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畏れとは

美しい山々や海、どこまでも続く草原、寺社仏閣などを目の前にした時、心が洗われると同時に畏敬の念を抱くことがある。
畏敬の念とは、崇高な存在に畏れ敬うことだが、私は、この畏れるという感情を人間関係の中でも持つべきだと思う。


特に身近な人、いつも反論せず意見を聞いてくれる人、あなたを理解しようとしてくれる人に対して「あの人は優しい人だから・・少しくらいのわがままなら・・分かってくれているだろう」というような気持ちを持つことはないだろうか。

これは「甘え」だと思う。子どものままに生きている甘え。


大切な人にこそ、つつしみを持って対峙しなければ、知らない間に気持ちがすれ違ってしまうかもしれない。
テレパシーでも飛ばせない限り、あなたの考えていることが相手に伝わるわけがないのだから。

あの人は「分かってくれている」という独りよがりの思い込みが、いつの間にか「分かっているのが当たり前」に変わり、相手の気持ちが置き去りのまま日々が過ぎていく。これは夫婦・親子・職場、どの関係でも起こっている。

そこで、大切なのは、大切な人にこそ畏れを感じ、相対すること。
甘えをなくして、ごまかさずに言葉にすることが何よりも重要だ。



よく何歳から大人か?という話があるが、子どもの年齢でも大人はいるし、大人の年齢でも子どもはいる。

だから、甘えをなくすのは何歳になれば自然にできるというものではない。
ただ、人間関係のために言えることは、
あなたの内にある気持ちを言葉にする以外、他の言動に意味はない。

自分の思いを丁寧に大切な人に伝えることを繰り返していけば、大人の階段を着実に登っているし、それは幸せへの階段だと思う。


「甘え」がなくなった人は、他人から自分の見る目が変わっていくことに気づくはずだ。畏れることも畏れられることもある。それが本当の意味で大人になるということだから。


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