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躁鬱超人へのまわり道 その1 心因反応

躁鬱大学が開校したのを知りつつも、すぐに受講する気にはなれなかった。坂口サンのツィートには慣れたものの、長文にはまだ慣れてない。1月の中頃、所用で新宿へ出掛けた時、年末に出版された『まとまらない人』のサイン本をブックファーストで購入した。決して読みにくい文章ではないのに、7章からなる本だが1章が終わったところに栞を挟んだきり、読み進んでない。笑顔で、フレンドリーな表紙なのに、気楽に読むことが出来ない。多分、私の準備ができていないのだ。同様に、躁鬱大学の門をくぐる準備も出来ていなかったのだ。古傷というより、ダラダラと流血しているのを布か何かで覆い隠したままの躁体験、鬱体験をあからさまにするにはちょっとした勇気が要ると怯んだのだ。

落ちこぼれ感というか置いてかれ感を感じていたある日、その5から始まっていた音声版を一気に聴いてみたのだ。その12まで。聴いてるだけとはいえなかなか疲れたが、その内容には驚かされっぱなしだし、しょっちゅう笑わされた。多くの人が感じているように、「私のコトが書いてある(話される)」し、「みんなおなじなんだ」「病気ではなく体質なんだ」と大きな安堵感を覚えた。

それからはテキスト版も幾分読めるようになったが、音声版を選んでしまいがちなため、受講加減に差があるのが玉に瑕。講義が終わる少し前に、駅前の書店で『講談社現代新書2155 独立国家のつくりかた』を購入し楽しくサクッと読了した。近いうちに『まとまらない人』も読み切るだろう。その前に(同時進行でも良いが)卒論!

前置きついでにもうひとつ。私の初めてのパステル画。いつも見えるところにポストカードを飾っている、モネのバラ色のボートを手本に描いてみた。絵なんて描いたのはいつ以来だろう。1994年頃、伊勢丹にて勤務していた折、休憩所までの道のりにあった文房具売場で、赤い箱が素敵な水彩絵の具と小さい花型の小皿を衝動買いしたのだが、結局何も描かなかった。ポストカードは毎日目にしているのに、ただなんとなく眺めてるだけだった。女性たちが水面に映ってるのは描いてみて気づいた。18色のパステルとB6のスケッチブックは100円ショップ。似ても似つかないが楽しい時間だった。また描くことができたらコチラにupしようと思う。

タイトルを変更した。
【躁鬱超人へのまわり道くねくね はじめに 灯台みっけた】
【躁鬱超人へのまわり道 はじめる 灯台みっけた】
はじめに、ではなく、はじめる。

初めての躁体験から入院まで書こうと思う。(と思ったのだが到達できず保留したまま4日も放置してしまった。)何の記録も残してないので脳の記憶から引っ張り出すこととする。

お相手の転勤がきっかけで、1991年の春に結婚することを決めた。式は秋に、初夏に同棲を始め入籍、私と母で式のアレコレを決めた。あちらから一任されたのだが、名古屋の女を甘く見ていた。一週間前の最終打合せに義母も式場にやって来て、気に入らないところを指摘した。母同士が険悪に。記憶は曖昧だが、それから何度も「あの時に終わらせておけば」と悔やんだ。先に言ってしまうと、四年後に結婚は解消した。結婚自体は後悔してないが、あの時に決断出来なかったことは悔やまれる。

前後するが、夏の朝に寝床で何かで揉めて枕で殴られた。理由を思い出せないが、挙式についてだったような気もする。義母に電話で謝られた。義母の夫であった義父は暴力をふるうひとだと知ったのはその時。

ここまで書いて放置していた。過去の躁鬱体験に向き合うのも、元夫の暴力について書くのも、物凄く気が重い。気が重くて、鬱に入りそうな気配もあり、ここから離れていた。入院までの出来事を書きたかったが、あっさり変更して、一旦〆る。

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