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Together①音楽のみ by ディマシュ 妄想ストーリー&妄想考察


 以下は、2023年3月21日にデジタルリリースされたディマシュの『Together』の、音楽のみのバージョンについて、4月5日にFacebookで発表した文章を加筆訂正したものです。
 歌を聴いて勝手に想像した「歌の妄想ストーリー」と、歌の「感想&妄想考察」の2本立てです。
 MVの公開が音楽のみの公開より遅かったため、その時間差を利用して、ちょっと遊んで書きました。

(見出し写真:ライブにて、みんなに挨拶しなさいと弟にマイクを渡すと、弟が「皆様に平安あれ(こんにちは)」と言ったので、大笑いする兄。打ち合わせと違ってたのかな?)

                     (Dimash 15)
                     (7,721文字)
                     (第1稿:2023年4月5日)


 動画:『Together』
    by Dimash Qudaibergen - トピック(公式) 2023/03/21



【前置き】

 ミュージック・ビデオ(MV)はまだなので、音楽のみの動画です。
 つまり、妄想するなら今のうちっっっ🤣


【歌の妄想ストーリー】


(イントロ)

 始まりのピアノとパーカッションの音が、まるで朝露が草の葉からこぼれ落ちながら、一瞬光るさまを想像させる。
 すがすがしく透き通った空気の存在を感じるサウンド。
 朝がもうすぐ来るようだ。

(ヴァース1)

 歌が始まった。
 だが、「君」は朝が来ることに気がつかない。
 小さな暗い部屋の床に座り込み、両腕の中に顔を埋め、道に迷った困惑と恐怖、そして自分を蝕んでいく日常に、立ち上がる気力を無くしてしまっている。
 「僕」はそんな「君」を少し離れた部屋の隅から見ている。
 「君」にだけ聞こえる小さな、だけどエコーのかかった美しい囁き声で、「君」の状況をいたわる言葉をつぶやいている。
 「僕」は「君」の前まで近づくと、「君」の前に膝をついて、同じ目線になる。
 そして、「僕」は「君」とずっと一緒に居たよ、と打ち明ける。
 「君」は驚いて、少しだけ顔を上げ、「僕」を見る。
 すると、「僕」は「君」を見て微笑み、ちょっとだけ強い声で、「僕」と一緒に歌おうよと誘う。

(プレ・コーラス1)

 「僕」は「君」の横に座り、2人の前方、明るくなってきた東の空のほうを指差しながら、「君」の中に眠っているはずのエネルギーに向かって奮い立つよう語りかける。

(コーラス1)

 でも「君」はまだ臆している。
 「僕」は「君」が怖がらないように、最初よりももっと小さな声にして、「君」の耳のすぐそばで、優しく柔らかく、囁く。
 「僕の手を取って」
 「危険は僕が引き受けるよ」
 「僕達一緒なら、何だって可能だよ」

(ブリッジ・間奏部)

 楽器、特にキーボードの電子音が、登ってきた太陽の一閃が辺りを照らし始めたことを告げている。

(ヴァース2)

 「君」は「僕」に興味を引かれ、横に座る「僕」の表情をこっそり盗み見る。
 「僕」はそんな「君」に気がつかない振りをして、ひとりごとのように今の「君」がどんな人間かを語り続けている。
 登ってきた太陽の光を受けながら楽しげに話す「僕」の横顔を、「君」は不思議な気持ちで見ている。
 すると突然、「僕」が「君」の瞳を見つめる。
 そして、「知ってたよ」と告げる。
 「君」はずっと「僕」と一緒に居たんだよ、と。
 そう話す「僕」の声は、ちょっとだけ、寂しげだ。
 「君」は、その寂しげな声に心を動かされる。
 「僕」を信じてもいいのかもしれないと思い始める。

(プレ・コーラス2)

 「僕」が語る「君」のありようを「君」は信じ始める。
 「君」の体の中にリズムが生まれ始める。
 「君」はリズムに乗って、知らず知らず立ち上がってしまう。

(コーラス2)

 立ち上がった自分に驚いている「君」の正面に「僕」が立ち、「君」の手を取ると、優しい笑顔で「君」を励ます。
 囁く声から、少しずつ力を込めて語りかける声になり、一歩踏み出すタイミングを予告する。
 「僕」がフレーズの最後に入れた、バリトンのボーカルフライ。
 それが合図だ。
 さあ、飛ぶよ!

