柄にもなく緊張していたっけな、なんせこの理玖という奴のことは、久保から聞いていたから。まるで無名だけど雑誌で一つか二つ短編小説を発表したことのある奴で、読んでみればそれが案外素敵だった。ナイーブで、繊細なくせに、誰よりも求めている奴! その理玖が、今度この近くに引っ越して来たぞ。聞けば、どうも久保の祖父がひとりで暮らしていた家だけど、その祖父が認知症の進行によりデイケアに頼った生活にも限界が訪れたので、ついに老人ホームに引っ越すことになったというのだ、そのため空き家がひとつ生まれたわけだけど、管理、維持のために住民はいた方がいい、それは理玖の望みであるだけではなく、祖父の要望だったのだ、あの家を家族のようにも愛した祖父は、家を一人にしておくなんてとても考えられなかった、そこで名乗りをあげたのが理玖で、丁度あっちでの生活がギクシャクしだした頃だった、理玖には金がなくて、自由に使える時間も限られていた。それに理玖は、なんというか、疲れ果てていた、擦り減っていたのだ、周囲の無理解に? 生きることの、生きることからの遠さに? ああ、自身の無能力さに? 遅さに? 想像力の飛躍をいつも引き戻してしまう、頭の固さに! ああ、思うことはいつでも船のようであるべきだった、想像力はそのまま走り出すべきだった、想像することがそのまま生きることであるべきだった、この足で、迷うことなどなく、欲望したものを抱き締めに行ければよかった、言葉もそうだ、ペンは、ひとときもそれから離れるべきではなかったのだ、言葉は常にそれと戯れる、それを書くのではなく、そのペンの先こそがそれなのだということを、もう忘れ続けるのはこりごりだった。だから、そのとき理玖は瞬時にその話に乗っかったのだ。思い切ってこっちに引っ越すことに決めた。それからしばらくして僕たちは出会うのだ。

 *

 僕はどうして自転車を漕いでいるんだろう? いいや、考えるべきなのはそんなことではなく、僕はどうして、そんなことまで考えるのだろうということに違いない、ああ、この自転車を漕いでいるのは、やっぱり僕ではなかった。それは確かに僕でも、僕とは関係のない僕だった。いいやそれよりも、すべて平等に僕と関係していることだった、僕には寒さも足の運動も、風景も学校も不真面目さも眠りも、すべて平等にある、あられるものだったのであり、それだから僕は今日、自転車に跨って学校を目指していたのだ。僕にはなにも不満などなかったか? ああ、不満などはない、あるのだとしても、それは他のどのようなものとも同じように、完全にある、ただし三次元的な、この世界的なリアリティの中にあるのであって、それはやっぱりどこまでも僕のいる強度に触れられるようなものではなかったのだ。だから僕にはすべてが見えていたし与えられていた、しかし僕はそれらのどんなものとも共感することが出来なかった。僕は自転車を漕いでいた、ただし、漕がなくてもいい自転車だった。なくてもいいということさえ、なくてもよかったので、僕は自転車を漕いでいた。

 *

 学校はおかしなくらい騒がしかった。なにかあったに違いない。自転車庫からでも廊下に人混みが出来ているのがわかった。昇降口で靴を履き替えていると、一年生たちの声が耳に入った。ああそうだ、今日は模試の結果と校内順位とが廊下に張り出される日だったっけ? 僕は、確か二番だった。一番を取ったのは誰なんだろう? 階段を上がってすぐの廊下では、やっぱりこちらでも一年ほどではないけれど人混みが出来ていた。僕もみんなと同じようにそれを見上げようとすると、おはよう、と元気な声が僕をゆらせた。成績表を見上げるのをやめて目の前に現れた声の主を確認すると、美見だった、その奥にひよりがちょこんと立っていた、少し身構えるように、いつでも逃げ出せるようにと、そして熱気が僕にまとわりつくような、なんとなく辺りを漂いながらも肌に触れ切りはしないような視線を僕に向けてきていた。

「葉子君、どんまい」

 美見は挑発するようなにっこりとした笑顔を浮かべながら言った、それは挑発し、やられて逃げて行くことまでを一連の喜びとするような悪戯っぽい笑みだった。ひよりがそのとき、やめなよと言うように美見の腕をぐっと引きつけた、しかしそれも心からの忠告というよりは、やめようよと言いながら二人で進んでいこうとするようなそれで、美見にはそれが余計に面白く、まじまじと僕に笑い顔をぶつけてくるのだった。

「どうしたの?」

 僕が訊ねても、美見はじっと笑い続けるのをこらえるといったように僕の顔を見つめるばかりで、答えようともしないのだ、やがて美見はふっと視線を逃がすと、窓の上にずらりと張り出された順位表に目をやった。

「二番になっちゃったねぇ」

 美見がそう言うと、ひよりが後ろで隠れながら、

「でも、二番でもすごいよ!」

 そう言うので、僕は、

「あっそう、んじゃあ美見は何番になれたのさ?」

 その名前を探してやろうと表の左から右に視線を走らせると、美見はそれを遮るようにやめて! と言いながら腕を振りまわした。

「あはは、でもあれには乗ってないんじゃない? 美見が、三十位以内だったの?」

 すると美見は我に返ったように騒ぐのをやめて、死ね、と口に含んだ毒を吐き出すように言った。ひよりは笑いながら、私も、と僕に答えるように言った。僕に死ねと言うのではなく、私も三十位以内ではないという意味だったのだろう。

「でも、その調子じゃ、いい成績だったんじゃないの?」

 そう訊ねると、美見はじっと固まってしまった。しかも僕の言うことなどまるで聞いていないと言った感じに。どうやら僕の奥に誰かを見つけてしまったらしく、挑戦的に口角をじっと吊り下げると、知らなぁい、と言いながら、ひよりを引きずって走って逃げて行く。振り返るとそこには蓮見がいた。

「おはよう、葉子君」

「ああ、おはよう」

「朝から珍しいね。なにかあった?」

「なにも。しいて言うならおれは、昨日休むように今日は学校に来たんだよ」

「そう? あはは」

 蓮見はなんの屈託もなく笑いながら、窓上の順位表を見上げた。

「葉子君、体調悪かった?」

「さあね、頭が悪かったんじゃない?」

 蓮見は意外そうな顔、それは拍子抜けだったというか、案外そんなもんかと言うことを瞬時に納得できたというか、そんな顔をした。そのとき廊下の向こうから、クラスの奴らが僕たちを目掛けてやって来るのが見え、それじゃあこんなところで二人で立ち話をしていれば、嫌な見え方もするだろうと思って僕は、

「そんなことよりも、早く僕らもお教室に入りませんか? 予習は終えたの?」

「予習?」

 驚いたように蓮見は言いながら、僕の肩を抱いて、教室に歩くのだ。

「葉子君、してるの?」

「さあね、冗談だよ」

「なぁんだ」

「さあ、早く席についてお勉強いたしましましょ」

「あはは、勉強? 僕は寝る、お休み」

 そう言った通りに、蓮見は自席に行くと、机に突っ伏して寝てしまった。大吾たちが席に集まってくると、蓮見は雑な態度で冗談をひと言二言交わしてから、急にもういいだろと言った風に、行けよ、と彼らを一蹴しまた眠りに戻る。いつの間にか、美見は僕の前の席に行儀よく座っていた。ひよりは別の友達に会いに行ったようで教室にはいない。教壇に戻って騒ぎ出した大悟は、僕と目が合うと、気まずそうに、しかし彼一流のおどけと親しみ安さとを込めて、ぺこりと頭を下げる。ああ、僕はこの大悟とも、一年の時はわりと仲良くしていたんだったっけ? 大悟が、そんな過去を嘘ということにしてしまわないためだけにも、律儀に僕の方へと身を乗り出そうとしたその時、教室のドアが開いて、何食わぬ顔をした久保がやって来たので、思わず僕は片手をあげながら、おい久保、と呼びかけてしまった。久保は不思議そうな顔をして、つかつかと僕の元に歩み寄ると、僕の眼の中をじっと見てきて、それからこんな紙一枚を、ほら、と言って差し出した。

 *

 君たちはまだ知らないのか

 君たちはまだ忘れているのか

 君たちはまだ探しているのか

 君たちはまだ読んでいないのか

 君たちはまだ乗り込んでいないのか

 *

「どうしたの? これ、お前が書いたの?」

 手紙を返してやると、久保はなんだというような顔で詩に目を落として、読むのにうんざりするほど長い時間をかけた挙句に、やっぱりひらめきのないただ難しそうな顔をして僕を見返してきたかと思うと、その顔に、え? というような表情を浮かべて、もう僕が訊いたことなどなんだったのか忘れてしまっているといったようなのだ、しかし僕が、いいから先にどうぞ、と目で合図を送り続けていると、しっかりともったいぶってからようやく口を開いた。

「違うよ」

 僕にはその遅さが我慢ならない、欲しいと言われなければあげないわりに、ねだられてもあげすぎることは渋るという久保のその対応の仕方は、何重にも閉ざされた鍵のように鬱陶しくて、その割に、中になにか気に効いたものが入っていた例もないのだから、ついため息をついて蹴散らしてみたくもなってしまう。

「久保、そんで、それは、一体、なんなのさ?」

「そんなに気に入ったかよ」

「ああ気に入った気に入った、今までの中だと一番いいくらいだよ、昨日書いたの? お前が書いたんだね?」

 久保は顔をしかめる、僕はもう、かわいらしくもなく面倒で嫌になる。どうしてこの久保君を、僕は席に召喚したのや?

「おれじゃないよ、おれのいとこだよ。前に言ってた、理玖って奴が書いた」

「理玖! なんだっけ、あの、お前が見せてくれた、なんだかいう短編の作者の?」

「そうだよ、そいつから、お前に渡してくれって」

「どういうこと? 理玖はおれのことを知ってるの? お前もしかして、おれの書いたのを理玖に見せた?」

「見せたことはないよ」

「じゃあ、どうして?」

「話したんだよ、お前のこと、学校一般の流れで」

「ああ、それで。ねぇ、ペンを貸してよ」

「ペン?」

「持ってないの?」

「どうして?」

「貸してよ」

 久保は教室の端にある自席を振り返る。その労働の重さを悔しく思ったのか、鈍重な声でねぇと前の席の美見に声をかけ「書くものない?」と回りくどいことを聞いた。美見は不思議そうに振り返ると、久保、僕、机の上に裏返された白紙のポスターの上へと視線を巡らせてから、たくらみがあるようににっこりと笑って、

「なにを書くの?」

「書いてみなけりゃわかんないよ」

 僕がわざとわからないように言うので、美見は驚かされたようにかわいらしく笑ってから「いいけど」とペンを紙の上に置いた。椅子を反対向けて机を囲むと、夕食の出てくるのを待つ子供のように書かれるのを待つのだ。僕もまたフォークを握り締める子供のようにペンを掴むと、大きく脇を開けて白紙と対峙し……

「うぅーん、君たちはまだ知らないのか、君たちはまだ……」

 そう繰り返しているうちに、ペンは新しい波を解きほぐす舟首のように……

 *

 あんたらが何を知っているというのか?

 僕が知らないということを、知っているのならどのように知っているというのか?

 ああ、思い出の中にあんたらがいるというのか?

 それはこのようにも立ち現われて来るものなのか?

 どこに乗り込むべき舟があるのか?

 それは本当の意味で新しい波と出会うのか?

 新しいということが、そこではどのような響きを立てるのか?

 *

 僕が書いたのはそんな詩だった。美見は「わからなぁい」と言って席を立つと、パタパタと教室を出て行った。僕は紙を四つ折りにすると、クシャッと丸めてポケットの中に入れてから、これが久保のものだったことを思い出した。

「久保、それじゃあこれを理玖に返してやってよ、ちゃんとおれが書いたんだってことを言ってね?」

 久保は後ろめたそうに机に視線を落とせども、僕の差し出す手紙を受取ろうとはしないのだ、どうしたの? といくら訊いても黙ったままでいるかと思えば、突然覚悟を決めたように顔を起こして、

「葉子、それじゃあ来いよ」

 そして真っすぐで、遅い確信に貫かれたような眼で、僕を見返して来たのだ、なんだよと僕が思わず笑い出しても、久保の目は土星の渦巻きのようにもグネグネとどこも見ていないようなのだ。ふん、お前がおれに見せれるどんなビジョンがあるというのさ? だけど僕にはそれはわからない、わからないのだから久保の考えを読もうなどという考えは捨てて、ああ例え久保がつれしょんに僕を誘ったのだとしてもそれでもかまわないからお前にもどこまでもおれを連れ去るつもりでいる奴がいるならついて行ってやろうかな? なんて、さっそく詩の効能があったなんてそんなバカなことを言うつもりはないけど、僕はそのときそんな風に思ったのだ。

「よし、いいぜ、それじゃあ行こう!」

教室を出ると、廊下に並んであるロッカーに寄りかかって美見とひよりがくすぐり合うように話していた。二人は僕らを見るとニンマリといたずらっぽく笑って、ひらひら手を振った。ひよりは眼だけというように笑いながら視線で僕らを追いかけ、蝶が飛ぶ向きに頓着しないように、また美見の方にじゃれたような眼を向けるのだった。僕らがこのまま学校を出て行くことを悟ったのか、美見がバイバァイとふざけたように言うと、久保はたしなめるように首を素早く振って、それでコミュニケーションが成立したような気にもなるのだ。僕が補完的に微笑むと、久保はイクゾと言うように僕の肩を叩いて……僕らはそして、階段を降り、廊下を渡って、昇降口で靴を履き換え、駐輪場の傍まで……すると二階の窓ガラスを開けて下を覗き込んでいたひよりと美見は、今ようやく目の前を通過した僕らの行動の答えを知ったと言うように少しはしゃぎながら、別にこちらにも聞こえている朝礼の時間を告げるチャイムの音を必死に伝えようとしてくる。始まるよ! と、僕はふっと笑いながら二人から視線をそらすと、風を読む鳥のようにじっとして動かない久保と向かい合う。

「どうしたんだよ、久保、行かないの?」

 すると魔法が溶けたように久保は、びくんと震える、行こう、とぼそっと呟いてからは振り返りもしないで僕を連れて行く。



学校を出てしばらく歩いていても、久保は一向に口を割ろうとはしなかった。

「おい久保、いくら口下手なお前でも、もう少し言ってくれないとわからないよ、お前はきっとおれを、お前の理玖のところに連れて行ってくれるんだね? それなら、おれには願ったりかなったりなわけだけれど、少しお前の考えも聞いてみたいよ、お前はどうしてそんな気になったわけ?」

 久保はじろりと遅い眼で僕を見つめる、それはたしなめるというよりは、覗き込むようなそれであり、考えるというよりは、動物がただそうしているというようだった。僕たちは坂道を下って、駅前の大通りまで出た。車が走り交わすのに翻弄され、久保は首をあちこちにやり、タクシーを見つけると、片手を力なく持ち上げながら、よろよろと車道に飛び出した。タクシーが減速しないのに合わせて久保の足は加速し、ついに車道に飛び出すと、久保の懐に飛び込む犬のようにタクシーは止まった。運転手は僕ら二人が学生服を着ているのに気づくと、怪訝そうに目を細くした。久保はすぐに回り込んで、運転手の降ろした窓越しに、こいつを、どこどこまで、と携帯を見せながら指示を出したのだ。そして僕を車の奥へ詰め込んだ。

「お前は? 来ないの?」

 久保はそれを無視して、あくまでも案内人という体なのだ。

「降りたら目の前の赤い倉庫の脇道の奥に、古い家があるから、そこへ。多分、制服を見りゃそれだけでわかると思うから」

「つれないねぇ、久保、まぁ別にいいけど、そんなに学校に戻りたい? まぁいいや、そうだ、金は? おれは持ってないよ」

 久保は車内に腕を伸ばして、僕に黒い革の折り畳み財布を手渡す。

「これで払え。使ったら理玖に返して」

「ふーん、これが理玖のなんだ」

「いいや、お爺ちゃんの」

「ふぅん、自由に使っていいわけ?」

「カードが入ってるだろ? 赤いカード」

「ふんふん」

「それで払えよ」

「ふぅむ、それじゃあ。お前はほんとに来ないんだね?」

「おう」

「んじゃあまた学校で。おれは、保健室へでも行ったと伝えといてよ、多分、ひよりたちがそういうことにしてくれてるかもしれないけど」

「わかった」

「お前は、脅されでもしたの? おれをこんな風にして、これが生贄だってことはないよね?」

「ないよ」

「お前は、おれとその理玖ってお前のいとこのために働いてるんだね?」

「そうだよ」

「ふん、あんたがおれにしてくれた最初のことだ、お前にどんな魂胆があろうと、こっちにゃ渡りに船だ」

「じゃあな」

「ああ、今日もお前は素っ気ないねぇ、なんというか、踏み込んでこないというか、どうしてあんたはそんなに、おれが傷つけるに違いない、と思うのか、そんでそんなに傷つくことを恐れていては……」

「知らねぇよ、ドアを、早く」

「ああはいはい、お前がどういうつもりなのか、それだけを知りたかったよ、いいや、でもいいや、理玖を信じてやろう、理玖とお前を、お前をこんなに従わせるほどの用があるわけだ、用と説得力が、その理玖って奴には……ああ、どんな顔してたっけなぁ、ネットで見たのじゃ、作家だって? どうなるんだろう……」

「じゃあな」

「理玖と上手くいかなかったら、学校に戻るよ、そのときはどうせお前と話したいだろうから、もしも仲良くなれたら、お前も来なよ、放課後にでも……まあいいや、お前の好きにしな!」

 *

退屈な国道の道をずっと進んでから、ふと一本の、それにしても田んぼのずっと続く間の真っすぐに伸びた小道に入り、ずっとずっとその真っすぐな道を行くと、ようやく集落が現れる。低い家並みと、消防団の抱えるグラウンドのその奥には、ところどころに海が見える。集落に入り、村の一本道をぐねぐねと行くと、ついに視界が開け、そこには赤さびた巨大な倉庫がある。その手間に、黒の軽自動車が一台止められてあった。そのお尻に頭を着けてタクシーが止まると、僕は久保に言われた通りカードで支払いを済ませた。それにしても、僕が住んでいるのよりももっとずっと田舎で、昼間でも静かすぎて、波の音まで聞こえてくるほどなのだ。辺りを見回していると、倉庫の脇の小道から、ひとりの女性が歩いて来た。煙草を口に加えた、長い髪の、細いデニムに、こんな季節にもうダウンジャケットを羽織った、とても大きな目をした女性が、僕に気が付くと、ピントを合わせるようにじっとこちらを見つめながら、老爺が小さな本に目を凝らせるような、こんな日常的な無意識というような仕草で髪をかき上げて、はぁと煙草をふかすと、びっくりするほど大きな目でじっと僕を見つめてくる。しかしそれは、よく見ると鋭くも怖くもないもので、優しくはなくとも温かく包み込むような眼差しだったのだ。女の人はにっこりと笑いながら、

「葉子君?」

 そう言うので、

「まさか、理玖なの?」

 するとその女の人はあははと笑って、

「私は恵美だよ。理玖なら、入ってすぐの家にいるよ。久保君の友達? だよね?」

「ああ、はい、葉子です」

「待ってたよ、朝から、ちゃんと来てくれるかなあって」

「そうですか」

「遠かった?」

「少し」

「家でゆっくりしていってね。私は、ちょうど散歩に行くところだったんだけど、家までの道は大丈夫?」

「あの小道を回って?」

「そう、すぐそこが家」

「わかりました」

「それじゃ」

「散歩って、海にでも?」

 女の人は首をすくめて、うーんと悩むように目を泳がせてから、

「海沿いに、一軒だけお店があるの、そこに。詳しくは理玖が色々教えてくれるよ、じゃあ、またね。理玖が先ずは二人にしろってうるさいんだよ」

 恵美は困ったように笑うと、あとは一度も振り返らないで海の方に歩いて行った。僕はすぐに、恵美がやってきた道を辿った。すると倉庫の裏側に出ることができた。そこは庭になっていて、荒れ果てた畑と、離れ屋がひとつ、そして家は正面にある。

 *

 ドアを開けると理玖はすぐそこに、目の前の、薄暗がりの階段の中段のあたりに、手でにやけ顔を覆い隠しながら蹲っていた。その手の隙間からにやにやと僕を窺い見ると、誰に言うともなく吐き捨てるように、やぁ、と一言だけ振り絞るように言ってから、記憶を失くしたように茫然としていたかと思うと、何事もなかったように立ち上がって、目の前の僕のことなどまるで気にしていないような素振りで、階段を降りてきて、襖もすべて開け放してある家の中を、居間の方へと横切って行ったのだ。

「やぁ。葉子。こっちだよ」

 理玖の肩は、ひくひくと揺れていた。理玖には、僕へのほんのサプライズのために玄関まで出向いたというのに、それが自分の意欲の最後の一押しが足りなかったせいでもう信じられないくらいに不発に終わってしまったというのが、どうしようもなく面白く思えたのだ。僕には初め、理玖の震えの正体などわからなかったけれど、理玖の小説ならふたつ読んだことがあったので、ああ、僕は理玖がすることならなんであれ、受け入れる準備が出来ていた。静かに靴を脱いで、理玖の後に従ったのだ。長テーブルが真ん中に置かれただけのだだっ広い畳の部屋の奥に、テレビやソファなどの簡単な調度の置かれた居間があり、理玖はテレビの前の畳に胡坐をかいて座っていた。僕はソファではなくその前の床に腰を下ろした。すると理玖は立ち上がって、ソファの背の引っ付いているところの引き戸を重そうにこじ開けると、そこからキッチンに入って、僕に、飲み物は? と訊ねた。その頃には理玖の声は、もう結構理玖本来の子供が言うように弾んだ調子のものに戻っていた。

「なんでもいいよ!」

 理玖が遠かったので、僕は大声で言わなくちゃならなかった。

「酒でも?」

「おれは、あんまり慣れてないけど」

「じゃあ、これだ」

 そして部屋に戻ってきた理玖は、小さなテーブルの上にワインボトルと、それから度数の低い缶酎ハイと、ゼロカロリーのコーラを置いた。テーブルにあったのは、他に灰皿と目薬とテレビのリモコンと綿棒の容器と……理玖はパジャマ姿だった。キッチンとは反対側の襖が少し開いていて、布団が捲れている、人が今起きたばかりというようなベッドが見えた。理玖はボトルごとワインを口に含み、それから煙草に火をつけた。しばらくするとようやくその顔には生気が戻ってきたというか、表情が生まれ始めたようだった。

「今日おれが来るってことは知ってたんですか?」

「おれが? 知ってたよ、久保に聞かなかった?」

「変な紙を見せられましたけど、おれから探らなけりゃ、それ以外にはなんとも」

 理玖はすると愉快そうに笑って、

「あはは、それでいいんだよ、それでお前は来たでしょ。おれは、今日お前が来ることは知ってたよ」

「さっき、恵美さんって人とすれ違った」

「喋った?」

「ほんの一言二言だけど」

「あとで恵美とも話してよ。おれたちのために今日はこんな早くから家を開けてもらってるんだよ、お前の話は、おれだけじゃなく恵美も興味津々なんだから」

「おれの話? 久保がなにか言ってましたか?」

「葉子という退屈しいな奴がいるって、成績優秀で、かわいらしい彼女もいるわりに、何に関心があるのかもわからない、ふらっと教室を出てくと、そのままどこかに行っちゃうような奴で、何のことだってどうでもいいのかと思えば、でもそいつはおれの、おれのじゃないよ、久保のね、久保の書いた小説をやけに読みたがる、というか、おれに小説を書かせたがるのだ、自分の馬を走らせるように、次も頑張れ、といった具合にね、おれのそんなものは、いくらでも読みたがるくせに、自分の方では何を考えているのか一向に教えたがらない。そんなに本を読んでいて、自分では一行も書く気にならないのか、とおれが問い詰めれば、ようやく開いた口では、いいや、おれも小説を書いてる、と言えども、葉子はそれ以上何も言いはしなかったし、もちろん小説も読ませてくれなかった、おれのは人に読ませるようなものじゃないとかなんか言い訳をして。それじゃあ葉子の奴はいったいどんな小説を、どんな風に書いているというのだろう、人に見せられない小説? それはどうして? 葉子のそれは真剣なものなんだろうか? それともただの趣味なんだろうか? ただの趣味だとしたら、その趣味は趣味として本気のものなんだろうか? あいつがなにを考えていて、何に対してどんな風に真剣なのか、おれにはわからないけど、でもあいつのことを考えていると、おれはいつも理玖のことを思い浮かべる、どことなく葉子のぼんやりとした表情の輪郭は、理玖のと似ている気がする、それは決まって何か考え事をしているために、他のどんなものの声も聞こえず、一人どこかの世界に行ってしまってる、みんなのよく知っている理玖ではない理玖の方に、どことなく似ている気がするのだ……とまあこんなことを。そうだ! 葉子があんたの小説を読んだときには、はんと笑いながら突き返して、それが、よかったのか、悪かったのかは言わなかったけど、葉子はそのしばらく後に今度はむこうから、他に作品はないわけ? とか訊いて来た。おれがもうひとつだけある作品を学校に持って来てやると、葉子はありがとうと言って、その雑誌を抱えて教室を出て行った……弁解の余地は?」

「ああ、ああ、あんまり恥ずかしいんで、ほんとは全部でたらめだって言ってしまいたいくらいだけど、でもおれは、あんたの小説だけは、一度読んだことがありますよ」

「一度?」

「二つだけ」

「飲めよ。不真面目なのは嫌?」

「真面目も、不真面目も、嫌ですよ」

 それで僕は、理玖の口車に乗せられて、ワインを飲んだ。理玖に手渡されるまま煙草を咥え、火をつけてもらった。一度目はむせて、それから注意深く吸っていると、理玖が深呼吸の真似をするので、習って僕もそうすると、無茶苦茶にむせた。理玖は手を叩いて笑いながら、いい顔だ、と喜んだ。

「これ、初めての人が吸うには、めちゃめちゃ重いやつなんだよ」

「ああそう」

 僕は相変わらずチューチューとやる。それを見つめながら理玖は、煙の向こうに僕を迎え入れるようなそんな薄ら笑みを浮かべているのだ。

「どう? 葉子、お前にはこんなのも退屈?」

「久保になにを吹き込まれたのかは知らないけど、おれにいいことを教えてやろっていうのなら、おれは素直に教わる方ですよ、あんたがおれを変えようなんてしなくとも」

「そう? それじゃあ、久保がそう見たところの、お前の退屈ってのはなに?」

「おれの退屈? ああ、聞きたいのは、退屈ってなに? って言いたいほどで、ねぇ、まとまらない言葉でいいなら」

 理玖はすると、どうぞ、と言うように目で合図をしてから、ひとつの音楽に耳を澄ませるようにじっと腰を据えたのだ。

「ああ、もちろんそれは簡単なことじゃない。それを言ってしまうのは。でもまあ、おれは、そうだななあ、おれが退屈してるのだとしたら、いいや、おれは本当は、それが本当に確かにあるものなんだったら、おれは決してそれに退屈したりなんかしませんよ。現におれは、みんながあんなに退屈してやまない散歩なら、ほんとに何時間していたって構わないんだから、どんなに退屈と思われてる本でも、読むのも苦ではないんだから。だからおれは退屈しいなんてもんじゃないですよ、人間嫌いなんてものとも違う、おれはみんなのことが好きですよ、いいところも、たくさん知ってる、だけどおれが時々それにうんざりして見せるのだとしたら、そこには、なんて言うか、ああ、散歩程度にも本当のものというか、本当に、そのものがある、や、本当にその人がいる、と思えるようなものがなにもないからで、あああれは、あの人たちの物語は、それはそれは退屈なんです、おれはよく飽きないなあというか、よく苦じゃないなあと言った風にも思えて、だって、それはとても、生きるというにはあんまり限定され過ぎているというか、あんまり閉じすぎているものだから、ああおれにはだから散歩が向いているんですよ、それはどんな風にも定着しないものだ、それはどんな風に意味を見出されるものでもないし、おれはみんなとでも例えば教室で会うよりも道端でばったりと会う方が好きなんです、コンビニや、公園なんかで友達と会うようなことがあると、その子のいいところというか、その子の別の見方のようなものが、いくらでも思い浮かぶというか、とにかくその子のことをようやくひとりの人間と思えるってくらい、だからつまり、おれが退屈なのは、もしそれがそうなら、おれはそれが好きじゃないからそれが退屈なんではない、おれはそれが好きだから、教科書の一つの読み方なんかには飽きちゃった、というだけ。だからおれは、いつでもどんなものでも、それが退屈させない強度でおれと出会うのなら、大歓迎ですよ、それが本当のものと出会えるのなら、おれはどんな船にでも乗り込むさ」

 ああ、信じられないことだけど、そのころ僕の頭の中では、さっき飲んだ一口ばかりの安ワインがグルグルと悪さをし始めていたのだった。そうだ! と僕は思い出した、理玖からもらった手紙を、僕はポケットの中をまさぐる。

「ほら、これ」

 理玖はなんだと前傾姿勢を取った。

「君たちはまだ知らないのか

 君たちはまだ忘れているのか

 君たちはまだ探しているのか

 君たちはまだ読んでいないのか

 君たちはまだ乗り込んでいないのか

 理玖がおれに渡した詩だよ、おれは結構いいと思ったなあ、本当は、この声のトーンだけで、おれは作者があんただってことに気づいたんだよ、君たちはまだ……んで、この詩は表にだけ書かれたのではない、すべての生命がそうであるように、当然言葉が言われてそれだけということはないのであって、当然、すべての詩には続きがある、というよりすべての詩はまだ終わってはいない……曰く……

 あんたらが何を知っているというのか?

 僕が知らないということを、知っているのならどのように知っているというのか?

 ああ、思い出の中にあんたらがいるというのか?

 それはこのようにも立ち現われて来るものなのか?

 どこに乗り込むべき舟があるのか?

 それは本当の意味で新しい波と出会うのか?

 新しいということが、そこではどのような響きを立てるのか?

 ああ、だけどこれは、あんたのよりもまだ少し青臭いね、それほどいいものではないのかもしれない、今はまだね、この詩は、やがてよくなるさ、まあ聞きなね……

 でも、僕はすべての波と出会う船となろう

 でも、僕はその船首ですべてと出会おう

 確信は益々波と同化するだろう

 それは、出会っては崩れるようなものだろう

 それは、一度も固定されない運動だろう

 船は、すべての出来事に洗われることになるだろう

 僕は益々擦りきれて

 その度に僕であったことをもう思い出せないだろう

 僕はやがて壊れるだろう、やさしく波にさらわれるだろう、骨にもなるだろう、波とわからなくなるだろう

 すべての波を盛り上げるもの、それが僕だろう

 僕というものを、僕は非人称となるまで磨き上げる

 僕は、波と侵し合うまで、僕を大切に運んでやる

 大切にすべての出会いと出会う……

 *

 ああ、僕は見る

 数限りのない言葉の沈黙を、死を

 神へと高まることのなかった無数の波の崩れ去るのを

 天へとかけられたが、それっきりだった梯子を

 ああ、僕は口をあけて待つ

 無言の梯子から天使の降り来たるのを

 天が雨を降らせるように

 言葉が口腔を潤す時を

 絶対時間は無限に僕を含んでいる

 沈黙、僕は詩を書くよりも、詩となる方を選ぶだろう

 僕は、どうしたって時に打ち捨てられはしないのだから

 いったんは、こんなところかなあ、おれが口を閉ざすのも、単純に、今日はもうこれまでだという太陽の眠けのサイクルというだけのことで、結局それは、一時休止ということでしかないわけだけど、疲れというのには、どうにも対処できないらしいからね、本当は一時間でも二時間でもぺちゃくちゃと、一生でも二生でも、そうしていたいんだけど、もしもおれたちが本当にそうしたいなら、アルコールよりもカフェインよりもドラッグよりももっと身体の中を、それが生きること自体を詩に変えてやった方が早そうだ、単純に生きることで詩を書くことや、単純に生きることが詩であるというようにね、もちろんこんなのは、意見というものは、いつの場合でもおれのものじゃない、大切なのは、なにではなくてどのように、あるいは、どの文脈で、でもなくて、もっと、そうだなあ、どのくらい、本気で? さらに、本気さに対しても本気で? ということではないかな……そしてその、本気さはどんな汗をかくのか? これも重要に違いない、その汗の、味香り、そして透明の、固さ柔らかさ……はい、理玖、これがあんたの書いた詩だよ、もうクラクラして眠いからあんたと話す代わりに一人で答えるのだとすれば、おれは詩を読むのでも書くのでもなく、このように創り出したいんだよ、今やったように、読むのでも書くのでもなく……おれはただあるということをありつづけていられたら! いつでもそうできればいいんだけどなあ、はい、ぞうぞ、どうもありがとう……」

 *

 僕はソファの中で目を覚ました。すぐに理玖は気がついて、おはようと言って僕にノートを渡した。そこには今朝理玖が送った詩や、さっき僕の話したことまでも、すべて理玖の手によって清書されていた。そしてその続きには、もっと乱暴な字で、理玖の書いたのが……

 *

 僕は精神的に詩人を名乗る、君たちの期待の乗り込む船になるために空想でもなく巨大化する、というよりも単に拡大解釈を受け入れる、君が見た君までも、やっぱりどうしようもなくこの僕なのだ、例え腑に落ちなくとも、怖くても僕は君たちのリアリティにまでまたがる、全面的にそれを支持する。

 *

世に余る模型をジャックする、家、棺、車、クローゼット、衣服、電子レンジ、ぬいぐるみ、等々、言葉の中に入り込み、夢に代わって放送を垂れ流す、まさしくそれは垂れ流される、辞書を埋め尽くしてしまう、それは無意味さのオブジェを意味に支配されないために、ではなくて意味として歩むには遅すぎるために。



君が本を開く時、言葉はたんに目の上を吹く風と思ってはいないか? だがその風がもしも本当に何かを運んでいるとしたら? 君が空気と思っているものが本当は毒なのだとしたら? 知識が君を蝕むのだとしたら? 宇宙の先端には、まさにこのような風が吹くのだとすれば? どうして君たちの肌の出会う、この時こそが宇宙の端ではないと言えるのか?



