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ディマシュの変化、マレーシア・ライブ後/妄想考察ていうかただの推し活?

                  (Dimash 20)
                  (10,322文字)
                  (初稿:2023年7月10日)
 



【ディマシュ、いきなり大人の男になるの巻】

 前回投稿した「マレーシア・コンサート」の感想に、まるで「パッション(受難)」のようだと書いたけど、自分でも書きすぎかなあと思っておりました。
 ところが、このコンサートからわずか3日後、ディマシュはウズベキスタンに飛び、同国の文化大臣に招かれて対面し、首都タシケントの観光地などを大臣の案内で見て回ったと、ディマシュ本人がインスタグラムで報告してまして。
 いくつかある動画の中で、タシケントを観光するディマシュを撮影したのが、下の動画①です。

①動画:ディマシュ(公式)のインスタグラムより
・ディマシュ、ウズベキスタンのタシケントを訪れ、文化大臣と観光地を見て歩く。


 まあ私、仰天いたしました。
 この子、いきなり「大人の男」になっとるぞ!!!と。
 
 いえいえ、もちろん元々「大人の男」ですけども。
 しかし個人的には、マレーシア・コンサートまでのディマシュは、還暦をとっくに過ぎた私から見ると「息子(いないけど)」と「孫(いないけど)」の中間ぐらいの年齢なので、やっぱ「子供」というか、ちょっと幼さの残る男の子に見えていて、そこが超絶に可愛かったわけです。
 
 件のコンサート(6月24日)の11日前に、カザフの伝統に則って父親として彼を育てた祖父が亡くなり、ディマシュは家族や親戚の中でただひとり「2重の意味で遺族」となってしまいます。
 普通だったらキャンセルするか延期するよな、という日程にもかかわらず、約束をたがえることは出来ないとしてライブを強行。
 家族も世界中のファンも皆が心配する中、本人も非常に困難なライブだったと後になって回想するほどの感情的な難行苦行を克服し、彼は東南アジアで初のソロ・コンサートを成功させたわけです。
 
 ディマシュはコンサートの2日後(6月26日)にはマレーシアの国際空港をあとにし、我々dearsは、彼が祖国のカザフスタンに戻ってゆっくり骨休めをするだろうと思ってたわけですよ。
 
 ところがどっこい。
 次の日(6月27日)にディマシュは突如ウズベキスタンにあらわれ、首都タシケントの、おそらく政府の施設でナザルベコフ・オゾドベク・アフマドヴィチ(Nazarbekov Ozodbek Ahmadovich、長い)文化大臣と会議を持ち、現在のカザフとウズベキスタン両国の文化の発展について議論した、と。
 つまり、近々ウズベキスタンでコンサートをやるんじゃないか、と。
 
 いえ、そんなことはともかく。
 タシケント市内を観光するディマシュの様子が、もう今までとは明らかに、全然、全く、違っているんです。
 まるでオセロの駒がひっくり返って、裏側にあった「大人の男」が現れ、今まで表側に見えていた「幼い男の子」が裏側に回ったような、そんな印象なのです。
 
 彼は、コンサートの中止または延期を回避し、祖父が彼にいつも話して聞かせていたという「真の男は一度交わした約束を破ってはならない」という教えを守りました。
 なるほど、男の子はこのようにして、抽象的な試練を乗り越えることで「大人の男」になるのか。
 みたいな感じでしょうかね?
 
 そして、「大人の男」のディマシュの、なああぁぁんと美しいことか!
 特に、霊廟の入り口で案内人に説明を受けている時の、逆光の中のディマシュのたたずまい。
 もう、古代のギリシャ彫刻だか、クシャーン時代の弥勒菩薩立像だかみたいなんですけど!?
 なんかもう、肌なんか内側から光り輝いているんですけど!???