(コーラス3)

 「君」は、「僕」と繋いだ手のその暖かさを感じながら、両足を動かして走る楽しさに我を忘れる。
 「君」の顔を照らす太陽の光の熱を「君」は感じ始める。

(ヴォカリーズ)

 「僕」は、「君」と一緒に風を切って走る喜びに声を上げる。
 「君」が「僕」に気がつかないでいた時の「僕」の寂しさが消えていく。
 美しいギターサウンドが、走るふたりが作り出す「風切り音」のようだ。
 ふたりの背中の翼が同時に羽ばたき、ふたりは重力から自由になる。

(コーラス4)

 「君」と「僕」は互いに笑いながら一緒に歌う。
 それは、可能性の歌。
 そうと知らず共に歩いてきたふたりが、今度はそうと知りつつ共に歩み、これから共に紡いでいく、冒険の歌。

(アウトロ)

 楽しげな笑い声と、遠ざかっていくふたりの姿。
 あとに残ったのは、ふたりがいた「孤独」という名の小さな暗い部屋。
 その部屋は、瞬きする間に霧散していった。

(妄想ストーリー、終了)


【曲の感想&妄想考察】

(曲の第一印象)

 歌が始まると、涼しいミストにふんわりと包まれるような雰囲気が、自分の皮膚のすぐ外側に漂っているような感じがする。
 実際に体感気温が少し下がるらしく、歌が終わると、とたんに暖房を暑いなと感じるくらいだ。
(注:音楽が発表された当時は、まだ3月の寒い時期だった)
 
 なんとなくだけど、この曲でのディマシュの声は、人間の体の外側にあるという「エーテル体」「アストラル体」「メンタル体」「コーザル体」等々、そのどれかはよくわかんないけど、そういうところに働きかけているんじゃないかという気がする。
 
 ディマシュの声、ヴァース1の late、forever、labyrinth、コーラス1のToday、everything together、など、吐息が70%以上ありそうなウィスパーボイス。
 それは、非常に細かい精妙な音の粒子が、画面からこちらに向かってスプレーされているようだ。
 その粒子が私を通り過ぎる時、私の「見えない体」から雑念や汚れや濁りを弾き飛ばし、吹き払っていくような感じがする。
 このウィスパーの広がり方は、音楽のジャンル的には、「ボーカル物」と言うよりも、「アンビエント・ミュージック」の雰囲気に近い。

(ディマシュの歌の難しさ)

 ディマシュの歌は、実はかなり難しい。
 技術が、ではない。
 彼の歌自体の「立ち位置」が、我々の耳に馴染んだ欧米型 (日本含む) のポップスではないからだ。
 たった1ワードで彼に降参した私でさえ、カザフ語の歌や、ロシアの作曲家の歌などの真価を理解して味わえるようになるまでに数ヵ月を要した。
 欧米のヒット曲のカバー以外の彼の曲は、売ろうとして作っている気配が無い。
 商売用のフックがまったく無いのだ。
 そのため、商売用の歌に慣れてしまった耳には、彼の歌の何をどう聴けばいいのかがよく解らない。
 つまりディマシュの歌は、「泡沫もの (ポップス) 」ではなく、クイーンのボーカリスト、フレディ・マーキュリーの有名な自嘲の言葉「使い捨てポップ」でもないのだ。
 普通のポップスは、聴く側が何もしなくても、聴いて即わかるように出来ている。
 だが彼の歌は、普通の歌の2倍から3倍、あるいはそれ以上に、聴く側が意識して掘り下げないと、歌の真意を発見することが難しい。
 彼の歌のコンセプトが、哲学や信仰、魂や、霊魂に関わる別次元の何かがベースになっているからだ。
 例えば、この曲で初めて彼の歌を聴く人は、パンチが弱い、または無いと感じるかもしれない。
 特にコーラスは、4回とも声を極限まで張って歌っていない。
 これをどう解釈するかで、この歌の価値が変わる。
 なぜディマシュは、この歌をパワー全開で歌わないのか。
 それは、おそらく歌詞に理由がある。