時は世界を四次元的に解釈するものなのだとしたら? 認識の認識が絶えず次元を更新していくものなのだとしたら? 君が無視したものは君が無視してはいけないものだったのだとしたら? 取り返しのつかないということにさえ、君は取り返しがつくかもしれないと思っている。



僕は抗議する、君たちのその愚鈍さを、悪くなることを恐れて病気をさらに悪くさせてしまう馬鹿さを、というよりもその諦観を、衰弱を極めた君たちの目に、それじゃあ僕の言葉はどのように届くのか? 僕の差し出された舌はその口内で噛み切られることにもなるか? ドラマチックな終焉? 望んではいないさ、噛み砕きなさい、咀嚼し、飲み下しなさい、吸収し、糧としなさい、僕がそんな風に言うとでも? 意味たちは絶えてまだ本当のものになど出会ったことがないのではないか? それで君たちは出会うとはどう言うことなのかまだ知らないとしたら? 知っているということさえ君たちを訪れたことがないとしたら?



どうして君たちは、なにもかも諦めたくせに、諦めることを諦めることに関してはこんなに認めたがらないのか? 君たちは、本当は何かを期待しているのではないか? 君たちは、それに気づいてさえいなかったのではないか? 君たちは、最後の時までそれを残しておこうというつもりか? では、この僕が、本当に、君たちのための、最後の時、そのものではないと、どうして思えるのか? 君たちを救いにきた神が僕であると、どうして信じられないか? いいや神は僕ではなく僕の近さだ、信じろ、君たちは期待を腐らせるものだ、君たちに始まりはなかった、終わりもない、時は精算の時を待っているのではない。



ただ君たちの遠く仮定した無限こそが、その安易な虚無の裏返しに過ぎない楽天性の根拠なのだ、どうして時を裏返してそこに落書きを落とす? 君たちは世界を読もうともしないのだ、君たちには、ついぞ何が正解かはっきりとした答えが得られなかったので、君たちはすべてを偽物だと思うことにした、どうしてその反対ではいけなかったのか? すべてが悪なら、惜しむな、すべてを与えろ、真実を語るものの声を疑うべきではない、疑う者はみな知っているべきなのだ、本当にそれに近いところでは、真実の鐘がどのように鳴るのかを、その音色を、仮定するのではなく信じべきなのだ、例え言葉が愚かでも、愚かさ以外にどんな味を知っているのか? 君たちのその味わったことのない舌が? 



君たちは僕にかけてみなくてはならない、君たちがそれを理解するよりも一歩速く、まず僕を信じてみなければならない、そうしなければ、君たちが君たち自身の期待を、その哀れな棺桶から、救ってやることはできない、君たちは手を伸ばすべきなのだ、それを時の吟味にあずけるわけにはいかない。



時が本当に何かを暴き出せると? 時が、最終的な判断を下したことが、かつてあっただろうか? まだ、君たちは、一体何に縋ろうというのか、どうして時の永遠に言われぬ真実の方が僕よりも期待するにふさわしいなどと思えるのだろうか? 君たちはそれが欲しいのだ、それが、期待しなくてもいいだけの根拠が。



真理など捨ててしまえ、あんまり結論を急ぎ過ぎないことだ、君はかの作家の文章については多少とも覚えがあるようだが、その表情には? 声には? 筆跡に? インクの染みに! ああ君が本当に書くようにそれを読めたら! 遅くやることだ、もしも死に君が奪い去られたくなければ、半身分先を走る君の体に、君が追い付くなどというまぼろしは捨ててしまうことだ、文章は君に教えるのではなく、寄り添うものなのだから、ああだから僕がそうするように君も僕にそうするべきなのだ、いったい、僕の何が君の中で詐欺的に響く? 僕の何が君の何を損させるように思わせる? 君に損できる何かがあるというのか? いつまでも待つばかりの君に、君は僕に預けるべきなのだ、君の最も素晴らしい部分を、一番残しておきたい部分をこそを。



いいや、今吹く風が、すでに君からすべてを奪い去ったとしたら? 君には従うか従わないかの選択の余地さえないのだとしたら? 君か文章の、もうどちらがどちらということもできないほど、君がその深くまで迷い込んでしまったのだとしたら? 今すぐ君は本を閉じるか? 君はそうしはしない、君は何を惜しんでいる? 惜しむことさえ惜しんだ君が? 君は疲れただけなんだ、数々の裏切り、君は怖いのさ、いつ君は恐れに屈服してしまったのか? ああ君は僕を見捨てるのか? その疲れが僕よりもましか? 

* 

ああだけど、君は僕の手を取るのだ、未来で? そうに決まってる、君は、僕がいつか手を伸ばしたとき、そのとき君は僕の手を取ってくれたんだった! ああ、本当に新しいということは、すべてを絶対に変えてしまう、一が足されれば、どんな法則も最初からやり直す以外に生き残るすべを持たないのだ、そして新しいということは、彼が何に似ている似ていないどうこうではなく、彼が真実に彼らしいということなのだ、彼もまた一として世界に産み落とされたということなのだ。



理玖は寝ぼけ眼の僕がノートを読むのを、ニコニコと待っていた。そして甲斐甲斐しく酒やたばこを差し出してくれるので、つい僕の手はまたそこへ伸びた。読み終わると、僕はもう寝て回復した分の体力を使い果たしていて、天井に向けてぼーっと煙草を吹かすくらいしかできなくなってしまっていた。それでも理玖は、ちょうど酔いの気持ちのいいステージに入ったのか、赤らんだ顔で陽気にぺちゃくちゃとやっていた。それにしても、日の少し落ちかかったこの薄暗がりの部屋で、こうしてじっと、一方的な視認者として理玖のことを見ていると、その顔の端正さに、今更ながら驚かされるくらいだった。理玖のは彫刻のように整った、綺麗な顔立ちで、その四肢の細長さも、思わず綺麗だなと思ってしまうくらい。顎と、鼻の舌には、髭がうっすらと生えていた。理玖は何歳くらいなんだろう? それでどんな風に生活してるんだろう?

「おい葉子、聞いてる? また眠いの?」

「いいや、大丈夫だよ、聞いてなかったけど、なに?」

「だから、いい? 葉子、何度も言うのは嫌だよ、おれたちでさ、これからこんな風に詩を書いて、本を出さない? いいや、おれたち? ああおれは、別にこれを書いたのはただ思いついてのことなんだけどさ、葉子、お前は、どう? 一つや二つ、自分の本を持ちたいだろ? みんなにそれを読ませてやりたくない?」

「本? 勿論、賛成だけど。おれはおれのを試させてやりたいよ、いつでも」

「だけど、なんだよ?」

「あはは、悪く思わないでね、ただ、作家様がやけに興奮してやがる、と思って」

「はん、何とも思わないさ、あのね葉子、おれはなにも名声の話をしてるんじゃないんだよ、おれはただ、ああ、もしもお前がいいものを書くのなら、それを手伝わないなんて嘘だと思うだけで、ああおれはただお前に一冊の本を、プレゼントしたいわけだよ、詩にもあったように、船を、雑誌を! お前が自由に書ける!」

「話が変わってるよ、本? 雑誌なの?」

「うーん、どうだろうなあ、実際、本の方が簡単だ、雑誌を一から作るとなると、残念ながらおれの脳みそは実際的な方には働かないのでね、金も余計にかかるだろうし、ひとまず本にしよう、人の雑誌に乗せてもらうのでもいいかもしれないけど、ああそれは、おれは知ってるからこんなことを言うんだけどね、あんまりすぐに、その月の終わりと共に忘れられる一夜の夢というようなものだったし、あとには何も残りはしない、思い出以外にはね、だから一冊の本だよ、誰にそこにあることを無視できやしない、本だ」

「つくれるの? 本なんて」

「簡単だよ、知り合いに編集が一人いるんでね、そいつのつてをたどれば、ちょっと金を払えば、それだけ分、今すぐにでも刷ってくれるって会社の一つや二つ」

「ちょっとの金?」

「ああ、百万や、それよりもっと、多ければ多いほど、だよ」

「一応だけど、おれには出せる金なんて……」

「ああ、当然、それはおれに任せなよ、たくさん売ればいいんだからね、いくら金がかかろうと、そうなればなにも関係なくなるんだから」

「ふーん、一気に夢物語じみてきた、だいたい、作品もまだないんだよ」

「葉子、これまでになにか書いたものは?」

「うーん、そりゃあ、まあ、あるけど、でもおれの方は、やっぱり白紙だよ、おれのはまだ頭の中にだけ」

「よし、それじゃあ、今日からそれを書けよ、ここに泊まって、おれが金を稼ぐから、出費があれば言って、お前はしたいようにしてればいいから。ただし書けよ、空想や、身体だけじゃなくて」

「おれは生きてるように書きたいよ、書くように生きていたい、だからあんたが思ってるより、おれの腰は重い物かもよ? おれが筆を取るってことは……」

「いいよ、葉子は書きたいように書けばいい、ただしその形式は見つける必要があるだろうけど、例えば、日記や、詩作、アフォリズム、あるいは無限に続きうる小説、つまり極めて人生的な、セリーヌやヘンリー・ミラーの、あるいはカフカの、あるいはプルーストの、あるいはベケットの……」

「よし、よし、わかってるよ、あのね、おれは書かないなんていつ言った? 案外、おれはあんたに会うためにもう何千行もの言葉を消してきたのかもしれない、おれのノートに言葉が書きつけられていないと? 本! それを一番夢見て来たのが、このおれなんだからね、理玖、だったら、おれを作家にしてくれるの?」

「お前は作家だよ、誰もなにも言いやしないよ」

「そうだね、でもその前に……」

 僕は自分の携帯電話が散々鳴いていることに、もうずいぶん前から気づいていた。母親からの電話だった。

「出てもいい?」

「どうぞ」

「もしもし? ああ、おれのことは、心配しないで、今はね、友達の家、どうしてもって言って聞かないから、今日は学校を休んでさ、そいつの家に、ね、直ぐに帰るよ、ごめんね言わなくて、うん、電話が? 学校から? おれはてっきり、久保かひよりがそれを伝えてくれてるのかと思って、え? ひよりが? そう、それじゃあなにを心配してたの? 帰りが遅いから? ああ、もうこんな時間、ちょっと遠いんだよ、多分、帰るのに、今からだと、二時間くらい……おれは泊まって、明日このまま学校に行こうかと思ってたんだけど、それじゃあダメ? わかったよ、じゃあね、はぁい……」

 電話を切るなり、僕も理玖も笑ってしまった。それから、僕は理玖がどう僕を責めるのかと、気が気でなかった。

「いい息子だねぇ、お前みたいなのが、うん、うん、いいことだよ、よく務めあげてるねぇ」

「そうだよ、だからわかったでしょ、今日は、おれはあんたのとこに泊まりたいけど、あんなにもおれの身体は、自由に詩作するには向いてないってわけさ。だからいったん家に帰って、色々話してくるよ、勿論下手なことは言わないけどね、いいように、言うさ、幸いうちの人は権威には弱い方だから、あんたが推薦文の一つや二つでも書けば、あとはおれがネットからあんたの名前を探してきて、それでおれは家庭では立派な詩人さ。それとも雑誌かなにか持ってない? それを見せられりゃ早いんだけど」

「うーん、ないかなあ、多分。よし、まあ、そうしろよ、おれたちは、二時間、そんなに遠いの? 帰るのに、一時間くらい? じゃあ、一時間、大切に遊ぼう。二人で恵美のとこに行ってみない?」

「さんせー……」

 *

 それから僕たちは、恵美のいるというカフェに向かった。朝から夜の遅くまで開いている、というか一人の青年が開けているカフェで、そこがここらで唯一の遊び場というわけだった。理玖は、毎晩そこに飲みに行くのだ。海沿いの道に出て、その道を五分も真っすぐに行けば、スポーツ球場の手前にテントのようなものが張ってある敷地があり、その奥に隠れたように、その店はあった。光も漏れていなくて、傍目にはやってるのかどうかもわからない、こじんまりとした店だった。ドアを開けると、意外なほど店は音楽と若者であふれていて、僕を連れて理玖は迷わずにカウンターの奥に詰めると、一番奥のところには恵美がいた。恵美はダウンジャケットを椅子に掛け、薄いTシャツ一枚という姿をしていた。僕らに気が付くと、ヘッドフォンを取って、ああ、と気だるげに目を大きくひん剥いた。席に着くなり、理玖はお酒と、僕に烏龍茶を注文してくれた。そしてカウンターの男に、例の詩人だよ、と僕を紹介してくれた。どうだったの? と恵美が訊ねると、理玖はにっこりと笑うだけで返事をした。恵美も微笑んで、首を小さく傾ける。

「でも、お酒はダメなんだよ、家で散々飲んだんだから、こいつのはノンアル」

 理玖は念を押すようにカウンターの青年に言った。理玖は席から振り返って、ホールの仲間らに、笑顔と、ひらひらと手とを振りまいた。それから三人でテーブルに向き直って話をした。

「そうだ、恵美、お酒を飲んだ? 葉子を家まで送ってあげて欲しいんだけど」

「朝にちょっとだけ。もう抜けたよ」

 恵美は僕たちには無関心というように大きく伸びをした。

「ごめんごめん、案外遅くなっちゃって、話がそれだけ盛りあがったんだよ」

「それならいいけど、私は、疲れた」

 そして顎でカウンターの男を指し示すと、退屈っぽく目を曇らせた。だけど、とってもいたずらっぽく。

「道夫?」

「そう。別に、話してただけだけど、緊張するんだもん、二人だけだと」

 そのときカウンターの男がテーブルに飲み物を出して、

「理玖さん、はい。それと……」

 と僕の方に疑り深い目を向けた。

「葉子っていうんだよ。葉子、こいつは道夫。この店の……なんなの、お前は」

「息子です。オーナーの。この店の」

 あはは、と理玖は笑いながら言った。

「そうだった、そうだった」

 隣から恵美が、

「ねぇ、それより帰る時間はいいの? 今日は、泊まらないんだ」

「ああ、複雑な事情があるんだよ、ね、葉子。そういや、行きはどうやってここまで来たの? 遠いでしょ?」

「ああ、そうだ、例のあんたのお爺ちゃんの、カードを預かってるんだった、これでタクシーに乗って来たんだよ、住所は久保に聞いて。はい財布」

「久保の同級生?」

 と道夫は問いかけ、僕がそうだと答えると、ああそう、と納得したようだった。理玖は財布を受け取ると、お札を適当にテーブルに置いて、

「でも今日はもう時間がないんだよ、ほんの顔見せだけ。すぐに帰さなきゃ。どう? 葉子、こんな店は」

「これだけじゃなにも判断できないよ。でも、判断じゃなくてもいいなら、いいところだと思うよ。友達も、たくさんいるの?」

「そりゃもう、見る限り」

 理玖はそう言うと、湯舟にでも浸かったように天井を仰いでぐったりと身体の力を抜いた。あー、としばらく弛緩した声で呻いていたかと思うと、勢い良く起き上がって、グラスの酒を一気に飲み干した。

「よし! それじゃあおれはここに残るけど、恵美、葉子を送ってくれる」

「いいけど、葉子君は? 忙しい? 平気?」

「おれは大丈夫ですよ、そろそろ、静かになりたいくらい、ずっと理玖とべらべらやってたんで、疲れた」

「じゃあ、行こ」

 恵美に続いて僕も立ち上がると、疲れがどっと押し寄せてきて、僕は思わずカウンターにもたれかかってしまった。恵美が僕の肩を持ってくれて、僕もそろそろ平気になり、店のドアへと歩いて行くと、途中恵美が振り返ったのがわかって、恵美は理玖に、それはそれは心から励ますように、いや元気づけるように、褒めてやるように、よかったね、というようににっこりと微笑んだのだ。理玖は照れくさそうに笑いながら手をあげ、はやく出てけよ、と言うように、ぶっきらぼうに、別れを告げた。外はもう暗かった。海からの風が吹いていて、学生服だけでは寒いくらいだった。恵美はダウンジャケットのファスナーを一番上まで上げて、ポケットに手を入れ、首を埋めて、風と戦うように歩いた。

「疲れた? 車までもうすぐだよ」

「うん、平気、だけど、ああ、やっぱり疲れた」

 そのとき、店のドアが開き、小人のような理玖が走ってやってくると、僕をちょいちょいと呼び出した。恵美は僕の背にそっと触れて、それから勝手にどうぞというようにあらぬ方を向いた。

「葉子、またすぐに来いよ、やることを終えたら、わかった? おれの方からは、久保に頼んで伝言をやるよ、状況はそれで……あんまり証拠も残すなよ?」

「証拠? なんのこと? ああ、お前の金……」

「そう、百万円!」

「理玖、それは本当に、どうにでもなるものだと思っていていいの? おれも集めるの手伝おうか?」

「いいよ、一人で集めるよ」

「でも、方法は?」

「まずはお爺ちゃんかなあ」

「ほらぁ、手段はもうそれだけ?」

「実際、クレジットを換金して……それか直接会いにでも行って、引き出す許可をいただくことにするか、大きな機材を買うっていえば、おれの家族のことだから……いや、もしもその手が無理でも、まだまだやれることはあるよ、例えば、ねぇ葉子、耳を貸して、あのね、この辺りの人らは家に鍵をかけないらしいし、それに、こんな田舎じゃ、ろくに監視カメラもついてない」

「理玖、それは本気?」

「当然。それじゃ嫌?」

「嫌か? だって? おれが? 好きにしなよ、どうでもいい、ただ、それじゃおれが少し気持ちよくないかなあ、あんたが一人でリスクを取るって言うのは、なんだか腑に落ちないし、よし、だったらおれの方でも、十万くらいだけでも集めてきてやる、最低でも十万だよ、わかった?」

「よし、じゃあまた。すぐに来いよ、一緒に詩をやろう、こっちに住めよ!」

「やることを終えたら、ね、驚くべきことに、おれはまだ高校生なんだよ」

「あはは、ほんとにそれは、ありえないことだ!」

「だね。じゃあ、少ししたら、また、おれももっと軽くなってくるよ」

「おーけー、今度は、詩と金を持って! 待ってるよ、すぐにね」

「はぁい、ばいばい」

 今度こそ僕は理玖と別れた。理玖は、そこに立ち止まって、煙草を吸いながら、ずっと同じように佇んでいるだけだったけど、多分僕らが見えなくなるまで、ずっと見送っていてくれたのだ。

「なんの話だったの? 私は聞いちゃいけなかった?」

「聞こえた?」

「少しだけ」

「なんでもないことだよ、ただ詩をやろうって」

「へぇ、いいじゃん」

 そして車のところまで戻った。僕は助手席に座った。車は暖房を十分に利かせてから走り出した。僕は、すぐにうとうととし始めてしまった。ああ、夢の中で、恵美はこんなことを言っていた。

 *

 ねぇ葉子、理玖は今日葉子と会えて本当によかったんだと思うよ、あんなに満足気な理玖は、いつもそうだと言えばそうなんだけどね、いつも道夫たちと遊んでいて楽しげなのはそうなんだけど、でも理玖に、曇りがないというか、その光の翳る瞬間が全く訪れないというのはほんとに珍しいことで、いつも呑んで騒いでから、あの人は、ぐったりして憂鬱そうに、静かにしてくれって具合なのにさ、あんなに理玖が、心の根っこから満足そうだったのは、寂しそうにしてなかったのは、初めてだったんじゃないかな? 

 理玖はこっちに来てしばらくして、久保君から葉子のことを聞いたんだよ。こんな奴が学校にいるよって、そんな程度のことだったけど、理玖には何が見えるのか、ああ、そんな奴がいるなんて、とまるで有頂天になってしまって、二言目には、そいつはおれと会うべきだよ、出来るだけ早く、そんなことを言ってるの。それに何よりも、おれがそいつに会わないではいられなさそうなんだよ、なあ、久保? と。でも、久保君もちょっと頑固だからそれをなかなかうんとは言わないでしょ? 言ってることが、唐突だし、まるで論理的でもないから、それで理玖は、それじゃあと、自分の小説の乗ってる雑誌を久保君に持たせてさ、これを読ませてくれよ、そんでおれが従妹でここに居るんだということを教えてやってくれよ、と。久保君は、仕方なく言われた通りにそれを持っていった。そしてとうとう今日、葉子はここに来てくれたんだよ。

 二人で何を話してたの? やっぱり小説のこと? 理玖は、もしも葉子が小説を書いているのだとしたら、葉子にはおれが絶対に書かせてあげるよ、葉子が書くために必要なもの全部与えてあげる、理玖は、まあ、自分の生活が切羽詰まったりでさ、こんな田舎まで帰らなくちゃ、満足にやりたいことにも打ち込めないことの辛さを、ずっと身をもって味わってきただろうから、それと葉子を重ねて見てしまうのかな、葉子が天才ならそれがつぶれるということは絶対にダメだ、ってね。葉子はなによりも書かなくてはいけない、自由で生きられるようでなければいけない、無意味に許されていないと、想像力の羽を重力から逃がさなければ、何人も、それの邪魔をすることは、それはどれほど些細なものであろうとも、決して許されはしないのだと、それこそ人を殺しそうな勢いで。

 理玖はちゃんと話してくれた? でも葉子はまだ若いしさ、高校生だし、ちゃんと聞いて判断できればと思うから話すんだけどね、それは理玖が、まだこっちに移り住んでいなくて、都会で小説家だった頃、大学を卒業したばかりで、今のように無軌道ではなかった頃のことだよ。

 *

ああ、腹が減った、最後に飯を食ったのはいつだっただろう、いいや、昨夜食べたばかりだぞ、確か家で、あの子と一緒に、ふん、水鍋をさ。ああ腹が減った、あいつと会食するまで、まだ時間があったっけ? しかし困った、金がないもんだから、ああ腹が減ったなあ、それにしてもおれはみごとに痩せたもんだ、いいや、腹にはかえって肉がついてきたかな、なんせひとりでいるときは食べないわりに、あの子の家だとおれはやけに規則正しい生活をしているから……ああ痩せたのはこの心だ、精神だ、まるで枯れ果てていて少しも集中できやしない、ああ、現実に、定着しない、おれは深く潜り込めなくなってしまった、いつまでも旅行者のように、上滑るばかりなんだ、ああ、考え事さえ、集中の泉を見つけなければ、しかし重いのは、この腹の肉、歩きにくい、重力に縛られて、まるで奴隷じゃないか、おれが食欲に足を取られていると? ああおれの一番大切な奴、おれはそいつのことだけを考えていたいって言うのに、まるで栄養がそこに回ってかない、空腹なんだ、いいや、こんな考えは不純さ、考えはいつだって不純なんだ、それよりも愛だ、食料だ、食料だ! いったいどうすればいいかな……ああそうだ、ここは大学のキャンパスだったっけ? 卒業した今でも、よく覚えてる、変わらない、変わるわけがないじゃないか! たったの数カ月……食い物ならそこら中に、腐ったもので構わないなら、世界はなんて満ち足りてるんだろう!……理玖はそこらを歩けば金でも食い物でも、一日分くらいならいつでも拾えるのだということをよく知っていた。学生会館、部室棟、今日の昼飯はなににしようか? 

一階の長く続く廊下を歩いていると、ラグビー部の部室前に積まれたパン入りのトレイを見つけた。ひっそりと近寄って、持てるだけのパンを素早く奪い取ると、すぐに走り出した。袋の擦れる音に反応して、屈強な男らのあっという声が聞こえた。理玖は笑いだすのを我慢することが出来ない。あっはっは、もしもこれからあいつらに追われるようなことがあったら、それも面白い、だいたい、最後にいつおれは人に本気で怒られたっけ? 中庭に出る窓が開いているのに気が付くと、理玖は飛び込んだ。廊下から出てすぐのベンチをあえて選んで腰掛けると、弾んだ息を抑えながら、廊下をラガーマンたちが走り過ぎて行くのを楽しみに待った。しかし、いつまでもそいつらはやって来ないし、足音の一つも聞こえないのだ。

「お前らは見捨てられたよ」

 理玖はパンどもに視線を落とすと、パッケージを読んだ。どうにも市販のものではないそうなそれには、タンパク質九グラムという商品紹介と、明日までとやたら近い消費期限が記されてあるだけだった。理玖はさっそくひとつ食べてみた。パサついてるし、アンパンのような見た目のわりに中にはなにも入っていない。ちぇっ、と舌打ちすると、理玖はパンを咀嚼しながら、新しくちぎって、中庭の花壇に投げ込んでいく。食べるのと投げるのとを交互にやり、腹が満たされると、残りはその場に置いてベンチを離れた。

「かわいそうなやつら、おれもお前らを見捨てるんだよ」

また、ブラブラと歩き出した。今度は本当に目的などなかった。なにか、誰かが、退屈を忘れさせてくれないかな? 理玖は喫煙所に立ち寄った。いつもは奇抜な服装や髪型をした学生が多い喫煙所だけど、この日は年寄りの教授がひとりと、用務員らしいおじさんがひとりいるだけだった。理玖は落胆し、煙草を半分まで吸うと、すぐに部屋を出た。それからまたキャンパス巡りを始めたけど、友達の一人さえ見つけられなかった。ああ、卒業した身のくせに、学校になんて来たのがバカだったかな? 一体おれはなんの用事でここをふらついていたんだったか?……そうだ、今日は編集者と、大学前の喫茶店で打ち合わせがあるのだった、朝の早くに目を覚ましたから、家にいるのもバカバカしいと……第一あそこにはおれの生活がないからな、おれひとりの生活が、自由が、おれのためだけの言葉が! ああ言葉がこのおれのものだと? ふん、こんな風に考えるのもおれが痩せてしまった証拠さ、持てる者は持たざる者に、だ、おれは痩せてるせいでこんなことを考えるわけだ、本当は、あの子の優しい心の中にでも、やさいしパンを分けてやりたい、おれが愛せないのも、おれの空腹のせいなのだ、あげてしまえるパンがないんだ、このおれが貧乏人になるとはな、おれが物を持ちたがるなんて、ああ、だからおれは家からこっそりと抜け出して、こんな大学に潜り込んだのだ、詩のひとつでも落ちていないかと思って……講義を一つ受けてみたんだっけ? 結局、講義の間は寝ていたけど、家じゃあまともなベッドさえないんだからな、二人で一つ、だ、ああおれが人に愛されることを恐れるなんて!……約束の時間はいつだっただろう? 

そんなことを考えているうちに、理玖はキャンパスの端にたどり着いてしまった。そこは学生会館の裏であり、理玖には見知らぬところだった。ここはどこだろう? ああおれは、約束の時間に間に合えるかな? しかし理玖は引き返すのは気が進まないからとどんどん先に歩いて行った。すると、森の茂みに隠れた階段を見つけた。なんの気もなしに降りて行くと、そこには絵画部の部室があった。

 *

それは一軒家のような部室だった。外には蛇口に繋がれたホースと物置とがあり、それら外観のすべてがペンキまみれだった。ドアを叩いても、誰も出てくる気配はない。仕方なくこちらから開けようと思っても、扉には意外なほど頑丈な鍵がかけられていた。どこからなら、中に入れるだろう? 家をぐるりと一周回ってみたところ、理玖は物置に登ればなんとか届きそうなところに窓がひとつあることに気づいた。理玖はさっそく物置に登る、窓には鍵がかかっていなかったので、理玖は筋力を総動員して見事にその上半身を家の中に突っ込むことに成功する。

そこはロフトになっていて、書き損じられた無数の絵が置き捨てられてあった。理玖はそれを漁ってみた。絵のことはまるでわからなかったけど、本気さという点ではすべてを知っているつもりだったから、その絵の中から、本気のものを探し出そうとして。でもダメだ、これもダメ、これなんかは最低だ、ダメ、ダメ、ダメ! ああ、今更それを知らなかったなんていうつもりはないけど、それにしても大学の美術部が、こんなにもダメダメなんていうことは……その絵の山を見捨てかけたそのとき、理玖はある絵を見つけた。それは一匹のバッタが描かれただけの絵だったのだ。多分、写真を貼り付けた上にスプレーを振りかけたのかな? あははと、笑わずにはいられない、ああ、なんて絵だろう、なんていい絵なんだろう、おれはこんなのが書きたいよ、もしも書くなら、こんなのを、こんな風に、いきなりペンキと画材とがぶつかって、それを天才的な一瞬の手で調理してしまう、ような絵を! 理玖はそれを大切そうに抱えながら、ロフトの梯子を降りていく、一階には、そうだ、恵美がいて、恵美はじっと伺うような、冷たくはないのだけど、瞳孔が開きすぎていて睨みを効かせているような目で階段を降りてくる理玖を見つめていた。足元ばかり気にしていた理玖は、その恵美の視線に気が付かなかった。お気に入りの絵を見つけて喜んでいた理玖は、この後さらなる出会いがあるなんてことは思ってもいなかったので、恵美がじっとこちらを見ているのを認めると、驚いてわっと声が出てしまった。恵美はそれでも少しも動じないので、理玖もすぐに気を取り直して、とっさに、恵美に絵が見えないようにとそれを裏返した。

「あのね、あなた、この絵の作者を知らない?」

「どの絵ですか?」

「またまた、しらばっくれて」

「でも、わからない」

「いかにも僕が選びそうな絵ですよ、いや、絵なのかな、おれは詳しくないから、とにかく素敵な作品ですよ」 

「さあ。部長のかな? 人物画?」

「いいえ」

「静物?」

「いいえ」

恵美はそれで、ニッコリと笑ったのだ。品よく首を傾けさせて、

「もしかして、バッタの絵?」

「ああ、当たり! あなたが描いたの?」

「遊びだったのに、あれは」

 恵美は照れくさそうに言ったのだ。

「おれには本気です」

「そんなによかったの?」

「一番!」

「嬉しい、ありがとう」

「どうもどうも、もらってもいい?」

「どうぞ」

「じゃあ、これで。用事があるんです」

「はい」

「いつもここに?」

「まあ大体は」

「どうして? 絵が好きなの?」

「さあ。私のはただの遊び、暇つぶし、ここにいると、落ち着くんですかねぇ」

「ああ、遊び、暇つぶし、神々の、だ!」

 恵美はわからないと言うように、にっこりと笑い、首をことりと傾ける、それは籠の中の鳥をじっくりと観察する子供のように。

「大学生なの?」

「はい」

「おれもあそこの、通ってた! 卒業しちゃったけど。今はなにを?」

「絵を、一応」

「見せて!」

「嫌だ、恥ずかしい」

「恥ずかしくないよ、きっと、いいものだよ」

「いいえ、ただの、写生ですよ、私の好きな俳優の、ネットで拾ってきた写真の」

「へぇ。どんなんだろう、完成したら見せてくれるの?」

「完成もくそもないけど。まあ見たいなら」

「見せて! また来るよ! そうだ名前は?」

「恵美」

 理玖はバッタを抱えて部屋を出る。

 *

編集者の待つ喫茶店まで歩いている途中も理玖は恵美のことを考えていた。いいや、むしろ考えてはいなかった。理玖にはそれは、どれだけ時間をかけてもいい問題だと思えたのだ。早急に断定してしまうのはダメだ、ゆっくりと考えるというよりは、生きさせるべきだ。ああおれには恵美のことはまるでわからない、恵美、その名前だけ、恵美、なんていい名前なんだろう、恵美、恵美、言ってると、それがどんどん曖昧に、そして曖昧になればなるほど、なにか重要なものに、おれのこの人生の全体に降りかかってくるもののように思えて仕方がない、ああ、恵美、恵美……

どうしようもないそのような想念をいったん追い出さなければと、理玖は煙草に火をつけると、速足で喫茶店に向かった。大きく回り道をして大学の正門前に出ると、学生らに揉まれながら気持ちよくもなく煙を吐き出し、信号の変わるのを待った。ようやく青になると、横断歩道を走って渡り、そのままの勢いで店への階段を駆け上がる。ドアを開けて店内を見渡すと、奥の方の席で編集者がコーヒーを飲みながら本を読んでいるのを見つけた。理玖は勢いそのままに駆け寄り、こっちは禁煙です、と行ったきり踵を返して、店の手前の席を陣取る。テーブルの端から灰皿を引っ張ってきて、煙草の火を消した。編集者は大きなショルダーバッグを抱えて理玖の正面の席に着くと、なにか、と言いながらメニュー表を広げるが、理玖は見もしないでホットコーヒーと告げて、二本目の煙草に火をつけた。ようやく気分が落ち着くと、ソファの隣に立てかけたバッタの絵の向きを微調整する。編集者が、それはなんだと言いたそうにしているのが面白く、理玖はわざと教えてあげたくないと思う。

「さて、それで、おれにいい話ですか? まさかエッセイの仕事でも取ってきてくれましたか?」

「エッセイ?」

「ああ、ああ、冗談ですよ、ほんの様子見です。でも本当に、お願いしますね、おれにはお金がないんだから、それにお金がなけりゃ、おれはおれの生活さえも買えない、そんなんで、どうやって小説を書けというんですか?」

「生活のことは、心配しています」

「心配? あんたのその、なんというか、乾き切った心で? おれの生活のことを? そんなこと、あんたにはまるで関係ないじゃないですか、それなのにわざわざおれを心配するのですか? 本当ですか、それは」

「そりゃあ、まあ」

「ああ、本当だ、本当だ、これは本物の心配だ、ああ、ちぇっ、その割にはあんたはいい暮らしをしてるみたいだけど? 給料は月収ですか? すると税金は? ふん、健康保険は? ああ、おれは携帯代さえまともに払えない」

