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モノの心

"石にも心がある”をもう少し考えてみたくて、図書館をうろうろ。


あったー!
 

森山徹 著
 『モノに心はあるのか ー 動物行動学から考える「世界の仕組み」』

ダンゴムシ研究者って…
ダンゴムシにも石にも「心はある」って…

おもしろそうだーーーー!!!

予感的中!

「私は一生覚めない夢を見ていて、私の外側に世界はないのではないか」という、森山さんが幼い頃に抱いた疑問話の展開にシンパシー!他人とは思えないような自問自答から始まる話に、ぐいぐい引き込まれていった。

『世界とは何か』


世界とは何か、というめちゃくちゃ大きな問い。その問いに対して森山さんは、研究室でコーヒーを飲みながら脳裏に浮かんだ疑問「なぜ私はマグカップを手にしたのだろう」が、どのように作られるのかを分析することから始めている。
マグカップを手を伸ばした時には、コーヒーを飲むこととは無関係な「複数の欲求」が「コーヒーを飲みたい」という欲求と共に「ひとつの欲求」を作っていて、森山さんは、それら複数の欲求から一つの
欲求を選択したということなのだという。「コーヒーを飲みたい」のほかにも同時に、「歌いたい」「カレーを食べたい」などと思っていたのに、それらが抑制され、「マグカップを手にする」が成り立つ。でも、その決まり方は不確かで、「コーヒーを飲みたかったから」という動機は、むしろ行為のあとで、でっち上げているという感覚なのだと。

あるモノゴトは、生じた瞬間から滅しはじめ、変質し続ける「時間的に不確かな存在」であり、常に複数の他のモノゴトと共立し、調和する「空間的に不確かな存在」なのです。(P.33)

ん??この雰囲気、どこかで感じたことあるな・・・

鴨長明の『方丈記』だ!

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

常に同じように流れている川の水は常に入れかわっていて、同じではない。水面に浮かぶ泡も、消えては現れて、同じ泡がずっと浮かんでいるわけではない。何度読んでもその通りだなと感心させられてしまう。移りゆく時の流れの中での栄枯盛衰に由来する無常観を表していると、学生の頃に学んだ。

考えてみれば、川はいつも変化していて、水は移動しながら、場所によっては乾き、新しい流れを作っている。そこで流れている水は、その瞬間、瞬間でいつも違う水だけど、だからといって、川は幻想であるとか、リアルではない、とは言えない。人体も7年ですべての分子が入れ替わるが、私は私だ。世界も不確かに流れゆくものだけど、幻想ではない。

じゃあ、変わらないものとは何だろう?

・・・・


 『言葉とは何か』


世界の中のモノゴトは、時・時空間的に不確かな存在であるにもかかわらず、私たちの脳は、言語行為によってそれらを確かなものとして表現、あるいは、型にはめている。

私は、「言葉はなぜ意思を伝えることができるのか」という問いを出発点とし、言葉とは何かを考えていくことにします。(P.95)

変質し続ける不確かなモノゴトを、そのそのまま不確かな混沌として認識するのは大変なので、人間はモノゴトに名前をつけ、区別をして、言葉という道具で切り取った。

ヒトの学名ホモ・サピエンスは「賢い人間」という意味なんだそうだ。道具と言語の使用が人間の「賢さ」の根拠とされている。言葉は、心に浮かぶ概念としてイメージできる要素をさまざまに組み合わせて、新しい概念を構成し、自分や他人に伝達することのできる道具とも言える。例えば、目には見えない雰囲気を、「空気を読む」「空気を醸し出す」などと言う。掴みどころのない雰囲気ですら、空気という言葉にして、区別している。

ヒトは言葉によって、モノゴトを表現し、ヒトと相互作用し、理解を図る。森山さんは、「意図も理解も言葉を交わす中であいまいに立ち上がってくるもので、言葉の意味がはっきり決まっていると思うのは大人の思い込みで、子どもはそれ以前を生きている」と語っている。その言葉に対する「感性」が反映され、どのような感覚を得るかで、その言葉の意味は変わり、言葉の意味は、発信、受信双方の感性の共同で表現される。コミュニケーションとは、本来「状況依存型」ではなく、「創発型」コミュニケーションなのだと。椎名林檎やレニー・クラヴィッツ、"コムアイは現代の卑弥呼”などのユニークな視点と語り口が、森山さんの人柄を感じさせる。

生きものとしてそれぞれ独自の履歴を持つ私とあなたにとって、共通の意味をもつ状況などあり得ないこと、そして、どんなに共通に見える状況を用意しても、その解釈は決して一致しないということです。 (P.137)

これは、大いに共感!ありきたりになってしまうが、ダンスは言葉で切り取れないことを掬い取る。言葉にできない豊饒で曖昧な世界を漂うことが好きな私は、言葉の意味は本来一致しないということに実感がある。

