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The Story of One Sky ④ ディマシュ:Music 感想&妄想考察

Part.3:Music 感想(ひたすら妄想)



                  (Dimash 09)
                  (10,801文字)
                  (第1稿:2022年10月28日)
 
 
(注:この項目は、②の音楽のみの動画の歌の方を参考にしています)
 
 
①  MV動画:『Dimash - The Story of One Sky』
by Dimash Qudaibergen(公式) 2022/09/25


②  音楽のみの動画:『Requiem: The Story of One Sky』 
by Dimash Qudaibergen(公式) 2022/09/29




【ディマシュの声の進化】

 いや、驚きました。
 常々、ディマシュの声はいまだに子供の響きを残していることから、伸びしろはまだまだあるはずだと感じていたが、まさかこんなに急に、3段階ぐらいジャンプアップするとは思っていなかった。
 いやもう、ただただ唖然とするばかりだ。
  (これは、第1稿を書いた2022年10月時点の感想です)
 (ディマシュの歌唱は以後も進化し続けています)

 楽曲は大雑把に分けて8つのセクションに分かれている。
 そして、各セクションごとにボーカルの人格がチェンジしているようだ。
 どうチェンジしているのか、各セクションを順番に見て行こう。
 
 

【各セクションの人格について・妄想的考察】


《セクション1:イントロ ~ ヴァース1……人格1》

 まずイントロだが、音楽の素人には「拍」が取れません(焦)。
 全部で14拍あって、4拍子で拍を取ろうとすると、2拍余ってしまう。
 メロディの繰り返しから考えたら、最初の2拍は「不完全小節」にあたるのかな?
 それとも最後の2拍が余りになるのかな?
 MVではイントロのこの場面を見ている時、美しいメロディなのになぜか不穏当な感じがしていた。それはこの時の登場人物の心情からだけではなく、音楽的な理由もあったようだ。
 ディマシュのボーカルが始まる。
 後半の「夢(dreams)」で、明らかに泣いている声になる。
 MV初見時には、一見楽しそうな3人にディマシュの泣き声がかぶさるので、非常に不思議な印象を持った。
 ところが、ストーリーを理解して2回目にMVを見ると、どうしてここで泣くのかが判明する。
 MVではこの「夢(dreams)」の時、主人公が自分を助けてくれた年長の友人にペンダントを渡す場面だ。主人公は「3人の友情は生涯続く」という「夢」を友人に手渡した、それなのにあんなことになってしまった。
 つまりこのセクション1のボーカルの人格は、これから先の未来をすべて知っている、
「死んだあとの主人公」
と言うことが出来る。
 音楽のみのバージョンでも、無念や後悔、心残りの感情を強く感じるので、この人格は死者の霊魂や、残留思念のようなものかもしれない。
 3行目の「私たちこそが原因だ(We are the reason)」からは、その次の行までの短い間、オーボエがボーカルとユニゾンで加わってくる。
 オーボエは、世界で一番難しい楽器であり、管楽器の中で一番長いロングトーンを出せる楽器だ。
 そしてその音色には孤独と哀しみがあり、主役級の美しい響きを持つ。
 このオーボエの哀し気なサウンドが、あたかも「死んだあとの主人公」の感情を奏でているようだ。


《セクション2:コーラス1……人格2》

 前のセクションのラストで、ドラムロールとシンバルが鳴り、ボーカルの人格がチェンジする。
 ピアノとともに美しいメロディを歌う、意志を持ったウィスパーボイス。
 それはまるで、愛しい幼な子に向かって優しく諭すように話しかけている「母親」のような声だ。
「私たちの未来、それを救うことは出来るのかしら?
(Our future, is it possible to save?)」
 フレーズの最後の “save” の、ほとんどため息のような声の雰囲気から、この「母親」は、膝を地面について幼な子の瞳を見上げながら歌っているように聴こえる。
 なんとなくだが、歌っているこの母親の手は、幼な子の髪をそっと撫でているようだ。
 しかも、歌を聴いている自分がその幼な子になり、彼女のその手で自分の髪を優しく撫でられているように感じもする。
 これはおそらく、この時のディマシュのファルセットに自分の髪の毛や頭(の頭蓋骨?)が共振しているからだと思うのだが、同時に、もしも自分が幼な子に話しかけるならきっとそうするであろうイメージを喚起させられていることと、過去に自分の母親からそうされたであろう記憶を想起させられているからなのかもしれない。
 MVでは戦闘場面にあたるため、この静かな柔らかい声は聴きとりにくく、主人公と軍の兵士が撃ち合う場面などでは、歌の意味もちょっと違ってかなり男性寄りに聴こえてしまう。
 このセクションでのディマシュの「優しい母性愛」を聴きたい場合は、銃声などのムービー上の音の無い、音楽だけのバージョンを聴くことをお勧めする。