「僕のことはいいでしょう」

「へぇ、だけどおれには、あんたのことが気になるんです、というか、あんたのその、なんというか、態度が、確かにあなたたちは僕に少しのお金を貸してくれたけど、それもあなたたちが腐らせてるのに比べりゃ、ほんの微々たるものなんだな、くれたけど、くれたんじゃないや、貸したんですっけね? ああ、あんたたちは、本当はどういうつもりなんです? おれを生き延びさせてやりたいと? おれがいつか、いい小説を書くと? それが人類の糧となると? 人類とまでは言わずとも、あんたらの会社が潤うと? それにしては、ずいぶんあんたらは投資をケチるわけだ、コーヒー、たったの一杯分? ふん、パスタも頼みますよ、おれは、ランチセットは、こりごりだ! ああ、じゃあ、ランチセットを余分にひとつ、コーヒーをもういっぱいもらいたいんです、お願いしますね、ねぇあなた、あなたはなにが目的なんですか? あなたは確か本が好きだとか、本を読んでましたね、おれを待つかたわら、あれは趣味ですか、仕事ですか、人生ですか、あんたのはただの仕事なんですか? それともあんたの人生がそれでも、おれがそうであるようにあんたもやっぱり仕事に勝てないでいるというわけですか? いいですか、今は一旦仕事のことは忘れて、ひとりの友達に対してのように僕と話してくれないと困りますよ? ねぇもしも、もしもですよ、僕が本当にいい小説を書いたら、あなたたちは嬉しいんですか? 本当にいいもの、ああ、それが売れたことがあった? 大衆に認められたことが、同時代に? あなたたちは、自分らの先祖が、ちょうどあんたたちの先祖ですよ、先祖らが数々の天才を葬り去ってきたんだってことを、どうして忘れてそんな風にのうのうと、日本の文学を担うのは我々だ、というような顔ができるわけですか、他の作家たちにしても、どうして彼らは自分が喋るということが他の誰かの発言を聞こえなくしてしまうということを忘れているのか、あんたらはみんな黙ることを覚えるべきなのだ、みんな本当にいいものに耳を澄ませることを覚えるべきだ、その方が、書くよりもよっぽどあんたら本来の人生に近いのだと、どうして思えないんだ、いいですか、書くことができない奴は、読んでればいい、読むのが仕事ですよ、粗雑な書きものをするのは、ダメだ、それは生きることから遠い、君たちは、もっと本当にいいものの声を聞くべきなんですよ、ああ、なんの話だったっけ? おれの小説? あんたらの、仕事、はん、おれに言わせればね、あんたらの仕事なんかは、あんたらは、本当にいいものを知っていたことがないんだ、だからおれはあんたらに自分のを読ませるのが、もう嫌になった、あんたらの誰一人として、それを読めないんだもん、誰にも書かれたことのない言葉を、読める奴がいますか? 読めるのは作者くらいですよ、ああ、そうなんです、だから時間が必要なんだ、本当に新しいものが読まれるためには、ね、理解されるためには、それは、それが新しいという理由で、それが本当にいいという単純な理由でのみ、あんたらの誰にも理解されないんです、ああ、あんたらお抱えのプロたちがなんですか、彼らは確かに喋ること書くことのプロです、ああ、あの分厚い国語辞典を使って自国の言葉を話すプロですね、文学を作るプロだ、ああ、プロがなんだろう、上手な日本語がなんだろう、おれに言わせりゃあんたらのは全部礼儀作法なんです、お辞儀なんです、勝手にしてろ、だ、おれのは、おれの不器用さはもっと、もっと、それが下手でも、ましなはずですよ、ああ、プロが本当にいいものを作るなんて幻想は捨てた方がいい、彼らのクオリティ、あれが本当にくだらない、下手であれ、だ、勢いであれ、バッタであれ、誰が飛ぶとき飛ぶ作法を気にかけるや、飛べ、ですよ、彼岸が見えるなら、あんたらには見えやしない、君たちはアマチュアの天才に勝てはしない、絶対に、君たちから天才は生まれませんよ、生まれるなら、それはもっと、よくわからないところで、よくわからないように、よくわからないことをしてますよ、そいつは、例えば絵画部のアトリエで、一日中趣味のお絵描きに没頭中というか、ただ市井のやかましさから逃れるようにそれをやるんだ、ああ、それが楽しくて仕方がないのか? それが生きることと近すぎて離れられないのか? おれにはわからないけど、そいつはね、ああ、あんたらと話していると、うんざりする、いいですか? あんたらは、もっと、モノマネ以外の芸を覚えてください、もっとわからないものに期待を、あんたらの閉じこもり方は、それはそれは失礼なものなんだ……」

理玖はやってきたパスタをくるくると巻く。退屈そうにフォークを持ち上げると、不機嫌な口を開く。また、儀式的にパスタを巻く……

「それで、なにか? 聞きたいことがあるって?」

「成果はどうでしょうか」

「成果? 成果は? 当然、これから話しますよ。まあ待っててくださいよ、首を長くして、なんだっけ? お国の言葉で、気ままに! えぇっと、ああ、成果? おれの小説のこと? ああ、生活さえあったら、ねぇ、おれの借金の期限はいつでした?」

「最悪でも、入稿は今月末までですよ。ゲラを最短でやったとしても、伸ばせて二日だけです。あなたのは、元々切り詰めているんだし、次の季刊誌に乗るんですから」

「そうそう、そうだった、おれは次の季刊誌に載るんだった、そんでその給料は……」

「もう前払いしています」

「そうだったそうだった」

「原稿はどうでしょうか」

「うーん、まあ、一気呵成に、阿鼻叫喚と、という風にでも」

「まだ手つかずですか?」

「いいや、本当は、ここに、コートの内側に」

「それを、じゃあ」

理玖はおずおずのコートの内側から、抱えていた原稿を取り出す、編集者に渡すと、ソファの中で小さく縮こまり、静かに待つ。

「ああ、ダメだダメだ、そんなんじゃないんです、おれの思ってるのは、そんな風じゃなく、そんな風に、読まれただけで、もうダメなんです、だって、それは書かれるものと読まれるものの態度が、まるで違うもの、いいですか? そんな原稿は置いてください、おれが今から言うことにじっと耳を傾けて、集中して、おれが言うように聞くことに集中を……ええっと、ある日のことです、おれは母校、大学ですよ、昔の大学のキャンパスをぶらついていたと、パンを、どうしたんだっけな、まあ、食べながら、歩いていた、あの通い詰めた喫煙所も、今ではしみったれてた、まあ時間帯の問題でしょう、さぁて、そろそろ、おれは。大学を出ましたよ、するとそこは、よくわからないところだった、見知らぬ森、見知らぬ階段、おれは降りてみました、退屈していたところだったから、なにかないかしらと思っていたところだったので、するところにはある一軒家が立っている、ペンキで汚れたもので、庭には蛇口とホースが置いてある、絵の、なんて言うんでした? カンバス、とその立てるもの? までもね、ああ、そこは絵画部のアトリエだったんです、僕は入ろうとしました、でも鍵がかかってた、仕方ない、僕は周囲を探る、見つけた、高窓がひとつ、半開きになってるんですね、よぉしと、僕はそこにあった、倉庫?コンテナの上にうんうんとよじ登ったのです、そこを出ると、中はロフトになっていた、おれの出たのがロフトの真ん中だったんです、そこには何があったと? そう、絵がたくさん置いてあったんです、書き損じられたものや、完成し、時間が経ったもの、誰も見ることがなくなったもの! さてその中を、僕は必死の思いで探り回りました、くだらない、くだらない、どれも退屈な絵ばかりだった、なんせ素人の書きものだもん、ああ、そんな言い方は先程の自分の意見と不一致を起こすな、と思いましたね、しかしそうじゃないんです、あのね、プロの悪いところはそれが徹頭徹尾模倣だというところだ、そして悪いアマチュアのもっと悪いところは、それが模倣の模倣だと言うところなんです、あんたらは、もう模倣の子供の子供の子供の、何世代目に突入したのから知らないけど、まあいいや、多くの素人はただ素人なのではなく、まだプロではない素人なんです、余計に悪いや! さてそれで、僕の、期待、の感覚もそろそろ薄らぎ、またダメだった、今度も裏切られた、と絵の山に見切りをつけかけたそのとき、僕は、その山の中から一枚の絵を見つけ出した! ああ、それが、ああ、さっきからあなたが気になってやまないこのバッタの絵ですよ、おれは作者のことまで知っていますよ、話しましょうか? ふん、その前に、この絵を見てなんと思うや? だ。ああ疲れた、こんなことがあったんです、これが、このバッタの、躍動感というかな、やってみた、の感じ、体当たりと、その結果、しかし、やってみたに対してのやってみた、これは最悪ですよ、現代美術だ、おれたちは、本気でやって見なければならない、当たったあとのことをおれたちが考えないのは、手抜きではなく、考えられないからでなくてはならない、見切りをつけ、飛び、死ぬかも知れない、あらゆることを受け入れなくてはならない、どうです? これも小説ですよ……」

「じゃあその話を、今度は紙に?」

「ああ、そうですよ、誰かが書き起こせばいい、おれはもう興味がない、あなた、録音していなかった? 面白い話でしょ? きっと、書く人が書けば、勢いのある、それをおれに、書き直せと? 小説にしろと? ああ、だからだめなんだ、あんたたち……」

「どういうことなんですか? 話をいったんまとめましょう」

「まとめる! まとめる! 決裂だ!」

「いったい、それでいいつもりですか?」

「いいですよ、少なくとも今日のところは」

「こっちがだめなんです、あなたにお金が払えますか」

「払えない! あのね、おれは残って小説をするから、ちょっと先に、帰ってよ、コーヒー代はあなた様の奢りだったっけ? じゃあ、お代は、ここに、このテーブルの真ん中にでも置いて。お釣りは郵送します、必ず」

「いいですよ」

編集の男は、黒い笑みを浮かべると、財布から一万円札を抜き出して、テーブルの上に置いた。男が帰ってしまうと、理玖は煙草に火をつけて、一服し、それからお金に少しふれてみて、なにか途方もなさのようなものを感じとって震えた。

 *

ああ、今日も帰らなくてはならない、おれのものではない家に、おれのものではない生活に、ああいい気分だ、神聖な沈黙とも呼ぶべきものどもが、おれの周囲を取り巻いている、このまましばらくなにも話したくはない、何も話してしまいたくはない、ああ、この沈黙は、どこまで行けるだろう、それは高度の問題ではなく、純粋に強度の問題だ、この沈黙は、どこまでおれを沈黙させてくれるだろう、すべてが満ち足りている、すべての意味的なものどもが黙り、無意味が意味的な何かに変わって戯れている、気分がいい、久しぶりだな、忘れる前にメモしておこうか? いいや、めんどくさいや。ふう、煙草を、ああ、どうしてこれがいいんだろう、言わば約束された十分間、おれはちゅーちゅーとしてればそれで済むんだからな、こんなにいいものもないさ、呼吸という最も親しくも忘れられやすい行為の再確認、そしてちょっとした手仕事というのは、やっぱり喜びなんだ、ああ、気分がいい、おれは、なぜだろう、考えても考えても、おれの考えはあの人のところに戻っていく、あの人が、すべてを可能にしてくれているようだ、ああ、不愉快だったなあ、さっきのお話は、それにしても、なんて気分がいいんだろう、あの人がいるなら、すべてよしだ、あの人があそこで絵を書いてるなら、ああ、おれには本当にそう思えてしかたがないんだ、本当に、もしも本当のことが、その世のどんな端っこででも、行われているのだ、そう確信できたなら、おれにはすべてがよしだ、ああ、ほんのひとひらでも、可能性があるのかしら、可能性が、本当にあるなら、ああ、それでも、もう家だ、ああ、おれのじゃない家、おれのじゃない生活、またおれは、ぺらぺらやるんだろう、かわい子ちゃんのために、あの子がかわいいがために、ああ、おれの沈黙が、逃げてく、見放されたって気分だ、家だ! よし、ドアを叩く、インターフォンじゃ、あの子が怯えてしまうからな、ドアに口を近づけて、帰ったよ、んでコンコンと、おれが狼だとしたら、どうするつもりだ? あの豚め、帰ったよ! 開けて、そしてかわい子ちゃんは鍵を開けてくれるのだ、おれが部屋に入ったころには、素早く戻ってもうベッドの船に浮かんでる、ああ、疲れたよ、おれは疲れたよ、今日は編集の奴と話してさ、そういやおれはおれの小説が、なんて言われたんだったか忘れちゃったよ、なんにも言われなかったんだったかな? そうだ、確か、おれが居た堪れなくなって続きを遮っちゃって、メール、後で見よっと、それよりもご飯食べる? 小説、ほんとは書きたいけど、わかってるよ、書かないよ、そうだよ、おれはここにいられるだけで幸せなんだよ、小説、ああ、それじゃあまた今度も、ああ、だめになっちゃうかなあ、月末……まあいいや、次の出版社へ、これで幾つ目だったかなあ、いい加減、飽きたよ、まあいいや、ご飯、食べよう! 外行く? 家にはなにもなかったと思うけど、買い物、明日行くよ、仕事の前に、明日おれが買ってくるよ、今日は外で食べない? 金? 金ならおれが、ほら、編集の奴が出してくれたの、たくさんあるよ、食べに行こうよ! 待つ? いいけど、どれくらいかかりそうなの? その、あんたの、体力が戻るまで、そう、だったら、おれは煙草を吸ってるよ? それでいい? うん、手は洗うよ、匂いも、まだ慣れない? すぐに戻るよ、じゃあね……メールだ、メール、仕事のメールを見ておこう、明日の警備の仕事じゃなくって、小説の、ね、仕事だ仕事だ、ああ、あれ? これは……そうだ! てっきり忘れてた! そうだ、そんなうまい話もあったっけ! うますぎて、まるですっかり忘れてしまってたよ、どうなったんだろう、確かそうだ、じいちゃんが施設に入るってことだ、ああ、久保? もしもし久保? なにさ、決まったの? まだ空いてるの? そんなこと言ったって、おれにもこっちの生活があるんだけどさ、ほんとにおれが、入りたいなら入れるの? その場合、金は? かからないって? じいちゃんが全部? ああ、なんてことだろう、うん、前向きに、ああそう、うん、ええ、ええ、それよりもやっぱり、今から向かうのでもいいの? いい? 行ってもいいの? 鍵は? よし、かけなくて結構、行くよ、ほんとに行くよ? そっちこそいいの、おれが出てかないって言って、追い出したりはしないよね? 条件は? おれはなにをすればいいわけ? いるだけ? ほんとにいいの? おれは小説を書いてるだけでいいの? ひとりで? 好きなときに! ああ! うん、んで、おれは歩き出してたんだ、気がつけば、走ってた、どこに向けて、そんなのは、決まってた! ああ、恵美、恵美、おれは恵美の絵画部まで、もしも恵美がいなければそのときは自殺してやろう! 死ぬ、おれは、この足で死ぬか、恵美のいるところにたどり着けるか、ああ、おれが本気かどうかって? さあね、結局、恵美はそこにいたのだ、いたのだから、そのかけはおれの勝ちなのだ! 恵美、恵美、あんたの名前はなんて言うの、あのね、おれは理玖って言って、小説を書いてる、なんにも疑わずにおれに着いてくることができる? ああ、天才さん、おれと一緒に来てよ、天才さん、さあ、おれがあんたを疑わなかったように、あんたは着いてくることが出来る? ああ、出来るのだ、あんたには、あんたは素敵だから、よし、好きなだけ絵を描かせてあげる、好きなだけ、生きていいよ、生きたいように、画材は、好きなだけ盗んできなよ、詰めれるだけ、電車一本に詰めれるだけ! よし、着いてきてよ……行こう!………………………………………………って、思いったより話が長くなっちゃったね。起きた? 葉子、もう家だよ、それじゃあね、バイバイ、今度は葉子の話も聞かせてね。



なにかに没頭していながらそれについて書くなんてことはできないに決まってる、でももしも、その没頭の仕方がそれを書くという行為だった場合には? つまり息することで空間にエントリーし、キスで恋人と繋がれるというのなら、僕が書くことで、このペンの先でようやく世界に参加することということさえも言えるのだとすれば、僕の書くこともどうにか救われるだろう、書くことは僕の生涯にずっと付き纏う、いやらしい影よりも邪魔なやつで、それを理性と呼んで飼い慣らすことも、感性と呼んで自由に遊ばせておくことも、僕にはできただろうけど、しかし僕は、ついにこれに対してだけは名前をつけようとは思わなかった、僕は、僕の生命の源であるところの、太陽、そしてその偉大な兄弟たちである無数の星や、その親である宇宙のことを、あまりにも圧倒的なものとして感じる一方で、このたった一点であるペンの先、これこそが、その太陽らの遥かな偉大さよりもさらに偉大な、産み終えられた宇宙なんかよりもさらに一歩先に行く、なにか新しいものの爆発を起こし得るのではないか? と思う。そして、もしもそれが本当にまったく新しい爆発なら、それはどんなに小さかったとしても決して消え去りはしない、ばかりか、決してそれこそが無限であると言えないなんてことはありえない。僕は書くことで世界に対して、閉じるのではなくて開かれるだろう、僕は世界に参加する、そのとき、僕の歌うのは、絶対に苦悩の歌などではない、それは喜びというか、快感というか、そういうものが溢れてやまない、やまないが、うるさくもない、水の中の快さというような、無数の水たちの揺れと停止、光の笑いと停止、そんな状態としての、つまりは静止として祝祭というような歌だろう、そのとき僕はもう目を開けていても閉じていても、どちらも変わらないだろう、もう書いても書かなくても、ふたつは同じことだろう。だから僕が書くのも、書いていないのも変わりはしないんだ。



わかるかな。僕は一冊の閉じた書物を書くくらいならなにも書かないでいられた方がいいのだ、僕は書くなら開けの中でしか書きたくはないのだ、失われた五千枚、というのはやっぱり不安で、誰もが僕の書いたものを読めばいいと思うけれど、誰もそれを理解しようなんてしてはいけないのだ、いいや僕は案外簡単なことを言ってるいるのではない、僕は理解というものが、ある意味ではまったくの無理解だなんてことを言っているのではないし、世界は多義的だとも、名前をつけることは理性の悪癖だとも、こんなことを言いたいわけではない、僕はただ、いいや、やっぱりこれは簡単なことなんだけどね、僕は、ただ君たちに、こんな風に読まれる限り、すり減ってしまうというだけのことなのだ、根本的な僕がすり減るのではない、ただ僕的なものとしてのモヤ状の集合体が、ふわぁっと離散してしまって再び集まるのに時間と集中力とが必要になるのだ、ふざけてるんじゃないよ、僕が本当に君たちと喋るために、自分をあるリアリティの中に固定するのは、大変なことなのだ、僕は本当は、にへらぁと笑っているだけでいいってのにさ、でもそれじゃ僕は気狂い扱いというわけだ。いい? だからあえて僕は言うのだけれど、僕は、あるものなんかではない、僕があった、なんてときは、これまでになかった。僕はあることで初めてあるものであり、それがどんなものだった、というものではないのだ、君たちの時計の現在形の針との終わらない追いかけっこ、つまりそのように僕は素早く君らから逃げてやる! 言葉尻を抑えようとも、僕はもうそこにはいなのだ、いないというところにもいない、超越という君らの仕掛ける網からも、超越の超越として抜け出せる。存在、と君らが僕を罠にかけるなら、僕はちょっと手間取るだろうけど、やっぱり爆発と言ってそれを破れる。



僕はだけどなにもかも嫌いだと言えるような潔癖症ではないのだ、僕はなにもかもが好きだ、僕はなにもかもが、多分好きなので、そのなにがどうしていようと、すべてがよしということなのだ、いいや、よくないものだって当然あるさ、第一僕はあのくだらなさというやつが、基本的には大嫌いなんだ、くだらなさというか、それっぽさというか、とにかく一番嫌な方法で本気ということを馬鹿にしてしまっているもののすべてが、ああそれでも僕はなにもかもが好きなんだと、言えてしまう気さえするのだ、僕のこれは関心のなさなんだろうか? 明日誰が死んだって構わないと思えるのは? 僕は、本当にそれを思えてしまう、そりゃ、人によってはとっても寂しいし悲しいだろうけど、絶対的には、それがどんな風になったっていいんだ。そうだ、そういうことだな、つまり僕にもまだ僕というこの主観があるわけだ、僕はまだ死ぬわけにはいかないし、僕はまだ世界に参加するのに僕というレンズを必要としているのだ、悲しみはどれも主観的なのだ、世界は悲しみなんてしないよ。ああでもだからと言って、このレンズがとうとういらなくなった、なんてときのことを思えば、なんてそれは、怖いことなんだろう、そのときこそがこの僕の死ぬときなのだ、いいや、僕はそれが完全な世界への旅の始まりのときの心得ているとはいえ、やっぱりまだ今の僕には怖いのだ。だけどその時が来さえすれば、死ぬことさえそのときには、ほんの身近なものなんだろうね、死ぬこともそのときにはとってもささやかなものなんだろう、無数の光の揺蕩い、笑いのうちのひとつの、ほんの一瞬の出来事なんだろう。僕には関心や執着がないというか、いいや、僕にも当然それはあるのだ、特に好きな食べ物や、特に好きな場所だってあるのだけど、でも世界の方は関心や執着を持ってはいないのだ、それでも僕はそれらを大切に抱き締めるだろう、ああ、どんなぬいぐるみのことだって、心から愛さない人なんかいるの? 僕には僕が大切さ、だけどいずれは、僕はいつもその音を聞いているのだ、その風の音を、いつ僕を連れ去るつもりなんだろうかと、そうだ、僕は閉じるより世界と溶けいる方を選びつつあるというわけなんだよ、僕には僕が大切だけど、大切ということさえ今でもなんだかぼやけている、いいっていうことがどういうことなのか、思い出せない時がやってくる。だけどもう僕が仏みたいだなどとは言えやしないよ、僕は今でもまだ、本当に多くのものを欲している、例えば、今よりもっと多くの称賛とか。とは言えやっぱりそれをこの世の最上の美味と信じているなんてことではなくてね、僕はもっとなんというか、そうだなあ、それを知らないうちから、くだらないとそれを吐き捨ててしまうことが出来なかったというだけなのだ、僕はおそらくそれを求めるだろう、そのうち、手に入れてやる、そんでどうせすぐにペっと口から吐き出してしまうのさ。



ああ、書くことに、戻ることだ、毎晩机の前に、世界の前に! 存在することと、書くことが、僕の中では互いを教え合っている、世界は僕のペンを手取り足取り、踊らせ、ペンの方はというと、まるっきりひとつの、たったひとつの世界を、産み出してしまう。本当にそれが産まれたら、もう変わらないものなんてなにひとつないのではないか? どんなにそれが強固で、どんなにその敵さえも丸め込むための方法をたくさん抱えていようとも、もしもそれがまったく新しいもので、それがたったひとつ付け加えられてしまったのだとしたら、すべてはもう、完全に別のものになってしまわないわけにはいかない。ペンは世界に教えてやれる、やがて、それを変えてしまうだろう、ただし二人の行く末のことは、僕だって知らないんだよ。ああ、書くことに、戻ることだ。僕は地元に帰って来たんだったっけ?



だけど僕にはもう未練なんてなかったんだよ、僕はただここに別れを告げさえすればそれでよかった。すぐにでも出発して、理玖のところで詩をやる生活がどんなに素晴らしいものだろう! 僕がそう思わないなんてことはありえないのだ、本当に包み隠さずに言えば、僕には本当は、本さえあればそれでよかったのかもしれないってくらいだからね、もしも本で食事を、睡眠を済ませられるのなら、本が雨風を凌いでくれるのなら、僕には本以外にはなにも必要じゃなかった。いいや、本と言ってはどうしても変な感じだけど、つまり書くこと、僕の生きるのは書くことだった、もちろん友人や恋人がどうでもいいとかそんなことではなくて、ただ、僕がこの世の最もいいもののことを考えたときには、そこにはもう本だらけだ、というだけのこと。だからすぐにでも僕は出発するべきなんだ、そんなことは僕が一番よくわかっていたんだよ、わかっていながらも僕がくずくずしていたのは、いったいどうしてなんだろう? ああ、僕がどうして? と頭の上にハテナマークをつけるからって、僕がいつだって真剣に考えているとは思わないことだよ、僕は、たんに神に質問を丸投げにするようにそう訊ねているって場合がほとんどなんだからね、回答するつもりのある問題なんて僕にはほとんどないんだよ、それらのほとんどは答えるよりむしろ訊ねておくままの方がふわしい、それに正解するつもりの問題ってなると、言うまでもなくますます希少なものに……だからもし僕がそれを問うたとしても、すぐに回答がやってくるなどとは思わないことだ、それは問いとしてすでに固定されて、世界に受け入れられたものなのだ、それは次の何かを準備するものではないし、次の何かは例えそれが準備されたものなのだとしても。本当にそれが始まった瞬間こそがその始まりのすべてなのだ。



家に帰ったのは確か金曜日の夜だったかな、僕はすぐに眠りについた。何度も目を覚ます機会はあっただろうけど、まともに起き上がりもしないでずっと長い時間ベッドの中で眠っていると、ついに目が覚めたときにはもう日曜の夕方だった、階下からご飯だよ、と呼びかける母親の声が聞こえたんだよ。僕はまだ寝ていようと思ったんだけど、そう言われるとお腹が空いてたまらなくなってきちゃってさ、階段を下りて食卓に向かうと、顔を洗ってこいと言われてしまって、仕方なく言われた通りにそうした。それでようやく夕飯の席に着くと、母親は、どうにもあの夜僕になにがあったのか探りを入れたいような感じなんだよ、深刻そうに目を伏せてさ、やたらと元気がないようで。時折食事する手を止めると、僕に、よく眠れた? とか、明日は学校だね、とかそんな風にさ、どうにも深く踏み込みはしないというか、僕の部屋に土足で入って下手に傷付けるのが怖いから、こっちのお花畑に来てくれるのを待つ、誘う、みたいな言い方ばかりしてきてね、でも僕が、言うわけじゃないけどなんとなく態度で、今日はそっちに行かないよと示すと、母さんはもう僕のことは諦めてしまったというか、なんだか死んでしまった息子に対してそうだというように妙にやさしく接するようになってさ、葉子は頑張ってるね、とか、部活の方はどうなの、とか思い出に対してはもう肯定するほかないといった風な感じ、確かにその夜は僕もあんまりぼんやりしていて箸も取りこぼすくらいだったし、食べ物を口に運ぶのさえ右手のほんの気まぐれに任せるというような感じだったんだけど、それにしても、僕がここにいると言うのに母さんのその態度はまるで生前の僕の形見として今の僕にまでやさしいと言った感じでさ、ああ僕はそれが薄情だとかそんなことを思ったんじゃなくて、そのとき母さんはああ僕の上にこんな姿を見たいと思っていたんだ、とわかって、だから僕のしていたことがそんなにまで母さんを裏切ることになっちゃってたんなら、確かにそれで僕がどうするということを縛られるなんてことはなくても、それでも、こんな一夜くらいなら、僕は母さんが望んでいる通りの僕を見せてやりたいとでも思っちゃってね、それはなにも騙そうとか、いいようにやり過ごそう、とかそういうことではなくて、僕はもう本当にただ母さんが生きているうちは、母さんが生きたいと思うように生きていられたらと思うから、あの人を楽しませるために現実の方に加担するというか、世界としてあの人を喜ばせてやりたいって、そんな大袈裟なことでもないんだけど、一人の観客だったはずの僕が、いつの間にかこうして演者の方になっているっていうわけで、それで僕としては今夜は、母さんと普通の子供が交わすような会話をしようと思ったのだ。



ああ、おかげでよく眠れたよ、そうだよ疲れが溜まっててさ、やっとテストも終わったでしょ? またすぐに次のテストがあるわけだけどね、あはほ、そうだよ、土日は部活もないんだよ、中学じゃないからね、土日に部活なんて、うちの高校じゃね、誰も本気ではやってないからさ、スポーツ、そうそう、進学校なんだよ、だからね、今時はまあそうなんだろうねぇ、部活より勉強ってね、久保? 久保も同じ部活だよ、そうそう、テニス部でさ、小説? ああそうだよ、久保は小説の子でさ、うん、よく気が合うよ、この前もなんか書いたのを見せてくれたっけなあ、芽は、知らない、あるんじゃない、第一この歳だしさあ、どうにでもなるってわけで、え? ふふっ、ああおれでも一応は、ラリーの真似事くらいならできるよ、そうなの? 母さんもやってたんだ、社会人? ふーん、活気があったんだねぇ、テニススクールって確かに今でもたまぁに見るなあ、古い建物のさ、壁が剥がれ落ちてるような、当時のカッコいい奴の、なんて言うかちょつとくせ毛っぽい感じのイラストの壁、鉢巻きなんかしてるようなさ、あはは、おれ? いやあ、流石に人に教えられるくらいに上手くはないよ、部内でも、経験者がいっぱいいるからなあ、よくて五番くらいなんじゃない? ああ、久保には負けないよ。うん、そうだよ、土日は部活もなくてさ、みんな塾に行かなきゃいけないのかなあ、おれはいいよ、学校の外でまで勉強なんて、ほんとに金の問題なんかじゃなくてさ、心配しなくても、成績は一番でしょ? ああ、二番か、最近蓮見って奴に抜かれたんだっけ、うん、友達だよ、頭のいい奴、別に性格は、そんなに合わないんだけど、よく話はするかなあ、クラスが同じだしね、授業なんかをよく聞いてないのは、おれもあいつも似てるのかな? え? まあねぇ、授業じゃ進むのが遅すぎるから、そうだよみんな、授業なんて聞かずに参考書呼んでた方がいいってわけでね。趣味? そいつに? ああ、なにが好きなんだろうなあ、スマホゲームや、アイドルの話なんかは聞いたことがあるけど、別にいかれてるってわけでもなさそうだったし、う~ん、まだそれほどなにが好きなんてものはないんじゃないかな、勉強熱心な奴だよ、そうだよ、まあ、行ってるよ、剣道部でさ、塾にもね、ああ、上手いらしいよ、剣道の腕前の方もさ、県で何番以内とか言ってたかなあ、うん、すごい奴だよ、動画を見せてもらったんだけどね、剣道ってやろうと思えば人がぶっ飛ぶんだってね、剣が天井に刺さるほどカーンと弾かれてさ、塾? おれが? いいよ、勉強なんて一人で、そうだよ、部屋で、そう、やってるでしょ? この後も、食べ終わったらすぐに二階に上がるよ、わかってるよ、やることはね、しっかりやりますよ、これまでもちゃんとしてきたでしょ? 大丈夫、頭はちょっといい方なんだよ、誇れるようなものではないけど、普通よりはちょっとだけね、おれ、え? 本は、そうだなあ、読んでも少しだけだよ、寝る前にほんの気づけ程度に少し、よく眠れるんだよ、勉強はしてるよ、部屋でね、証拠に今夜はリビングでしてやろうか? いいの? じゃあ上がるけどさ、ああ眠い、今日は寝るかなあ、まあ少し勉強してから、うん無理はしないよ、でも明日は月曜日でしょ? だから予習があるんだよ、そうだようちは進学校でさ、でも今じゃどこの高校でもそんなのは当たり前のことなんじゃないかな、中学の時だって、覚えてないけど、ははは、よく知ってるね、そうだねもうすぐ学園祭らしいねぇ。



部屋に戻ると早速ベッドの中に入って、ほんとはいつものように少し本でも読みたいと思ったんだけど、その日はどうしても眠くって、それで部屋の電気も消さないまま、頁に指を噛ました状態で、眠ってしまった。目を覚ますと、そのとき僕は理玖と約束したあの金のことを思い出した、というか、覚えていたというような変な状態で、というのも僕はおそらくその夢でも見ていたのだろう、夢の中で十万円をと考えていたのを忘れないまま目を覚ましたものだから、僕の頭はまだ夢の中をぐるぐる回っていて、とにかく十万円を作らなきゃというのでいっぱいだった。といっても僕は本気でそれを心配していたわけじゃなくてさ、金なら理玖がどうにでもするだろうと思っていたし、金なんてなくても、そのうち僕は理玖のところにまたすぐにでも戻ってやろうと思っていたのだからね、それこそ散歩のどの一歩が理玖の家を目指し始めてもおかしくはなかった、だから僕は金の心配などしてはいなかったのだけど、それはそうと、十万円を集めるという考えは、それ自体かなり魅力的なものだったってわけ。冒険というか、それはなんというか、最小限の、旅のための準備運動や呼吸のようなものなんだと思ったのだ、それにまたあんたのカードを借りてタクシーに乗るってのを、いつまでもやってるようじゃ恥ずかしいしさ、それなら僕はバイトでもするべきだったんだろうけど、ああ僕の頭はとことん稼ぐ方には向いていなかったんだよ、あんたの仕事の苦労話をさんざん恵美から聞かされたところだったしねぇ、それで僕は、寝静まった家の中を携帯の光を頼りに、ひっそりと、軋みがちな階段の安全な部分を指で探りながら下の階まで降りて行くと、父親の寝ている居間の襖をひっそりと開けたのだ。父さんはいびきをかいてた、それも不規則なやつで、いつ息を詰まらせて目を覚ましてもおかしくはないとというようなそれで、でも父親が目を覚ましたとしても、眠りを完全に振り払ってしっかり応答する、ようなことがないことはわかっていたんだよ、とにかく意識のはっきりしていない人で、大体のことを忘れちゃか、誤魔化そうと思えば誤魔化せたんだよ。僕は息を殺して枕元の財布に手を伸ばした、これは母さんが父さんの誕生日に買ってあげた普通の国産の財布でさ、父さんはあんまり物にこだわる人じゃないから、財布も服も全部ボロボロになるまで使う、ジーンズなんかは理想的なくらいに破れているんだけど、残念ながら洗濯機に平気で突っ込むものだから、色も結構薄くなってしまってるから、まあ価値はつかないだろうね。いつも、上にパーカーかフリースを羽織るだけで、首をすくめながら車の中を目指す父の姿を、見かねて母さんが新しいのを買ってあげるか、兄が自分のお下がりをあげることになるってわけ、でもだからと言って節約しいというわけでもなく、ただ父親は服にも財布にも興味がないだけだし、金はすべてパチンコに使ってしまうのだ、それで高級取りでもないどころか、ほとんどアルバイトみたいな仕事をしているわけだから、僕が生まれて以来この家はずっと貧乏だった、お爺ちゃんの代で建てたというこの家もそろそろ軋み始めてきたし、こんな泥棒にも入られるって始末で……あはは、だからってなにが悪いってわけじゃなくてさ、たんにそういうこととして、ね、だって、ああ、僕がこんな風になってしまったのが本当に申し訳ないくらい、この人たちは善良なのだ、例えば汚れた善良であってもそれが善良なのに変わりはない、いいや、善良と言うか、なんというか、ずるいところのない人たちだった。僕がその革の財布を開けると、案の定、中には千円札が三枚と重い小銭がジャラジャラと入っているだけだった。父親の寝息があんまり日々の労働の苦しさを物語ってるようで、そのうえ明日のパチンコの金にさえ、この人が困るようなことがあれば、ああ、この人はもしかして、自殺してしまうんじゃないかな? 一瞬そんな考えが過ったけど、僕はそのあまりのその不吉さと、人を不幸がることの卑しさにどうしようもなく苦しくなって、すぐにそれを振り払った。よし、おれはおれで生きて行く、あんたはあんたで、ね、と僕は、申し訳ないことだけど、小銭袋を手のひらの上にひっくり返すと、静かにそれをポケットに入れて、自室に戻ったのだった。机の上に小銭たちを丁寧に並べてやると、うっとりした気持ちになって、ひとつひとつ、名前を呼ぶように値段を数えているうちに、どうしてもまた眠気が、我慢できないくらいに押し寄せてきちゃってさ、振り払おうともがくけどいつのまにか僕がもがいているのも眠りの中だったというわけだよ。