②動画:『🔔 Димаш Кудайберген с министром Узбекистана посетили мавзолеи SUB』
(ディマシュ・クダイベルゲンとウズベキスタン大臣が霊廟を訪問)
by Звездные секреты(スターの秘密) 2023/06/30 
・該当場面のちょっと前から頭出ししてあります。
(注:最初に張った動画が削除されたため、別の動画に差し替えました)

 

 で、動画の途中に出て来た横顔が、こちらなんですけどね。

 これが、こう見える……(笑)

3世紀、クシャーン時代の「弥勒菩薩立像」 at 根津美術館


 もちろん私はただのファンだし、ファンの欲目であることは重々承知しとります。
 それ以前に私、漫画描きだったものですから、この場面の彼の雰囲気は、神聖な雰囲気であるように作られた建物の中での逆光がもたらす「効果」であると、充分にわかってはいるんですよ。
 でもそうであったとしても、絵心を刺激しまくられるような美しさです。
 どどど、どうしたもんか。
 還暦過ぎの婆様が、ときめいてしまうじゃないか!
 
 ちょっと冷静になれ、自分(笑)
 
 

【(冷静になるために)ウズベキスタンとは】

 さて、今回ディマシュが訪れたウズベキスタン共和国は、ディマシュの国カザフスタンの真南にある、東西に長く伸びた国です。

中東~アジアの全体地図

 カザフスタンと同じく「テュルク語圏」の一部で、トルコ系の多民族国家、公用語はウズベク語で、ロシア語が共通語です。
 東にキルギスとタジキスタンがあり、西にトルクメニスタン、南にアフガニスタンがあります。めっちゃ大変そう。実際にアフガニスタンとはタジキスタンとの絡みでかなり大変そうでしたね。近所に中国とロシアがいるので、そっちとの関係も大変そうです。アメリカとは、2005年のアンディジャン事件後、仲があんまりよろしくなさそうな感じです。

ウズベキスタンとその周辺

 古代よりこの地にはオアシス国家が栄えており、シルクロードの中継地でもありました。
 このあたりでは当時ペルシャ系のソグド人が活躍していたものの、8世紀にアラブ人に征服され、13世紀にはモンゴル帝国(日本で元寇が起こったのと同時期)に征服され、14世紀から16世紀にかけてチムール帝国が支配しています。
 その後いくつかの国家を経て19世紀にロシアに征服されてのち「ウズベク・ソビエト社会主義共和国」となり、1991年のソ連崩壊によって独立。
 このあたりはカザフスタンと同じ経緯をたどっています。

 この国で有名な都市は、なんといっても「サマルカンド」でしょう。町全体がサマルカンド・ブルーと呼ばれる青い色で満ちた街です。正面入り口の装飾が見事な「グーリ・アミール廟」や、青いタイルで装飾された11もの霊廟が並ぶ「死者の通り(シャ-ヒズィンダ廟群)」、1420年に建設された「ウルグ・ベク天文台」など、見どころ満載。
 なによりこの「サマルカンド」という言葉の響きじたいが、当時の栄華や物語を含んだ神秘的な雰囲気を持っています。

「グーリ・アミール廟」
「死者の通り(シャ-ヒズィンダ廟群)」
「ウルグ・ベク天文台」

【ディマシュが訪れた場所】

 ディマシュが①の動画で最初に訪れているのは、彼がインスタに書いていた文章によると、「ムイ・ムボラク・マドラサ(イスラム教徒の高等教育学校)」、ウィキペディアによると「ハスト・イマーム図書館」のようです。彼と大臣がガラス製の容器の中に保管されている最古のコーラン、「ウスマーン写本」を見ている様子が映っています。(注1)
この写本は、イスラム教の預言者ムハンマド(モハメッド)の死後19年後の651年、第3代正統カリフのウスマーンによって製作された写本群の一つと信じられており、現存するもう一つの写本は、トルコのトプカプ宮殿に収められているそうです。
 