(歌詞の秘密)

 歌詞はDmitriy Goubnitskyという人の作品。
 ただし「こんな感じで」みたいなリクエストがディマシュ側から出ているような気がする。
 歌詞を読むと、単純な「ハイヤーセルフ物」のようだが、なんかちょっと感じが違う。
 「君」についてはすぐに見当がつく。「インナーチャイルド」だ。
 だが、一人称の「僕」は、誰なのだろう?
 ヴァース1の途中で「僕」が自分について情報開示をするのだが、この時の英語が、"I've been here with you"と、現在完了形だ。
 いつからとは言わないので、「僕」は「君」と最初から(たぶん生まれた時から)一緒に居たようだ。
 でも「ハイヤーセルフ」でないのなら、何なのだろう。
 歌詞の中で「君」と呼んでいるのが、人間の意識として一般的な「アストラル体」だとすると、「僕」はそのひとつ外側に位置する「メンタル体」ではないかと思ったりもした。
(文献によっては、メンタル体とその外側のコーザル体をハイヤーセルフとしているものもある)

 などと難しいことを考えていると、待て待て、もっと簡単な「自分の中のもうひとりの自分」がいるじゃないかと、思い出した。
 心理学者ユングが、人生に行き詰まった時期に発見し、それによって活力を取り戻したという豊かな子供心、「ワンダーチャイルド」だ。
(この言葉自体は、英国の動物学者ジョン・ブラッドショーの『インナーチャイルド』という本の中に出て来たようだ)
 この子供は、ひとりの人間の中にある創造的で、快活で、明るく、生き生きとした心をあらわす。
 その「ワンダーチャイルド」が、何かに挫けて落ち込んでいる「インナーチャイルド」を励ましているのかもしれない。
 そしてこの「僕」は、「君」が「ハイヤーセルフ」になれること、むしろ「ハイヤーセルフ」そのものだということを知っている。
 
 ディマシュがこの歌でパワー全開にしない理由は、「僕」と「君」がお互いにもう一人の自分であって、お互いがすぐそばにいる存在だからだ。
 相手が他人なら、声を出す生き物は最大のボリュームで自己の存在を主張し、恋の相手を呼ぶ。
 だがこの歌の2人は「他人」ではない。
 だから声を張り上げる必要はない。
 
 また、「君」は歌の最初で疲れ切っていて、外界に反応する元気を失っている。
 「僕」はそんな「君」をとても気遣っている。
 だから大きな声は出さない。
 
 さらに言えば、人間の「霊魂」の声は、ディマシュのウィスパーボイスが最後に息だけになった状態で空中に漂う様子によく似ている。
 ひとりの人間の霊魂、あるいは無意識の中で起きている会話なので、その声は物質的な音響「ではない」ということだ。


(ディマシュの世界観)

 この歌の構想は、コンサートでファンと一緒に歌うことを想定されているはずだ。
 ディマシュの十八番の超絶ハイノート無し、難しいメリズマ無し。
 歌詞は「君 (ファン)」と「僕 (ディマシュ)」の会話形式でもある。
 だが、前の項目で見たように、ただの会話ではない。
 その理由は、ディマシュが自分のファンに持っているイメージにある。
 
