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同人誌の感想:伴美砂都『ウーパールーパーに関する考察』(上下巻)

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伴美砂都さん『ウーパールーパーに関する考察』(上下巻)を読みました。

ものすごくざっくり言うと、母親との折り合いが悪くて学校でも上手く自分の居場所を作れないでいる十六才の少女・ゆきが、障害者施設でのアルバイトを通じて少しずつ他人とつながっていき、生活を好転させていくお話です。


伴さんの小説は、強いなと思います。

ふだんは小説に対して「強い」という形容詞を使うことに抵抗があります。
「強い」はふつう賛辞なのでしょうが、容易に「弱い」を連れてきてしまうというか、ほかの「強くない」「弱い」小説を背後に連想してしまうのです。
(単に私の思考の癖というか、認知の歪みみたいなものだと自覚しているので、その言葉を使う人を非難するつもりは全然ないです。)

それでも本作を読み終わったときには、強い、と思いました。

小説の「強さ」にもいろいろあると思いますが、たとえば難しい語彙を駆使した絢爛豪華な文体とか、たとえばあっと驚くような伏線回収とか、そういったものとはまったく異なる強さ。
サイヤ人のスカウターで測れそう(?)な小説力ではなくて、もっと根源的な、作品そのものの立ち姿の自然さ、しなやかさを強いと感じるのです。
(そうはいっても、そう読ませること自体が相当にテクニカルなことなのだと思いますが)


ちょっと話は逸れますが、少し前から「ポリティカルコレクトネス」という言葉がよく言われるようになりました。
「面倒くさい人たちが自分の気に入らない創作物を撲滅するために人権を盾に(棒に)してイチャモンをつけること」……だと思ってる人もいるかもしれません(し、実際にそういうことをしている人もいるのでしょう)が、大事なことは偏見や差別のない表現をしようということなのだと思います。

しかし、言うは易く行うは難し。
書き手としては、やはり自分と違う(と自分が思っている)属性の人、とりわけ差別されている現状があり、社会的に弱い立場にある人を、自分の作品の中に存在させるのは難しいことだなと感じます。
どう表現するか難しいし、当事者を傷つけたり、「差別を助長している!」と批判されたり軽蔑されたりする怖さもある。そもそも「自分と違う」と思ってしまうこと自体、自分の中にある差別心そのものです。
結果的に、自分とそう違わない(と自分が思っている)属性の人ばかり登場させてしまっているのは、私自身が自覚している弱さで、逃げです。

でも伴さんの小説の中には、どんな人にも平等にひとりの人間として居場所があります。
それは上から目線で与えられる恩着せがましい平等さではなく、当たり前のものとして自然に存在する平等さです。

その「居場所」を保っているのは、ご都合主義や理想主義ではなく、ありのままの現実を直視する伴さんの優しくも厳しい眼差しだと思います。

中でも、それまで愛らしく癒やしの存在であったウーパールーパーが、ゆきを悪意なく傷つけた障害者のすがたに重ねられる場面は息を呑みました。

「でも、その点に関して、障害者ということは免罪符にはならない。法的には、たとえば法廷で争うような自体になったときに量刑が軽くなるとかのそれには、なるかもしれません。でも、社会的には、ならないんです。それどころか、障害者はこういうことをする人だ、とひとくくりにして、思われてしまう。たとえば男だから、女だから、とか、さっきの、学歴が大学卒だから、高卒だから、とかね、そういうのよりもっと強く、障害者だから、というのは社会的なカテゴリーなんです」(上巻p.45)

ヒリヒリ、ズキズキしたリアルな痛みを伴うからこそ、ゆきの生活が少しずつ開けていく前向きな展開に胸がじんわり温かくなる、素晴らしい作品でした。

わたしもいつか、こんな風に強くなれたらなあ。


こちらの同人誌は完売していますが、カクヨムに掲載されています。


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泡野瑤子(阿波/シネマ芋先輩)
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