《セクション3:ヴァース2……人格3》

 再びドラムロールが鳴り、3人目の人格が登場する。
 今度は、「父親」のような声だ。
 彼は、思春期前後の息子の肩に手を置いて、物事の道理と現実を教えようとしているようだ。
 4行目には、20世紀の名曲『イマジン』へのアイロニーまで出てくる。

(『イマジン』ジョン・レノン、1971年)(注1)


 私はビートルズも好きでよく聞いていたし、ジョン・レノンも好きだったが、なぜかこの曲は、さほど好きではなかった。この名曲に世間と違う評価をする自分って、ちょっと変?とか思ったりしていた。
(レノンの『ラブ』のほうが好きだったな)
 当時はまだ中学生だったので、その理由はわかっていなかったが、この曲のこのフレーズの意味が、まさしくその理由だった。
 私があの曲を聞いていた1976年当時には、すでにそういう印象があったのだ。
「 “想像する” だけの瞬間はとうに過ぎ去ってしまった
 (We have passed the moment of"Imagine")」
 いやもうね、この4行目を聴いた時には、震えました。
 ホントに君は、ピンポイントで癒しに来るよなあ……(溜息)
 
 また、次の行からの
「世界は饗宴のさなかなのに、私たちは飢えなければならないのか?(World is the feast - Do we have to starve?)」
の「饗宴」“feast”では、実は古い世代なら思い出す歌がある。
 イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』だ。(1977年)(注2)

(下の動画は、該当箇所を頭出し)


 この歌の、エンディングに向かう手前の静かなセクションで、
「そしてマスターの部屋には、饗宴のために奴らが集まってきた
(And in the master's chambers they gathered for the feast)」
 と歌われるのだが、この行の最後の “feast” は、次のセクションの最後に出てくる “beast (獣または魔物)” との韻の関係で、とても印象が強い単語だ。
 この歌は、「行き過ぎた快楽主義」や「芸術と商業の危ういバランス」を皮肉った内容だ。
 ディマシュのこの作品でも、この単語には同じような意味が含まれているようだ。しかも当時よりももっと切羽詰まっている感じがある。
 
 このセクションで一番心に残るのは、「金銭ではなく(not shares)」の時の、非常に遅いトレモロの揺らしだ。
(“shares”は、「株式」という意味のようだが、歌詞の内容的には配当か、金銭だろうと思う)
 口髭を生やした「父親」が、まだ若い息子に向かって、やってはいけないことを言い聞かせながら、白髪交じりの頭を横に振っている姿が目に見えるようだ。
 後半の最後の4行では、息子の肩に置かれた手に力がこもるのを感じる。

《セクション4:コーラス2……人格4》

 ディマシュの声かと思っていたら、どうやら民族楽器の笛だったが、揺れるロングトーンが鳴り、人格がチェンジする。(追記1)
 前のセクションの父親と同じような声ではあるが、1行目にエレキギターのピックスクラッチ(ギュイーンという音)が入るので、人格の年齢が若くなる。これを人格4「息子」としておく。
 この場面の人格は前のヴァースで父親から諭されていた「若い息子」が、意志を持って大人になった声のようだ。人格1の「死んだあとの主人公」の記憶の中にある、生きていた頃の人格かもしれない。
 美しいチェストボイスのテノール。
 しかし、MVを1度見てしまうと、物語の「主人公」を襲う悲劇をどうしても思い出してしまうため、とても哀しく聞こえてくる。
 ディマシュの声には「悲哀」の感情のほうが乗り易いためもあって、音楽だけのバージョンでも、意志の裏側にある、歌わずにはいられない悲しみのような色合いを感じる。
 特に、2回繰り返される「僕たちは過ちを正すための最後の方向転換をするんだ(We're making final turn from wrong to right)」(MVではぬいぐるみを抱いた女の子が出てくる直前)の最初のほうの “turn” だけがミックスボイスとファルセットが混ざったような強く高い声になり、とても印象的だ。
 全体に、2の母親の人格と3の父親の人格から受け継いだような、真っ直ぐなまなざしと義侠心、そして善良な心を感じる声だ。
 そして、このセクションの最後のフレーズ「僕達は人生を選んでいる(we're choosing life)」の最後の歌声は、とても切ない。