目覚めると、もう夕方だった、僕は学校に行くつもりだったんじゃないんだけど、散歩するにもパジャマからは着替えた方がいいし、それにもし学校に寄るつもりなら、それは当然制服の方がいいし、ということで、いつものように制服に着替えることにした。着替えてしまうと、別にどこへ行ったっていいと思っていたのが、急に学校に行ってやろうかなという気になってきてね、こんな時間だから言ってもそれは本当にただの散歩というだけなんだけど、でもさ、そうだ、僕は、みんなと同じ教室にい続けるってことは耐え難い苦痛なのだとしても、みんなと道端でばったり出会して少し話す、ようなことは結構好きだったんだよ、一瞬だけ混じり合ってまたすぐ通り抜けてく、そんな風と風というような関わり方なら。だから起きるのが遅くなったのもかえって好都合なくらいだった。みんながまだ学校に残っているといいんだけど。下の階に降りると、リビングには書き置きがしてあった。母の字で、体調は大丈夫なの? 学校には連絡しておいたから、夕方には帰るね、と、それは不安に首を傾げるような文字なんだよ、心配そうに僕を見つめてくる昨夜の母の姿同然の文字でさ、母親は普段はパートに行ってる、でももうすぐ帰ってくる時間なんじゃないかなあ、真面目な人で、小さい頃から僕が学校をサボるのも簡単には許してくれない人だったから、僕は何度も仮病を装うはめになっちゃって、そうしているうちに母親は僕のことを本当に病弱な子だと思うようになってしまってさ、僕としては本当はほとんど風邪なんかにはならないし、なったとしても一日寝てればすぐに治るって質だったんだけど、母親は僕が頭が痛いとかいう度に、本気で心配しちゃって、普段は余計なものに使うお金もないからとお菓子もなにもない家なのに、そんな日には仕事の帰りに甘いお菓子のひとつでも僕のためにと買ってきてくれるってわけ。もうすぐに、そんな母親も家に帰ってくる頃なんだよ、今日のお菓子はなんだろうなあ? 手紙の隣には、平皿に朝ごはんが盛りつけられてあった。ソーセージが二本と目玉焼きがひとつ。僕はペンを手に取り、返事を考えながら空いている片手でソーセージを掴むと口に放りこんで、汚れはズボンで拭い取ってね、そのまま冷蔵庫に寄って牛乳をラッパのみし、むせそうになりながらふらふらと歩いて再びテーブルの前に戻ると、悩んだ末、結局、なにを書こうにもあの人の善性を裏切ることになるのだと思えば、ちょっと散歩してくるね、と書き添えるだけということになってしまったんだけどね、リビングにあった兄の黒のロングコートを羽織ると、家を出た。兄は今の僕くらいの歳からもうおしゃれに気を使い出しててさ、バイトもたくさんしながらそのお金をすべて服と外食に使うって贅沢な奴だったから、服なら家中のどこにでも兄のが余っていたってわけ。



辺りはもう暗くなっていた。僕はゆっくりと自転車を漕ぎ始めた。眠りの階段を一段ずつ降りていくような規則的なリズムで、薄暗がりの中を進んでいると、本当に僕は目覚めているのか? 今もまだ夢を見ているのか? ふとした瞬間に、それが本当にわからなくなってしまいそうだった。酔いの中で景色がくるくると回転し、集中することで自分やみんなをどんな景色の中に置くことも可能になるときのように、一歩から次の一歩が全然違う種類の床を踏み込むことにもなって、僕はえいとそのドアを開けてその世界のリアリティを選び取るようにしか、そこに参加することはできないのだ……足の動かし方も呼吸のことも見ると言うことがどういうことなのかさえ、景色はどこまでも定着しない。雪がぱらぱらと降ってきた。でも地面に触れるとすぐに溶けてなくなってしまう。僕はギコギコと自転車を漕ぐ。生と死とを、もう何度も潜り抜けてきたような気がするんだよ。いつの間にか肩にはうっすらと雪が積もっていた。僕は瞬間瞬間をジャンプしているような気分にもなる。意識がとっ散らかっているんだ。ソーセージが消化され始めたのか、腹の奥が鳴いている。こいつは冬とはそぐわないやつだなあ。ああ、ふと見上げると、景色は、グレー一色なんだけどね、これは死と生のどちらに属しているのだろう? いいや、僕はそれがそのどちらでもあることをわかっている、裏と表は一枚のコインなのだということを知っている、僕は心と体の、二つの顔というのではなく、僕というのは心と体なのだ。景色をそのまま掴むこと、景色は景色である、間違いないことだけど、どうでもいいや、さっきからくしゃみが出そうで、鼻から垂れた鼻水のように僕は不安定なのだ、その不安定を見つめていれば、しかし僕はこの綱から落ちはしない、渡り切れる、いつまでも見つめてさえいれば、死なないさ、それをやめさえしなければ……やめないということは、それがまだ生きているってことなんだからね。はっと目覚めるように、立ち止まるとそこは横断歩道だった、僕のために止まってくれていた車がクラクションを短く鳴らした、僕は自転車を押して走った。高校まで、あとは坂道を登るだけだったので、そのまま歩くことにした。急な坂道なんだよ、一年生以外はみんな自転車を押して歩くような、僕も一年生のときは、この横断歩道を止まらずに通過できた日には、立ち漕ぎでどうにか登り切ってやろうとしたこともあったっけ、夏場は汗をかくから嫌でも、冬にはちょっと気持ちのいい運動だった、とはいえ、僕が一度も自転車を降りずにこの坂を登ることは、結局一度もできなかったんだっけ? 野球部の奴らは、ここで自転車を降りることを禁止されていてさあ、みんなへろへろになりながら坂を登るのを見ていると、こっちの方ではかえってやる気がでなくなっちゃうんだよ、坂の途中には古い民家があってね、そこのお婆ちゃんがよく花に水やりをしていた、たまに買い物のために娘と思われる女の人が車で迎えに来てやっててさ、そんなときは野球部の奴らでも自転車を降りて、車がスレスレを走ってくる危険な道路の方に乗り出すのだ、この日はお婆さんは外に出ていないようだった、その家を過ぎると高校の看板があって、そこには部活の成績が張り出されてた、インターハイ出場や、県で二位だとかそんなの、ああそれで僕は蓮見が剣道ですごいってことを知っていたんだ、蓮見の名前はずっとここに乗ってたんだからね、ずっとっていつからだろう、それが張り出された頃からずっと、今ではだいぶ雨風にやられていた、競歩部のインターハイで一位、地学部の全国優勝、そんで蓮見の県大会二位というやつが。やがて坂道は少しずつなだらかになっていく、すると道の向こうにようやく正門が見えてくるんだよ、その側には、なんとかの記念石碑が立っていてさ、僕はそのとき、そこに寄り添うようにささやき交わすひよりと大吾の姿を見つけたんだ。

 *

ああ、二人は付き合っていたんだっけ? ひよりと大吾が? いいやそれは僕だったんだよ、僕とひよりは長い間、恋人だったのだ、でもそれも本当は違ってさ、みんなは僕らのことを恋人同士なんだと勘違いしていたんだけど、本当はひよりと僕とは中学の頃からの同級生だったというだけでね……そうだ、僕らは一年の教室で知り合ったんだよ、僕は確かにひよりのことが好きだったっけ、ひよりの、ああ、大吾と話しているひよりの表情は、あの頃、僕に向けられていたものとまるでそっくり同じものでさ、その横顔のどうしても触れられない無限の遠さというか、横顔の、どうしても僕のことを見ていないその遠さが僕にはなんだか、すごく大人びて見えたし、僕の手なんかでは汚れすぎていて決して触れることはできない不可侵の神聖のようなものにも感じられて、もうどうしようなく切なくなる、切なさが触れられないことで僕の体の中から逃れられなくて、ずっとぐるぐると回っているからもう気狂いにでもなってしまいそうなくらいなんだよ、どうして初め僕はひよりのことを好きになったんだったかなあ、全然思い出せないんだけど、でもひよりの隣の席に座っていながら僕は、とにかくそのただかわいいというのでも美しいというだけでも足りない、ひよりの特別な横顔をずっと見つめていたのだ、その横顔では、あんたの人格のもっとも秘められた部分だけがそれを表現することが許されていたというか、その横顔はもうどうしたってあんたではなく、もちろん僕ではなく、そこにはない何か、であるとしか思えない、僕はそこにあるイメージを読み取ることしかできないわけだ、それは水面のようにも透明で僕は僕の最も読みたいイメージをそこに浮かびあがらせることをやめられないのだ、見れば見るほど僕はそいつから見られているというわけさ。ああ、でもひよりはそのこと知っていたんだよ、僕がひよりの顔を密かにずっと見つめていたってことをね、だってあんたの目が、僕を見つめ返したいという思いに揺れていないことなどなかったんだから、あんたは僕に見られていることを知っていながら、僕が僕のことなど見ていないあんたの横顔にただ焦がれていたんだってことまで知っていたので、僕たちの目はそうして近くにありかつひとつの目的を持ちながらも、決して出会うことがなかったのだ、僕らは話す時でさえもお互いの目を直視することはできなかったし、それどころかお互いに本当の姿さえまともに見ていたことことなどなかったんだよ。



中学の最初のテストの答案が帰って来たとき、そのときひよりの前の席の、確かコウシとかいう太った男がさ、そいつは特別人気者ってわけではないんだけど、声も態度もでかいから一定の発言力というか乱暴に振る舞っても許されるポジョンのようなものを持っていた奴で、体が太いっていうことがかえってそいつの行動の雑さというか、思い通りな様を、許す、じゃないけどさ、あいつはデブだし、というように放っておいてもらえるというような感じ、そういうのわかるかな? とにかく下品になったもの勝ちというか、どうどうとやればそれがどんな意味でも犯罪でない以上、そいつのやりたい放題ってわけなんだよ、それでそのそいつがさ、ひよりが答案をもらって席に帰ってくるなり、いきなりそれをひよりの手からばっと盗み取って、点数を大きな声で周囲の誰に対してというわけでもなく、言いふらすわけ、確か英語の答案でさ、ひよりのは九十点とかそんなので、全然いい点数なんだけど、自分が賢いってことも含めて恥ずかしいというか、自分だけ仲のいい友達たちとも違うみたいな負い目を感じなきゃいけないような年齢だったから、ひよりはもう自分の点数なんかみんなに言いふらされて、真っ赤な顔になってるわけ、真っ赤に恥ずかしそうに、返して、ってコウシの前に立ち上がってさ、まるでここでやり返さないと一生このコウシに辱められたって事実が残っちゃうというようにね、さも何もなかったということにしたいって風に、じゃあコウシの点数はどうだったの? と訊ねた、するとコウシとしては。そりゃ自分がそうした分、自分の点数を見せないとフェアじゃないからね、え、おれは、とか言いながらも、渋々ひよりに点数を見せてやってさ、それが散々な点数だったことがわかると、ひよりは、ほらあ、コウシなんてバカなくせにって、ひよりはそんなこと口にするタイプじゃなかったんだけど、そのときばかりは興奮が勝って、つい言っちゃったんだろうね。それからひよりは清々したのか、我慢せずにしたいようにできたのが余程開放的で、いい気分になっていたのか、そのままルンルンって感じに僕の方に首を伸ばすと、葉子君はどうだったの? って、今までまともに話したことさえないのに、そんなことを訊いてくるわけ、僕の方ではそれを言うことにほんとになんのつもりもないんだけど、その点数がちょっと高かったり低かったりすると、どうしてもなんらかのつもりが客観的に発生してしまうでしょ、それが嫌でほんとは誰にも点数なんて教えたくなかったんだけど、訊かれれば隠すのも余計に変だし、ということで、ひよりに、こんなんだったよ、とその答案を見せてやると、それはひよりのよりもほんとちょっと高かっただけの点数なんだけど、それをひよりは、すごい! とやけに大袈裟に反応してさ、それがひよりのやり方なんだけど、何をするにも、弾みをつけて、えいっと思い切ってじゃないと自意識というか恥ずかしさを捨てくれないというか、とにかく何でも大袈裟で、がんばって私もそれをやってる、というようなそれなの、ひよりは、ほらぁ! って、コウシの方を見て言うんだよ、その頃のひよりって、髪型は黒のロングで、前髪もしっかり作っていてさ、制服の着こなしも、顔の整い方もいかにもいいとこの子で生徒会でもやってそうな話し方だったわけ、本人としてはもっとはっちゃけるというか、不真面目に開放的にという方に憧れがあって、実際そういう友達とつるんでいたんだけどね、そのときのコウシを責め立てるひよりの姿はやっぱり生徒会っぽいというか、優等生じみてる、そんな子がむきになってデブガキをやっつけるから面白かったんだよ、ひよりはね、やっぱり葉子君はコウシなんかとは違うでしょ? って風に言ってやるわけ、僕はコウシともそれなりに仲がいいというか、特別打ち解けてないけど教室の都合上よく一緒にはいる仲だったから、ちょっと気まずいというか、ごめんねコウシとでも言ったような気持ちでね。



いつあの噂が立ったんだったかなあ。初めは確か美見がそれを言い出したんだよ。学校に着くなり、ひよりの一番仲のいい友達だった美見が、僕のところに駆け寄ってきて、

「ねぇ、ひよりは葉子君のことが好きなんだよ、ていうかさ、二人は実は付き合ってるんでしょ? あれってほんとう?」

「なんのこと? 知らないよ」

「うそだ! じゃあ本当なんだ」

美見はにやにや笑って僕を見つめながら、もう前を通った二人組の女子にその話をしているってわけ、たった今その確信がえられたって目の前の僕のことを出汁にするような感じでさ、見てよ、あれがその葉子君ですよ、といった調子で。するとその二人の女子までも、美見のが感染したような表情で僕のことを見てくるものだから、

「おい、美見のはでたらめだよ、本気にした?」

 でも僕がこんな風に言うよりも、美見の噂話の方がよっぽど本当らしかった。僕がなにを言おうとも、それはこの場の照れ隠しの嘘で、そう思われれば思われるほど、僕の方ではそんな噂話は勝手にしろということにもなってしまったというわけでさ。



ああ、そう言えば、確かに思い当たることがあった。ちょうどその少し前にね、体育の授業が終わるとみんなすぐに教室に戻って行くんだけど、僕はまだ友達たち数人と残ってバスケをやっていたわけ、四人か五人かな、それだけの人数で残って時間ギリギリまで遊んで、そろそろ帰らないと時間がまずいということでみんなで倉庫の方にボールを片付けに歩いていると、どこで待っていたのか、ひよりが後ろから声をかけてきてさ、僕ひとりを呼び出して、ねぇ葉子君、とね、それがいかにもかわいらしい呼び方でさ、僕の周りに出来るだけ人がいなくなるのを待ってからっていうのもそうだけど、ひよりのその言い方自体も、いつもならそんな風には照れてしまって言えないだろうに、そのときばかりは正面から僕の顔を見つめて、楽しくて仕方がないといったように体をちょっとくねくねさせながらね、

「ねぇ葉子君? 教室に戻ったら、筆箱の中を見てね」

「筆箱の中?」

「見てね?」

というとひよりはすぐに走って逃げて行ってしまった。友達みんなは僕になんのことだと聞きたかったはずだし、普通ならさっきのはなんだったんだよって強引にでも秘密事は聞き出すのがみんなだったんだけど、僕の場合に限っては、なんというかその子らもその時は僕とは本当に仲が良かったはずなんだけど、それでも僕にとってだけは、絶対に聞かれたくない領域というか、最後まで踏み込ませない部分があるとかそんなことを、あの歳の子たちなりにしっかり理解していたというか、なんとなく感じていたのか、さっきのはなんでもなかったんだって自分自身に言い聞かすように、次の授業はなんだったっけとかそんな白々しい会話をしてくれるの。お陰で何事もなく教室に帰ると、言われた通り僕はすぐに筆箱の中を覗いてみたんだよ、ひよりのことは好きだったし、そのときはもちろんすごくドキドキしながらね、するとそこには、やっぱりというか、実際には僕の思ってたそれとは違ったんだけど、一応は、ラブレターが入っててさ、でもそれは、まあ結局はそれさえもやっぱりというか、わかってたって感じなんだけどさ、だってひよりは、自分のことならあんな風に大胆にはできないだろうからね、どうせ誰かの使いっ走りだったんだろうってことはわかっていたんだからね、だからやっぱり、というか、まあ、それはひよりが書いた手紙ではなかったというわけだよ。誰からの手紙なのか、名前は記されていなかったんだけど、確かにひよりとは違う筆跡で、話しがあるので昼休みにどこどこへ来てください、とそれだけが記されてあったってわけ。

昼休みになるとひよりはまた僕のところにやってきた。窓越しに、廊下から、窓枠に肘をついてかわいい花のような姿勢でさ、椅子に座ってた僕の側でニコニコと笑うわけ。

「行かないの?」

「どこへ?」

「え? 読んでない?」

「読んだよ、でも誰なの? あれを書いたの、教えてよ」

「私じゃないからね」

「わかってるよ、あんたなら、恥ずかしくて、とてもこんなまねできないでしょうね」

「行けばわかるよ!」

ああそして、僕はその昼休みは友達が遊びに誘うのもそれとなく断って、一人で、誰にも見られないように気をつけながら、待ち合わせの場所に行ったのだった、しかし、どれだけ待っていても誰もやってこなくて、僕としてはその相手が初めからひよりじゃない以上、いくら待っても徒労なわりに、その相手も現れないんじゃ散々な昼休みだ、と思っていたそのとき、チャイムがなって廊下がざわめき出してからようやく、廊下の角から、ふいっとひよりが現れたんだよ、ひよりは、いかにも申し訳ないというように曖昧に微笑みながら、影を踏んで歩くような頼りないだけどちょっと楽しそうな足取りでやってくるとね、あのね、とね、

「手紙、の、続き!」

 親しくしようとすると加減がわからなくて交通事故になっちゃう、ようなひよりのいつもの言い方でそう言って手紙を僕に押し付けてくるわけ。ひよりは目の前で僕が読むのを待っている、ずっとニコニコとたった一色の笑顔でね、僕はそんなひよりの目の前でそれを読むのは、とっても気が進まなかったのだけど、それでもひよりの方が、僕の気、以上に、僕が読まない限りはどうにもストーリーを先に進めそうにもないといった感じだったから、仕方なく手紙を開いて読むと、そこには手紙の差出人の名前と、それから告白したくても勇気が出なかったということが書かれてあった。

「ねぇひより? それでおれは、このあとどうすればいいの?」

「返事だけ、欲しいって! 言って! 伝える!」

「本気?」

「うん」

「あのね、ひより」

「なに?」

「おれが、ありがとうとだけ返事をしたら、それからどうなるの?」

「さあぁ。もしそれが、イエスってことなら……」

「ことなら?」

「付き合う、んじゃない?」

「ああそう、じゃあ、手紙は嬉しかったよとでも伝えといて、その続きは、ひよりが考えといてよ、おれの考えてることは、わかるでしょ? 多分、あんたがそうかなあと思ってるそれが正解だよ」



噂が広まってしばらく経つと、もう誰も僕とひよりがそんな関係ではないのだと思う人はいなくなっていた。誰も、僕たちが本当はただ見つめ合うどころか目と目をそらし合う仲であり、本当はなにかを間に置いた場合にしか照れずに話すことさえできないなんてこと、知りはしなかった。それだから僕らは、二人であの噂について話し合ったこともないし、相手がそれを放っておく以上それなら私もというように、ただ好きあっていた以上繋がれた手を離す理由などひとつもなかったというだけの関係を、ずるずると続けて行ったのだ。ああそれでも、それだから? 僕らがいつどこで誰と仲良くなろうが、なにを言われる筋合いもなかったわけさ。ひよりは、恋の多い女の子だった。触れられないどころか形さえもない恋よりも、触れられる方を当然好むといった極めて自然な女の子。それにひよりは、それはひよりの完全に悪いところというか、どうしようもないなあってところだったんだけどね、ひよりの自信のなさというか、私だけ同じようにできないみたいな自責の念や、それからくる人に認められたさというかそういうものが、悪いように作用した結果だったんだろうけど、ひよりはね、ある程度以上の好意を自分に向けられれば、そしてその好意の主体が、恋愛の相手として客観的にある程度ありだとさえ思えれば、それからそれから、その相手と十分にスキンシップを取る機会があればあるほど、もうその子のことをどんどん好きになってしまうんだよ、どんなくだらない奴が相手でもね、それでもひよりはいつもやっぱり好きな相手を前にすると最後の最後の勇気が出なくて、押し引きというよりは、引いて、とにかく引いて、相手が最後の一歩を詰めてくるのを待つ、詰める代わりに、相手が少しでも素っ気ない態度というか、なんとなく諦めるような素振りを見せると、すぐに相手への興味を失くしてしまうというか、こことあそことを繋ぐ橋が完全に崩壊してしまったとばかりに唐突にその子とは関係は終わり、完全に疎遠になってしまうのだった。そして、いつのまにかひよりは、またあの噂の中に、僕に見られる横顔にその媚びのすべてをこめるというくすぐったい関係の中に、戻ってくる。そのときひよりが誰に夢中になっているのか、僕にはいつもよくわかっていたんだよ、その子を追いかけるひよりのうっとりとした目を、横からぼんやりと見ていると、僕はひよりが、本当はこんなじれったいものではなくて、はっきりと男の子とデートや手つなぎの一つでもしたい女の子なのだと嫌でもわかってしまうから、ああひよりは、それならひよりの行きたいように飛んで行けばいいさ、そんな風に思えて、僕としてはもうお手上げなわけだけど、だからといってなにが変わるということもなかった。



「ねぇひより、今度のバレンタインは誰の鞄のチョコレートを突っ込んだのさ?」

「え、教えない」

「でもおれは知ってるよ、あんた今は〇〇のことが好きでしょ?」

「でも、あげてないよ」

「じゃあおれにくれるって言うの?」

「欲しい?」

「持ってるの?」

「はい、あげる」

「〇〇に渡してやろうか? おれがあんたのことを伝えてきてあげようか? ほら、あのときのようにさ」

「やめて! 私のは、いいから、いいから」

「ああそう? じゃあもらっとくよ、ありがとう」

「美味しいといいんだけど」

「美味しいよ、絶対に」

「どうしてわかるの?」

「え? それは、なんとなく、あんたの目が、やっぱりかわいらしく潤んでいるから」

「どういうことなの~?」

「さあね。今食べようか?」

「帰ってからにして!」

「はぁい、お返しは、またそのときで」

「なんか、恋人っぽい!」

「ぽいね、確かに!」

「じゃあね」

「じゃあね、かわいい人」

ねぇ、あんたはほんとに僕のこを、心の底から好きだったことがあるの? あるんだろうね、あんたは季節みたく過ぎ去ってしまったけれど、僕の方では今でも枯れた木のように、いつまでもあの季節のあの風を待ち侘びているということなのさ。いいや、ふん、ああ、僕はどうしてそんなにひよりの横顔に触れてしまうことが嫌だったんだろう、僕はとにかく、いいや、僕のは、恋なんかではなかったのだ、僕は恋なんて、形なんてもの、やっぱりずっと遠いものだった。



ああ、いつの間にか僕たちは高校生になっていた、僕とひよりの間には、もうどんな噂もありはしなかった。相変わらず、美見は僕やひよりを困らせることが嬉しいと言うように、噂話を運ぶ蝶々のように、ひらひらと友達の間を飛び回っていたけど。僕らはもうどんな関係でもなかったのだ。特にひよりと親しくなった男の子だけ、美見にそれを聞かされて僕に本当かと聞いてくるようなことが時折あったとしても、僕はそれをきっぱりと否定するようにしていたのだし、ひよりのことなんて、だから今では僕とまるで関係のないことだったんだよ、なんでもないさ、好きにしなよ、ああひより、でも大吾なんてそんな奴は、やめといた方がいいよ、あんたが誰を好きになろうと僕はなんだっていいんだけどね、だけどあんな奴は、声が大きなだけでさ、うるさくて、おどけてみせるのが誰よりも得意だってだけの奴だし、いつまでも中学生のままみたいに、照れ屋で、ちょっと自意識っぽくて、まだ思春期のニキビの消えていない奴だし、まだ笑うときに左右の口角が平等には持ち上がらないというような歪な奴でさ……そういえば、ひよりが大悟の前に好きになった奴も、ああ悪趣味だなぁって僕は陰ながら思ってたっけ? そいつは僕と同じテニス部の、これもモテることしか考えていないような、勉強も、スポーツも、ちょっと器用でも、女の子を引っかけるための技能に過ぎないというような奴でさ、あああいつか僕に聞いてきたっけな、ねぇ、おれがひよりちゃんを好きになってもいいの? ああ、僕が知るかよ、勝手にしてろ、だ、それじゃあ明日は手を繋いでみるよ、明日はキスまでしてみせるよ、明日は……ああ、そういえばこの前、蓮見が言ってきたっけ? 葉子君が、ひよりちゃんと付き合っているのが羨ましいと。ねぇ蓮見、それは誰から聞いたの? もしかしてあの、お元気な美見ちゃんじゃなぁい? まるっきり嘘さ、そんなこといちいち僕に聞いて来るなよ。すると蓮見は、よかったぁと一息ついてから、僕にこれからひよりを口説くための算段をくどくどと述べ立てるのだ。僕は先ずはあのシャイなひよりさんと仲良くなるためにも元々それなりに話せる美見ちゃんともっと仲良くなって、それからそれから……



ひよりと大吾の方からも僕が通るのに気がついたようだった。僕は、そのまま横を通り過ぎてやっても当然よかったわけだ、なんせ僕はこの学校の生徒なわけだし、ここは正門だったんだからね、二人ともなんの文句もありはすまい! とは言え、僕には二人を邪魔する気もないし、ひよりとまた照れ臭い目を交わし合うようなことになれば、それだって面倒くさいや、はん、あんたらのことなんて僕にはどうでもいいんだよ、だから僕はわざと大袈裟にあくびをするふりをしながら、と言ってもそれはさりげないというよりもっと不真面目なものでさ、二人を冷やかすように、僕は見てない見てないよ、とどこまでも二人を放っておくよと宣言するようなそれで、それでそれで、それから先は、二人のことなんてお構いなしに、正門を通り過ぎると、僕は自転車をスイスイと漕いで、体育館の裏を回って反対から学校に入ってやろう、僕は本当に気にしないつもりだったんだよ、それなのに横目のやつがちらっと二人のことを見てしまってさ、そのとき、ひよりは、温かいコーヒーを手のひらに二個、握りしめていた、あれは大悟にあげるんだろうなあ、学校の自販機で買ったものなのかな? あんたがあんなに積極的になれるだなんて、おれは知らなかったよ! あんたもあんたで変わったということかな? そんなに大吾って奴のことが好き? ひより、だったらあんたは今度こそ、その鞄の中にコーヒーを突っ込んでやるんだよ? ちょうどそんな季節ももうすぐだ! 出来るといいねぇ、あはははは、僕は風のように口を開けてさ、実際に口の中は、風でいっぱいだった、ああ、僕の速度は体育館の裏を回って真っ直ぐにグラウンドの側を走り、そこからテニスコートに入るだろう。そのとき、そうだった、蓮見は剣道部でさ、ネットの隙間から、気持ちよさそうに剣道着を頭だけ脱いだ蓮見が、体育館の開け放たれた扉に腰掛けて、グラウンドで長距離走のサボり中の美見と、仲良く話していたんだよ、バカな奴ら、蓮見は僕に気づくかな? 実際、どんな遠くからでも蓮見が僕に気づかなかったことなどないのだ、今回も、やっぱり蓮見は僕に気がつくと、小さな芝犬のような顔をして、薄い口角に堅い皺を、波のように盛り上げながらさ、ニッと笑ったというわけ。それは、やあ兄弟、ということで、その隠語の外に他のみんなを押しやってしまうような意地の悪い笑いでさ、蓮見は最初、僕らの成績が並んで廊下に張り出されたその時に、これまで一度も話したことなんてないくせに、廊下でいきなり僕にぶつかってくると、次の瞬間にはもう固く肩を抱いていてさ、葉子君、一位だ、すごいねぇ、と、そんなことを言った。そのときから、蓮見は僕にだけそんな風に笑ってみせるようになったんだよ。蓮見は確かに頭のいい奴だったけど、あいつのなんというか顔の整い具合とか、成績のよさとか、性格の一見したところの屈託のなさとか、それらを総合すると、誰も僕がそれをそうするのを否定できはしないだろうというような態度の乱暴さ、それは時に人を見下げたようなものでさ、バカにして踏み躙りながらもあんたはその手を取るしかないんだよといったようなひどい権力者のそれのようで、僕はそんな手を、例え僕に対しては平等に差し向けられるのだとしても、こんなものは取るのも億劫というわけなのだ、だから蓮見のことは嫌いでもなんでもなくても、なんとなくどうにかしろよ、と思ってしまうというか、その笑顔を見るだけで一緒に嫌味な奴の気分を味わうなんてことは、いい加減もう懲り懲りだったというわけ、僕が言ってるのは、僕の方があいつより善良とかそんなことではなくて、単純にあいつの気質がそうで、僕のある部分はそれにうんざりしてるんだってことなんだけどね、当然僕なんかはあいつより嫌味な部分をいくらでももってるんだろうけど、それでも僕は蓮見の嫌な笑みを見せつけられる度に、頭にくらっときちゃうってわけで。それに僕は美見の場合には、やっぱり普通よりもその笑顔がどんな風に喜ぶのかということを知っているんだよ、知ってるから余計に、蓮見がもし美見を適当にあしらうつもりなのなら、それはやっぱり悲しいけれど、ああでもやっぱり僕にはこんなのもすべてどうでもいいことだったのかもしれない、みんなはみんなで勝手にしてろ、だ。



それは悪い意味でも良い意味でもなくてね、僕にはもうそれらはすべて、全然関係のないことだった、いいや、僕は彼らみんなと関係してさえいるのだけど、それでも僕に出来るのは、彼らがそうしているということを感動することくらいなんじゃないか? と思えて仕方がなかった。神が戦争を起こすなら、それはこのように起こすのだろう、僕にはまるでなにがどうなろうと、どうでもよかったのだ、僕は誰が泥だらけの姿で夢に現れようが、絶対にあんたでなくあんたの泥を見るようなことはしないだろう、それだからあんたの泥は、もう僕の次元で完全に肯定されてもいるのだから、あんたの悲嘆はまるで悲嘆ではない、それはあんたひとりの幻想が背負い込んじまった苦悩の陰であり、それは四次元精神の中には消え去ってしまうものなのだ、僕はあんたがどこでなにをしていようが、僕はあんたの魂を絶対に救える、僕がどんなにあんたにひどい態度であたろうとも、僕はほんとにこれっぽっちもあんたの魂を軽視してはいないのだし、僕とあんたもこんなことでは少しも傷つきはしないのだよ、僕とあんたは、というかこの世界は、だな、完全に完全なのだ。なにか、それさえも、揺るがすものがあるだろうか? どこかにはまだ、本当に世界を悲しませるにたる悲嘆があるというのか? ああ僕は思うのだけど、そんなものありはしない、例え個々人の心に悲しみが宿るのだとしても、そんなものは世界にとってはどうだっていい。ああ、僕は多分、かなりひどいことを言ってるなあ、実際、僕の魂も揺さぶられれば、こんな風に呑気にというわけにもいかないだろうし、僕は泣きながら死ぬのが怖いと震える、震えて、その泣き声が死を誘き寄せてるんだということをわかっていながら、もっと大きな声で泣いてしまうだろう、ああ、だけど今は、まるで僕は共感の次元からは離脱してしまっていたのだ、僕にはすべてそれがそうあるということがいいことなんだと思えて仕方がなかった、だから僕には、もう誰に呼びかけるのでも、こっちがこれを開ききってしまった以上は、もう最後の一歩はあんたに期待しないというわけにはいかない、理玖があの日、僕にそう手紙を差し出したように、この船に乗らないか? と手を差し伸べることしかできない、本当は、みんなと傷つきたいと僕も思わないわけではないんだけどね、ああでもこれは僕の弱さなのだ、弱いことに特権を与えたがる僕の弱さというか、強さが最後まで残しておいた恐怖の正体なんだよ、だからと言って僕が、どんな風にも足を取られることはない、ないだろう、恐らくね、今ではもう、僕がこんなに喋るのも、僕の執着などではないのだ、僕は、単純に、ペンを、足を動かすだけなのだ、僕はそれを見る、それだけに違いない、口ん中に飛び込む風のように、クジラの蓄えたプランクトンのように、景色はみんなオートマッチックだった、ただし自動的なんてこととも本当は違っていて、僕はただ、それを泳ぐのが快いだけなのだ、頭の中を言葉が飛び交うのがさ、海辺に打ち捨てられた空き家のように風に気持ちいい。ああ、面白い作品が生まれていると、あんたにもいいんだけどね、こんな退屈な道の上にも、どんな詩情が落ちてるというのだろう、僕は緩やかな坂道を自転車で走る、野球部のベンチの辺りを通り過ぎると、そこでグラウンドはいったん終わっていて、そこからアスファルトの道、それは学校の駐車場と公道を繋ぐものなんだけど、それを間に挟んだところにはテニスコートがあるんだよ、ああ、それでようやく思い出した、僕は今日は、久保に会うためにわざわざ学校にまでやってきたんだったっけ? 