 彼は正式には「インディーズ系アーティスト」だ。
 欧米の主要レーベルと契約せず、活動の主体はインターネットにある。
 そのため、彼の音楽活動は、ファンの直接的なインタラクションによって支えられている。
 なので、彼とファンの関係はフラットで、上下関係がない。
 ディマシュはそれをよく理解しており、「ファンが“ディマシュ”に飽きたら、“ディマシュ” は消える」とまで発言している。
 彼のイメージの中にある「dears」という名のファンダムは、アーティストである彼の「魂」そのものなのだ。
 だからだろう、この歌の構造上は「他者とのコミュニケーション」ではあるのだが、印象としては「自分の自意識と、自分の魂とのコミュニケーション」のように聴こえてくるのだ。
 
 ディマシュは、空港やイベントなどで大勢のファンに囲まれた時、彼の目がファンのひとりひとりを認識し、それぞれの個性、特に彼等の「良い面」を見ているような印象がある。
 意識してそうしている風ではない。
 なのでファン達は、あれほど “憧れ” の彼のそばに居ても、非常に礼儀正しい。
 ディマシュに自分の最も良い面を引き出されてしまうからだ。
 私はネットを介してこの歌を聴いているわけだが、そんな状態でも、ディマシュの声には「情感」や「情愛」、特に「他者を肯定する音色」が非常に多く含まれていると感じる。
 ディマシュはそれらを、ネットを介した関係であっても、空港の彼がそうしていたように、リスナーを「マス(群衆)」としてではなく、ひとりひとりのパーソナルな「心」に、声という周波数で伝えてくる。
 そして自分が「dears」であると自覚してみると、面白いことに、彼は「dears」を、やはり「マス」(群衆)」としてではなく、ひとつの大きな「生き物」として愛し、信頼していることも分かる。
 これは、非常に不思議な感覚だ。
 そういう歌を、彼は各種の音楽プラットフォームで、「宇宙元旦」と言われる「牡羊座の新月の日」にリリースした。


【作曲者、マンスール君について】

(現代っ子の弟)

 3月21日に発表されたディマシュの新曲は、いつもと違って、とても爽やかで明るい曲だ。
 というのも、この曲を作曲したのがディマシュの弟、当時15才のマンスール君だからだ。(2023年現在は16才)
 この子が、なんとゆーか、アメリカのウエストコースト的なカラッとした都会的な雰囲気を持っていて、ああ、ウエットで古風な兄貴と違って、もう現代っ子なんだなと思った。
 なにせこの弟くん、兄貴とは13才も年が離れていて、干支で言えばひとまわりプラス1年、年下なのだ。兄貴が戌年で、弟は亥年ですね。
 兄が生まれたのは、カザフスタンが旧ソ連の属国から約250年ぶりに独立してまだ2年半しか経過していない時期で、弟は独立から16年が経過してからの生まれだ。戦後日本の復興・近代化も早かったが、カザフスタンの近代化のスピードは、おそらくもっと速かったはずだ。その違いが、この兄弟の雰囲気の違いになっているのだろうと思う。
 そしてこの弟も、兄と同様、天才だなと思った。

(弟の才能)

 どこらへんが?というと、まず、曲のヴァースとプレ・コーラスとコーラスのそれぞれのメロディーに、「各パートを別々に思いついて、それを無理やりつなげました」的な違和感が、まったく無いこと。
 メロディー全体が一度に全部出て来たのかもしれないが、意外と複雑な構成とコード展開なのに、弟が作ったということを知らずに聴いたら、手練れのプロが作ったのかと勘違いしそうなくらいの自然さだ。
 あとは、マンスール君の普段の挙動。
 兄も退屈するとすぐに鼻歌を歌いだすが、弟はさらに極端で、他人の目が自分を見なくなるとすぐにあちらの世界、おそらく音の世界に意識が行ってしまうようだ。

(弟のギターサウンドについて)