《セクション5:トラディショナル・パート1》

 三たびのドラムロール。
 ここでは人格というよりも、自然と一体化したかのような、あるいは草原を吹き抜ける風のような何かだ。
 風の神、大地の神、そういった人格かもしれない。
 雷鳴、虫の羽音、鳥の声。
 地球の空気が振動することで聞こえるサウンド。
 18秒近く続く、ロングトーンから超絶素早いスタッカート。
 イタリア・ドイツの古いオペラの装飾音に「リバットゥータ」という技法があり、それに似ているが、あまりに長い最速スタッカートなので、人間業とはとても思えない。
 むしろこれは、「ミソサザイ」という鳥の鳴き声じゃないかと思う。
 ミソサザイ(鷦鷯、Eurasian Wren)は、全長が尻尾も入れて約11㎝という大変小さくて地味な鳥だが、西欧では「鳥の王様」と呼ばれている。
 その鳴き声の特徴は、「複雑で早口で長い」。
 トーンが美しいのは言うに及ばず、フレーズの数が他の鳥の2倍ぐらいあり、ひと息の長さがとても長い。そしてその声量がまた半端なくデカい。
 そのまんまディマシュの説明みたいなんですけど。(注3)

(一番長いさえずりの1分30秒を頭出し)


 などと考えていると、『Singer2017』の『ダイディダウ』でも鳴っていた「口琴(こうきん)」が鳴り、サンスクリット語のマントラ、日本人にとっては密教の真言の「唵(おん)」でよく知る「AUM」。
 これが4回繰り返されたあと、非常に低い声で何事かがつぶやかれる。
 これはカザフスタン語で「人間(男)はキャラバン、人生は道」と言っているようだ。
「アダム、ケルウェン、ウェミル、ショー
 (Адам — керуен, өмір — жол)」
 日本語とも英語とも違う不思議な音の並び方が、意味が分からないがゆえに、耳に残る。
 (でも、アダムは一緒なんだな)

《セクション6:トラディショナル・パート2……人格5、6、7》

 7回の心臓の鼓動とともに、3種類のソロ・ヴォカリーズが始まる。
 
 まず最初の、人格5。
 これは「ムスリムの男」だ。
 私はこの「アザーン・ラン」に、大変驚いた。
 (「アザーン」とは、イスラム教で礼拝(サラート)の時刻を告げる呼びかけの声のこと)
 まるで、人間の体に開いてしまった、赤い血を流す傷口、そのもののような声。
「痛い」と言っているのではなく、「痛み」そのもののような声。
 もちろん、声に感情は乗っているが、それよりも声のトーンが持つイメージのほうが圧倒的に大きく、特に後半の低音から上昇していくメロディは、イスラムのモスクの大伽藍に響き渡るほどの大きな苦痛のイメージを強く感じる。
 MVでは、陣痛を訴える妻の叫びと、娘の亡骸を抱えて泣く夫の叫びが映る箇所だが、その映像が無くても、この声が生と死に関する痛みをあらわしていることはよく分かる。
 この人格5の「ムスリムの男」は、傷の痛みというよりも、傷ついた理由によってその真っ直ぐな心に大きな痛手を負ったようだ。
 この声には本当に驚いた。
 感情表現ではなく、人格でもなく、声の音色そのもので表現するとは……。
 
 鐘が鳴り、心臓の鼓動がやはり7回鳴り、「クラシック・ヴォカリーズ」が始まる。
 そして6人目の人格が登場する。
「聖女」だ。
 先程の「ムスリムの男」とは対照的に、若い女性の声による、儚く美しいアリア。
 鐘の音はヨーロッパの教会を連想させ、モスクのランに返歌として聖歌を歌っているようだ。
 1種類目の「アザーン・ラン」を聴いた直後なので、この「聖女」はまるで、血を流す傷の痛みに反応し、その血を止めようとして手を伸ばし、いまにも触れようとしているかのようだ。
 そしてその傷に代わって、その傷が持つ悲しみを歌っているように聴こえる。
 この若い女性である「聖女」の声が持つ、心根の無垢さ、柔らかさ、共感の深さが胸を打つ。
 最初の2フレーズの繰り返しで、聴いてるこちらの体が融けるかと思ったわマジで。
 