僕はその、テニスコートとグラウンドの間のなだらかな起伏の道に、自転車を乗り入れた。そして、頭上にプールが迫り出していて空洞になっているところ、みんなはそこを荷物置きにしていてさ、雨が降っても濡れないし、グラウンドからも見られないからそこで着替えたりなんかもして、使わなくなった器具やボロいベンチが放置されてるんだよ、そのベンチに僕はひとまず腰掛けると、偉そうにテニスコートを眺めてやった。ひとり傍に男の子がいて、水筒から水を飲んでるところだった、見たことがない子で、多分一年生なんじゃないかな、その子がペコリと挨拶してくれるもんだから、僕の方でも一応ペコリとやってから、ねぇ今日は先生は来てないの? とほんの世間話をすると、来てません、とその子は言ってからもう一度深々とお辞儀をすると、走ってテニスコートに降りて行ってしまった。コートは男女合わせて三面しかなくてさ、土の状態も悪くてよくリバウンドを起こすし、そもそもネットだって老朽化でピンとは張れなくなってしまっているようなコートなんだよ、普段はここで練習してて、たまあに隣駅に球場があるからそこを借りて練習したりもするんだけど、まあ僕はあんまりテニスには真面目じゃなかったから、その辺の事情は知らないや、とはいえダブルスのペアを組んでた久保君という奴が、僕にも練習に参加してもらおう必死だった時期があって、それで僕もそこそこ上達したんだけど、相変わらず試合で勝てるくらいの実力じゃなくってね、部活内でも下から数えた方が早いかよくて真ん中くらいだったんだけど、久保に負けるようなことはなかったよ、ダブルスのペアとしてなにを言われるかわからんないから、サボるには負けるわけにはいけなかったんだよ。そんでその久保はというと、ああいたいた、ちょうど真ん中のコートでラリーの最中だったんだよ、いつ僕に気がつくだろう? それにしてもあいつのフォームはブサイクだなあ、体が根本的に固いのか、単純に音痴なのか知らないけど、芯があってどうにも窮屈そうな動き方をしていてさ、左手で書いた絵のように不細工というか、調子外れというか、たまたまボールを相手のコートの左端に上手く打ち返すと、相手はそれを拾うのに一生懸命になって、なんとか返せても、久保の真ん前のへぼなコース、だけど久保の方ではこれを叩き込んでやろうと勇み足で、変にラケットを持つ手に力を入れちゃってさ、それでラケットの向きが少しずれちゃったのか、バチンと叩き込むつもりがパコーンとコートの向こうまで飛んでっちゃうわけ、それでも久保は、悔しそうでも照れ臭そうでもなくまじめ腐った表情でラケットに視線なんか落としたりしててさ、笑わせようって気を誰にも起こさせないの、それが僕にはかえっておかしいくらいなんだけどね、ボールも拾いにいかずに、かっこつけてかいてもない汗を拭いながら、ウィンドブレーカーのジップを少し下してやったりしている。休憩しようとでも思ったのか、こっちを向いたとき、どうやら久保は僕に気がついたようだけど、それでも、ようともおうとも言わずにさ、つかつかとやってくると、僕が迎えに行くのにも顔のひとつもあげないで、やっほーと呼びかけてやっても、無視するくらいのテンションでおうと返事をするだけ、僕になどまるで構わずに脇をすり抜けて自分の水筒に一直線なの、どうして僕が、それでも健気にあんたを追いかけてくるんだって思えるわけ? と僕には思えるんだけど、それじゃ話にならないから仕方なく僕は久保の背中を追いかけて、もう一度あのベンチに腰を下ろした。

「さっきのは惜しかったねぇ、久保君」

「んあ? 見てたのかよ」

「見てたでしょ? どう考えても」

「そうかよ、んで、なに?」

「なに? なにかがないといけないと?」

僕はなにも、久保とこんな風に話すのが楽しいというわけじゃないんだけどさ、久保が相手だとどうしてもからかってやりたいって気になって、久保はからかわれてるなんて夢にも思わないんだろうけどそれも含めて、猫じゃらしやなんやで猫をたぶらかしてるような面白さがあってね、僕はついこんな物言いにもなってしまうというわけ。でも今回のところは、久保に一理あったのだ、僕は、そうだ、今回ばかりは用事があってやってきたんだったっけ?

「ああそうだった、ねぇ久保、理玖からなにか届いてない?」

すると久保はああそうだと言いながら鞄を更に奥まで漁り始めて、なんとか手紙を発掘すると、これ、と言って差し出したのだ。

「あのさ、おれが言い出さなかったらどうしていたつもりなの? この手紙」

「ちゃんと渡しただろ?」

「なんて書いてあった?」

「読んでねぇよ」

「そう?」

「なんでおれが読むんだよ」

「いいから、いいから、許しなね」

手紙は二つ折りにしたあとで簡単なテープで止められていた。僕はテープを丁寧に剥がして、手紙を開いた。



あんたはなにが好き?

なんでもこの手の中の金で

すぐに、百万円!

金が金を呼ぶことだろうよ、これからさらに世は良くなるさ

感謝を、神に、お爺ちゃんに、ただも同然の、このコーヒーに

ああ、薄い紙一枚が、どうしてそんな大切か?

あんたの詩を読んで聞かせたら、みんなにもそのことがわかるかもね

待ってるよ



手紙にはそんなことが書かれてあったんだよ、と言ったところで差出人であるあんたは当然そのことを知ってるわけだけれど、無数の僕の読者のためにも、僕がそんな言い方をするのも、いいでしょ? 手紙にはこんなことが書かれてあったの、それで僕は思い出したんだけど、というか別に忘れていたわけでもなかったんだけどね、なんというか、そのとき僕はそれでようやくはっきりと、あのときの気分のようなものを取り戻すことができたというか、僕は理玖と小説をやるんだってことを、あのとき感じたように再び感じることができた、と言ってもそれは春に届いた雪のかけらのようなそれで、だからと言って季節が冬に逆戻りするってわけでもないのさ、香りのように立ち現れては消えて行く、あくまでも感じに過ぎないものだったのだ、でも僕はちゃんと考えたよ、例の十万円のこともさ、それよりもまずは、ああなにか、返事を書かなくちゃなあ、だけどこの日には、なにも思いつかなかくてさ、わかったよ、とでも書けばそれでよかったんだけど、それさえ気が進まなくって、どうしてだろう? そうだあ、多分、そのとき僕はまだなにひとつ書きたくはなかったんだよ、もう少し、感じてから、書くならね、感じている途中にそれを書くなんてことは、僕にはとても出来なかったから。僕がそのまま手紙を返すと、久保は他に用事はないかよ? と問いただすようにジロジロと僕のことを見てきた。久保は誰に対してもこうというわけじゃなくて、とりわけ僕に対してだけいつからかこんな風に敵対的な態度を取るようになっていてね、それは多分、僕が久保のことをちょっと見透かしたような態度をとったり、久保の小説をひどく言ったりなんかしたことも、関係していたんだろうけど、それで久保とのコミュニケーションがこんな風に摩擦だらけになってしまったというのは、なんだか面倒だというか、なんだかもったいないというかさ、僕らはだってお互いに小説が好きだということで多少とも意気投合してたわけだからさ、久保が読んでたのは日本文学が中心で、僕とは趣味が合わないようなことは多々あっても、やっぱり僕は久保と話しているのが、一番気楽だったというと変な感じだけど、一番肯定も否定も受け入れやすくて、一番やりたいようにできていたんだからね、聞いてる?

「ねぇ久保、そんなに練習に戻りたいの? じゃあ、行け!」

ふざけたように僕が言っても、久保は相変わらずぼんやりと見つめ返してくるだけなんだよ、いつも僕の前では、口をギュッとして固く閉じてしまう久保だけど、この日はそれにしても、あまりにもおかしい、そう思って久保の眼の中を読むように、じっと覗き込んでみると、ああ、そのとき久保は、僕ではなく僕の向こうに、歩いてくる先生の姿を見ていたのだった。先生、その人はテニス部の顧問で、僕らの学年の学年主任でもあった人でさ、さらに教えていたのは国語科で、というわけで、いやでも僕らと接点が多かった。とはいえ別に、嫌、なんてことは全然なくて、その人の話し方の妙に儀礼っぽいところなんかが、どことなくうさんくさいというのを置いておけば、十分にその奥にその人本来の素直さというか、真面目さ、慎み深さまで感じとることができたので、実際にも、感じの面でも、僕なんかは特によくお世話になった先生だったんだけど。先生は僕らのところまでやってくると、テニスコートを見下ろして、先ずは久保に、しっかりと練習できていますか? と訊くべきことを聞き、久保がはいと答えると、そうですか、とにっこりとうなずいてから、これでようやくという風に、僕の方に振り向くと、これはまた一段とにっこり笑って、葉子君ならこれでもう伝わるでしょう? というようにさ、校舎の方に歩いて行くんだよ。先生は、たまにこんな風に突然僕を呼び出しては、三十分程度、面談ということで二人で話をさせた。大抵は、夢の内容を書かせてその診断の真似事をしたり、瞑想運動の練習やなんかで時間は過ぎて行ったんだけど、そんなことが、大体月に二度か三度程度だったかなあ、それほど打ち解けていたわけではないけど、先生は、でも、久保から聞いて、僕が小説を書いてることを知っていたし、先生は僕が書くものに、というか僕が書くほど大切にしているどんな風景があるのかということに、興味があったのだろうね、それは多分僕が不真面目な生徒だったから、その上そこそこ勉強もできたから、それに先生自身、昔は小説を書いてたとも言ってたっけな、久保から聞いたんだっけ、確か先生の娘さんが小説家だったとかなんとか。一度読ませてもらったのは、小さな女の子と動物が出てくる児童文学みたいな作品で、どんなんだったっけなあ、あんまり詳しくは覚えてないんだけど、なんにせよ、僕の方では先生が歩いていくのを放って置くわけにもいかなくてさ、僕は授業を抜け出すのなんかは全然平気でも、友達や誰かとの約束となると途端に破りにくいと感じる方だったから、白衣を夕日に当てながら向こうに歩いて行く先生に、仕方なく小走りをしてまで追いついたというわけさ。

「今日はどうしていましたか?」

「ああ、えぇ、体調不良で」

「金曜は?」

「それも、同じです、久保が、伝えてくれるって言ってたはずなんだけど」

「そうですか」

先生のは、朗らかというか、礼儀正しいというか、なんとなく言ってるだけっていうような口調でさ、それだから僕としてもなんとなく気のないような返事になっちゃうんだけど、たまににこっと笑われたりすると、ああ先生の心はやっぱりそこにあったんだって気付かされるから、あんまり気を抜いてもいられないというか、とにかくいつどんな壁に追いやられているか知らないって感じ。この時だって、平気な口調で話しながら、先生は昇降口ではなく渡り廊下から校舎に入ると、なんの説明もしないで保健室の隣にある空き部屋の鍵を回すんだよ、部屋にはテーブルと向かい合わせの椅子がひとつずつあるだけで他にもなにもなくてさ、先生が奥に、そして僕が手前に席を取ると、先生は手を組んで、突然ですが、なんて言い出すものだから、いったいなにが始まるんだろう、と思いきや、それからごほんと咳をひとつして、こんな当たり前の教師の生徒って感じの話を持ち出してきた。

「学園祭の準備が始まりましたね」

「今日からですか?」

「そうです、今日の午後から、授業は休んで、準備期間です」

「その割には、部活は活発なんですね」

「残って作業している生徒もいますよ」

「ああ、そうなんですか」

「二年生はなにをするか、聞いていますか?」

「いえ、でも、歌でしたっけ? 一年は。二年は、なんだっけ」

「劇です。二十分ほどの」

「ああ、そうだったそうだった」

「あなたのクラスがどんな劇をするのか、知っていますか?」

「いえ、全然」

「そうです。今は脚本を書いてもらっている段階ですので」

「随分ゆっくりなんですね」

「来週には、配役も決めますよ」

「じゃあ大変ですね、書く人は」

「あなたは、書いてみたくはないですか?」

「僕が? どうだろう、あんまり、劇なんてすぐには書けそうにないですよ」

「ふふふ、そうですか、私は、てっきりクラス分けのときから、あなたが書くのだと。それで聞いてみたんです」

「でも、その言い方じゃ、他に書く人はいるんですね?」

「それが誰なのかまでは、わかりませんか?」

「さあ。もしかして、久保?」

「久保君にも、打診はしてみたのですが」

「断りましたか?」

「はい、劇のことはわからないと」

「じゃあ、誰だろう」

「思い当たりませんか? 教室で、いつも本を読んでいる方です」

「う〜ん、僕にはさっぱり」

「答えを言いましょうか?」

「お願いします」

「綾瀬さんです」

「綾瀬? ああ、久保から、名前を聞いたことがある気がするけど、確か文芸部の」

「そうですそうです、どんな劇になるのか、楽しみでしょう?」

「それは、まあ、楽しみですよ」

「今も、部室でひとり、書いてるはずですよ」

「そうですか」

「見に行ってみますか?」

「いいえ。気が向いたら」

「それでは、それだけです」

「はい。楽しいお話をどうも」

部屋を出ようとする僕に、奥から先生が、部室は図書館の手前にありますよと教えてくれた。それにしても、僕はこの学校に文芸部があることさえ知らなかったんだよ。だからといって特別何かを期待してというわけでもなくね、ただなにをしなくちゃってこともなかった自由の身の僕としては、なんとなく気の向く方にということで、その部活を覗いてみることにしたんだよ。先生がわざわざそれだけのために呼び出したんだって思うと、なんとなく変な感じだったってこともあってね。



綾瀬、綾瀬、綾瀬? その子のことなんて僕はまったく知らなかったんだよ、先生は僕と同じクラスだって言ってたっけ? ふぅん、でも思い出せないや。だって、正直に言うと、僕は二年になってから学校もひどく休みがちになったし、クラスの子の顔と名前なんて半分も一致していないくらいだったんだからね、だけど綾瀬は、ああ、いつも本を読んでいるんだっけ? 久保が前に言ってたかなあ、それなら見たことがあるってような気もして来るんだよ、夢の中の人物の顔を思い出すようにだけど、あの子かな? あの、窓辺の席に座ってさ、カーテンの影みたいにひっそりと、俯きながら、本を読んでいるあの女の子、それも文庫本じゃなくて、分厚い単行本でさ、ちょっと癖のある長い髪を、下ろしている日もあればポニーテールにしてる日もある、眼鏡もかけていたり、かけてなかったり、ボソボソ喋るんだけど、喋るときは怯えながらでも相手の目を見て話すような真面目な子で、顔がちょっとふっくらしてて、目がまん丸な、かわいい子。そうそう、自分の世界に入っちゃってるなんてこと全然なくて、いつも何となく怯えてるというか、何を出されても笑顔でこたえようってその笑顔が表情の内側で準備しているって感じの、それでもその笑顔はあの子の兵隊というわけなのなら、それならそこにはやっぱり、よっぽど栄えた彼女の王国があるというわけ、なのかなあ? その子が今度、クラスの劇の担当をすることになったって? あはは、それは大変だろうなあ、なんせあのクラスから、どんな劇が生まれるとも思えない。いくら自然が最良の芸術家だとしても、人間は自然の破壊者なんだからね。でもそんなことどうでもいいや、作者は綾瀬だ、彼女の苦悩だ!

渡り廊下を渡って建物に入ってすぐの階段を上がると、左手が音楽室、右手側が図書館になっている、その手前にスリッパを貸し出してる棚があるんだけど、そのボロイ棚の隣にひっそりと、ぼろい木の扉があるんだね、図書館の目の前にあると言われなければあるなんて気が付けないようなそこが文芸部の部室で、現に僕は今までこれは、図書館のカウンターの奥の部屋に直接入るための扉なんだと思ってたくらい。さて、読者のあんたは知らないけど、僕はというこの部室の前にようやくたどり着いたので、さてそれじゃあ、どうして入ったものか、とね、なんせ綾瀬とは話したことがなかったし、綾瀬はあんまり人と話すのは得意じゃないだろうし、しばらく立ち尽くしていたんだけど、でも結局、入るのにどうやってもくそもないんだからと、僕はドアをノックしてやった、中からは案の定というか、まあ、返事はなかったのだけど、僕はノックして以来部屋のなかがやけに静かになったのを、なんとなく感じられのだ、だから綾瀬はきっとそこにいるんだね? 誰が何だろうと怯えてるんだろうなあ、僕はドアに口を当てて、慎重に、ゆっくりと、こう呼びかけた。

「ねぇ、開けてよ、入ってもいい? あんたのクラスメートだよ、劇のことで話があってさあ、ねぇ、もう入るね?」

ドアを開けると、そこはほんの狭い畳の部屋でさ、本棚とこたつとがある以外には花瓶やなんや邪魔な調度が隅々を占めているだけといった具合の。女の子は、こたつに足を入れながら、古いパソコンの上に手を添えた体勢で、なんとなく頼りなげな、にへらぁとした表情で僕を見つめてきながら、嵐が過ぎるのをただ待つしかないといった風に動かないというか、耐え忍ぶというか、とにかくそれは最後の一撃を待つような態度なんだよ、それを受け終えて早く今日も家に帰りたいと願ういじめられっ子みたいなさ。初めましてと言ったところで、余計に気まずくなるばかりなんだよ、だから僕はもう立っていてもらちがあかないからさ、

「ねぇ綾瀬さん? おれもこたつに入っていい? 劇のことで話を聞きに来たんだよ、聞くだけ聞いたら帰るから、身構えないでね」

それが小さなこたつなんだよ、足なんか触れちゃえばすぐに逃げ出しちゃうんじゃないかってくらい綾瀬は怖がっていたから、触れさせないだけでも一苦労で、体を器用にくねらせなきゃいけないって程度の、見たところでは綾瀬の方でも僕が入るためのスペースを作ろうと体を避けていたようだけど、なんというか綾瀬のそれは、単純に恐れとかそんなのではなくて、警戒心というのともちがう、ただ慣れてさなってわけでもないんだろうけど、もっと、ただぎこちないだけって感じのものだったのかな。それにしてもそのぎこちなさにせよ、結構すごいものだったんだよ、今日はいつから? とかそんな簡単な質問を僕が投げかけるとするでしょ? すると綾瀬はぎこちなく、ガラポンの外れの球を出すようににこっと笑ってさ、でも外れのくせにそれを出すのに集中してるもんだから、それで肝心の質問の方は聞き逃してるというわけ、え、え、とか言いながら、とにかく困ったときはニコニコしてろって外国人相手に実践してるって感じにさ。それでじゃあもうそんなときには、話すだけじゃ話すのにもならないんだから、手に手をとって一緒に踊る、くらいの方がよっぽどスムーズだっただろうけど、なんせ狭い部屋でさ、なにするにも変な雰囲気を出さずにはってことが難しいくらいだった。だから僕も綾瀬も、いくつかの海に乗り出した舟がすぐに難破してしまったのを見届け、陰鬱な気分の雲の立ち込めてたところだったということもあってね、しばらくその海に石ころを投げ入れるような、とぼとぼと濡れて歩くような怠い感じで、高窓から差し込んだ光を、見るともなく見ていた。そしてそんな風にお互いが目と目を見合うのをやめてからは、僕がぽーんと言葉を部屋に置きさえすれば、綾瀬は時間をかけてそれに答えた。

「あれはどこからの光なのかなあ? 外に面してるの? この部屋」 

「さあ。でも、多分」

「部活はひとり? それとも活発なの? 文芸部 あんまり聞かないけど、活動してるとかさ」

「さあ。私も、あんまり来ないから、部は、同人をやってるはず、だよ」

「今日はじゃあ、劇のためにここに来てたんだ」

「そう。一応」

 僕はいい加減窓を見つめるのにも飽きてしまってさ、そろそろ綾瀬は僕になれたのだろうかとその顔を見ると、綾瀬はとっさに顔を伏せてしまって、僕がそれでもずっと見ているのがわかるからなのか、伏せたまま、にこにこと、笑うのだった。それから綾瀬はあのね、と決意を固めたような声で言って、

「あのね、私は、葉子君が書くと思ってた」

「それは先生がそう言ってたってことじゃなくて?」

「違うよ」

「でも綾瀬、それじゃあどうして綾瀬にはそんなとこがわかるの?」

「私は、葉子君のを読んだことがあるから」

「ある? へぇそう、久保から?」

「ううん、先生から。劇を、結局私が書くってなったときに、先生が見せてくれたの、葉子君の、小説? のようなものを」

「ああ、それは多分、いつか面談のときにあの人が書かせた夢のスケッチだよ、そう、そんなものを読んだんだ」

「うん」

「それで、なんだっけ?」

「私は、葉子君が書くのが……」

「でもおれは、なにも綾瀬から仕事を奪いに来たんじゃないんだよ、おれには劇は書けないし、書くつもりもないしさ、ね、どんなのを書いてるの? 見せてよ」

「え、えぇー……」

「なにその言い方、あはは、嫌なの? いいの?」

 綾瀬が煮え切らない態度を取るので、僕は挑発するようにパソコンに指をかけて、それをこっちに少しずつ開いて行くんだけど、綾瀬は結局はなにもされないとわかっているからなのか、手足を動かそうともしないで、じっと僕の目を、でも信じてるからと言った風に見つめるだけなのだ。

「でも、おれはほんとに見るよ、綾瀬は止めなくてもいいの?」

綾瀬はふるふると首を横に振るんだけど、

「でもそんなんじゃわからないよ、それは止めなくてもいいってことだね?」

綾瀬はすると、首を振るのもやめて、またあの許してほしいって言うようなへらあっとした笑顔に戻ってしまったの。はん、と思わず僕は喉を鳴らして笑ってしまい、それでなんというか、急にやる気がなくなってしまった。

「そんなに嫌なんだったらいいよ」

僕は、畳の上に寝転ぶと、次の遊びを探すようにそこから部屋中を見回した。手を伸ばすと本棚に触れた。

「ねぇ綾瀬、どの本が好き? この本棚は、一見したところ、色んな趣味が混じってるみたいだけどさ、ああおれはこれなんかのことは、とっても好きだよ、ふーん、ここにあるということは、この学校の誰かがこれを読んだってわけ? 文芸部の誰か? もしかしてそれはあなたなんじゃないの?」

すると綾瀬はやっぱりあの頼りない笑みを崩しはしないんだけど、その笑みの中で、なんとなく頷くように、コロっと光を転がすように、その眼の表情を一瞬だけ変えて、それで僕はほんとにそうだったんだということを知ったのだ。

「へぇ、これだけの本を? 全部読んだの? すごいねぇ、ずっと読んでたわけだ、並大抵のことじゃないよ」

「でも、時間だけはあったから」

「ふーん、すごいねぇ、綾瀬なら、もしかして、図書館の本だって全部読んだことがあるんじゃないの?」

「葉子君が興味持ちそうなのは、多分」

「多分? 読んだことがあるって? おれの興味! どういうこと? それも先生に聞いた?」

「ううん。それは久保君が」 

「話してたの? なんて?」

「葉子は、真面目だし、おれよりも読んでるって、書くのだってよっぽど上手だって」

「ああ、そう、久保のくせに、意外だなあ、謙遜なんかしちゃってさ、あんたはそれを信じたの」

「私は、わからないけど」

「わからない、わからない、それはさぞ賢いことで……そういえばさ、綾瀬は、書く方はどうなの? そっちも得意ってわけ? あのね、前におれが久保から聞いたのは、確か綾瀬っていう文芸部のすごい小説書く人がいるって話だったと思うんだけど」

「久保君が?」

「そうだよ、久保さんが」

「どうだろう」

「いつから書いてるの」

「それは、一応だけど、三歳?」

「あはは、すごいや、ねぇ見せてよ、ますます気になる」

「ダメ」

と言って綾瀬は、今度こそパソコンを守るように腕でぐるりと囲いを作るんだよ。すぐにさっと自分の方に引き寄せて、テーブルの上からも下ろしてしまう。

「なにがそんなに嫌なの? いいでしょ? 別にそんな作品ひとつでおれはなんのことも判断しないんだから、見せてよ」

「でも、全然書けてないから」

「上手に? それともまだ白紙だってこと?」

「白紙」

「あはは! それじゃあおれたち気が合うのかもねぇ、おれだって、あんなクラスで劇をやれと言われたところで、なんにも思い浮かばなかったに違いない」

「そんなことないよ」

「なにが?」

「みんなが、悪いなんて」 

「そう? じゃあなにが悪いっていうの? まさかあんたの筆が?」

「私が、多分、思いつかないから」

「ふーん、そう、あんたが悪いとはねぇ。そんなに言うなら、それじゃあそのクラスのみんなにでも期待して、あんたは考えるなんてことはしないで、ただ書いてみればいいんじゃないの? 始まりなんてなく、ほら、今日も、明日も、あのクラスはやってるわけでしょ? あいつらがもしもなんらかの劇なんだって言うんなら、あんたはそれを置いてやりさえすればいいんだよ、いいや、おれは意地の悪いことを言ってるんじゃなくてね、もちろん適当を言ってるわけではあるんだけどさ、あいつらを、舞台において、待ってみるといいや、それが劇ならなにかが始まるだろう、始まらなくても現在の水準じゃ、十分すぎるくらい演劇なんだ、くだるかくだらないかは別として、ほら、こんな風に、チャイムも鳴るでしょ? 帰宅の合図なんじゃないの? これで終幕だよ」



綾瀬はそんな何個も荷物があるわけじゃないのに、鞄に詰めて整理するのがやたら遅いんだね、それで遠慮して先に帰っててというんだけど、ここまで来て一人で先にってのもなんだか変でしょ、だから結局、十分くらい待ったのかな、荷物をまとめると綾瀬は、にへらあ、とまだその顔が出来たんだね、と久しぶりにそれを見せるんだけど、見せながらね、できたよって、それで僕らは学校を出た、綾瀬は靴を履き替えるのだってとっても遅いんだけど、まあいいや、外へ出て、帰るのはこっちだと適当な方を指差したら、綾瀬もそっちだと言うので、僕が本当はこっちだと言うと、綾瀬は着いていこうかなと言った。

「いいよ。自転車の後ろに乗りなよ」

「初めてだ」

「おれは久しぶりだよ」

綾瀬は僕の肩に両手を置くんだけど、やっぱり控えめに、掴むというよりは、ただ触れてるよって、触れなきゃいけないもんだから渋々というよりは、絶対に許されてる範囲だけ触れるとかそんな感じなんだよ。

「大丈夫? 落としたりするのは嫌だよ」

「大丈夫、持ってる」

「ああそう」

 僕は自転車を走らせた。正門には先生が立ってるだろうから、駐車場からそのままなだらかな坂道を下って、グラウンドとテニスコートの間の道を抜けて公道に出てやろう、と思った。見渡しても、もう誰もグラウンドには残っていない。

「あんたくらいだねぇ、こんな時間までがんばってたのは」

「私、別にがんばってるわけじゃないよ」

「そう? でもまじめでしょう? そうでなくても誠実だ、それでさえなくても、あんたは根っこの根っこの部分ではもう泣けてくるくらいに素直なんだよ」

綾瀬は返事をしなかった。僕らはしばらく無言で自転車を漕いでいた。風のようにいつまでもただ漕いでいられたら、それがどんなによかっただろう、もしもこの足で、時間のことは忘れて、それをただ旅だと呼べるくらいになにもかも忘れてしまえればそれがどれほど、でもね、僕は思わず笑っちゃうくらいなんだけど、この気持ちのいい風の声を聞くためには、この時ばかりは、僕のポケットの中で鳴る小銭たちの音がうるさくて仕方がなかった。

「ねぇ綾瀬ちゃん? なにか食べたいものはない?」

そう訊いても、綾瀬はいらないと言う。きっと本当に要らなかったのだろうね。

「でも、寒くもない?」

綾瀬はやっぱり寒くないと。僕はでも、どうしてもこの綾瀬に、それが欲しい、と言わせたかったんだよ、綾瀬を驚かせてやりたかった、この子の人に触れさせたくないというか、どうしても触れられない部分を越えて触れてみたかったんだ。

「ねぇ綾瀬、コンビニに寄ろうよ」

綾瀬は、え、と言ってやっぱり控えめにはにかんでから、葉子君が行きたいなら、とどこまでも僕に譲ってしまう。 

「じゃあ行こう」

コンビニの駐車場に自転車を止めた。僕はポケットの中をまさぐりながら、いくらあるだろうなあと首をかしげながらね、店に入った。綾瀬は、僕のあとをついてくるばかりでさ、一向に自分で商品を選ぼうとはしないの。これにする? と僕が牛乳をおすすめしてみると、うん、とすぐに頷いてしまうので、こんな寒いのに、お腹壊すよ、と言うと、そうだね、と返事するのだ。それで、ああ変だなあ、と自分自身に困惑するみたいに、変な笑顔を浮かべている。二回目からは少し警戒していて、僕がよくわからないチーズをすすめてみても、どうだろう、と首をゆっくり傾げてみせるだけで、いいとも悪いとも言わないんだよ、僕が、今こんなもの食べたくないでしょ? と教えてやると、間違えずに済んだとでも思うのか、ほっと安心して、そうだね、と笑みをこぼすってわけ。

「お酒でも買ってみる?」

「それはダメだよ」

「そうなの?」

「うん、ダメ」

「じゃあ、温かい飲み物から適当に選んできてよ、二本」

綾瀬は嫌がるそぶりを見せたんだけど、僕がじっと見つめ返せば、これは試練で私はこれを乗り越えなくてはならないんだ、と自分に言い聞かせるように勇気を出して、レジ横のホットドリンクコーナーにとぼとぼと歩いていったんだよ。僕は並んでいる安ワインをコートの内側に隠してから、綾瀬の後ろ姿に追いついた。綾瀬はこちらを見ているのにどこにも焦点の合わない、ぐるぐると混乱したような目で僕に、これにする? と問いかける。綾瀬が自分用に選んだのはココアで、僕のはコーヒーだった。綾瀬が一応は自分で考えられたんだということがわかったからさ、そうしようと言って、会計はやっといて、と小銭を手渡すと、先に店を出た。ふん、僕は別に、綾瀬に授業をしてやろうってつもりなんかじゃないくてさ、なんというか、綾瀬が、もっとそうなれれば、あんたにもそれがいいだろうと思ったまでなんだよ、どうでもいいや。

綾瀬はなかなか出てこなかった。でも、今更不思議に思うわけでもかった。なんせ綾瀬は段などどこにもなくても、そこでつまずけるような子なんだって、僕はもうわかっていたしさ、どうせなにもないレジにもなにかがあったんだろう、小銭を全部落としちゃうとか、一枚一枚数えるんで時間がかかる、とかね。ようやく店を出てくると、当たり前の普通の女の子って風に、当たり前のハプニングに出くわしたんだよって風の、当たり前の顔をして、ごめ~ん、なんてどこか変な調子で言いながら、駆け寄って来るんだよ。綾瀬がはいこれ、とコーヒーを差し出そうとするから、僕が、ちょっと待って、というように手を突き出してさ、ほら、これを見てよ、と懐のワインを見せてやると、綾瀬は、え? とほんとにそのまま声に出して言ったあとで固まってしまった。

「ワインだよ、盗ったの。気づかなかった?」

綾瀬はすると、柄にもなくギュっと表情を引き締めたかと思うと、僕の袖を掴んで、弱い力で、だけどぐいぐいと、店の方へ引っ張って行こうとする。

「返してこよう」

「どうして? わざわざそんなこと」

すると綾瀬は引っ張るのをやめて、手も体もだらんと重力に負けてしまってね、しばらくすると、啜り泣き始めてさ、ごめんなさい、ごめんなさい、と自分に言い聞かせるみたいに言いながら、僕から一歩ずつ遠退いてさ、もう数歩分も遠ざかってから涙だらけの顔をきっと持ち上げると、

「来ないでください」

とそう言い、今度はちゃんと、きっぱりと向こうを向いて、歩いていった。途中振り返ると、両手に持った飲み物の上に、困惑げな、頼りない、僕のよく見知ったあの表情を落として、それから縋りつくように僕を見つめてくるからさ、僕は大声で、

「あげるよ、あんたが買ったんだよ、おれは金をあげたんだよ、二本とも、あんたのものだよ、美味しく飲んでね、あんたは重く考えて、飲めないかもしれないけど、できるだけ暖かいうちにね、さよなら」

僕には、それから先を言うべきか言うべきでないのか、わからなかったんだよ、だってそれはね、僕は、あんたのためにそれをやったんだよ、少なくとも心情的にはそうだったのだ、僕はあんたのためにそれをやったのだ、あんたがいたから盗ってもみせたのだ、こんな酒なんか、本当はいらないよ、僕はただ、どうしてだったっけ? どうして僕はそれを盗んだのだろう? ああそうだ思い出した、僕は理玖って奴と、詩をやることになっていたんだったっけ? ああ、自転車を忘れてきた、でもまあいいや、誰かの手に渡ればいいさ、僕は、帰り道を歩きながら、ワインは、一度だけ口の中を転がして、口腔を洗い清めたあとで、道端に吐き出した。栓もしないで口を下に向け、その首を掴みながら歩いていると、ああ、ダチョウでも残酷に仕留めたみたいに、ドバドバとワインは道路を汚すのだった。僕はそれがよぉくわかるように、その赤の途切れたところにワインボトルを安置してやった。



その夜、家に帰ると、リビングで兄が待っていたんだよ。兄は僕の顔を見るなり、にかっと笑い、それも嘘くさく明るいやつではなくて、もっと意地汚い、秘密を共有しようと言ってるみたいな兄弟らしい笑みでさ、そんな表情で、どこ行ってたんだ? と訊ねるので、ああそれのことか、それなら、でも残念ながら、あんたの聞きたいような答えはないよ、あのね、おれは、今日は、学校に行ってたんだよ、それは本当にね。母親が心配してた? それであんたにまで頼ることになったってわけ? あいつのことを訊き出してくれとでも? ああわかってるよ、あんたがおれの味方だってことは、だからあんたくらいにはおれも本当のことを打ち明けたいけど、あいにくおれは、今日は本当に学校に行ってたんだよ、もうすぐ学祭ということで、そのことでね、先生と! あはは、あんたの聞きたがってる話じゃなくて悪かったねぇ、ところで、ああそうだよ、おれはね、あのね、今日は本当に学校だったよ、でも、あの金曜日に、おれは久保という友達の、そのいとこの家に行ってきてさ、今度そいつと詩をやることになったわけ、だからこの家からは、おれもあんたのように少し、ご無沙汰になるかもね、だから、もしも、もしもね、もしものことがあったら、絶対に心配するな、絶対に大丈夫だし、絶対におれは幸福だ、とそう母親に伝えてくれないかなあ? あんたはどうやってあの心配性のママを説得したの? その要領で、おれのこともさ? そっちは順調? 新しい相方は見つかったの? ああ、おれもそうだよ、心配しないでってね、伝えといてよ、それはもちろん、あんたもだけどね。あんたも父さんも、おれを心配しなくていいんだよ、おれは絶対に幸せなのだ、例えそれが文字通りの幸せでなくとも、おれが貧困や、苦悩を選ぼうとも、それは幸福なのだ、おれは絶対的におれがそれを求めるから、それを求めるのだ、だからおれが死んだって幸福なんだ、もちろん死ぬ計画なんてしていないから、その意味じゃ二重にあんたたちは安心してていいんだけどさ、おれは例え死ぬことになったのだとしても自らそれを選んだのだから幸福だ、それにおれは死ぬつもりもないのだから絶対の絶対に幸福なんだ! ああ、それか、死ぬなんてことは、もうないか? 本当を言えば、もうずっと前からおれには生きるも死ぬもわからない、どちらもまるで特別じゃない、ああ、眼をかく指が目ん玉をえぐり出しても、おれは驚きもしないかもしれない、一秒が十年で、一生があくびでしかないのだとしても、おれはなにも感じない、もう生きていることと死んでいることと、まるで区別がつかないんだよ、これは旅だ、風が、おれはどこにもいない、このおれから抜け出すことだ、この物語から、冒険から、ああ、おれは風です、純粋にそれは旅なのだ、帰ってきはしないよ、多分ね、なぜなら例えおれの足がそこで長くとどまるからと言って、その場所の名前はおれなのではなく、おれはもうどこにもいないのだから、点在的ということでもなく、おれは線でもなく、流でもなく、ただおれは、この世にある最小のもの、それとそれ以外がまるで区別のつかない、なにか最小のものに過ぎないのだ、それはこのペンの先だ、それもすぐにすり減るさ、ねぇわかる? 絶対に、ああ、祈りを捧げます、おれがもしもいつかぽっくりといなくなったときは、二人にそう伝えてくれるね? おれのことは心配しないでね、心配なんて、されたくはないんだ、本当はあなたたちがおれを慈しむのも、それはそれは幸せなことなんだろうけど、ああおれは、あのね、あんたたちの貧乏のことも、なにも悲しみはしないよ、あんたの漫才も、成功するといいさ、幸せならそれでいいよ、おれが死のうと、そうなんだ、ああおれは、あなたたちと話すにはあまりにも姿かたちを持たないものなのだ、と、どうでもいいや、わかっても、わからないのでもいいんだよ、ただおれは立ち去るよ、さようなら、二人を心配させないでね、あの人たちにはあの人たちの幸せを、お願いね。すると兄は、少なくとも僕のこの真剣さの部分だけは、わかったというように、深く頷いて、最後に一言だけ、と、なあ、おれは本当にお前を信じてもいいのか? と、僕は、それは、絶対に、と返事をしたのだ、絶対に、大丈夫、おれを信じるので、絶対に間違いはない、裏切りはしないよ、もちろんこれも文字通りではなくとも、例えおれがあんたをひどく裏切ることになっても、ね、実際におれがあんたらを裏切ったのだとしても、これだけは言える、絶対におれはあんたたちを裏切りはしないよ。