言葉で表現する過程においての「意識」と「心」との間の関係を、森山さんはマグカップを例に説明している。机の上に白い陶器があり、これを「マグカップだ」と言葉で表現する場合、最初、「意識」はマグカップの一部(持ち手の部分など)を見ていているだけで、あやふやな全体像しか捉えていない。その後、マグカップという言葉を使って頭で切り取り、「心」が登場して全体の範囲を決めて、「意識」が言っていることを明確にするのだというのが、森山さんの主張だ。

うーん、わかるような、わからないような… 環境が意識に影響し、思考に影響するってことかな。

言葉とは、世界の中のモノゴトが、確かに「そこにある」という感覚、「存在」という感覚を創り出す「装置」でもあるのです。(P.141)

モノゴトの一部を意識 → 言葉によってモノゴトを宣言 → 心が不明瞭なモノゴトの全体をでっちあげる → 言葉「マグカップ」が指す対象を不確かにする→ 意識が行為(マグカップを掴むなど)を生む → モノゴトが「そこにある」ことを心へ実感させる。

「そこにある」「存在」という感覚は、まったくもって掴みどころがないけど、不確かさが行為に繋がり、存在の実感を生むというのは納得できる。

『心とは何か』

心は「個性を生み出す仕組み」なのです。(P.149

)

個性は、行動にあらわれる。ここで、動物行動学が登場!
トゲウオ科の魚の繁殖行動から説明している。トゲウオ科の魚が、縄張りに入ってきたライバル雄を攻撃する時の欲求ゲージの違いが個性につながると。


私でいうと、上手く踊りたい欲求のゲージが溜まる → 脳と身体機能について知りたいという欲求のゲージ up→ 表現の幅を広げたい欲求のゲージ up → 現代アートに踏み込んでいく、というのが個性につながるということかな。

ダンゴムシにも個性がある。
いよいよダンゴムシ研究者の本領発揮!
森山さんは、脳を持たないダンゴムシにも心があり、個性があることを実験から導き出している。未知の状況においてのダンゴムシたちは、心を変化させ、「きまじめ」「変わり者」「気まぐれ」というような行動を見せる。

心は、未知の状況において、行動決定機構の自律的制御機能を発揮し、新奇な行動を発現させ、生得的行動と環境との間に生じる不整合を解消するのです。(P.187)

ダンゴムシがヒトが感じる「ピンとくる」ような感覚を生じて、行動を変化させたのではないか、という森山さん。ダンゴムシに第六感とは!考えたこともなかった。なんだかウキウキしてくる。

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森山さんによると、あらゆるモノは、隠れた活動体=心を持つという。


と、いよいよ「石」の出番だ!!


石は、「静止しようと行動している」

おっ、きたな~!!!

石の表面は、大気や土から様々な作用を受け劣化する。石の劣化は、はがれ去る石の分子と、はがれない分子との結合が切れる瞬間が両分子によっても決められることから、石が劣化速度を調整しているといえる。だから、石は静止という行動を発現しているのだと言えるのだ。そして、ダンゴムシ同様、石を未知の状況におくことで、石の予想外の行動、ありえないような変形を見出すことができるはずだと、森山さん。




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石の予想外の行動を引き出す石器職人の話は、興味深い。
固くてなかなか割れない石を思い通りに割る石職人は、石の心を、石の個性を理解している。石職人は石を割った時、「割ってやった」と思うのでなく、「割れてくれた」と思うそうだ。石職人は、石が発する振動をキャッチして、「石の自律性に任せて割れるという行動を引き出している」というのだ!

どこまで繊細に扱うモノの声を聞きとることができるか、どこまでその声に寄り添うことができるか。そこに秀でているヒトが、名人・達人と言われるヒトなのだろう。「私の力ではなく、モノが語りかけたことをカタチにしただけです。私ではなく、モノの力です」なんて言っている職人さん、いるいる!!かっこいいよな〜。

食品の発酵という現象にも興味を持ち、納豆を完成させた職人も「大豆を変えてやった」とは言わず、「大豆が変わってくれた」と呟いたはず、という森山さん。どこまでも素敵だ。




 『モノの心』

モノの心は、世界の対象をモノとして扱う私たちの意識が、その箍を外す機会とともに、意識の上に現れます。(P.205)
「私たちに見取り図や景色のようなものを与えない、決して懐かない原動力を生み出す何者か」を、心であると言いたいのです。(P.209)

モノは千差万別、それぞれ個性があり、その属性や規則に合わない部分を常に新しく「生み出そう」としている。だから、その役割や視点を固定化してしまうのは残念だ。モノもヒトの心と同様に変容するもので、私たちは、常にモノと新しい関係を作り続けていると考えると、世界が広がる。モノの心を意識することは、私たちはあらゆるものと繋がっているという関係性の認識なのだ。

森山さんは、日常的に意識の箍を自律的に外すことで、心の感度を上げることができるし、モノを区別するけど差別はしないという姿勢を取ろうよ、と提案している。

「秩序とは、それを守りたいがゆえに、それは常に壊されなければならない」という言葉が、脳裏に浮かんだ。大きく変わらないために、常に小さく変わりつづけていることで、世界は保たれている。

「ない」という「ある」

ゆく河の流れは絶えずして・・・

変わらないものとは何か、
少しだけ、わかったような気がした。

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