 続いて、間髪を入れず7人目の人格が出現する。
「嘆きの聖母マリア」
(前の「聖女」でもいいが、やや年齢が上がったような気がするので)
 ここでは心臓の鼓動がないことから、傷ついて血を流していた誰かはついに回復することなく死んでしまい、その死体の前で年配の女性が運命の残酷さを嘆いている。
 失った命、2度と戻らない何かを、心の底から悼んでいる。
 この女性の声はまるで、モスクで痛みに叫ぶ「ムスリムの男」と、教会でその叫びを聞いて悲しむ「聖女」の声に揺さぶられて蘇った、「ピエタ」像の「聖母」の嘆く声のように聴こえる。(注4)

サン・ピエトロのピエタ(1498~1500、サン・ピエトロ大聖堂)

 このパートにも、非常に驚いた。
 超絶ハイノートなのに、人間の声になっている、と。
 以前ならこのソプラノを我々は「天使の声」と呼んでいた。
 ところが今回、同じくらいの超絶ハイノートなのに、天使とは感じない。
 はっきりと、人間の声だと感じている。
 つまり、以前の「天使の声」は、ディマシュの声がまだ成熟し切っていなかったため、感情が完全には乗り切っていなかった可能性があるのかもしれない。(これは、今この声を聴いたから感じることだが)
 もちろんこの曲は「REQUIEM」なので、「死者の永遠の安息を神に祈る」ための歌だ。歌う主体は人間だから、人間の声が必要になる。彼はそういう声を出そうとしただけなのだろう。
 だが私は、正直に言ってあの「天使のハイノート」をディマシュがこんなに早く「人間のハイノート」に出来るとは考えていなかった。少なくとも、あと3年はかかると思っていた。いやもう、自分は人間の可能性をまだまだ知らないのだなと、いたく反省しました、ハイ。
 けれども、「天使のハイノート」でさえとんでもないクオリティだったのに、さらにその上があるなんて、普通思いませんって……。
 
 この場面の彼の声を聴いていると、伝説のソプラノ歌手、マリア・カラスを思い出す。彼女の歌もまた、役を演じるのではなく、役を生きる歌だった。(注5)
 この場面のディマシュの声には、彼女が声に乗せたエモーションの濃さと共通したものを感じる。
 しかも、マリア・カラスより美声とは……。


《セクション7:コーラス3……人格8》

 銅鑼が鳴り、クライマックスを表わすストリングスのあと、8人目の人格が登場する。
 セクション4,コーラス2の「息子」と似ているが、キーが半音上がっているので、少し違って聴こえる。
 歌詞の通り、運命の縄に締め付けられ、焦燥感に駆られ、後半は超高音のミックスボイスなのに、非常に重く、夜のように暗く、涙を流すことも忘れるほどの巨大なエモーションと格闘しているかのような声だ。
 意識がこの世から消えて無くなってしまう前に、どうしても伝えたいことがあるのだと、この人格はその切実な思いに、半分狂いながら叫んでいる。
 どうやら、4の人格の「息子」に、6の人格の「聖女」が混ざったようで、それは「雌雄同体(ヘルマプロダイト)」の人格のようだ。ということは、セクション4で1回だけ登場したミックスボイスとファルセットが混ざったあの声は、「聖女」だったのだろうか。
 ここでは若い「聖女」の無垢な心が加わって、人格は「完全体」となり、後半のミックスボイスからは、どんどんこの世のものではなくなっていく。
 この声にも、かなり驚いた。以前ならミックスボイスは「無性」もしくは「ニュートラル」に近い声だったのに、「完全体」とは。
 だが、本物の驚き、驚愕と言ってもいい衝撃は、この後に出現する。