 次に、薄茶色の建物の前で、案内人から黒い薄手の箱に入った何かを見せられているディマシュ。
(別の動画を見ると、これは茶色の丸い何かをもらっている場面で、精巧な木工細工かもしれません)
 この場所はシェイク・ホヴァンディ・タウール(Sheikh Khovandi Takhur)、ラテン名シェイハンタウル(Sheihantaur)の複合記念館の入り口のようです。
 ここにはタウールの墓や、その隣の建物にあるカルディルゴチ・ビィ(Kaldirgoch-biy)として知られるトレビ(Tolebi)の墓、そしてモスクがあるそうです。(注2)
 シェイハンタウル(注3)は、父親のシェイク・ウマルがスーフィー(イスラム神秘主義)で、イスラム教を広めるためにタシケントに到着したためこの地で生まれ、アーメド・ヤサウィ(注4)の教えを信奉するヤサウィーヤ教団に入信し、賢者の中の賢者として人々の記憶に残ったという人物とのことです。
 トレビという人物は、元々はカザフスタン出身だったそうです。15世紀、タシケントにジュンガル族が襲来した時、人々が逃げて行ったにもかかわらず彼はひとり家に残ります。ジュンガル族の長の前に連れて来られたトレビは、自分のテントにツバメの巣があり、生まれたばかりの雛もいたので、それを壊されたくなかったからだとその理由を答え、長はいたく感動して、彼とその親族には危害を加えなかったという伝承があります。そのため、彼は「ツバメの守護者」という意味のカルディルゴチ・ビィと呼ばれるようになったそうです。彼はその後ジュンガル族と戦ってこれを追放し、タシケントの総督になりました。
 この「ジュンガル族」は17世紀以後にジュンガル帝国を築き、カザフスタンに襲来、カザフスタンがロシア帝国の傘化に入るきっかけとなりました。
 このカルディルゴチ・ビィの墓には、今回のディマシュのようにカザフスタンのイスラム教徒がよく訪れるため、最近になってカザフスタン人移住者の費用でこの複合施設のモスクが作られたそうです。
 
 

【ディマシュが訪れたらしい場所】

 また、文化大臣のインスタによると、ディマシュはタシケント市内の「ナヴォイ・バレエ・オペラ劇場」を訪問する予定になっていたようです。動画はありませんが、おそらく近い将来のコンサート会場として視察したのではないかと推測できます。
(調べたら1400席だったから、ちょっと狭いかな?)

「ナヴォイ劇場」タシケント、ウズベキスタン

 この「ナヴォイ劇場」の正式名称は「アリシェル・ナヴォイ記念国立アカデミー大劇場」といい、中央アジア最大の規模を誇る大きな劇場です。
 1939年からWWⅡを挟んで1947年に完成しますが、この建物の建設には、WWⅡでソ連軍捕虜となった旧日本兵457名が、「日本人は器用だから」という理由で仕上げの作業を行ったそうです。
 ウズベキスタンには戦争直後、約2万3千名の日本軍捕虜が移送されて来ており、日ソ間の国交が回復する1954年までに884名が亡くなり、そのうち87名がタシケント市内の「タシケント抑留日本人墓地」に葬られています。
 この劇場建設に携わって亡くなった2名も、その中に含まれています。
 1966年、タシケントを襲った巨大地震により市内の多くの建物が崩壊しましたが、このナヴォイ劇場は無傷で残り、人々の避難所となっていたそうです。
 1996年には、ソ連から独立後の当時の大統領が、建設に携わった日本人を称えるプレートを劇場に設置したそうです。

ナヴォイ劇場、日本人を称えるプレート

 
 はー、冷静になるために以上をネットで調べましたが、とにかく日本語では全く出てこなくて、もう大変。
 ディマシュの投稿文はインスタの翻訳では最初の3行がなぜか翻訳されずにすっ飛ばされ、そこはキューバのdearsのリポスト(スペイン語)を参考にし、ウズベキスタン文化大臣の投稿文はウズベク語のためインスタもDeepl君も翻訳してくれず、グーグル様にぶっこんで翻訳するしかなくて、やっとわかった英語(ラテン語)表記で検索して出て来た記事は全部英語、右クリックなどで日本語に翻訳するとなんか文章めっちゃくちゃなのでDeepl君に頼みこみ、それでも人物名はカザフ語ウズベク語ラテン語英語のごちゃまぜで、もう大混乱。
 何とか交通整理ができた時には、6時間経ってましたよ6時間。
 冷静どころか、結構おもしろくて熱中してしまった(笑)  