僕の書いたのは、こんな小説だったのです。どうですか、少しは、見どころのある作品だったでしょうか、僕は詩人になれるでしょうか? あれだけを書くのに、大体一週間や二週間もかかりました。さらに、事態はほとんどが現実からの借用品ということで、想像力という点では僕はまだまだですね。ただし、いくつかきらりと光る、なにかが、見どころが少しはあったと思いませんか? ああ、僕もあなたのように、ひとまず作家ということになりたいのですが、どうすればいいのでしょうか? まずはこんなものを書いてみました、思うように書きました、ただし、ほとんどは記憶の書き起こしなのです、人に聞いた話や、過去に読んだ本のものまねです、僕の見たただそれだけのものなのです、それでも、少しは見どころがあったでしょう? 筋が、どうですか、僕には才能がありそうですか? 作家としてやってくだけの、清く生きて行くための、ただ素直さを、獲得するためだけの。素直に、できるだけ素直に生きよう。しかし、強烈に、例えば、速く。ああ、僕はそれを心掛けました、執筆の際には、とにかく速くということを。どうしてか? 説明しましょう。そうですね、ええ、あんたならわかるでしょうけど、それは、こうです、僕の考えでは、もはや新しいものは、なめらかには生まれない、個性という奴は、確かに個性として素晴らしいけど、誰もまやかしのものを振り払って、その個性にたどり着くことが出来ないでいる、なんせ、それらしいものが多すぎる世の中だから、真の個性を見つける前に、みんな、ある程度複雑な既製品で満足しちゃう。だからもしも、僕たちが本当に素直に、個性的に、言うなれば、生れるというか、あるというか、新しく生き始めるのだとしたら、その生は、やっぱりある弾みが生み出す以外にはありえない、弾み、ようは爆発ですよ。だから僕たちは、はみ出してやらないといけない、僕はなにもあの無意識のことを言ってるのではなく、僕は、つまるところは、まあ、なんのことだって言ってはいないんです、ああ、こんなにも手紙が遅れてしまってごめんなさい、僕は、なんのことだって言うつもりはないんだ、僕はただ、それを言うだけなんだ、弾みですよ、大切なのは、はみ出すことだ、思いもよらない、というのでなければ、新しさも、感動も、同様にありえないでしょう。新しさですよ、それも、まだなかったなんてチャチなものじゃなく、またあったというようなそれが必要だ、似ていることを恐れる必要はない、それが新しければそれでいい、僕の中にもありましたか? 僕にオリジナルの部分が、少しでも個性の芽生えのようなものが、十分にそれは新しいか、新しさの可能性を含んでいたでしょうか、いいや、オリジナルだったか、その生は純粋に生のみを生きていたか? 速く書くことですよ、素直に書くことだ、生きることだ! 僕にはわかりません、いったい自分がなにを書いているのか、自分がなにを書こうとしているのかに関しては、もっとさっぱりだ、自分がなにをしたいのか、なにを言うつもりなのか、なにかということが、なになのかということさえ! 弾みです、僕ははみ出していましたか? 僕の書いたものは新しかったでしょうか、いいや、そんなものはいらない、僕には芽がありますか? 僕は作家になれるでしょうか? あなたのものは、二つとも読んだことがあるんですがね、僕の友人の大変な日本文学好きが、教えてくれたのですけど、ああ、真面目な奴ですよ、僕よりもよっぽど真面目だ、というか、僕の真面目さは、何と言うか、だらけたようにも見えましてね、僕は、なんと言うか、本当は、何をしたいのでもないのですよ、久保のように作家になりたいわけでもないし、傑作を書いてやろうという気もない、僕はただ、ですよ、僕はね、ただ僕は、それを生きるように書けたら、書くことで生きあえたら、美女と鏡との、親愛なる友情ですよ、それ以上だ、知らないけど、直感的には、ね、さて、くだらないことを書くのはこの辺で辞めて、僕は書くのが結構好きなもんだからな、書きだすと、ぺちゃくちゃやってしまうんだけど、流石に今日のところはここまでにしね、要点というか、頼みと言うか、あのぉ、あなたさまを現代随一の人格者と考え、このようなお手紙を差し上げる次第なんですけれどね、一週間も、二週間も、かかってしまってごめんなさい、お金がなかったのですよ、でもそれも解決しそうだから、思いついたわけだ! いいや、そんなことでもなくて、ただ僕は眠っていたのだ、ようやく足が動きそうなので、ああ、だからこんな手紙よりも早く、僕の方が着くことでしょう、着いたらまた、話してやるから、だからこんなもの、読まなくたっていい!



その日も僕はゆっくりと目覚めた。いつものように支度をして家を出ると、自転車を漕いで学校へ向かった。テニスコートの側から登校したので、途中グラウンドで体育の授業中のクラスメートたちを見つけた。あちらからも数人、僕に気づいたようだったけど、誰もわかりやすく反応してみせはしなかった。僕はそのまま教室に向かった。中身は空っぽだろうと思っていた、僕にはその方が好都合だったのだけど、そこには蓮見がいた、蓮見は窓辺の、自分のではない席に座って、机の上に足を置きながら、スマホゲームをしていた。僕に気がつくと、いつものように、にっと笑って、びっくりした、と言って携帯をポケットに入れた。

「葉子くんは嫌いでしょ?」

「嫌い? なにが?」

「こういうの、ゲーム」

「さあね。嫌いじゃないよ、自分じゃやらないってだけで、やっててよ」

「じゃあ」

蓮見は携帯を取り出すと、さっきと同じ体勢になったかと思いきや、

「あー、もう死んでるよ、最悪!」

そう悪態をついて天井を仰いだ。

「下手くそ」

僕が笑いながら言うと、

「いいや、僕は上手いよ。見る?」

「さあね」

そう言いながらも僕が蓮見の方に近づくので、蓮見は少し身構えながらも体を僕の方に開くのだけど、僕が見ようと思ったのは蓮見のプレイする画面などではなく、二階窓から見えるクラスメートたちの姿だったのだ。

「マラソン? だからサボったの?」

「そうそ。葉子君は?」

「おれは、寝坊」

あはは、と蓮見はどうでもよさそうに笑った。

「でも来たんだ。なにか用事があった?」

「さあね、別に。なあ、誰が誰だか見える? お前って目がよかったっけ?」

「僕? いい方だよ、こう見えて」

「ふーん、ああ、いたいた! あはは、やっぱり変な走り方だ」

「誰?」

「綾瀬さん」

「癖毛の?」

「まあ」

「好きなの?」

「さあね」

蓮見は勢いよく起き上がると、僕の隣に並んだ、そしてつまみ上げるように名前を呼んでいった。

「あれがひよりちゃん、美見ちゃん、琴音ちゃん、番野さん……」

「他には?」

「綾瀬さん、霰、堀内さん、中窪さん……」

「よし、じゃあ、もう一度最初からやってよ、ちょっとまってね、ほら、いいよ」

そして僕は教室の中心まで進むと、蓮見の方に振り返った。

「どういうこと?」

「名前をいいなよ、ああ、でも、覚えてるかな」

「じゃあ、ひよりちゃん」

僕は、ひよりの席を探す。幸いにもそれはよく知っている席だった、僕はひよりの鞄の中から財布を取り出すと、お札だけ抜き取って元の場所に戻した。蓮見は珍しく驚いたような表情で、僕の顔をじっと見つめる。

「次は?」

「美見ちゃん」

僕は美見の席を、上手く思い出せなかった。

「美見は? ちゃんと走ってるの?」

「美見ちゃんは、今は休憩組」

「ああそう」

ようやく見つけた、その鞄には美見の好きなキャラクターのストラップがついていたから。そしてさっきと同じことをした。

「どういうつもり?」

蓮見は語気強く言った。

「なんのつもりでもないよ」

「どうするの、それは」

「おれが使う」

蓮見はなにか考えるように沈黙してから、ようやく口を開いたかと思うと、

「綾瀬さん」

そう言ったのだ、自分が座っていたのがその綾瀬の席だったとも知らずに。僕は一直線にそこへ向かうと、蓮見の目の前でさっきのを繰り返した。

「次は?」

しかし蓮見はもう口をききそうになかった。仕方なく僕は、記憶をたどり、まずは琴音さんの席を、それから番野さんの席を探したのだけど、疲れたので、まずは久保のを、それからは手当たり次第に……していると、蓮見はとうとう口を開いた。

「葉子君、なにを考えてるの?」

「おれが? なにを? さあね、少なくともお前のことなんか少しも考えてない!」

「それをどうする気? 盗むの」

「盗む! もちろん!」

「声が大きいよ」

「お前が心配することじゃないよ」

「僕も、だ。疑われるのは僕らだ」

「それで怒ってるの?」

「違う!」

「ああそ」

「ねぇ葉子君、それは、僕のも?」

「お前の? お前の、席だっけ? 残ったのは? それじゃあ」

僕はその席に歩いていく、鞄からすぐに財布を見つけ出した。内臓を摘出するように摘まみ上げる、それはフェイクレザーの長財布で、中にはなんと三万円も入っていた。

「ああ、ありがとう蓮見、これだけあれば」

「あれば?」

「なにができるだろう?」

すると蓮見は表情もなく笑った。

「なにか事情があったんだね?」

「なにも?」

「じゃあどうして?」

「さっきからお前はそれだけだよ、そんだけの脳みそがあるくせに」

「返してくれるの?」

「返す? いつ? どんな形で? まさか!」

「どうして盗ったの?」

「盗らない理由を忘れたから!」

「それじゃ動物だ」

「それよりももっとだよ!」

「なにをする気?」

「起こるであろうことのすべて!」

「だったら、お金を戻せ!」

びっくりして、僕は蓮見の顔をまじまじと見つめた。見るているうちに、蓮見の表情の妙な真面目さのことも、なんだかよくわからなくなってしまった。それがどのように真面目なものなのか、蓮見はコアラに似ているなあ、でもコアラの方を思い出そうとすればするほど、差が出て来るレースみたいに、二人はまるで似ていないや!

「ああ、お前がそんなことを言うなんてね」

「どうして僕の前でそれをしたんだ」

「お前がいたからだよ、おれはなにもお前をバカにしたくてこんなことをしたんじゃないよ」

「葉子君、僕は僕のために言うんじゃないんだ、いいからお金を返せ、返さない理由があるなら、それを言ってくれ」

「理由? それがないからと言って、あんたはおれにそれを返させようとする! ばかげてるよ、クラクラするくらいには、おれには理由なんてない、あのね、蓮見、砂漠に花は咲かないでしょ? 二人の間には、ムードってものがあるでしょ? おれ個人にしたっておれにはおれのテンションがあるでしょ? おれは盗りたくて盗ったんだよ!」

 *

蓮見は返事をしなかった。僕はさよならと言った。そして、その足で理玖のところ向かうことにしたのだ。いいや、今朝起きたときから、僕はそれを決めていた。僕は原稿に封をして、久保に渡してやろう、と。しかし、渡せなかった今となっては、僕は、それを最初に見つけたポストに投函した。ああ、住所を書いたっけ? 金は、いくら払えばいいんだろう。でもまあいい、言葉は不滅だ! ああ、今度は僕は金を持っていた。理玖のところへ? 理玖? 僕はなにをしにそこに行くんだっけ? そしてそれはいったいなんの金だったんだ? 僕はなんのためにそれをしたんだっただろう? ああ、僕の愚かしさが僕の尾を引く、それは影のように僕に付きまとう、言葉にいつも落とされた意味の影、それのように僕もまた理由の影におびえている。そして今は、夜だった、夜は陰の世界だ、夜には無数の太陽が存在していた。意味は、至るところに浮かび上がってくる。ああ、すごく寒い。僕はタクシーを捕まえた。僕はこの夜、理玖がどこにいるのかを知っていた。あの店へお願いしますよ。着いた頃には、多分夜はもっと深いだろう。ああ、理玖たちは飲んでいるだろう、二、三日後には、僕の手紙も届くことだろう。僕の詩! それは届くか届かないかだろう、消えるか消え去らないかだろう、読まれるか読まれないかだろう、新しいか新しいくないかだろう、いつか! ああだけど、僕はこの僕のことでさえ、いったいそれがなんなのかわからない、僕はどこにいるのか、僕はどのような場所に行こうとしているのか、僕はそこに行けるというか、僕がそこに行けるということはどういうことなのか、僕はどのようにあるというのか、そしてその僕というのがなんのことなのか、まるでわからなかった。



この夜はついに僕のために花開いた純粋精神のおとぎ話なのだろうか? それとも僕のこの精神こそが、夜のほんの気まぐれに過ぎない心地よさと、地に本来的に渦巻いた吐き気との奇跡的な隙間に入り込んで見せられた眩惑なのではないか? 僕は綱渡り芸人のように風に吹かれて、右往左往と手探りする……

 *

 ヘンリー・ミラーの言っていたことを思い出す、僕一人のための清書人が必要だというようなこと、生きていることと書くことを限りなく一致させるためには、確かに筆を持つ手が邪魔だ、僕にはそのうちこの口でさえも間に合わなくなってしまうかもしれない、それは速さということではなく、もっと形の問題なのだ、脳に直接ペンをさせたら? スピーカーを当てられたら? 少しの延命にはなる、でもそれではやっぱり、言うということはどう考えても邪魔な姿で生にぶら下がっている。僕はしかし、まだ少しだけ言いたいのだ、僕は何度も、これで終わりだと言葉を結びそうになったけど、それでもまた時間が経つと、僕はそれを言いたくてたまらなくなる、試してみたくて、居ても立っても居られない。ああ、僕はまだ生きることが好きだということか? 僕はまだ人間的であることを愛しているのか? 僕は僕のことがそんなに大切だというのか? どうして風のような無意味になってしまわない? どうして旅の最中にも、これだけは手放せなかったのか? ああ、一冊のノート、書くことは、生きることに違いない、僕はどんなところででも書くだろう、生きている限り、ああ……

 *

 しかし、聞いてくれ。ああ、君は誰? 僕の言葉はまるで抜き抜けるだろうか? 君はもう前の言葉を思い出せないだろうか? ああ、僕がそれを片っ端から忘れるように、君もそうでは困るのだ、読む方には読む方の作法があるのだから、僕のを書くように読まれるのでは困るんだ、いいや、君が天才ならば、それでいいや、存分に僕を書きなさい、自由に! ただし君がひとりの誠実な読者に過ぎないのならば、君は僕を通り過ぎてはいけない、君は僕を、隅々まで、なんていうか、思い込まなくてはならない、それが絶対にそうなんだと、僕の言葉に、騙されてみないといけない、僕をその心の席に招き入れないといけないのだ、どうして一冊の書物から安全に帰れるなどと思ったのか? 次のページが物理的に君も刺すことになっても、それを捲れるようでなければならない、もしもその読書の最中に、その最中こそが君の首を吊らすのだとしても、それでもなおそれでよかったと思えるように、読まなければならない、ああ、小説は読まれなければいけない、それは信じてもらわないといけない、どうしてか? この期に及んで、僕のこの孤独嫌いは。ああ、僕が僕ひとりじゃ不満足だとでも? 満足に立てもしないと? 星がなけりゃ時の空間の迷子になるとお言いで? ふん、違うよ、僕は書くのだ、どこにいようと、いつであろうとも、ただ僕は僕の文を喜ばせてあげたいのだ、僕の第一欲求がそうでないからといって、どうして僕が隅々までそれを欲求しないなどと言えるだろうか? 僕は真剣にそれを欲望してもいるのさ、ああ、些細なことであろうとも、僕にはその些細さまでも真剣なのだ、僕は本気で、この文章に自他の絶対的な一致を、他者に満たされた欲望の器の快楽を、味合わせてやりたい。いいや、僕の求めているのは交流か? 風と風の。僕があんたらを受け入れているように、僕もまた受け入れられたいというのか?

 *

 僕は四次元的な精神をある旅の過程で手に入れてしまったので、それ以来、三次元的な共感からは弾き出されてしまったのだけど、それでも僕の方からはいつでも降りるだけでみんなとリアリティを交換し合えるのだと気づいたのは、僕がもっと大人になってからだった。とはいえ、僕は今でも孤独なのだ、僕の本当に満ち足りた世界には、この僕しかいないのだ。ああ、誰かこの世界の、四次元空間を覗きこもうとするものがありや? もし君がそれを見たいというのなら、君はそれが、絶対にあるとまずは信じ込むべきだ、それがある、そして君は騙されることでそれに入信できる、ああ、君を騙すものに幸あれ、君を騙せるものに、君を連れ出すものに、君のリアリティを打ち砕くものに! 僕と一緒に行こうよ! 

 *

 ああ、僕は寂しい、その夜も、そうだった、いったいどの夜だ? 無数の夜が、ひとつの夜の中にも、いったい、いくつの夜があるだろうか、そしてこの中のひとつの夜の中にさえ、どれほど夜は見え方を心得ているのか? その夜は、僕はとっても寂しかった。無言が僕の体の中を、祝福するように戯れているのを感じていながら、僕は僕のそばに誰もいないのだ、そして今この瞬間にそうだということは、永遠にそうなのだと考えたそのとき、その考えを飲み込むか、噛みちぎるか、ふたつのひとつに迫られ、僕はやっぱり、それにうんと答える方を選んだのだった。ああ、いつから僕はいいえと言うことを忘れてしまったんだろう、僕にはすべてがよかった、すべてがどうでもいいということなどではなくて、すべてが、そうあるのならそうなるのがいいと思えた、ああ、僕はどんなに怖いことでも肯定できてしまっただろう、生まれてただ死ぬだけだった赤子たちにも、おめでとうと言えてしまった、ある観点、つまり君たちのリアリティから僕が僕を見たとき、そんなに薄情なことはないと思える、僕は自分を化け物と思えて仕方ない、ああ、しかし僕はやっぱりそれを言えてしまう、僕は寂しい、僕にはすべてがよしなのだ、ああ、よし、それじゃあ、それを続けなさい。

 *

その夜は冷たい風が吹いていて、もう一歩踏み出せば僕は受け入れられるのか拒絶されるのかわからない、曖昧に震えている手の指に軽く触れ、やさしく花弁を押し広げてあげるようにその指から腕を少しずつ開けていくときの、生と死の不安定な気持ちに似た焦燥を僕に抱かせるような季節の一夜だった……



 僕はその夜、ひとりだった。学校を抜け出してきたのだ、ああ、手元にはいくらかの金があった。なんでもない金だ、飲めば一夜にしてなくなってしまう金だ、誰の思いやりのこもった金か? これは元はといえばお小遣いだっただろうか? それともバイトで稼いだのか? まさかお手伝いをして? 温もりを持った手と手に渡されてきたのか? それが今夜、僕の手の中に! ああ、嬉しいなんてことはなかった、僕は金がほしくてそんなことをしたのではなかった。ただし、君たちに弁解をしたいわけでもないのだ、僕は、僕をどう見てもらおうと結構、僕らはお互いに離れ過ぎてしまったので、僕はみんなのことを愛する以外にはできない。ああ、ありがとう、僕にお金を盗まれてくれて、ふん、あんたたちが言うのなら、いいよ、謝るよ、ごめんなさい、僕が本当に心からこれを言えるのだということを、どうか信じてね。信じろと言っている人の言葉を信じることだ、これは良心の問題であるばかりか、真理の問題なのだ、僕にはこういうしかできない。ああ、お金はどんどん擦り減ってしまう。第一、僕はタクシーを利用したのだし、これから体を温めに、酒でも飲もうかと考えていたところだった。寒いのは、やっぱりだめだった。僕は寒さに取り巻かれているとどうしても真理とか完全性とかいうことを考えてしまって、今ある、ということが固定されるこんな寒さの中では、僕の生きることはすぐに完成に向かおうとしてしまうのだ、僕はこのまま地面にうずくまって死ぬのを待ったっていい、心残りはないのだ、ああ、寒さというのは、僕の体の中、という観念をいよいよ強くする、いよいよ僕ははっきりと自分を持つ、外を見ても、物みながじっと固く自らの輪郭を保持して譲らないようなのだ、世界は、たった今完全性を保っている、世界は一度完璧に名付け終えられた! ああ、寒いなあ、こんなことを考えるよりも、温まりたい気分なのだ、お酒でも飲もうかなあ、理玖は、今夜もあの店にいるのかしら?

 *

 相変わらず外には明かりのひとつも漏れ出ないお店だ、耳をすませると、少しだけその喧騒を聞くことができた、しかしそれは森がざわめいているようなそれであり、言葉は波のように盛り上がってはすぐ無意味の海に墜落する、僕は、軋む木のドアをゆっくりと押し開けた、すると暖かい空気と声とにふわっと包まれて、僕の体は騒ぎの中に溶けてしまうのだった、僕は、恵美がいたカウンターの一番奥のところへ、目の前には今日もやっぱり道夫がいて、道夫はそこから店の中央の天井に吊るされたモニターの映し出す、音楽番組? 一昔前に流行った音楽のミュージックビデオを再生し続けるそれに見入っていたのだ、僕に気がつくと、思い出の引き出しを開ける一瞬の不在のあとで、ああ、とこの地の上に生まれ落ちた道夫は、理玖なら最近来てないよ、と教えてくれた。

「なにかあったの?」

「いや、飲む金がないんだって」

「金ならおれが持ってるよ」

「呼んでみようか」

「いいの? ありがとう」

道夫は理玖に電話をかけてくれた。

「そう、葉子が、うん、お前も来いって、金の心配はいらないよ、うん、なあ、恵美さんも連れて来いよ、お願いだよ、うん、わかってるよ……」

電話を置くと、道夫はまたモニターに見入った、僕もカウンターから振り返って、店の中を見渡すと、そこにはやっぱり名の知らない若者たちがいた、普通の幸せを生きていそうな男女のカップルや、青い坊主の女の子、タトゥーを掘った腕を剥き出してしてる三十代くらいの体の大きな男、向こうではダーツゲームをやっている、ワンプレーにつき三百円で、その金をかけて勝負しているらしい、大学生くらいの男が二人と、その側のテーブルに二人の仲間、背の高い男が放ると、眼鏡をかけた勝負相手の男が、おー、と歓声をあげるのだ、上手いですねぇ、そして背の高い男はダーツを三本まとめて眼鏡の男に渡してやると、眼鏡の男はホイホイと間も開けずに三本、野球投げの要領で投げてしまう、一本だけかろうじて当たったのが、無様にも的の端から吊り下がっている、次のプレイで、長髪の男は数字をゼロにピッタリと合わせた、眼鏡の男が悔しそうに仲間のテーブルに近寄ると、長髪の目の大きな男が、手のひらの上に置いていた顔をくいっと持ち上げてにっこりと笑いながら、下手くそ、と言った。道夫が、僕の肩をちょいちょいと叩いた。振り返ると道夫は、なに飲む? とぶっきらぼうに訊ねた。

「う~ん、なにがあるの、言っとくけど、おれは全然詳しくないよ」

「お前、未成年?」

「だとしたら?」

「さあな。言うなよ? 誰にも」

「誰が聞いてるって言うのさ!」

「よし、じゃあひとつずつ覚えろよ? 端っこから出してやる」

「じゃあ、右端をお願いね」

 *

 しばらくすると、理玖と恵美はやってきた。僕はもうかなり酔っ払っていて、見かねた理玖は僕の口の中にタバコを突っ込んだ。

「吸えば少し楽になるよ」

僕は言われた通りに、ゆっくりとそれを吸った。理玖は遠くから静かに笑いかけるように、まるで無菌状態に閉じ込められてしまったんだというようにどこか寂しげに、にっこりと、目を細くした。

「どうしたの? 理玖、やっぱりなにかあった?」

理玖はすると、はっと喉を鳴らせて笑い、すぐにいつもの調子に戻った。

「金がなくなっちゃったんだよ、ついこの前までたくさん持ってたのに、葉子が遅かったから」

「なくなったの? 言ってた金?」

「ああ、本をやるための金だよ」

「それがなくなったの?」

僕が問い詰めるので、恵美は横からふふっとしょうがないなあと言うように笑い、理玖の肩を叩いてやった。すると理玖は、

「ああ、なくなったよ、ただし、もう預けちゃったんだ、もう編集の手に渡ってるよ、これで、肝心のブツさえあれば、世に出せる!」

なんだと笑っていると、理玖は急に甘い口調になって、

「それで、葉子、書けたものは? まだならまだで、いいんだけど、長かったね、なにしてたの?」

「書けたもの? そりゃあ、あっただろうけど、そのうちに多分、こっちに届くよ、久保に、じゃないや、おれはポストに入れたんだから、確か、そうだったはず、おれは、なにしてた? おれはなにしてたんだっけ? 旅だ、それは、あるいはなにか?」

道夫が僕の頭上から、

「だめだ、こいつは酔ってるよ、もう何杯も飲んだんだから」

すると恵美が嗜めるように、

「何杯も?」

「いや、でも、カクテルですよ、弱いカクテル、こいつとゲームしてたんです」

「どんな?」

「端から飲むっていう……」

「それがゲーム?」

道夫は僕に何か言えというように見てくるので、

「道夫はおれに酒を教えてくれてたんだよ」

「なにがわかった?」

理玖がそう訊ねると、

「う〜ん、結局味なんかはどうでもいいってこと」

「わかってるじゃん」

理玖は乗り気でそう言ってから、道夫に、

「おい、一番美味いのを出してみろよ、おれと、恵美に」

道夫は上目遣いで二人を伺いみると、はいと言って背中を向けた。チラッと振り返ってモニターを確認すると、それに合わせて鼻歌を始めながら酒棚を漁った。

「葉子、それにしても遅かったな、なにか思い残すことがあった?」

「思い残し……そんなものはなかったけど、あのね、戸惑いなら、迷いなら、おれには夢と現実の区別がつかなくなってしまってさ、現実に定着したリアリティがどれなのか選ぶことができなくて、どれも幻のようにキラキラしてた、でも、意識ひとつで簡単に移り変わった、見え方がね、あれ? おれは酔ってるのかな?」

「いいや、酔ってなんかいないよ、お前の言い方を借りれば、お前はまたひとつ別のリアリティに迷い混んでるわけだ、それを見ているということは、それはあるということなんだ」

「ああ、やけに饒舌になりそうだ、おれもあんたもね、誰か紙を、それかレコーダーでも……」

理玖はここにあるぜとノートを取り出す、ペンは道夫に借りた。

 *

僕は書く。僕たちは夜明けが来るまで飲んだ、店には僕らと道夫だけが残っていた、僕らは閉店作業を一緒にやった、普段なら店を開ける時間だったけれど、仕方なく今日は夜まで休みだと張り紙をしておくことにした。外に出ると、最初に恵美が伸びをした。伸びやかに、太陽に向けて蔦を伸ばす植物のように。それを見て僕たちは笑い、すると恵美はえっと言うように振り返ったのだ、理玖が、恵美だけ体力が有り余ってる、と言うと、恵美はその通りだというように、海に行かない? と言った、それが冗談だったのか、本気だったか、わからないけれど、僕らもそのどちらともつかない、曖昧さで、じゃあ、行こうか、と言うと、すぐに二車線の道路をピョンと横切って海に降りて行ってしまう恵美のあとを、急いで追いかけた。今朝は、光が停滞していて、まるで変化というものは状態の移行に過ぎないのではないか、もしかしたらこの光はずっと昔からここにあった光で、それは揺れることで音を奏でるようにこの世の見せかけの姿を変えるのではないか、そう思えるほどだった。海は、ずっと遠くまで広がっていた、朝日が海の面をキラキラと輝かせていて、一面が真っ青な海には、波の裏にも、影ひとつなかった、海は光を蓄える、反射のない、映し出すこともない鏡のようだった。僕らは波打ち際を歩いた。恵美が先頭、続いて道夫が、そして僕と理玖は話しながら歩いた。

「道夫は恵美が好きなんだよ」

「そう? そうだろうね、かわいい奴」

「なんでも言うことを聞きたがるよ」

「でも恵美は言わないでしょ?」

「ああ、その人としたいこと以外はね、やってもらうなんてこと、恵美には考えもつかないんじゃないかなあ、一緒にやるんでないと、それをやらせるなんてこと、楽しくないじゃないという風に、太陽の子供だ! 海がこんなに明るいなんて!」

理玖が叫んだので、恵美は遠くから振り返って、なんてー? と大きな声で言った、恵美が大声を出すのを僕は初めて聞いた、それは恵美独特の低くて震えの少ない声、だけど小さくざらついていて、その上抜けがよくて、よく響く声なのだ、叫ぶとその残響が、鳥の影のように飛び去って行く。理玖が、

「恵美は、絵を描きたいんじゃない? こんな景色を見れば」

恵美は一瞬ポカンとしてから、気を取り直して、

「別に、そんなに変わらないよ、描くのも描かないのも」

そう理玖を突き放すのだ、また歩いて行く、足元の小枝を拾う、少しずつ海の中に踏み入っていく、冷たいと言って、肩から震える、ぼーっと後ろに突っ立っている道夫に手を差し出すと、道夫は大切そうにその手をとって、すると恵美は、ぐいっと、恵美に似合わずキャッなんて言いながらその手を引っ張ってしまう、道夫はバランスを崩して、波打ち際に膝をつく、恵美の手を汚さないようにと、その手を上に掲げながら、でも恵美はまたキャっと言ってその手を離してしまう、道夫は口を閉ざしたまま立ち上がると、不服なのか満足しているのか、よくわからない、ただ真っすぐな目を恵美の上に据えるのだ。恵美はこっちを振り返って、僕らを呼ぶ。だけど僕らの上には眠気が天使のように到来していたので、夢見心地でひらひらと手を振ってやった。恵美はなんだと落胆し、波打ち際から引き上げてくると、大きな流木に腰掛ける。そこからぼんやりと風景を眺める。おれは寝るよと言って理玖が家に帰ろうとすると、道夫も仕込みがあると言って帰ってしまったので、まだ目的もなくぼんやりとこの場所に残っているのは、ついに僕と恵美だけになってしまった。そのうち、黒の軽自動車が道路を走って行くのが見えた。

「理玖のじゃないの? あれ。なにか用事があったのかなあ」

「打ち合わせじゃない? ほら、小説の」

「まあそうだろうね」

「葉子の方は、調子はどう?」

「おれの? 小説の? さあね、全然わからないけど、ただ、今のところは、おれはそれをすることがとっても好きなんだよ、好きだし、まだまだやるべきことがいくらでもあると思う、やれることが、ね、おれがやらないといけない、完成しないものが、この世にはたまだいくらかあると思う、だからおれは、いくらでもやるつもりだよ、恵美は?」

「う〜んどうだろう、今のところは私は、そんな葉子のようには、なにかするべきことがなんて思うわけでもないし、私のはただの趣味かなあ、今度、個展があるんだけどね、理玖にも言ってないんだけど、向こうで、二日だけなんだけど、それで最近は結構描いてはいるんだけど、描けば描くほど、これはやっぱり趣味なんだって、葉子も理玖もがっかりするかもしれないけど、私は、他に仕事を持とうかなあと」

「ふぅん、がっかりねぇ、そのときになってみないとわからないよ。でも恵美には、お金あるんじゃないの? 結構、自由そうだけど」

「今は生活費は親が出してくれてるけど、弟もいるしねぇ、大学を卒業後は稼ぐよ、自分で」

「そんなもんかなあ?」

「そんなもんだよ」

「それじゃあ、おれや理玖なんかが必死なのもバカみたいだ」

「それは、私にはなんとも言えない領域だ、二人の熱意というか、そういうのが、おかしなものだとは全然思わないよ」

「恵美、あんたはどうして理玖と来たの?」

「それは、理玖が絶対に真剣なんだってわかったから、それが何かはわからずとも、絶対に真剣な何かが理玖には見えていると思ったから」

「これだ、って思ったわけ?」

「理玖がそう思ったほどには、思えたとは言えないかなあ」

「そう? ああ、おれもいつか、あんたに本気なものを見せてやりたいけど」

「私に?」

そのとき恵美は、普段の表情のちょっとした硬さというか、人に踏み込ませるのを躊躇させるような厳密さから、すっと抜け出して、なんの気もなく、ただ笑うようににっこりと笑ったのだった、ああ、恵美の目、それは見るものを飲み込んでしまうようにいつも大きくて見開かれていて、その表情といえば無というよりもすべてがそこに渦巻いているような沈黙であるのだけれど、このときばかりは恵美は、笑顔の一色にその顔を染め上げたのだ。僕は思わず見惚れてしまった。それからすぐにこう付け加えた。

「誰に対しても、だよ」

「がんばりな」

そう言うと恵美はまた海の風景に帰っていった。しばらくして、伸びをすると、堤防の方に歩いて行き、木陰のブルーシートを勢いよく探すと、そこに置いたままになっていた画材と、イーゼル、椅子なんかを取り出して、作業にかかった。