《セクション8:コーダ……人格9》

 MV感想でも書いたドラムスのフィルインから、音楽のみのバージョンでは、間髪を入れずに再びギターのピックスクラッチが「ギュイーーーン」と鳴り、この作品の最大の聴き所であり、最大の衝撃的なボーカルがいきなり出現する。
 コーラス最後のフレーズを別のメロディにして7回くりかえすうちの6回を、ナチュラル・ディストーションのかかった、つまり「濁声(だみこえ)」でずーーーーーっと歌うんですよ、驚いたなんてもんじゃない。
「AC/DC」のブライアン・ウィルソンか、「ボン・ジョビ」か、「シンデレラ」のトム・キーファーか(ふ…古すぎる)みたいなつぶれた声だが、この人達はだいたいずーっとダミ声なんですよ。
 ディマシュの場合はここだけ技術でダミ声にして、しかも最後の7回目にはもとの澄んだミックスボイスに戻して………からのファルセットですよ。
 別録でつないだ可能性もなくはないけど、この7回目の最初の“We”にはまだディストーションが残っている感じがするので、一発録りの可能性は高いと思う。
 要するに、普段美声の人がこんなに長くディストーションかけたら、喉、潰しますって。
 でもきっとそうならない技術を習得しちゃったので、晴れてここで使ったんだろうな、大喜びで、という気がする。
 しかも、ディストーションのかかった濁声なのに、やっぱりキレイな声なんですよ、どうなってんのよ。
 しかも、濁声なのに意外と可愛らしいと来た。
 どうなってんのマジで。
 
 この作品がリリースされたのち、よく知っているリアクション動画の人達がみんな、この声に顔色を変えてアゴが落ちるほど驚いていたが、私もきっとそんな顔をしていただろう。
 この9番目の人格は、ハードロック・バンドのボーカリストなのかな?
 やっぱこの子のロック魂は、窮地に陥って「NO」を言うしかなくなった時に出てくるのか?
 歌詞は “We're choosing life” だけど、声の意味は「やだ!」とか「I don’t like it at all!」とかのような雰囲気だ。
『SOS』の内容とよく似ているが、あちらが自分に失望していたのに対して、この9番目の人格は、世界を見て歩き、世界をある程度知った上で、この世界をとても愛しているけれど、それでも人間が時折見せる「度し難さ」に対して、噴火するほど怒っている、そういう感じがある。
「俺はずっと生きることを選んできたってのに、なんなんだよこの世界はよお!」みたいな。
 
 だが、この9番目の最後の人格がハードロック・バンドのボーカリストだとすると、自分やリアクション動画の人達がこの声に受けたショックの大きさとは見合っていないような気がする。
 では、この人格は一体何なのだろう。
 この作品が公式からリリースされて約1か月、考え続けたある日、ふと、次のような数式?のイメージが浮かんできた。

 「MVの中の生きて動いている過去の主人公」 - 「人格1の死んだあとの主人公」 = ?
 
 つまりこの声は、人格1の「死んだあとの主人公」がこの世に残した、「死体」そのものではないか?
 心臓の鼓動を失い、呼吸を失ってもなお、身体の中でまだ生きている全ての内臓、全ての骨、全ての細胞ひとつひとつが「生きたい」と願う声なき声、なのではないか。
 だからこんなに衝撃的なのか、と。
 そして、これほど衝撃的なのに、こんなにも愛らしく切ないのか、と。


【全セクションの人格】

 これで全てのセクションについて、私の個人的な妄想に基づいて、人格を特定してみた。
 お気付きだろうか。
 9人の人格が全員、「死者」であることに。
 2の「母親」、3の「父親」は、主人公の耳の中でこだまする過去の思い出の中にある声。
 4の「息子」は、人格1の段階ですでに死んでいるので、これは生きていた頃の記憶。
 5の「ムスリムの男」は、主人公が死んだ原因となった傷の痛みを歌うが、これも過去の残響。
 6の「聖女」と、7の「聖母」は、死者がよみがえったとも、概念としての人格とも取れる。
 8も死んだ主人公で、6の聖女の力を借りて「完全体」となり、魂が天に召される前に遺言を残す。
 9は、主人公の「死体」。
 