 【ウズベキスタン文化大臣のディマシュ評】

 なので、6時間の疲れをとるために文化大臣様にディマシュを褒めていただきます(笑)
 大臣はディマシュについて以下のようにインスタに書いて下さってます。
(グーグル翻訳を手直し)

 「ディマシュは本当に稀有な才能であり、名手であり、高い演技スキルを持つアーティストです。
 その声は神様から与えられたものなのです! 間違いなく!
 しかし私は、彼の高い徳と倫理が人間として私に大きな印象を残したということを強調したいと思います。 インタビューの中で、私は彼が十分な教育を受けた若者であり、教師から教訓を学び、祖国と国家を愛し、高い名声にもかかわらず、素朴さと誠実さを失わなかったのを目の当たりにしました。  
 特に、トルコ人の歴史、ウズベク・カザフ友好のルーツ、文化、伝統に対する彼の関心と敬意は賞賛に値します。」

 この文化大臣は、なんと! 元々はポップグループ「ウズベクナボ」のボーカリストだったそうです。
 テレビのディレクターを経て2018年にウズベキスタン共和国の初代文化副大臣になり、2020年1月22日から文化大臣を務めていらっしゃるそうです(IGの紹介文では、文化観光大臣)。
 大臣は最後には彼を「私の友人」とまでおっしゃってまして、ここは祖父母に育てられた稀代の「老人転がし」であるディマシュの面目躍如ですな。もちろん私も転がされたひとりなわけですが(笑)。
 しかしながら、大臣がおっしゃるウズベク・カザフのルーツ、文化、伝統に対する彼の関心うんぬんについては、先ほど6時間かけて調べた人名や地名などを見ても、ディマシュは本当によく知ってるんだなと思いました。
 我々、自分の仏教宗派の創始者の名前、29歳当時に言えてました?みたいなもんですよ。
 先の動画の後半に、ウズベキスタンの工芸品を見るディマシュが映っています。その時にコーランを置くための折り畳み式の書見台「ラウヒ」を手に取って見ている彼のまなざしは、あきらかに研究者のそれです。
 当然かもしれません。彼は歌も上手いけど、芸術大学と大学院に合わせて11年間も在籍しているので、学者さんでもあるんですよ普通に考えれば。
 なので、歌も音楽家以上に歴史学者並みに研究して歌ってて、だからディマシュの歌は難しいんです、真意をくみ取るのが。 

③動画:インスタグラム『 dimash from hisvisit in Tashkent 29 June 』
  by cathrinedqdear 2023/06/30  研究者のまなざし。


【結局、冷静になる前に逆戻り】

 それにしてもですよ。
「書見台」を見ているディマシュのこの美しさは、いったいなんなんですか!??
『行かないで』(日本語バージョン)を超えたかもしれない、
「あ、人間、やめたんですね?」振り。
 さて、どうしたもんか……。
 
 ディマシュは6月30日頃にウズベキスタンを離れまして、7月5日には故郷カザフスタンの首都アスタナ設立25周年を祝うコンサートに出演し、2曲を歌っています。
 ちなみにカザフスタンの首都アスタナは、日本の建築家、黒川紀章が設計しています。(注5)
 で、このコンサートでもやはりなんとなく雰囲気が違っていて、特に声がかなり違う感じがあります。2曲ともわりと威勢のいい曲なので、ウィスパーボイスの曲を聴かないことには判断は早計かという気もしますが、以前のうっすら子供っぽい感じが抜けて、大人の男になりやがったような声です。
 どどど、どうしたもんか。

