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あらゆるメソッドの前に

2018年頃からインチャケアに自分なりに取り組んで、少しずつでも変化を感じて、そういえば昔こんなことも怖かったなぁ、しんどかったなぁ、寂しかったなーとか振り返ることができるくらいにはなってきました。
そうすると、なんで当時真正面からインチャケアに取り組めたのかも理解できてきました。真正面からってことはまっっすぐに自分を見つめた、ということでもあります。(ただし、当時蓋を開けられることのみ、だけど)
同じくらいにインチャケアを始めたけれど辛くて続かなかった、という方もいらして、その違いは何かな、と考えたときに、傷が溢れているとインチャケアやそれ以外のあらゆるメソッドの効果が出にくいのでは?と思ったのです。
もちろん、インチャケアをご自身の判断で止めたのも素晴らしいことだし、やりながら傷が自然とケアされていくこともあるとは思うのだけど、なんというか、傷つけられたという被害者意識やわたしなんてという自己否定から動けない状態って、いじけてる状態でもあると思うのですね。いじけてると書くと悪いことのように感じるかもしれませんが、ただの状態なんです。それくらい傷ついたことがあったのだから。
そのことをそうだったんだね、大変だったね、と自分で受容できれば良いのだけれど、それが難しければプロに助けてもらう。そうでないと、無意識に身内や友人を使って自分を認めさせようとしてしまう。(わたしも過去にいろいろやらかし済み)下手するとエネルギーヴァンパイアになってしまうのよね。
それからもうひとつ。
いじけた状態だと言葉をまっすぐ受け止めることが難しい。自己否定がベースにあるとなんでもないことも自分を責めているように感じたり、自分の思った通りの答えではないとショックを受けてしまったり、、(この状態を由佐さんは幼児性、と本に書いてたよ)となると、インチャケアなどに取り組んでもちょっとショックな事があるたびに進めるのがしんどく感じやすく、やっぱりわたしはダメなんだ、とさらにいじけた状態になってしまったり、、
転んだり、刃物で切ったりして、流血したときはまず流血を止めますよね、その流血がずっと止まらないのがいじけた状態なのかな、と。もしくは血が止まったように見えても押すとすぐじわっと再び血が滲んだり、そんなイメージ。この状態ってちょっとしたことでショックが起きるし、傷ついちゃう。で、それ以上血が出ないようにティッシュなどで包んで、ひたすら待ったりしません?その状態が受容なのかなぁと。そのときティッシュ1枚では無理なときはティッシュを増やしたりあまりにひどいときは病院に行ったりしますよね。これがプロや信頼できる人の助けを借りて受容かな、と。
で、時間とともに傷にはかさぶたができて、流血こそしないけれど、内側はまだ再生中、これくらいになるとインチャケアもやりやすいのかな、と。ただし、かさぶたなので、ときには無理やり剥がして流血して再びかさぶたができるのを待つことも、、(わたしのインチャケアはわりとこんな感じで自ら剥がしにいっては流血してた、爆)
うーーん。この下手っぴなたとえ話で伝わるのか謎なんだけど、まあいいか。

わたしはたまたまなんだけど、2011年くらいから自然とヒーラーと呼ばれる人にご縁ができて、セッションを受け始めたり、冷え取りによる毒出しを経験したり、断食を通じて自分の我と向き合ったり、その先にインチャケアに出会ったのです。なので、まだまだ途中とはいえある程度、自分の傷を自分で抱きしめることができるようになっていたのです。
だから、まっすぐ見つめられたのかな、とあとから気づきました。
それでも、承認欲求を外に求めてエネルギーヴァンパイアをやってしまったな、ってことは1度や2度どころではないです(爆
いまとなっては、それさえも相手とのドラマの共同創造だったな、と思うのですが。(なんであんなドラマ好きだったのか、、)

というわけで、もし、自分の中に寂しくて辛くてどうにもならない!!!という傷を感じているのなら、なにかに取り組む前にその感じている傷をただただ肯定してもらって、傷をひっくるめたわたし、を見つめてもらう時間を作っても良いのかな、と思います。特に自分でその傷があって良しとできない場合は。
他者に一時的に受容してもらって、そのことでほっとすると、少しだけまっすぐ自分を見つめられるはず(変わりたいと思っている人は、だけど)、そうするときっと被害者意識が少し抜けるはず、そして再び他者(プロでもどちらでも)の力を借りて、あなたはそうなんだね、と受容の時間を持つ→ほっとして、またひとつ自分を見つめられるようになる、この繰り返しなのでは、と思います。
どうせ、自分のことをケアできるのは最終的には自分しかいないのです。プロは手助けはできるけど、どうするのか、を決めるのは自分。そういう意味で他者は何もできない。ずーーーっといじけた状態でいるのも自由だし、傷ついていたことを過去のこととして、ケアをしていくことも自由。だけど、他者がどんなに優しいことや嬉しいことを言ってくれたとしても、自分で自分を認めない限り、その傷は痛みつづけるし、満たされることも難しい。しかも、外に求めれば求めるほど、その求めるものは増えていく。もっともっと、と。どんどん喉が乾いていく。
でも、そこに居続ける自由もある。
やり切らないと道を変えると決めきれない、こともあるしな、と思ったり。なんにせよ、間違ったことはひとつもないのでしょう。
それぞれのタイミングがある、と以前はジャッジしやすかったわたしも良い悪いではない、ことが腑に落ちてきました。

なんだか、過去の自分への手紙みたい。
必要な方に届くと良いな。
自分の中で最近ずっと思ってたことをなんとかまとめられたので、スッキリ!!
(もっとわかりやすく書けたらとは思うけども!)
長々読んでいただきありがとうございました♪

あ、最後にぼやきをひとつ。
最近自己一致してるときの一致度が上がってきたのか、ずれたときのフィードバックが早い!!(苦笑
思考でこうした方が良い、で動くとそっちじゃないでしょー!!!とバーーンとやられる。
自己一致、ほんとに大事ネ
わたしもまだまだ途中。ふふふ。なんて楽しいんでしょ。


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