 つまり、死者たちが我々の前に次々とあらわれては、何事かを訴えているような状態なのだ。
 MVでは映像との兼ね合いで、主人公が幼馴染みの3人の運命を悼むという、比較的オーソドックスな、というか、単純な構成になっている。
 しかし、音楽のみのバージョンでは、MVのストーリーによる補完がなくなるので、その分構成が複雑になっている。
 といってもことさらトリッキーに作られているわけではなく、最初のヴァース1で珍しく早々に「泣き声」になることから順番に考えていくと、このような構成に聴こえる、という感じだ。
 まあ、私の妄想も相当入ってますけどね。(いえ、全部妄想です、ハイ)
 
 このMVの、タイトル前に出る「REQUIEM」の文字。
 この歌は、「死者が、我々生きている人間にレクイエムを歌っている」、ということなのだろうか。
 

【まとめ】

 以上、妄想に妄想を重ねてきたが、それとはまた別に、この音楽作品で最も重要なことは、ディマシュの中に「世界の対立項」がいくつも、現実世界とは逆に、対立することなく共存していることだと思う。
 特に「セクション6」のイスラム文化を象徴する「ムスリムの男」の「アザーン」と、キリスト教文化を象徴する「聖女」と「聖母」の「聖歌」。
 これらが全く何の違和感もなく並んでいて、聴く側も全くなんの疑問もなくすんなり聴き、それぞれの声に同じように感動しているという事態。
 現実の世界では対立しあうはずのこのふたつの価値観が、この作品世界ではむしろお互いがお互いを引き立て合い、支え合って、この美しい曲とMVを成り立たせている。
 こんな楽曲を現実に生み出すことが出来るほど、確固とした「共存」のイメージが彼の中に存在するということ。
 それこそが、ディマシュの持つ「奇跡」なのだ。
 それは、21世紀以降の新しい世界が必要とする人間のメンタリティの先駆けなのではないかと、私は感じている。
 
 それにしても、9人もの人格を歌い分けるなんて、とんでもない想像力とスキルだ。
 今までの曲では、『マドモアゼル・ハイド』でジキルとハイドを、『シンフル・パッション(罪深き情熱)』(追記、08/27:すみませんタイトルを間違えました、『Love Is Like A Dream(愛は夢のようなもの)』でした)の高音と低音でアニマとアニムスと天使を、『デイブレイク』で子供と大人を、それぞれ使い分けてはいた。
 だがいかんせん、作曲家の中に沢山の人格を持っていてそれを書き分けられる人は誰もいなくって。
 3~4分の曲では、沢山の人格を表現するには時間的に足りないし。
 てことで、こんな超絶長い曲を自分で作ってしまったディマシュ君だったのでした。
 
 
 
(④ 「Part.4:Music 感想(ひたすら妄想)」、終了)
(⑤「 Part.5:総合感想(個人的感想)」へ続く)


【注解】

(注1)『イマジン』

『IMAGINE. (Ultimate Mix, 2020) - John Lennon & The Plastic Ono Band (with the Flux Fiddlers) HD』
by John Lennon(公式)2016/12/19(本文中に埋め込み済)
https://youtu.be/YkgkThdzX-8
 『ジョン・レノン』Wikipedia


(注2)『ホテル・カリフォルニア』

『Eagles - Hotel California (Live 1977) (Official Video) [HD]』
by Eagles 公式 2022/12/08(本文中に埋め込み済)
https://youtu.be/09839DpTctU?t=223
・該当の場所は、3分44秒から頭出し。

『イーグルス』Wikipedia

(おまけ)
『【曲の意味】 Hotel California – Eagles: メンバーが語るホテル・カリフォルニアの本当の意味』 by「うさミミ英語」


(追記1)
ついさきほど、このアルメニアの民族楽器、ダブルリードの木管楽器である「ドゥドゥク」で、この個所を録音している動画を再発見したので、ここに置いておきます。やっと見つけたあぁぁ!😅
ディマシュのIGより 2022年3月12日付


(注3)ミソサザイ

『ミソサザイ さえずり2』
by konetyuki 2012/06/11 (本文に埋め込み済)
・1分30秒からのさえずりが、約15秒あって長いです。かわいいし。https://youtu.be/HRhZcaMFfRM

 『ミソサザイ』Wikipedia


(注4)「ピエタ」

大理石彫刻。ミケランジェロ作。1498~1500年に作成された。
バチカン、サン・ピエトロ大聖堂所蔵。
 『ピエタ(ミケランジェロ)』Wikipedia


(注5)マリア・カラス

『マリア・カラス』Wikipedia


(【注解】終了)


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