④動画:『Dimash full performance Astana 25th anniversary compilation』
    by Dimash Iran   2023/07/07


 また7月10日には、マレーシアのコンサートを協賛した「VSING」に対してディマシュが感謝の言葉を述べている動画が出回り、ここでも表情が明らかに大人(おっさん化、かもしれんが)になっており、それ以上に特に感じたのは、英語をしゃべるディマシュの、言葉に付随する感情が穏やかだということです。以前ほどには感情にムラ、というか振れ幅と変化の速度の乱れが少なくなり、感情の受け皿が大きくなったような気がします。
 そういえばこの雰囲気は知ってるなと思ったら、彼のお爺さんのふんわりした雰囲気に近いのかもしれません。
 彼はお爺さんの性質を会得したのだろうか……。

 ⑤動画:『Dimash about Malaysia concert』 by Dimash Iran 2023/07/10


【「至誠」の証明】

 この表情と、アスタナ祝賀コンサートの歌声を考えると、もしかしたら以前の彼には、あれほどの才能と能力と知名度を持ちながら、自分自身に対する根本的な信頼感がほんの少しだけ薄く、自分で自分を証明し切れていない不安があったのかもしれません。おそらくはそれが、彼について私が「幼さが残る」と判断してしまっていた理由だったのでしょう。
 それが、あのマレーシア・ライブで、彼はようやく自分で自分を認めることが出来たのかもしれません。
 それも音楽的な成功によってではなく、亡くなった人との対話、すなわち故人との約束を守るという、現世的な損得を超えた人間性に関わる倫理、あるいは善、あるいは「至誠」を、実際に行動して結果を残すことで、自分自身に対して証明したという事実によってであった、と。
 
 いつかは彼のあの「子供っぽさ」、ある種すっとんきょうな可愛らしさは後退して行き、元々の性格であろう思慮深さと落ち着きが表にあらわれる日が来るとは思ってました。
 思ってましたけど、まさかこんなに速いとは。
 速すぎて追いつけません。曲の感想文の投稿が……(笑)
 
 この動画⑤の最後にディマシュは、以下のように話しています。

「そしてこのコンサートは、本当に違っていました。
 今、僕達は、あのコンサートの前とは違う物語を持っています。
 And this concert (was) really different.
 Now we have (a) different story than before the concert.」

 彼は、自分の変化に自覚があるのかもしれません。
 彼が言う「違う物語」が何なのか、とても楽しみです。

 しかし、大人の男になっても、可愛いらしいのは変わらんな(笑)

 
(終了)


【注解】


 

(注1)ウスマーン写本

「ウスマーン写本」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%86%99%E6%9C%AC

 

(注2)シェイク・ホヴァンディ・タウール複合記念館

①   『Shayhantaur Ensemble, Tashkent』by「Advantour – Tour Operator on the Great Silk Road」
https://www.advantour.com/uzbekistan/tashkent/shayhantaur.htm
②   『Sheikhantaur Ensemble』by「Uzubekistan(The National PR-center)」
https://uzbekistan.travel/en/o/sheikhantaur-ensemble/
 

(注3)シェイハンタウル

『Sheihantaur』ウィキペディア(英語)
https://en.wikipedia.org/wiki/Sheihantaur
 

(注4)アーメド・ヤサウィ

 アーメド・ヤサウィはカザフ語読みで、ウィキペディアではラテン語読みの「アフマド・ヤサヴィー」となっています。彼はテュルク語詩人として知られていますが、スーフィズムのホージャ(称号のひとつ)で、スーフィズムの教団を初めて作った人物でした。カザフスタンのカザフステップに学問の中心地「ヤシ」という都市の建設に従事し、1066年に63歳でこの地に没します。この都市は彼にちなんで「テュルクの聖なる者」という意味の「テュルキスタン」と呼ばれるようになり、東の第2のメッカとも称される重要な都市となります。ウズベキスタンの首都タシケントから北北西に180km程度と非常に近い距離にあり、人口の半分がウズベク人なのだそうです。
『アフマド・ヤサヴィー』ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%82%B5%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC
『テュルキスタン』ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3
 