 *

 恵美はいつもパステル画を描いた。恵美が描くと、筆は風が雲を運ぶように、あるいは大自然が。一撃でその様を大きく変えてしまうように、大きく、遅く思えるほど一息に早く、絵は夢の中を歩く大股歩きのように、いつも一瞬で様相を変えてしまうのだった。僕には絵のことが今でもさっぱりわからないけど、恵美が描くのを見ていると、そのタッチには迷いがなく、というか、間違いというものの可能性が最初から含まれていないようなのだ、それはヨットのように海をスイスイと進んでいく。事物の輪郭などではなく、かといって色でもない、もっとその奥にある、ある深く抽象的な解像度での世界の掴み、というようなものを恵美の筆は確かに捉えていた。 



あんな風に描くのが、どんなに楽しいことだろう、恵美は、それを描くのにどんな努力も必要としていないようだった、単純にそれは筆の動きであり、同化することは夢を見るように当たり前のことだった。それなのに、恵美は自分の絵になんて、なんのこだわりももっていないのだ、恵美にはそれがあまりにも当たり前に備わっていたので、恵美はそれが損なわれるものだとは一瞬たりとも考えたことがなかった。恵美は風景を見ていてもそれを絵画的に見るのではないし、恵美のそれは、最も親しい兄弟のように、二重人格の二人目のように、長年寄り添ったので、それからも寄り添うというようなそれであり、それだからそれをもっと上手になどといったような考えなど、恵美はこれっぽっちも持っていなかった。最もすごい絵はなにか? ともしも恵美に訊ねたなら、恵美はきっと答えられないだろう、代わりに好きな絵のことなら、いくらでも話せただろう。恵美にはただ絵を描くことが、これまでとても自然な在り方だった、ああだから履き潰されたスニーカーのように、連れ添うとも、大切になどしないのだ。恵美はどんなつもりで僕と理玖が本の話をしているのを聞いていたんだろう? きっとかなりポカンと、別に惑星の話を聞くように? それとももっと簡単に、別の人の話を聞くように? 恵美には他人という言葉が当たり前に親し過ぎたのだ、恵美は誰に何を求めることもなかったし、私の好き、がどれだけはっきりしていようとその引き際を知っていた。なんというただあることと調和した精神だろう! もしかしたら恵美には、死ぬことなんて少しも怖くないのではないか? 恵美には、今あるということなど瞬きのひとつとの偶然の出会いというだけで、この大きくて丸い形の目がパチンと瞬きをするたびに、恵美はすべてを忘れてしまうのではないか? あくびをしたあとで、涙を溜めた目を細くしながら指でそれを拭うとき、そのときだけ恵美は、とっても幼く見える。恵美は寂しいのか嬉しいのかわからずに笑いながら泣く子のように、ぱちんと星を産むように笑顔を産み落とし、それで照れくさそうに首を傾げるのだ。ああ恵美には、生きるなんて言葉も、存在と言うのも固すぎて似合わないのではないか? 恵美は、ただあるといっても捕まえられない、恵美はあるよりも先に、そこにはいないのだから、恵美はだから、ただ見られた幻のように、いつでも無関心というか、なんとなくただ通り過ぎるように、そこにいた、というよりも、それをしていた。旅するということは恵美の生き方が知っていた。いいや恵美は生きてさえいなかった。恵美は自分の好きなものを並べ立てることなら、どれだけでも簡単だっただろうけど、恵美は好きということを特段重視してはいなかったので、それを捨てるときがきたならいつでも捨てられただろう。恵美は火事の中画材を探すために命を落とすような真似はしない、恵美は命の形を探し出すために、あること、流れること、あるとして流れるものの流れを乱しはしない。



「ねぇ恵美、それじゃあんたは、どうして自分で生きてるのさ、自分の足で、わざわざ重い命を運ぶのさ」

「重い命?」

「ああ、そうか、あんたのは姿形だにない幻だったか、それじゃあんたは世界の戯れのひとつの地点というか、強度というか、今はただそこにあるものとしての軽さなわけだ。今日はどちらへ?」

「カフェへ」

「道夫たちを描くの?」

「静物」

「ああそう。おれも行くよ、理玖も、朝早くから出かけたことだし」

 *

 その日、店に行くと、店の前に軽トラが止まっていた。その荷台から何やら重そうな箱を運んでいた道夫は、僕らが来たのに気がつくと、無表情の顔をむっくりと上げて、僕に照準を定めて、手伝ってくれよと言った。なんのことかもわからないまま駆け寄り、早速僕が箱に手をかけようとすると、重いぞ、と道夫が言うので、何が入ってるのさ、と訊ねると、果物と、野菜だと言う。

「こんな季節に?」

「ああ、これからは、扱うことにしたんだよ」

「流石こんな田舎だねぇ、要望でもあったの?」

「いいや、別に、そんなものでも、あった方がいいかと思って」

それから、僕らは手分けして木箱を店の中の、道夫の言う場所に陳列し始めた。十回も往復して、ようやくすべて運び終えたころには、もう身体がボロボロだった。僕は疲れてなだれ込むようにテーブル席についた。恵美は、箱の中からひとつ形のいいレモンを手に取ると、それを弄りながら席にやってきて、テーブルの真ん中にコトンと置いてやる。僕ら二人とも、しばらくは何をする気にもなれず、ひっそりとした店の中でうなだれていると、道夫が早速、今朝のフルーツを絞ったジュースを僕らに出してくれた。僕は、酸っぱいのは苦手だったから、ちょっとだけ飲んで、舌を尖らせたいのを我慢して、頬をピクピクとやった。それでも、疲れていた体には美味しくて、次は舌に当てないようにごくごくとジュースを飲むと、すっかり生き返ったようだった。僕が飲み干してしまうと、恵美は何を思ったのか、その空のグラスをさっと引き取って、テーブルの上のさっきのレモンの隣に並べるのだ。じーっとそんな光景を見ている恵美のことを、僕の方でもぼんやりと見つめていると、そのうちに、恵美と僕とで目が合った。恵美は、すっかり僕がいることを忘れていたというように、目を大きく見開いて、ああ! なんて、似合いもしない大声で言ったのだった。カウンターの内側に戻って何か作業をしていた道夫が顔を起こして僕らの方をじっと見やると、何を言うわけでもなくツカツカと歩み寄ってきた、かと思うと道夫は店を出て、表の看板を、オープン、にひっくり返したのだ。それからまたカウンターの中に戻り、じっとテレビを見つめる。

 *

 あるとき、恵美は、僕の肖像画を描くと言い出した。恵美は、そのまま椅子に座っていればそれでいいと言うのだけど、照れ臭さを抜きにしても、じっと、恵美が僕を描いているを待っているというのは、恵美がどんな風に海や木々を描くか、側で見てよく知っていた僕だったから余計に、ああ、とても恵美がすぐ隣で集中力をはっきりしているというのに、じっとしていられる僕ではなかったのだ。僕の目は、描かれるものの、ぼうぜんと置き忘れられたようなそれではなく、やはり、書くように動いてしまう。恵美がどんな風なにかが、ぉうしても気になるのだ。それでも恵美は、そんなとき、ふっと、優しい言い方で諌める低学年クラスを受け持った女教師、というように笑い、僕を元のところに押し込めてしまう。ああ、僕をそんなひとつのイメージの中に閉じ込める、なんて、難しいことだったに違いない。それを捉えたと思った一瞬後では、もう僕の笑顔は、どんなにそれが前と同じ姿をしていようが、前と同じイメージで捉えることなどできないというほど、僕は変わりやすい方だった、いいや、僕は車中から見た風景のように、まさに、風景というのはどれも車中から見たそれである、というように、ああ、ただ僕であるもの、その固定点なんてものはなかったのだから! それでも、どんなに僕がその中心を見よう見ようと試みれば更に虚無である巨大な穴であったとしても、恵美の完成させるのは、いつも確かに完全なひとつの気分を表していた。ああなんてことなんだろう、どうして恵美はそんなものを描けるのだろう、それは、どんな手が僕を捕まえるというんだろう、何度恵美が僕の絵を完成させ、その度にそこにいる僕の姿を見たとて、僕にはとてもわからない。ああ恵美は、そうだ、恵美はそれを、それだ! と指し示しなどしなくても、沈黙のうちにでもそれを表現できるというか、言葉なくしてそれの全体を感じ取る、そんなことをするためには、天才的だったのだ。恵美はそれがどんなに姿を変えやすいものであろうと、始めからその姿なんてものを見てはいないのだ、恵美はただ。それが変わるなら、それの手を取り踊るダンサーであり、筆がその動きではなく、その姿の方を捉えるなんてこと、決してなかったのだ。ああ、だから恵美はどんなところででもそれを描けたのだろう、どんな風に生きようとも、生きていけたのだろう。何が変わったのだとしても、変わらないものなどないのだ、だから何も、変わってないいないのだ。恵美には最善などという価値観はないのだろう、恵美はただ、生きることを生きていた。恵美の表情が、どんな風にはつらつとしているか、恵美の体がどんな風に弾むのか、ああ、それはまるで、なんというかその、とても言えない。恵美には、とにかくあまりに透き通った白さをしているから、そのはっきりしていることがかえってそのものの定着を妨げるというように、霊的なところがあった。恵美はどのような言葉にも捕まりはしない、しかし恵美は捕まらないということに対してさえ掴まらないので、時には簡単な罠にもかかってしまうのだろうが、愛をどこに隠し持っているのか、それとも持ってさえいないのかわからない、あのずる賢くもお茶目な猫のように。

 *

その頃、理玖は僕も恵美も寄せ付けないほど奔走していて、カフェにも全然現れなければ、家で一緒に過ごす時間さえもほとんどないといった具合だった。理玖は、夜は早く寝る、そして朝早くに家を出て行くという生活周期だったから、僕らは海から、理玖の車の亡霊をいつも閑散とした田舎道に見て、それをなによりの寝の合図としていた。理玖の車がまた走ってく、どこにだろう、多分金のことだろう、とでも話しながら、眠い脳みそを引きずって理玖の走っていったのとは逆の、家に帰るのだった。ある朝、僕が、たまたま先に眠気がきたので、恵美を置いて一人で家に帰ると、そこには朝の支度をする理玖の姿があった、理玖は牛乳をラッパ飲みしながら、別の手で卵を乗せたトーストを待機させていた、僕と目を合わせると、急いで腕時計を確認して、トーストに齧り付いてから、ふがふがと言った。

「行かなきゃ」 

「今日も? 大変だねぇ」

「ああ、葉子は、詩はできた?」

「それじゃ父親みたいだよ、仕事に行くの?」

「ああ仕事みたいなものさ」

「大変だねぇ」

僕は、着いて行ってもよかったのだ、でも理玖があんまり僕たちにそれをひた隠しにしようとするから、あえて詮索する気にもなれなくて、ああ理玖、それじゃあ理玖はそれでいいんだね? 本当に、あんたが本気でそう望むなら、おれも止めやしないよ、それを薄情だって思う? いいや、あんたは思いはしないのだ。理玖は、その頃、僕たちには何も気づかせないように、一人で黙って、必死に資金集めをしていた、理玖は僕のを本の形にしてやりたいと思って。靴下を抜いでソファに身を投げる僕に向かって、理玖は、

「おい葉子、なにか詩は? 歌えよ」

「あは、無理だよ、こんな朝っぱらから、おれはあんたの鳥籠の鳥じゃないんでね、でもまあいいや、それじゃこんなことがあったのを、聞きなよ、この前、恵美と海で絵を描いてたら、恵美がだよ、恵美が絵を描いてたら、向こうから中型犬、柴犬よりもちょっとシュッとした奴がやってきてさ、リードを砂の上にバタバタとやりながら、逃げてきたんだよ、犬の鼻には赤いハンカチみたいなのが引っかかってて、犬は僕たちの周りを嬉しそうに走り回るんだよ、恵美が、手を広げてそいつを懐に招き入れて、それからそっとその犬のハンカチをとってやると、そこには誰のか知らないけど、確かに尿の臭いが染み込んでたんだね、恵美はうえっと言いながら、でも誰のかわからないハンカチを捨てるわけにも行かずに、困っていると、向こうから女の子がとぼとぼとやってきて、犬のところにツカツカと寄っていく、女の子はむすっとした顔でいつのまにか無力となってそこらに横たわってる犬のリードを取るんだよ、それから僕たちの方を振り返って、ふいっと手を指し伸ばすわけだ、そのハンカチをおくれ、と言うように、恵美が返してやると、その子は自慢げにハンカチを犬の鼻に当ててね、すると犬は瞬時にむくっと起き上がって、はっはっと走り出すんだよ、女の子はリードのストラップだったんじゃないかというように、ぐらんぐらんと揺さぶられながら犬と走ってく」

「いい歌だ! いい歌だ!」

「あっはっは、それじゃあんたが鳥みたいだよ」

それで理玖は今日も金を稼ぎに行くのだ。理玖は空き巣だけじゃなく、音楽スタジオから楽器を、映像の専門学校からカメラやレンズを、服屋から服を、路上から自転車を、なんでも盗めるものは盗んで、それを金に変えていた。僕は知らなかった。理玖が、確かにまともに働いているとは思っていなかったけど、理玖が今でもまだそれほど金を必要としているのだなんてこと、僕は、出版の話は、僕の手紙のようにどこか別のところに流れ着いてしまったんだと思ってた。

 *

 僕は、理玖と入れ替わりに、その日は二階に上がるのも面倒だからと、リビングの向こうの寝間にある、理玖の、元々は理玖のお爺ちゃんのものだったベッドで眠る。しばらくして恵美が帰ってきたのがわかる。恵美は洗面所で手を洗うと、それから風呂に入る、ああそういえば、その日は、僕は、風呂に入るのを忘れてたなあ、僕がすやすや眠っていると、風呂を出てきた恵美はキッチンでコップに飲み物を注いで、それを持ってリビングにやってくる、髪を乾かしながらなんもなくテレビをつけ、ぼーと眺めていると、その向こうの襖が空いている、そのベッドに僕の寝転がっているのを見つける。恵美は、なんでもないように、ただそこに僕がいる、話し相手を見つけたとばかりに、コップをテーブルに置くと、ちょっと前傾姿勢になってそんなことを言う。

「そろそろ、東京に絵、送らないとねぇ、どれを展示するかも考えなきゃいけないし、起きたら手伝ってくれる? 選んで、送るのから、一枚ずつ厚紙で包むの」

 僕は、ただ、ひらひらと手をやり合図をする。

 *

 その日、僕を眠りから覚ましたのは、枕元で鳴る電話の音だった。家は静まりかえっていて、音は虫歯みたいにピンポイントに響いた。僕はそれをとってベッドを出ると、襖を開けて、居間のソファに座り込み、肘掛けからタバコをとって、火をつけてから、電話に出た。久保からだった。

「よお。お前、今何してるの? 理玖のとこなんだよな?」

「何してるって? 何が?」

 そんな風に僕が周りくどい言い方をしたのも、電話の向こうでひよりや美見や、それだけじゃない、みんなの声のざわめきが聞こえたからだった。

「何がって、学校にも来ないでさ」

「学校、ああ、なんて響きだ。あんたこそ何をしてるの? そこは、教室?」

「学祭の準備中だよ」

「ああそれで、同じクラスたる俺に? 参加の意図はってこと?」

「そんなんじゃねぇよ。お前は、今、何をしてるんだって」

 僕は、タバコの火を消して、二本目のに火をつける。ソファから立ち上がると、キッチンへ出向いて、牛乳をラッパ飲みする。口元を腕で拭いながら、

「おれは、小説を書いてるよ、少しずつ、どんなのだかは、また見せてあげるよ。ああそうだ! あんたのとこの脚本は? 順調に進んでるの?」

「さあな」

 久保は、お手上げというようにそう言った。そのとき、電話を耳から離したのか、向こうのざわめきが一層クリアに聞こえた。僕は、ズボンを探しに寝室に戻り、ベッドの上で布団と混ざり合ったそれを取ると、足を通して、チャックを開けたままガニ股で歩いて居間に戻ると、床に落ちていたシャツを羽織り、それから壁にかけてあるコートを、椅子にでも引っ掛けるように肩に被せた。そのとき、葉子君、という冗談っぽい声がした。ひよりのものだ。

「うん。久しぶり、久しぶり!」

 僕はそう言うと、もう電話を切りたいほどの気分だったけど、やめて、スピーカーモードにすると、携帯をテーブルの上に投げ出した。また新しいタバコに火をつける。

「そこには、みんないるの? 学祭の準備中だって? 綾瀬も? すると、もう本は書けたんだね?」

「どうだろう〜」

 たひよりもまた、久保と同じように、どこか楽しげに、はぐらかすようなのだ。

「楽しくね、いい劇になるといいね。それじゃあ、用件はそれだけ?」

 向こうでは、誰がこれに対応するか、電話の前で譲り合っているようなのだ。僕は、

「ねぇ久保」

 と言って久保を呼び出すと、

「こっちは、快適にやってるよ、まだ二、三人住めそうなくらいの家だ、あんただってこかに来たっていいくらいだよ」

「バカが」

 と吐き捨てた久保の声は、とても付き合ってられないと言うようだった。そのとき廊下の軋む音が聞こえた。恵美が起きてきたのだろう。僕は、ごめんよと言って電話を切ると携帯を置いてキッチンに先回りし、硬い椅子に座って恵美を迎える。恵美は、おはようと言って、理玖の祖父が取っていたのであろう新聞の山積みとなった向こうに座る。タバコに火をつけ、深く三回ほど吸うと、立ち上がり、朝に理玖が入れていった残りのコーヒーを、ボタンひとつで温めて、コップに注いだ。恵美は、また席に、浅く腰掛けて、ゆっくりとコーヒーを啜りながら、

「話してた?」

「学校の子と、電話」

「ああ」

 と恵美は遠い目をするのだった。それから僕をじっと見て、高校生なんだったね、と思い出したように、クスッと笑う。からかうように、

「今日は、帰らなくていいの?」

「まさか、帰るところなんてないよ」

「そうだね」

 と恵美の言ったのは、どこか投げやりというか、言っただけ、というようなもので、特にそこに興味も関心もなかったというように、ぼうっと目の焦点を合わせずにコーヒーを半分ほど飲むと、コップを持って立ち上がり、ジャケットを羽織って、家を出てく。それから僕たちは、赤い扉の大きな倉庫の中で、眠っている恵美の作品を、ひとつずつ、手に取って、思い出し、名づけていくように、梱包していくのだ。



 作業を終えると、もうすっかり夜中だった。僕らが煙草を吸いながらぼんやりしていると、ガツンという衝撃音とともに、倉庫がビリビリと揺れた。車の扉が素早く空き、倉庫とその間に走り込んで、大丈夫ぶだ! と叫んだのは、理玖の声だった。僕と恵美も思わず駆け出して、倉庫を回り込むも、そこには傷ひとつないらしいそうと密着した車とがあり、当の理玖はというと、車のボンネットにもたれかかるようにして、今にも眠り出しそうだった。僕が揺り起こすと、理玖は、薄い目を開けて、ああ、と声を漏らしてから、いいや、歩けるよ、と僕の手を離れて、振り返りもしないで家の方に歩いていく。僕も恵美も示し合わせたわけでもなく理玖の不安定に歩くのについて行こうとすると、いいや、と理玖は声を尖らせて言った。

「心配しなくてもいいよ、何より、眠いので、あんたらを喜ばせそうにもない、おれは先に寝させてもらうことにするさ! 誰かが起きてきて、何か言うかも知れない、そのときは、ちょっとぶつかっただけとでも、だけど、話が面倒になりそうなら、すぐにおれを起こしてくれて結構!」



僕と恵美は、理玖を静かに眠らせてあげるためにも、その日はそのまま家を出て、道夫の店に行くことにした。店について、カウンター席に着くと、道夫がやってきて、ひっそりと耳打ちをするように、フロアのテーブル席に一人で座る女の人に目配せをした。どうしたの? と恵美が訪ねると、道夫は、理玖に会いにきたひとだ、と言った。理玖が今日はどう言う状況なのか、恵美が手短に伝えると、道夫は仕方ないと言うように、少し厳しい表情で、カウンターを出ようとするので、僕はいいよとそれを静止して、恵美と、水の入ったグラスを手に取り、彼女の席に移動することにした。こんにちは、とでも言いながら。彼女はいぶきという名前だった。理玖とは、小中の同級生だったらしい。風の噂で理玖がこっちに帰ってきていることを知ると、自分も仕事を辞めて実家でなんとなく日々を過ごしていた、その親近感からというわけではないけど、なんとなく、子供の頃にそうなると息巻いていた理玖が、実際に作家になった姿を拝みでもすれば、なにか変わるかもしれない、別に変わるためにというわけではなくとも、何かいい風が吹くかもしれないとでも思ってやってきたと言う。いぶきは、僕らが理玖とどんな関係か、聞くと、僕の顔をじっと見つめて、理玖とそっくりだ、と言った。

「ううん。その顔が、じゃなくてね、顔が似てるんじゃなくて、なんというか、その表情が、じっときつく、なにかを見つめているような顔の色が、似てる。って言っても私が最後に理玖と会ったのは、高校のときに、二人で何度かだけだけど、うん、そのときの、どんだん遠くに行っちゃったような理玖と、そっくり、その顔の、あはは、思い出したんだけどね、その時の理玖にこんなことを言ったら、理玖が言ったのら笑っちゃってしばらく忘れられなかった、変な言い方でね、おれの顔の上に吹く風、って、なんとなく、理玖は遠くにいるような気がする、見ていても見ていなくても、同じだけ遠くに、だからやさしいようでも、厳しいようでも、まるで関心がないようにも見える、って言ったら、顔の上に風が吹くかららって、あはは、変でしょ? 思い出した!」

 それから、いぶきの僕を見つめる目は、ますます思い出の中の理玖を見るようなそれに変わり、

「葉子君も? 作家なの?」

「ああ、えっと、なんというか、そうですよ、おれなんかはひとりで書いてるだけですけど、一応は」

 そんな返事の何が面白いのか、いぶきは手を叩いて笑うのだ。

「あー、面白い。理玖がそんな生活してるなんて、変なの。まあ、昔から変だったか」

 そんな風に言いながら、まじまじと僕を見るものだから、

「おれなんかで楽しまなくても、そのうち理玖が起きてきますよ、朝になったら、すぐ近くに家があるんです、来ますか?」

 僕がそう言っても、いぶきは、いい、と簡単に首を振るだけだった。

「いいの。今さら会ったところで、話すこともないしねぇ。なんとなく、顔だけでも見たかっただけだから、どうしてるんだろう〜ってね、なんとかなるつもりもないのに、今更会いにくいでしょ?」

 それよりも、理玖の話をしてと、いぶきは僕らに言った。話は、今の理玖と、小さい頃の理玖のどんな姿との間をも、ピンボールのように行ったり来たりする。その度に重なるのはポイントでもなんでもなく、ただいぶきの笑いであり、最後には、いぶきは、理玖によろしくと言うと、去っていった。

「また来るかも!」

 と元気に言い残して。



朝早く、僕らは家に帰った。恵美は風呂に入り、僕は居間に行った。すると、薄い襖の向こうで眠っている理玖のすぐ側で、目覚ましのアラームがけたたましく鳴っていた。僕は理玖の枕元に腰を下ろして、その音を止めてやろうとした、そのときに、その上で、理玖と手と僕のとが、ぴったりと重なった。寝ぼけたまま元気な理玖は、

「この手はペンを握りしめる者の手だ!」

 と絶叫し、僕ははんと鼻で笑いながら、

「その手は毎日ハンドルを握る手だねぇ」

 と言った。理玖は跳ね起きて、ベッドをさっと直すと、どんな皮肉なのか、

「どうぞ」

 と僕にその場を譲り渡すのだ。それから、ふらっと立ち上がり、居間の方に行こうとするので、僕は追いかける。

「今日はどちらへ?」

 理玖はそれを聞こうともしないで、

「今日はどんな詩が?」

 と言うから、

「いぶきって人に会ったよ、道夫のところで、あんたの同級生なんだってねぇ、僕を見て昔のあんたとそっくりだ、とか言って笑ってた、また来るってさ、次はあんたが会ってあげなよ」

 すると理玖の背中は、ビクンと大きく跳ねた。しかしなんでもなかったというようにズンズン進んだ、風呂場のドアを開けると、恵美に大声で、

「顔を洗うよ!」

 も知らせて、急いで顔を水で濡らすと、

「もう出たよ!」

 とこれを叫ぶように言った。前も見えていないようで、洗面所から出ようとする理玖は僕とぶつかってもつれ、ははは、と手で顔を覆い隠しながら笑い、もう片方の手で僕を押しのけようとするので、僕がその手を掴んで、肩を組み、キッチンまで理玖を運んでやると、理玖はありがとうとしおらしく言って、席に座り込んだ。僕は、計量器に並々と水を注いで、コーヒーマシンに入れる。コップをセットして電源を入れると、マシンはコーヒーを淹れ始める。理玖は今度は、また大声を張り上げて、

「ありがとう!」

 と言った、僕はそれを無視して、

「今日はどこへ?」

 すると理玖は、はっとバカらしいというやうに笑い、

「仕事だよ、仕事、仕事」

 そう言うので、

「あんたはこっちで休職中なんだって聞いたんだけどね」

 と僕が言うと、理玖は、

「そうだよ、そうだ!」

 とそれもふざけて返事をするのだ。

「たまには休んだら?」

 僕が言うと、目玉がひっくり返るほど、ぐるっと首を回して僕の顔をじっと見て、身が解けるほど朗らかに笑い、

「もう少しすれば、おれも休むよ。お前は、小説のことを考えてるんだな、生粋の、芸術家さん」

 そのとき、コーヒーメーカーがピーピーと音を立てる、理玖は散らかったテーブルの上からさっと鍵を掴み取ると、コーヒーメーカーの扉を開け、コップを手に取ったまま、行ってしまいそうになるから、僕が、煙草を、とからかうように言うと、理玖はポケットの中を弄って、箱ごと僕にくれてやろうとする。僕が、一本受け取って口に咥えたままでいるのを見ると、テーブルをひっくり返してライターを見つけだし、僕の口元で火を燃やすので、僕は少し屈んで煙草に火をつけ、理玖に、ありがとう、と言った。

「あんたも吸っていけば?」

 と僕が言うのに、理玖は困ったように顔をくしゃっとして、

「車の中ででも吸うさ」

 と言った。

「一週間もしないうちに、またいぶきさんは来るんじゃないかなあ、理玖によろしくって言ってたんだよ」

「うん、顔を出すよ、おれも、会いたいとでも言っといて、もしも会えば、おれを呼び出したっていい」

 それは、いつも理玖がするような、とりあえず拵えた返事だったけど、そのあとで理玖は、自分の言ったのが思いの外本心を言い当てているのではないか? というように一瞬静止したのだ。理玖は、

「どんな風だった?」

 と柄にもなく訊ねた、それが面白くて、僕は笑いながら、でも、できるだけ正確になるように努めて、

「元気な人だったよ、いいや、元気というか、丈夫そうな人だった、失業して帰ってきたんだって言ってたけど、どんな悪い風が吹くのもお構いなしというか、やられてはしまわないというようで、からっとしてるってわけじゃなくても、なんというか、地に足をつけて歩けると言ったような、たくましくて、そうだ、とっても健康な!」

「健康! そうだ、おれもその言葉を探してたよ、ありがとう、そうだ、彼女は健康な人だ、また会うよ、約束するよ、今日は、じゃあね!」

 理玖はそう言い残して、行ってしまった。僕は理玖の寝ていたベッドにつき、風呂から出てきた恵美は、理玖が忘れていったコーヒーを手に取り、居間にやってきた。テレビを見ながらコーヒーを啜り、部屋の暖房をつけようとしてもつかないようで、壊れてる、とひとりぼそっと呟いた。



 その日、理玖は、息を切らせて、目をあまりにもキョロキョロとさせながら、先に道夫の店で飲んでいた僕たちの元に現れた。理玖が言うには、酒を飲んで運転していたところを警察の車に見つかったのでそれで逃げてきたのだと、それで興奮しているのだと。理玖はまずは一杯と道夫に強い酒を持って来させた。しかし、どう見ても理玖はもう十分出来上がっているようだった、その興奮を度外視しても、頬があまりに紅潮していたし、目はもう目の前の景色だけを見ることはやめているようだった。事物を突き抜けてその混乱の中に、結局自分の見ようとするものを見てしまう目だ。理玖は、酒を飲むと、いきなり強い力で僕の手を握り、顔を熱く見つめて、葉子、と説得するような調子で言った。

「葉子、あのさ、金がなくなっちゃったんだよ、おれは知り合いの編集に確かにそれを渡したのに、そいつはそれを知らないと言って聞かないんだよ、今日もそいつのとこを訪ねてね、でも今日は、ついに面会さえしてもらえなかった。おれはずっと、朝から呼び出した喫茶店で、待ってたんだけど、待ちぼうけた、ああ、そのせいで、コーヒーの一杯を払うのも大変だった。手持ちの金がなくてさ、コンビニに、少しの金をおろしに行った、そのとき酒が並んでるのが見えた、おれはそれをコートに隠して、逃げた、カフェに、スマホを預けてきちゃったのにさ、それを取り返さずに、コーヒーたったの一杯と交換してしまってさ、ああ、車を運転しながら飲んでると赤信号で止まった警察の車が、隣でじっとおれを見てくるんだ、おれはワインボトルをゆらゆらと揺らせてやった、大胆にやれば案外ばれないだろうと思ってさ、それが、窓を開けて、おれにもそうしなさいと言うようにするから、おれは仕方なくそうした、でも、自分の頬がもう十分赤いってことくらいおれもわかってたよ、呂律が回ってないことも、第一、怒っていたから気狂い扱いは免れないだろうってことも、ああ、窓を開けると警察はおれに、それはお酒? とそんなわけはないよね? と問うように言うから、まさかそんなこと、とおれが笑って言うと、でも君は酔ってるみたいだけど? そう来るので、おれは、おれがこんな程度の酒で酔うと? そのとき信号が青に変わったのでおれはアクセルを踏んだ、ぐねぐねしたこっちの道に慣れたからか、どんな細道でも走れたし、警察を振り切るのは簡単だった。ああ、あれ、なんだっけ? おれはカーチェイスの自慢をしたいんじゃなくてさ、ふふ、まあ、あれはよかったなあ、飲酒運転ってのは、結構興奮する、ハンドルを握る手がもう命を直接掴んでいるのだとばかりに、それでおれが運転したというのも、あの編集の奴に会うためだったのさ、おれは確かにあいつに金を渡したんだよ、この手で、直接、これはこれこれのための金だと言ってね、ところがそいつは、それはお前の金とは違うんだ、と言って聞かず、それはお前の金ではないんだ、お前は僕にちょうど同額の借金があったじゃないですか、いいや、僕にならいい、しかしあなたが借りているのは、僕個人ではなく会社からなんですからね、だからこの金は、あなたのものではないんです。ああ、金ならできたときにいくらでも返せると言っても、そいつは聞かないんだ、それじゃあ白紙に戻ったおれらの関係の上に、傑作の塔を建てようと言っても、おれには信頼がなかったのだ、いいや、おれじゃないよ、ひとりすごい作家を知ってるよ、まだとても若くて、自分が書くための場所を探している、そいつの本を、なあ、手伝えよ、するとその男は、ではまずは原稿を見せてみろと、原稿! それは今紛失中ですよ、ああ、おれの言い方が悪かったのだ、男は一連をおれからのからかいと捉えて、ない小説は出せない、と去っていった。ああ、お前らのある小説がなんだというんだ、ちぇっ、おれは本当にそれを、あいつに手渡したんだ、あいつのしたことは、なんて酷いんだ! おれはなんだか疲れたよ、寝てくる、少しも寝てないんだよ、そのあとでしっかりと謝るからね、ごめん、葉子、恵美、こんなことにしてしまって、ああ、いいや、どうでもいいんだってことは知ってるさ、あんたらにはこれもどうでもいいんだと、出版がなんだ、それがなくたっても書くことはなくならないと、ああでも、おれは疲れたんだよ、もうこりごりだ、こればっかりはお前もプロになってみなければわからないんだ、誰にも届かないものなど、書きたくない、誰もいないところでなんて、おれは生きていたいと思えないんだ、ああ、話し相手を、人生に豊かさを、おれにぴったりの果実を、友達を……」

理玖はそして、幽霊のように去って行った。車のエンジンのかかる音がして、それからまた静かになった。僕と恵美はしばらく残って各々の時間を過ごしていたのだけど、どちらからということもなく示し合わせて、今夜ばかりはいつもより早く、理玖の待っている家に帰ろうということになった。しかしそこでは、パトカーが赤いランプをクルクルと回して、何台も倉庫の前に止まっていたのだ。理玖の車は倉庫に頭から突っ込んだのか、壊れていて、すでに助けだされていた理玖は、ぼつぜんとした様子で警察の車の中に、分厚いガラス窓の奥に座っていた。僕らに気がつくと、警察のひとりが寄ってきて、関係者かと訊ねるので、そうだと答えた。家族かと聞かれると、いいえと、だけど一緒に暮らしているんです、理玖がどうかしました? 恵美はそう訊ねると、遠くの理玖の方に首を伸ばして、近寄ろうとしても、警察はそれとなく進路を阻むのだった。彼がどうしたか、という点には今の段階では答えられません、なんせ余罪がたくさんあるので、しばらく留置所に入ることになります。恵美が理玖の車の壊れを見て、それよりもまず理玖の体は大丈夫なのかと問うと、警官は、パトカーを見るなりパニックを起こし、倉庫と軽くぶつかりました、倉庫が頑丈なものじゃなくてよかった、それとスピードの出しにくい田舎道で。理玖はまずは病院に行きますか? いいえ、あの程度じゃ体の方は大丈夫ですので、今夜から留置所にいくはずです。期間はどれくらい? 余罪の量次第ですが、彼の場合は、早く済めば二週間、でもおそらく二ヶ月か三ヶ月程度。ああ、僕には理玖の助け起こされる姿が見えていた。理玖はきっと無抵抗だっただろう、あの倉庫にぶつかってからは、理玖はすべてを諦めてしまっただろう、もう何もかもが面倒くさくなり、子供が目を覚ますのを嫌がるように項垂れて、ああしてなすがままだっただろう。僕はしばらくはなにもわからなかった。恵美が冷静なのも僕がわからないことも、なにも。しばらくして話が僕の方に及ぶと、僕は嫌でも明晰な意識を取り戻さなくてはならなかった。ああ僕は、ただの家出少年だったのだ。僕は、帰らなければならなかった。それも、あの車が壊れてしまった今となっては、警察の車で。僕は二人から引き離された。恵美はすぐに連絡すると言い、僕と理玖とが、反対の方向に出発するのが同時だった。ああ、僕は車の中で、眠ろうにも眠気が訪れなかった。さっきまで恵美とカフェで絵を描いていたのだ、僕はまたいくらか詩を書いた。恵美の描いていたのは鉛筆で描いた僕の肖像画で、僕が不機嫌そうに、しかしどこか気楽げに、片方の口角をむずむずと持ち上げながら、目でも左上の方を気にしているという絵だった。そして髪は適当に盛り上がっていて、シャツの襟元はラフに開いていた。いくつめの絵だっただろう! 僕が目を覚まして、じっと外の景色を眺めているのに気がつくと、警官はそんな僕の話し相手になろうとしてくれた。曰く、理玖は空き巣を繰り返していたらしいのだ、そのうちの一件を足がかりに今この付近でも空き巣事件の捜査が始まっている、それと今日の飲酒運転と、事故とを合わせると……警官は僕に、できればもう理玖には近寄るな、とそう忠告をしてくれた。学校はどうしてるのか? ああ、僕は、学校? なんだっけな、遠い昔の日々のように思えた。その問いは、僕が学校に対してどうしているのか? ではなく、学校は今学校としてどのように過ごしているだろう? という僕自身の疑問と見事に一致したので、僕はあははと思わず笑ってしまって、学校はどうしてるだろう、とお気に入りの歌みたく小さく口ずさんだ、それから、しばらくすると、みんなが一斉に僕めがけて押し寄せてきたのだ、ああ、それらはすべて十分に予想できることだった、僕に縋りついて泣く母親の姿も、興味なさげに正論を言う父親も、学校のみんなが僕とどう距離を取ってくれるのかと言うことまで、全部わかり切っていることだった、それらが押し寄せてくると僕は飲み込まれてしまった。