 また、ディマシュのそれまでの曲では、彼の声のハイノートがエレキギターの音とよく似ているため、ギターの音をかなり抑え気味にミックスされていることが多い。
 だがこの曲では非常に珍しく、ディマシュの声と同じぐらいの音量でギターソロのサウンドがミックスされている。
 2022年9月のアルマトイ・ライブでマンスール君が弾くギターソロ曲を聴くと、彼はどうやら濁りの無い澄んだ音が好みのようで、ストラトキャスター特有の歪みはほとんど聞こえない。
 もしかして、美しいストラト音で知られる「U2」のエッジ(The Edge)の音と同じくらい綺麗かも!?と、かなりびっくりした。ピッキングや運指は、まだ幼いですけどね。
 この曲のオケのエレキギターは、たぶんマンスールではなくプロが弾いているのだろうが、そのプロのギター音がライブでのマンスールのギター音に非常に近いことから、おそらく彼がデモテープで弾いていただろう音に近づけてあると思われる。いつものギター音はもうこれってストラトだよねーっていう感じで、もっと「ギャーン」っていう歪みのある音だからだ。
 兄貴の声が「クリスタル・クリア」と称される非常に美しく澄んだ声なので、なるほど彼のこの声に合うギターの音も、実は相当にクリアな音でないとアカンかったのか、と思った。
 マンスール君がはたちを過ぎたら、ソロでデビューするかもしれないが、兄貴専属のギタリストとしてでもやっていけそうだ。

兄のアルマトイ・ライブにて、舞台にある3基の巨大プロジェクターに映る弟の雄姿。
本人は真ん中のプロジェクターの下の方、ちっこい黒い点が彼の頭です……

  そして兄貴はといえば、この13才年下の弟が可愛くて仕方がないらしく、さっきも書いたけど、9月のアルマトイ・ライブでは弟のピアノ伴奏でこの曲を披露し、弟単独のギターソロ曲(カバー曲)のコーナーまで作って、弟のアーティスト・デビューの舞台を用意していた。
 心情的には、ほとんど父親みたいだ(笑) 
 以降の自分のコンサートでも、今のところ必ず弟を舞台に上げている。
 弟のほうもこの兄貴が大好きらしく、2人の様子は見ていてとても微笑ましい。


動画:『Dimash - Almaty Concert | part 2』 公式 2023/01/01投稿
・2022年9月アルマトイ・ライブの動画、パート2。
 マンスールのギターソロ曲の場面を頭出ししてあります。
・この動画の1曲目が、『Together』初披露、マンスール登場の場面です。


動画:『U2 Where The Streets Have No Name Live At Slane Castle』
by Fuzz97 2006/09/11投稿
・2002年9月1日、U2のコンサートより、エッジのギターの頭出し。


【後置き】

 マンスール君に関しては、この頃の私はまだ12才ぐらいの子供の時の彼の姿しか知らなかったので、9月の兄貴のステージに突如出て来た白いスーツ姿の「もうひとりの美形の王子」に、これ誰やねん!!?っつって仰天したものだ (笑)。

第一王子と、第二王子。どっちも美形なので眼福である。
が、dearsどもは弟そっちのけで兄貴の「腹毛」に注目していたという(笑)

 そして、この弟が作る曲がまた、天才シンガーの兄貴にしか歌えない超絶難しいメロディーで(特にコーラス)、頑張って一緒に歌いますけどさー、鼻唄で気楽に歌えるような曲を1曲ぐらい作って欲しいなーという私の願いは、当分叶えられそうにない。
 まあ、そーゆーところが良いんだけどね (笑)
 
(終了)


(後日談です)

 2023年6月のマレーシア・コンサートで、ディマシュはこの歌のコーラスをファンに歌ってもらおうとしたけど、会場のファンのほとんど誰もちゃんと歌えなくて、ディマシュ君、苦笑してました。
 次は頑張ろうね、dears!(笑)



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