一人寸劇

友達への憧れ、親友という言葉への違和感。
ずーっとわいわいみんなで楽しむ、みたいな世界に憧れはあったけど、それは向いてないってさすがにわかったし、自分でも以外なほど、静かな生活が好きだというのもわかってきたのだけど。

ふと、なぜあんなにも友達が欲しかったのだろう?と思い巡らせてみたらね、恐ろしいことがわかってしまって…!
長いこと、自分の不足感や不安感、自身のなさの解決を外に向けていたのだけど、その解決に他人を求めていたのだと、ね。
自分で何もせずに、わたしの寂しさを埋めてください、自信がないので自信をつけるようにしてください。
これ怖くない?エネルギーヴァンパイアよ(自分でどんびき)
(一方でそれでもよく生きてきたと、そのままのわたしをハグするわたし)

だから、わたしが欲しかったのは友達ではなくて、わたしを理解してくれて受け入れてくれて、わたしの不安を消し去ってくれる人!
それ以外はいらない!!(言葉にするとよりひどい、笑)

これのどこが友達なのー!!!(自分つっこみ)
若いときは恋愛依存だったので、たしかに彼氏になる人に上に書いたような人を求めていたな、ということは理解していたのだけど。
(実際結婚したのは、ぜんっぜんわたしに都合よく動いてくれない人で、それはものすごくわたし自身に向き合わざるを得なくて、でも結果的にはそうでもないと魂の目的なぞ達成されないのかも、と思う。課題ができる相手を選んだ、というか)
友達にも求めていた自分にがーーーーん!

外に対していつも何かを求めてきた、のは頭ではわかっていたけれど、その中身を実際に理解したときの衝撃よ!!!
きゃーーーーーと地下に隠れたくなりそうになったけど、それは一瞬で、
確かにたくさんの人に迷惑をかけてきただろうし、反省しつつありがとうございました!という氣持ちはあるけれど。自己否定はしない。する必要もない。
レーネンさんの言葉を借りれば、ただ魂がバランスを取っているだけ、かもしれない。
実際そう振る舞ってきたわたしは周りを振り回し、迷惑もかけてきたのだけど、それもそこにいた人みんな必要な経験だったから、そこに存在した。ただ、それだけなのだと思う。
そして、それを周りにやったりやられたり、そこもやりたくてやってきたのだなぁと。でも、もうそれ必要ない。

そこにはリスペクトがなかった。
わたしはリスペクトを知らなかった。
自分へのリスペクト、友達や家族に対してのリスペクト、知らなかったから、できもしなくて当たり前なのだけど。

ちなみに、リスペクトしているフリはしてきたと思う。
方法は自分を下に置く(げええええええ)もしくは上から支配する(ひいいいいい)
怖い。自分で書いていてほんとに怖い。
まともな人間関係じゃないよー!(ちょっと笑けてきた)


リスペクトとは、相手がどうあろうと相手がそうあることの自由意志を尊重すること。介入しない、土足で踏み込まない、ジャッジをしない。なのかな。それぞれが自分の足で立った上で関わりをする世界。
これ、自分に対しても同じだよね。たぶん。
わたしはわたしをリスペクトすることができて初めて、他人に対してリスペクトできることを知ったのだ。

書けば書くほど当たり前のことに思えて、もうよくわからない。

それでも、この衝動をそのままに書き残しておく。
ある意味でこれも恥部解禁だわ。。。

リスペクトが当たり前の状態になって、自分を見つめるとまた新しい温かさを感じた。
いまご縁のある方々の顔を浮かべてみてもまた嬉しい温かさに包まれた。
リスペクト(連呼してるな、笑)はもしかしたら、そこにもともと在って、その存在に氣がつきさえすれば、自動搭載機能のように自然と発生するものなのかもしれない。この辺、言語化が難しいけれど。
つまり、リスペクトの存在する次元に移動した??(わからんけど)

ここにきてやっとゆるんできた。
衝撃がありすぎて、ずっとびっくりした顔でキーボードをカチャカチャしてたのかも。

改めてわたしをわたしが感じてみると、よりいっそう大きな愛で包んでるな、と感じる。し、愛おしさが増してる。

ああ、これぞ一人寸劇。
やっぱり愛おしい。

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