 *

 警察の車両に乗せてもらい、僕が帰宅したとき、母親がどんなに泣いたか? そんなこと、いちいち書きはしない。ただ僕は、それからすぐに、家を出た、母親がそれを承知するはずもなかったので、このように言い含めて、あのね、あんな風に警察というのは、なんの身分ももない僕を捕まえるのにも一生懸命なんだから、僕の命というのも十分に保障されているわけでね、僕はどこにもいなくならないし、ましてや死ぬこともない、ただの散歩だよ。

 *

 そうか、僕は帰ってきたんだ、てっきり、もう帰ってこないのだと思っていたのに、こんなにもあっさりと、僕はどこにも行けやしなかった、消える、その足で消えられやしなかった、僕はやっぱりまだひとりの僕として、僕の生まれた場所に帰ってきた、僕は詩でも旅でもなくましてや生そのものでもなく、なにものでもないものでもなく、ある確かさのようなものですらなく、風でなく音でなく、やっぱり以前までの僕で、みんながそう扱う僕で、帰って来れば、ここはやっぱり以前となにも変わっていなかった。変わらずに僕は完全に収まるところに収まるだろう、一冊の書物の登場人物のように、僕がどのように振る舞ったとしても一枚の頁が捲れるだけだろう、時の針が右に傾くだけに違いない、この時からは抜け出すことができない、どれだけの時間が経った? 曜日というのは、あんまり退屈なんで誰かがそれに色を塗ったのに違いない! 僕には見知った人生が用意されている。それが退屈なのは、僕がそれをよぉく理解しているからなんだ、それがあるときでもないときでも、同じようにそのような感動はもう十分経験済みなので、僕は不感症になってしまった。僕が学校に行けば、君たちはそこにいるのだ、僕が本を開けば君たちはそこに。ああ、僕は、みんなのことが嫌いなんじゃない、そうじゃないけど、みんなのことを、僕と同じように真剣だとは思えない、みんなにはみんなの言い分がある? でもそれは本当に言うに値するものなのか? 僕が磨き上げるほど、君たちの生に輝きがあるのか? ありはしないさ、君たちのは遊びだ、本当はどうだっていいんだ、ただちょっとそれが気持ちいいので、それを続けているだけなんだ、ああ君たちは、どれだけの苦痛でもそれを幸福と思えるのか? 僕が倒錯者に過ぎないだって? いいや、僕は単に、責任を取れると言っているんだ、僕は僕の芸術のためには、なにをかけたって構わない。君たちのが本気らしく見えるときでも本気ではないのは、その本気さがまるで本気ではないからなのだ、あるいは、その本気さがあまりに俗っぽい汗をかくからなのだ。あんたらのは遊びなんだ、あんたらは本当は、いつ死んでもいいと思ってるんだ、楽しいけれど楽しさに本当の価値など見出してやいないのだ、ああ本当に死ぬのが怖いのは僕さ、僕はそれが怖い、死ぬことが、ああどうしてもこれを克服できそうにない。

 *

 酔いはまだこんなところに残っていたんだ。僕は線路の上を歩く、その足取りの危うさの中に、それがそれであるということに気がつく、酔った、吐きそうだ……ここは丘のように盛り上がった線路であり、レールは二つ、フェンスもなにもありはしない、ああ、死ぬことが、かつてこれほど近かったことはない。いいや、僕は死にたくないのだ、死にたくないと強く思えば思うほど、それが死を招き寄せているようだと思える。僕はあまりに叫びすぎたので、もう死から隠れる術もなくなってしまったのだと悟る。そのときある焦燥感が僕を乗っ取った……夜がどんどん身体の中に忍び込み、内側を外側へと、捲り、風の中へと晒す。鍵状の風は肉にいくつも食い込んできては、僕の内面をより深く、際限もなく抉り取り、夜の冷たい花が咲くようにその傷跡から僕自身をいくつもいくつも開花させて止まない……僕は散弾銃で撃たれ続ける罪人の死体のようにもズタボロだった、それでも目を閉じると僕は、どんな風とでも出会えた、悪い気分ではなかった。そのとき電車が、線路を揺らした。僕は二つに一つだった。生きるのか、死ぬのか、振り返ることもなかった、僕はその振動を、ビリビリと感じていた、それはしゃっくり上げて泣く子供のように繊細に僕の体中を痙攣させた。電車は、走り去ってからそこに僕がいたことに気づいたのか、汽笛を鳴らし、それで完全に僕の魂はひゅっと連れ去られてしまう。

 *

 僕は地面に横たわった。目を閉じるとすべてが僕のなかで遊んでいるのがわかった。言葉、死、そして思い出たちや、遊びたちが遊んでいる。いつ燃え始めたのかもわからないフィルターのない煙草が指先をじりじりと焦がし始め、紙が焼かれ、ぴりぴり捲れて行くように、皮膚、唇、瞼、それら繊細で薄いものたちが焼かれ、これじゃあ、なんて受け入れやすいものなんだろう……この寒さの中では死ですら、なんと当たり前にあることだろう。そう思えた、衰弱、空気のないなか、溺れることの安さ、苦しくもなく静かな水の中……

 *

……やがて、吐き気が、いつの間に僕は眠ってしまったのだろう?……体がひどく冷えていた、僕はゆっくり身体を反転させて、真っ平なコンクリートの上を手のひらでさっと掃除する。その上に、顔を構えて、嘔吐した。無我夢中で指を喉の奥に突っ込んで、二度目の波を呼び、また吐いて……気の遠くなるほどその動作を繰り返しているうちにようやく、僕は僕の地面を見つけられて、そこに立つ、正気に戻る、気がつくと指先の汚れをそこら中で拭っていたらしくて、シャツも、ズボンも、随分汚れてしまっていた。おまけに顔中も吐しゃ物でいっぱいだったから、仕方なくシャツの下から四つ目までのボタンを開けて、開いた布の部分で顔を拭いた。夜風が裸である下腹部に心地よく、マントのようにもはためくシャツは、エリマキトカゲの襟巻のようで、僕はそいつらの王様にでもなったように気分がいい……ズボンのポケットから落ちた煙草を拾い、火をつけ、吸うと、頭は混濁したまま冴え切った。僕は煙草を投げ捨て、火種のところを上手に蹴る。分裂した小さな火が大気を呼吸しチカチカと明滅して消えた。

 *

歩いていると、雀の鳴き声が聞こえた。朝がくるといつも電線の間をすり抜けて飛び交わす二羽の雀がいたのだ。夜はまだ薄暗かった。青色の朝焼けの中で建物の角から手のような形をして伸びている大きな雲があった。遠くから犬の鳴き声が聞こえ、僕は歩きながら子供のようにしゃっくりを繰り返した。突然、僕はまた嘔吐し、その涙と吐しゃ物の中で笑った。僕はできるなら今ここで死んでしまいたかった。それほどいい気分だった。道にクリーム色の柔らかそうな液体を見つけると、蹲り、それを舐めた。十分に乾燥して固まっていたので、舌の上にざらついた感覚が残るだけだった。

 *

夜明けの肌寒さと、剥き出しの腹にある心地よさが、目覚めと同時に開く瞼のような地平の明るみに温められて、もうすぐ朝になるのだと気がついたときに、僕は懐に小銭をしまい込むように小さな声で「ワン」と吠えてみた。それは、世界の感動、沈黙の隙間に入り込んで咲いた一凛の花だ。ああ理玖に、僕はこれを見せてやりたい、理玖は、今頃どうなってしまっているんだろう? 理玖、あんた、ああこんなにも、そうだ、今夜ここに入り込んで咲いたのは、包み隠せもできない、あんたさ、あんたはなんて素敵な夢を見る方法を、僕に授けてくれたんだろう。

 *

沿線の道をずっと歩いていると、迷彩色のジープがやってきた。僕の目の前で止まった車の、照らし出すハイライトの射程から、なんだろう? と運転席を覗いてみたら、そこからひらひらと見下ろすような笑顔を差し向けてきたのは、兄だった。手でそう指し示すので、僕は言われた通り助手席に乗り込んだ。車はゆっくりと走り出す。

「どうしておれがここにいるってわかったの?」

「お前の携帯」

「ああそう、ずっと監視されてたわけだ」

僕はボンネットに足を投げ出して、煙草に火をつけた。兄はポカンと僕を見つめて、

「いつから吸ってたんだよ」

「ついこの前だよ」

「母さんにはバレるなよ? おれも父さんも、大変なんだから」

「わかってるよ、一本いかが?」

「いや、禁煙中」

「ああそう」

「どこ行ってたんだよ、母さん、今日はめっちゃ暴れてたぞ、せっかくお前が帰ってきたと思ったら、すぐに出て行って帰らないから、おれに迎えに行けって、そうじゃないなら警察を呼ぶって、お前も二回目警察の世話になるよりは、おれでよかっただろ?」

「うん、ありがとう、警察の車じゃ、ゆっくり煙草も吸えないからね、一応聞いておくけど、おれはこれから家に帰るの?」

「そうだよ、母さんに、一応謝ってやれ」

「ああ、はいはい、んで、それからは?」

「それから? お前は高校生だろ?」

「高校生? おれがまだ?」

「お前の先生が、もうすぐ学園祭だってわざわざ電話してきたぜ、ほら、あの、白衣着た国語科の」

「ああそう、そんなことが……」

兄は僕の横顔をじっと見つめる、そこに、ここにあるのではない、どこか遠くへの眼差しを見つけたのか、兄はそれを詮索する。

「お前、どこでなにしてたの? なにか面白いことがあった?」

「面白いこと、これはあったというよりは、それ全体が面白いことだった、わかる?」

「なんとなくな。とにかく、ずっと楽しかったってことだろ?」

「うん、当たり」

「すぐ戻るの?」

「あっちに?」

「うん」

「さあどうだろう、今度気分が変わるときまでどうなるかはわからないけど、でもとにかく、簡単に帰れるわけでもないんだよ、理玖って奴が、とにかく大変なことになっちゃってて」

「どんな奴? そいつといたの?」

「ああ、作家だよ、立派な作家、それと恵美って人と、道夫と、あとは名前も知らないけど、何人か近所でよく会う人と」

「お前も、書いてるんだっけ?」

「う〜ん、一応ね、まだ今のところは書いてるんだと思うよ」

「どういうことかわかんないけど」

「わからないけど、あんたにはわかるでしょ? なんてったってあんたは兄だし、それに

あんたの態度はなんというか、人類みな兄弟といったようなものだし」

「なんだそれ」

「気にしないでいいよ」

「なあ葉子、今度またネタ見てくれよ、お前が行ってる間にひとつできたから、お前の意見が聞きたいんだよ」

「ああいいよ、楽しみだなあ、ほんとに」

「おれもそのうち家を出るかなあ、今みたいな半居候みたいなんじゃなくて、もっと本格的にさ。流石に、本気で芸人目指すときは」

「楽しみだよ、お前がそうするとき」

「また、お前の友達も紹介してくれ!」

「ああいいよ、連絡してね、そのときは」

「なあ、家に帰ったら……」

「わかってるよ、まずは手洗いうがいと、ああおれはこの顔を洗わなきゃ、んで、母さんにも父さんにも謝るよ、そんでたっぷり寝て、学校に行くよ……学園祭、夢にも思わなかった!」

 *

 僕は何度も同じ場所を通るから眩暈のように記憶の中で圧縮される風景のなかで、自分の内側に目を向けるように見下ろしてもほんの先しか見えない鼻を見ようと目の意識を操作し、すると熱く苦い味がドクドクとそこに溜まっていることを感じ心臓からそれは一本の川のようだと思った。光が笑うようにとくとくいう川の音に似た響きが絶えず僕の耳のすぐ後ろにあり、今は少しその道が破れて鼻から血が漏れ出ているのだ、と思った。

 *

 その日は朝から雪がふっていたのだ。でもこの雪は軽いから積もらないよと言っても心配する母さんは予定の時間よりも早く僕を急き立て、車の助手席に乗せたのだった。凍結を心配していた道はほんの少し湿っているくらいで濡れているというほどでもなく、車の正面窓に落ちる雪は軽くて水滴さえも残さずに溶けてなくなってしまう。霧状に広がる雲は山並みを覆い隠すように低く、そこから気まぐれな神の手でちりばめられた粉のような雪がふり、それはまるで雲の上で戱れる天使たちの薄くて軽い羽のように清らかで、だからこの地上に落ちると簡単に消えてなくなってしまうのだ。

 *

ぼんやりと外の景色を見ていると、気づかないうちに鼻から血が滴り落ちて、それはシートベルトに触れると、雪同様にそれと染み込んで見えなくなった。僕はすぐにティッシュを鼻にあてがうと、もう目的だった学園祭の開かれる市の文化ホールのすぐ近くまでは来ていたのだけど、こんな状態でみんなのところに合流するわけにも行かなかないと、母さんに言って、血が止まるまでその建物の周囲をぐるぐると回ってもらうことにした。結局母さんの急かせた朝も無駄になり、僕がみんなのところに合流する頃には、とっくに約束の時間には遅れ過ぎていた。

 *

 車から降りるなり、僕は入り口で見張をしていた先生に捕まってしまった。先生は歩くにつれ僕の肩に薄く積もる雪を払いながら、早く中へ、と妙に僕を急かすのだった、僕はそのまま、舞台裏にまで連れて行かれた、そこではまさに今、前のクラスの劇が終わって次の僕たちのクラスの劇が開幕する準備をしているところだった。綾瀬が脚本を広げるのを囲ってみんなが口々に意見を言い、肝心の綾瀬はというと、それらに押しつぶされるように俯きながら、一定のリズムで許しを請うようにうなずくだけだった。先生に連れられた僕がやってくると、みんなは僕の方を見て、そして次に綾瀬の方へ、来たよ! と呼びかけるのだ、綾瀬は顔を上げて、僕の方へ一歩近寄ろうとし、それでも人垣が邪魔で立ち止まってしまう、そのとき先生が、僕に脚本を手渡したので、僕がそれを読もうとしたところ、蓮見が速足でやってきて、蓮見は、大変だよと僕を困らせることが嬉しいと言うように言ったのだ。僕は本から顔を上げて、

「どうしたの?」

「葉子君が来たから、これでこれまでの話はすべてなしだ、予定通りに始まる」

蓮見はクラスのみんなの方を向いて言った、綾瀬に、そうだろ? と問いかけるような視線をやると、綾瀬はこれまで僕の顔を見ようとしていたのが、うつむいてしまった。蓮見は振り返ると僕にしたり顔を向けた。

「どういうこと?」

「早く読みなよ」

蓮見が言うので、僕は読むのを再開した。それはとても簡単な筋書きで、ああ、みんながあんなに言い合うのも当然のものだった、それにはこれだけしか指示書きがされていなかったのだ。

「夜、バーのようなところで、数人が過ごしている、すると誰かがやって来る」

みんなはこの筋書きを面白がって、まさしく行方不明であるこの僕をその待たれる人の位置に置いたわけだが、直前になってこの劇の劇でなさに不安を覚え始めたというわけで……委員会の男がやってきて、そろそろ舞台の準備をと言ったところで、セットのひとつも用意されてはいないのだ。先生は、もしもどうにもならなかったときのために、合唱の練習もしていた、と言った。

「それじゃあそれでいいんじゃないですか? とにかくおれは朝起きたばっかりだし、ああここに来たのもおれの意志ではないし、誰がこれを企んだんですか?」

そのとき蓮見は、言うぞ、と口にするようにゆっくり口を動かした。

「ああ驚いた、お前がまだそれを言ってないなんてね、その情に絆されておれがなにをすると? それともおれはこの場合、あんたに脅されればいいのかなあ?」

とにかく、委員会の奴らがぞろぞろ出てきて、急き立てると、僕はもうなにがなんだか…

「ああ、それじゃあもう、みんなは劇をやるしかないんだね、よし、それじゃあ恥を、おれが出るからには最小限なものにしないと、いいや、恥なんていい、思いっきりかけるくらいのものを、綾瀬、ありがとう、恥をかけ、こんな悪夢が冷めちゃうほどのを、ねぇ綾瀬? ええっと、筋は、そうだったそうだった、よしそれじゃあ、セットは前のを使うのでいいんだね、用意していないんなら、それしかないよ、ちょっと覗かせてもらうよ、ふむふむ、ちょうど、バーのような場所、カウンターがひとつ、適当な酒棚、テーブルと席が幾つか、ピアノが一台、時間は、二十分ですね? それくらいならなんとかそれなりのものにも、よぉし、先ず、美見がピアノを、弾けたよね? 弾いてね、暗くても大丈夫なら、暗くして、五分ほど、経てば、照明をすべて明るく、そこにはすでに所定の位置に付いている君たちがいて、えぇっと、まず蓮見、お前は端の方でスマホゲームでもしてるといい、本当にしてていいんだよ? 行儀悪そうに座ってね、なんとなく周囲を馬鹿にしたような感じで、ああ、おれはお前のことなんて、ばかにしてやいないよ! そして、いいかな、たまぁにお前と美見とで、目を見合わせるんだよ、何か示し合わせるようにね、声はできるだけ発さないこと、二人は実は仲良しなんだよ! それからカウンターの内側はひよりが、お願いね、そこでひよりはぼーっと突っ立ってるだけでいいから、いかにも仮に店を与えられた一人娘と言った風に、飲み物はもうすでに提供されている、二十分で飲み干すバカはいないさ、ああ、あの置いてあるやつをそのまま使って、それからカウンターの一番奥には、大吾が行ける? 大吾が、そしてひよりと、ひそひそと話していればいい、話す振りだけでも、二人も仲良しだ、カウンターには他にも二人くらい、大吾から二つほど席を開けて、二人は隣り合って座っていてね、誰がやるの? さあそして、ホールの中心の席には久保と綾瀬、二人は話すんだよ、ちゃんと客に聞こえるような声で、なにを言えばいいかって? 二人とも自分で考えられるでしょ? なんせ二人は驚くべき読書家なんだ、それ以上に、作家先生だ! 自由に話すといいさ、書けばいい、でも出来るだけ、話すのは具体的でないほうがいいかな、よぉし、いい? 内容を与えちゃっても、合わせるね? 二人はこの夜を過ごすことを、まさにこの夜があり、それを過ごすということについて、話していればいい、徒然なるままにさ、よし、みんなはみんな、よそよそしく、十分間、お互いがお互いに、好きなことを話していればいい、丁度教室でそうやってるようにね、できる? よし、最後の最後に、おれが来るのを待っててね、美見は実際にピアノを、初めは発表会のつもりで、照明がついてからは控えめに、弾いていてね、これで大丈夫かなあ? みんな待っててね、実際に、今日おれを待っていたように、だけどおれなんかどうせこないさとでも思っていればいいんだ! 実際に、今日おれはやって来たんだからね、こんな風に、おれは突然にも現れるさ、よし、例え来なくともおれは来るのだ、待ってるといいや、それまで、久保、綾瀬? 大丈夫? 主役の君ら、まあみんなが助けてくれるよ、適当に話していてね、あんたらが傑作を書くのでも、おれは構わないんだよ? 書け、あんたらの作品さ! とにかく、でも、十分間だけだよ、すると最後の五分には、おれがやってくる、適当なストーリーを持ってきてやるから、期待してるといいよ、ああ、そのおれが、客席の側から登場するなんて演出はどうだろう、とにかく地味な劇だからちょっとでも客を驚かせてやらないとね、え? おれは逃げやしないよ、まあ信じて待ってなね、それよりもおれはみんなのリアリティの方が心配なんだよ、でも、まあいいや、それじゃあ始めよう、おれは客席にいるよ、みんなは配置について、舞台を暗くしてね、幕が開く、美見は、好きなときにピアノを始めたらいいよ、それが合図だ! 誰か、あと二、三人くらい、ホールの他の席を埋めといてくれ!……よし劇に、人生に賑やかしを!」

 *

 僕は舞台裏を出ると、ホールの後ろの方へ、ふらふらと歩いて行き、空いているところに腰掛けた。僕は本当に、時間が来たら登壇してやるつもりだったのだ、僕は、その時がくるのを待った、客のみんなと一緒に、どんな風に舞台は分裂してしまうだろうか、目的も定まらぬまま海に乗り出した船が、どんな風に彷徨うか? その時が来たら、僕は舞台に上がって、詩のひとつやふたつでも、読んでやるつもりだった、どんなものになるのかはわからなかったし考えてもいなかったけど、幕は上がり、よし舞台は確かに暗くて、目を凝らさなければなにも見えない、美見は、ゆっくりと鍵盤に、指を下ろそうとする。演奏が始まったそのとき、僕の携帯が鳴り出した。恵美からの電話だった、もしもし恵美? どうしたの? え? 今学校に着いただって? どうしようとにかくおれは今、そこじゃなくてそのすぐ近くの文化ホールにいるんだよ、道理で学校が静かすぎると思った? 今日は学園祭なんだよ、おれは今結構な劇に閉じ込められてしまっているから、できれば恵美、うん、すぐに行くよ、助けてよ、すぐに向かうよ、そして僕は、後ろの大掛かりなドアを体で押し上げて、エントランスへ、そこには誰もいなかった。ここでも美見のピアノの演奏は十分に聞くことができた。ふふ、やってるやってる、一応はまだ続いているようだな。劇はどんなになるだろう、まさかこのまま誰も来ないなんてことはあるまい、ああどうなるだろう、もしものときは、当初の予定通りに、合唱隊でも歌いだすかな? そのためのピアノだ、久保も綾瀬も、上手にやるさ、おれもやって来るはずだよ……ああおれが、一番恥をかくのでも、それはそれはよかっただろうけど、今頃みんなはなにしてるだろう、まだ僕を待っているのかな? みんなに見えただろうか、僕がドアを開けて出て行く、その瞬間が、外に出ると、あたりは真っ白だった。恵美の車はやってくると、入り口で止まった、かき分けられた雪が積もっていて、出し入れが十分にできないようだったので、僕は入り口まで歩いて行くと、助手席に乗り込んだ。車は出発する。

 *

 流れてく外の景色を見つめていると、ふと車の角や自転車のフレームや電線、柵なんかが光の衣に包まれるように、光りを走らせ、そのとき僕は、なにか忘れてしまっていたことを思い出せたような、やさしい気持ちになることができた。光からふつふつと湧き上がるように生まれるこの記憶のように、意識の中にだけ微かに届く光はときおり結晶化することで、まるでそれ自体が僕の神経線維であるように無意識にパッと沸き立ち、確かななにかをつかまえたと僕に思わせる。流れゆくもの、そして質的に貴重なあるものは、あるならこのようにあるのだろう。それらは神の高みではなく、ただ詩的な横流れの最中にあるのだろう。

「恵美、あんたはだから運転が性に合ってるんだろうねぇ」

「運転? 私が? そうかな」

「この車はどうしたの?」

「友達が届けてくれたの。今度一緒に個展をやる友達」

「家にいるの?」

「すぐに帰ったよ、お茶して、電車で」

「ふーん、その人とも会いたかったなあ」

「会えるよ、また、個展に来なよ、入場だけならただだよ」

「そりゃ行きたいけどさあ、恥ずかしいよ、おれの絵も置くつもりでしょ?」

「当たり前でしょ? 何点あると思ってるの?」

「そうだけどさあ、じゃあ、まあ、行くよ、行きたいですよ」

「理玖が」

「うん、理玖が?」

「留置所を出るのに、保釈金が百万だって」

「百万? そんなにあいつにかかるんだ、つい先日まで一緒にいたのにね」

「ほんとに」

「恵美は? 出せる?」

「理玖がさ、道夫にお願いしたって、ここを出ればすぐにあんたのところで働くので、とりあえず百万貸してくれないかって、信用できないとは言わさない、もしも信用できないなら、それはおれではなくおれの能力に対してだろ? でもあんたは、今後おれを奴隷にしたって構わないんだよ、だから監督責任はあんたのものさ、あんたは自分のことさえ信じられないというのか?」

「それで? どうなりそうなの?」

「道夫は出せるって、今朝家に来て、その話をしてふらぁっと出ていった」

「そりゃあよかった、それにしても道夫も、大変だろうねぇ、おれも、同じことを考えてたんだよ、もしも金が必要なときは、道夫だってね、さっきクラスの出し物の劇を観ていながら、ああおれは、もしもあのまま登壇することになっていたら、きっとこうしただろう、金のないことに途方のくれた僕は懐にナイフを忍ばせてカフェに現れる、顔馴染みであるバーテンダーの、道夫、その子はひよりって名前なんだよ、ひよりのところに、カウンターの内側までツカツカと歩み寄ると、ひよりはどこか引き攣ったような調子の笑みを浮かべている、僕はナイフを押し当てて金を出せと無慈悲にも宣告する、ねぇひより、お願いだから金を出して、だせ、金を出せ、いいから早く、しかしひよりは僕の事情などすべて知っていたから、ああひよりはそれを問題にしようなどとは思わなかった、誰も僕のことを糾弾しようとは、ひよりはさりげなく美見に合図を送る、すると美見の弾くピアノの音色が変わる、久保は目を覚ましたようになり、俯いて祈りを捧げているような綾瀬の指先に触れる、綾瀬ははっと気がつき、急いでトイレに立ち、電話をかける、その相手は警察ではなく、恵美、あんたでさ、恵美はやってくると、僕を引き連れて帰ってく、僕たちはそして、旅に出る、あはは、なんのことだかわからない? 本当はおれも順を追って説明してやりたいところなんだけど、恵美、さっきからその手に持っているのはなんなのさ」

「ああ、そうだ葉子、理玖が手紙を書いたって、これも今朝、道夫から受け取ってさ、理玖は、連絡は全部道夫を通すって。私はもう読んだからさ、読みなよ、酔わない?」

「んじゃあ、窓開けてもいい? それと、煙草を吸うのはいい? 足をちょっと投げ出すのも? 行儀が悪くてごめんね」

 *

僕にはただ、そう思える、あんたたちのは、ただ思うだけなんだ、貴族なんだ、そんなのは簡単だ、より大切なことは、思うように生きることだ、線を動として捉えることであり、動として捉えるというよりも言えばそれは、線を動することなんだ、こんなのは簡単な言葉をひねくり返しているだけ? しかし、大切なものなどが初めからこの世に産み落とされているなどと思わないことだ、気づきは得られるのではなく、歩まれるものだ、歩まれた途中途中に芽生えているというか、拾えるというか、そこだけ色が違っているというか、一段一段の奥行きの長い螺旋階段を上昇するようなことですらないのだ、言葉遊びは遊んでいるのではなく遊ばれるのだ、ダンスすると言えば簡単だけど、言葉は僕のための花嫁というだけではないのだ、僕の言うのはただこの、だけという中にある特別のニュアンスを果実のように収穫なさいということでもない、僕は否定の連続の中で彫刻的に現象を浮かび上がらせたいわけでもない、僕はただ、言ってしまえば、言ってしまうことにはいつも勇気がいるさ、なぜなら言葉にはいつも終わりも始まりのないのだから、始めるときの躊躇を忘れたまま言ってしまうときには、それに操作を加えることにもなるのだから、僕はただ言ってしまうなら僕はただ、だ、僕はただ言葉をいじくり回しているのではなく、君は、僕がそれを大切にとっておくあるいは持っていない、その言い訳づくりに励んでいるのだ、と思うかもしれないが、真実がもしも次の瞬間に生まれ落ちたら、君はだから面食らってしまうことだろう、僕はただ、本当にそれを隠すつもりもなければ、それを暴き立てるつもりももちろんなくただ、それに従う、というのとも違う、ただそれを見守るだけでもない、ただそれを育てるなんてことは有り得ない、それを、僕は、それをというのでは言えない、それが僕なのだ、それは僕だ、だから僕は僕するようにそれするのであり、それは自然の性向の赴くこととも違っている、それは、まあなんというか、絶対的にはっきりとした操作は受け付けないものなのだ、だから僕は言う、あるとき、聞き逃してはいけない、僕はただ、そうだ、それはもう言われていたことに気がつく、僕はただ操作を受け付けない純粋言語として漂うのだし、君は決して変化の瞬間を聞き逃してはいけない、その瞬間が君を笑わせるようでなくてはならない、木漏れ日や風や、他の連続的なものの途切れを感覚しないわけにはいかない、君は目を瞑ってはいけない、君は忘れることさえできない。

 *

僕はただこのことを言いたかっただけなのだ、僕はただ言語に変更を加えたかったのでもなく、言語をただ生成の現場に起きたかったというだけのことでもないのだ、そこに立ち会いたい僕がいるのでもない、それじゃあ僕はただ生きたかったというだけのことなのか? 僕はただ飯を食うようにや、煙草を吸うように、ある程度把握も取り替えも可能な時間・空間の中を遊戯的に泳ぎたかったというだけのことなのだろうか? それも悪くはない、僕はただ、泳ぐ、言葉はクジラの口に溜まったプランクトンのように自動回収的なものでありえる。

 *

僕はただ、忘れてた、あんたたちのそれが貴族的なんだということを、あんたの貴族が手慰みであってはいけない、こんなのは簡単な結論だ、いいや、どんな場合にもそれは与えられてはいない、この言葉の断定調がそう読めても、これ以上伸びない枝などありはしない、例えそれが静止であっても、静止しているということもやはり動いているのだ、だから言えたことになどなりはしない、意味は一般的にも連続的で、それが続かないなどということはない。

 *

ああ、疲れた、僕が言いたかったのはつまり、聞けよ葉子、恵美、あのね、おれはもうほんとは最初のときからずっと、おれひとりだけが疲れ果ててしまっていたのだ、ああ僕にとってだけ、これは旅でもなく、ただ、僕のは、ここが、故郷なんだ。僕はもう疲れたので、それでなくとも消灯時間があるので、今日はもう寝るよ、おやすみ、葉子、僕の知り合いに編集者がいるので、今度そいつを紹介してあげる、ろくな奴じゃないけど、貸し借りは今度はなしだ、ねぇおれは、昨夜、葉子の小説を読んだんだよ、夢の中で? なにも覚えてはいないけど、頭の中でだけ演奏できる曲みたく、今もそのイメージが鮮明にある、さっきの言葉も、葉子や恵美の翻訳に過ぎないわけだ、おれのは、おれは、思うんだけどね、おれは結局、こんな風に二人を巻き込んだというとえらそうだけど、なんというか、二人に手伝ってもらって、こんなことになっちゃったけど、ここも案外楽しい場所だよ! 葉子、人生は祭りだとは思わないなりに、人生は酒だ、まやかしだ、これがおれの標語だ! 冗談は置いといて、ここはここで興味深いところなんだよ、おれの友達といえば、覚醒剤と傷害と強盗という奴らに囲まれていて、あいつらの話を聞くのはとても愉快だよ! ふん、ニヒルな気持ちなんかじゃないさ、またおれがここを出たら一緒に話をしようね、おれはこっちで生きていくことにしたけど、あんたもたまにでもここにやってくるといいや、ここには道夫がいる、いぶきにも、近いうちに会えるだろうよ、ねぇ、おれにお前のを読ませてくれよ、ああ、おれは葉子の小説を読んだんだよ、初めお前の話を久保に聞いたときから、お前がどんな風に小説、ああ、書いたという以上に、記したか、このおれの頭の中に、ねぇ! あれがおれの生きる糧だ、あれがあるならおれは生きていけるさ、おれにはあれが太陽なのさ、あんたらがおれの夜を吹き飛ばすものだ、ああ、こんなに喜びを覚えることができるのは、二人に比べておれの特権だろうね、おれは書くよりも、読む方においては、まさに天才的だったわけだ! おれは信じられる、あんたらの祈りこそがこの地球を回させると、それらがただ太陽を燃えさせているのだと、ああ、あんたにもまったく新しい朝が訪れますように、お前のための白紙が! 常にその手に! 握手を! おれはそろそろ寝るよ!

 *

 ねぇ、僕は思うのだ、この生に傑作などはない、この生は冒険などではないのだからそこに解決というのもない、この生は始まったのでも、終わるのでもないし、僕たちには僕たちという住み家さえ与えられてはいないと。

 *

ああ、だから僕はただ続けるだけだ、僕は推敲されないひとつの発話だ、僕は旅だ、出発は、されるのではない、この旅こそが出発に描かれた絵画なのに違いない。僕は生きてさえいないだろう。



僕は旅する、旅されるのだ、生きてさえいない、ありさえしない、僕は声を聞く、ただ僕の声を、その声を、僕は入り口であっても出口であっても、それは僕を通り過ぎる。



僕は僕を通り過ぎてしまいもう僕ということさえできない、そのなかにどんな他のものを詰めようとも、もう僕という場さえ必要ではなくなるだろう、それは声を聞く、それは声を聞くように、それもまた震え、それもまた声になる、それはどんな風とでもきっと出会える、触れあえる、どんな風の中にでも、



いる



のではなくある



のではなくあった



のでさえない



それは



あった



ことなどなかった



それはある



あったということさえも



あったのではない



それはある



それはすべてのときを通り抜けてある

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