(注5)黒川紀章(1934~2007)

①   『黒川紀章』ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B7%9D%E7%B4%80%E7%AB%A0
 日本の建築家、思想家、実業家、政治活動家、株式会社黒川紀章建築都市設計事務所代表取締役社長、日本芸術院会員。
 日本の建築界の巨匠、丹下健三(広島平和祈念館、東京都庁、フジテレビ本社ビルなど)の門下生。
 1960年(昭和35年)、メタボリズム・グループとして世界デザイン会議に参加。メタボリズムとは「新陳代謝」のことで、社会や人口の変化に合わせて有機的に成長・移動する都市や建物を提唱する日本発祥の建築運動。
 代表作に、中銀カプセルタワービル(1972、東京都、現存せず)、ソニータワー(1976、東京都)、クアラルンプール国際空港(1998、マレーシア)、ゴッホ美術館(1999、オランダ)、アスタナ新国際空港(2005、カザフスタン)、国立新美術館(2007、東京都)など。
 
②   『プロジェクト:カザフスタン新首都アスタナ計画』
  KISYO KUROKAWA architect & associates
https://www.kisho.co.jp/page/120.html
「カザフスタン新首都の国際コンペ 1998」の概要、新首都計画の概要、共生都市の提案など。
 
③   『from KAZAKHSTAN 新しい首都をデザインする』 JICA – 国際協力機構
https://www.jica.go.jp/Resource/publication/j-world/1109/pdf/tokushu_02.pdf
 ジャイカの雑誌の記事のようですが、何年かは不明。
 この記事によると、黒川氏がコンペの優勝を決めた理由の一つが、先にあげた「メタボリズム」というコンセプトだったそうです。氏の計画にある、あらゆる都市機能が混在する新しい発想の「共生都市の提案」が、カザフの人々の心に響いた、と。建築物がお互いに緑でつながり、黒川氏はそれによって昆虫や微生物が移動できるようにと「5ミリ幅でいいから緑でつなぐ」ことを目指したそうです。
 この首都アスタナには、ディマシュが学んだカザフスタン国立芸術大学があります。彼がこの大学に進学した時、彼の祖父母もまたアスタナに引っ越して彼を支えました。
 ということは、ディマシュは黒川氏がデザインしたアスタナで暮らすことで、日本発祥の建築思想である「メタボリズム=有機的な成長」と、黒川氏が提唱した「共生」の思想を吸収している可能性があります。
 
④   『建築家・黒川紀章がカザフスタンに計画した未来都市は今も拡大していた』
  ニュースサイト「GIGAZINE」取材記事 
  文・取材:植竹智裕 2014年12月09日 12時30分
https://gigazine.net/news/20141209-futuristic-astana/
 世界一周旅行中の記者、植竹氏がカザフスタンの首都アスタナに到着し、まるで「ドラえもんの未来都市」のような都市を見て回るという記事。
 空港から氷点下の街に降り、徐々に中心地に向かう道筋で、街の建物を写した多くの写真とその解説が、まるで自分が実際にアスタナを見て回っているような気持ちになれる、とても優れたレポートです。
 ディマシュが『ワン・スカイ』を初演した『第7回世界伝統宗教者会議』が開催された建物の内部や、世界一大きなテントのショッピングモール外観などを見ることが出来ます。
 この記事でアスタナ市内を見ていると、カザフスタンは最近独立した国で、世界から見るとたしかに田舎ではあるけれど、最近独立したからこそ、20世紀後半に世界が培った文明の精髄を都市のデザインに組み込むことが出来たという意味で、アスタナは超近代的な未来都市であることが分かります。
 そのような都市で芸術を学んだディマシュもまた……。

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