やっぱり愛なのよ。

「いい匂いも悪い匂いも全部僕によこしなさい」

去年インチャケアが少し進んだ頃に出会った「コハルノオト」
という漫画の2巻に出てくるシーン。

当時、このシーンを読むたびに涙ぐんでた。
だって、思いっきりインチャの話じゃない。
なんで匂いなのかっていうのは、主人公の雇い主が匂いで人の感情がわかってしまうという特殊な体質だからなのだけど。

今日久しぶりにこの漫画を読み返していて、
冒頭のセリフに久しぶりに触れて、少しジーンとしたものの、
感情的になることもなくて、自分のインチャのケアが進んでいるんだと
気がついたのだ。

オットと付き合っていた頃、まだ私はわたしで精一杯で共依存のような付き合い方しかできなかったのだけど。
(自分の不足感を彼氏で埋めようとしてたからね、、)
喧嘩をしたときに、わたしは母親にも認められてないダメな人だから!
みたいな内容を涙ながらにオットに話したときに、
オットの反応は、ああ、だからか、と納得した様子だった。
昔過ぎて細かいやりとりは忘れてしまったのだけど、
「認められていないことが辛かったんだね」みたいな反応が返ってきて、
言葉にすることさえできなかったことをオットが気がついてくれて
すごくほっとしたのだけは覚えてる。


それは「あなたはそうなんだね」とそのままの私を見えもらえたようで、
今思えばインチャケアのほんとの始まりはそのときだったのかも?


自分で自分を認めることができなくて、
どうやっても自己肯定感が上がらなくて、
そのこと自体をさらに自分でダメ出しして、
解決方法を外に見出そうといろいろやってみて、
そんな当時のわたしを今となっては愛おしい、とさえ思う。

そこから一歩一歩ケアできたわたしをわたしは素晴らしいと思うし、
いまも苦しんでいる人はそれはそれでもうそのままで素晴らしいと思う。

そう。どんな存在も愛なんだ、と本気で思う。
それくらい地球は宇宙は懐が深いんだよ。
私はその愛に懐の深さに触れるたびに涙が出るよ。
あんなに苦しくて悲しくて泣いていたわたしは、
いま愛に触れて嬉しくて涙が出てるよ。

そして、その当時の苦しささえも、わたし自身の学びのために
自分で設定してきたんだ、と。
それならば、すべてのできごとがやっぱり愛おしいじゃない!
と暑苦しく、でも強く思う旧暦新年の夜。

少し前に、その境地にはいけないと書いたけど、
気がついたらその気づきを得ていて、
だからつまり、両親とぶつかったことも、不満だったことも、
すべて学びのためだった。それだけで。
だからすべての出来事が愛おしい。
過去の感情がなくなったわけではなくて。
ふと悲しみや寂しさを思い出すこともあるけれど、
それは、癒やしが必要な感情が沸いてきただけであって、
そこに原因や誰かに責任を追求したいわけでもない。

ひとつのできごとだって、なかったらいまのわたしではないのだ。
去年末か今年に入ってからか、急にその考えが腑に落ちた。


新月とも旧暦新年ともなーんの関係もない。
ふと書きたくなったので。
最近は本当に変化が早くて、
しかも覚えてられないから、覚えているうちに書いておこうと思ったんだ。

ぜーんぶを愛おしく感じるようになったきっかけを。

あ、もちろん今でもしょっちゅうズレますよ。

その都度、修正。

そこにまた気づきがあったりする。

そんなわたしをわたしは観察してます。

観察って愛なんだ、って思う。

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