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阪神タイガース 詳細年表⑨ 

今回は1971年(昭和46年)から1975年(昭和50年)を掲載したいと思います。
この頃のタイガースは残念ながら優勝からは遠ざかってしまいますが、一方で江夏のオールスターでの9連続奪三振、田淵のホームラン王獲得等、今でも語り継がれるような名場面もあり、この頃のタイガースの記憶が残っているファンも多いのではないでしょうか。
また現在ではごく当たり前に、球場で歌われている「阪神タイガースの歌」(通称:六甲おろし)がこの頃からファンの間で広まり、歌われていくようになりました。
やはり、この頃のタイガースも当時からファンの方にとっては忘れられない時代だと思います。

1971年(昭和46年) 

3月6日

第四十二回対阪急定期戦(田辺・甲子園)、阪急3勝。 

3月13日

第二十回対南海定期戦(大阪)、南海2勝1分け。 

3月29日

田淵が流行性感昌から腎炎を起こし、神戸・灘区の田所病院に。
精密検査の結果、静養の必要ありと診断され入院。 

4月23日

広島戦で江夏が毎回三振の奪三振15を記録、5度目の毎回奪三振で金田正一とタイのプロ野球、セ・リーグ記録。 

6月22日

広島戦で藤井栄が通算1000本安打達成。 

6月23日

田淵が退院。
これより前の6月17日から病院から球場通いで戦列復帰していた。 

7月2日

中日戦で遠井が通算100号本塁打達成。 

7月14日

高山忠克が「虎風荘」から出たまま消息を断った。

7月17日

オールスター第1戦(西宮)で江夏が9連続奪三振の記録を樹立。
江夏は前年5連続奪三振で終えており、第三戦でも1個を三振に取り、オールスター15連続奪三振という未踏の大記録を生み出した。
2回表の打席では3ラン本塁打を放ち、自身2回目のオールスターMVPを獲得。   
この試合、江夏の後に継投したセ・リーグ投手も奮起し、オールスター史上初のノーヒットノーランを記録した。

7月31日

巨人戦で村山が1対0の完封勝利、巨人戦3試合連続1対0の完封勝ちを記録。

8月4日

コミッショナー・大浜信泉が消息を断った高山を無期限失格選手に指名。

8月15日

巨人戦で巨人11、阪神8、計19の最多四死球のセ・リーグ新記録。

9月1日

広島戦で江夏が4試合連続二ケタ奪三振のレコード。 

9月15日

巨人戦(西宮)、江夏が王に9回表、逆転3ランを浴びる。
スランプ中の王が、868本放ったホームランで唯一涙を見せた一発だった。

シーズンは57勝64敗9分け、勝率.471、打線が極めて低調で5位、10年ぶりのBクラスに沈んだ。
規定打席に到達したのは捕手の辻恭彦、自己最多の28本塁打を放った藤田の2人だけであった。

11月19日

ドラフト会議、山本和行(亜細亜大)、中村勝広(早稲田大)らを指名、入団。
この年、野球協約、第七章(地域権)が発効。

この年、大阪朝日放送(ABC)のラジオ番組「おはようパーソナリティ」放送開始。
パーソナリティ・中村鋭一が番組で阪神のことをとりあげ、球団歌「阪神タイガースの歌」をうたいあげ、通称名「六甲おろし」と命名、流布していった。
番組での企画で小旗、メガホンを持ち込み応援、以後の応援様式が出来ていった。

1972年(昭和47年)
 

1月13日

セ・リーグ監督会議で「攻守交代は全力疾走」「マウンドに集まっての作戦会議は1分以内」などスピードアップに関する申し合わせを行った。 

2月1日

金田正泰、ヘッドコーチ就任。
村山の意思で10年ぶりに復帰とされているが、戸沢の陰謀とも言われた。 

3月4日

第四十三回対阪急定期戦(姫路、西宮)、1勝1敗1分け。 

3月11日

大浜信泉コミッショナーが日本プロ野球の公式記録の起点についての決定を発表。
昭和11年7月1日から行われた「連盟結成記念全日本野球選手権試合」を起点とし、選手権を除くその他の事項は、昭和11年4月29日から開催された「第一回日本職業野球リーグ戦」を記録の起点とし、記録事項については当時の扱いに従う、と決定。
第二十一回対南海定期戦(甲子園)、阪神2勝1敗。 

3月12日

タイガースOB会発足。
発起人の松木、藤村富が初代の正副会長に就任、阪神在籍者はすべて会員になる資格はあるが入会は自由意志にまかせることにした。 

4月12日

巨人戦(甲子園)で江夏が通算1500奪三振達成。 

4月21日

開幕につまずき、迎えた広島戦(甲子園)の試合前、村山が突如記者会見を開き、前代未聞の金田への指揮権委譲、投手陣が立ち直るまで投手専念を発表。 

5月9日

大洋戦(甲子園)で、先発の若生が一死も取れず降板、リリーフの上田二が救援で完封勝利の記録がついた。
昭和32年の規則が適用されて以来、唯一のリリーフ投手の完封勝利。 

5月13日

金田は「投手陣が立ち直るまで」という条件を満たしたと考え、戸沢社長に「指揮権を監督に」と申し出たが、戸沢は「せっかく成績が上がってきたので、そのままで…」と押しとどめた。 

6月9日

巨人戦(甲子園)、双方通算100勝にあと1勝と迫った江夏と堀内の投げ合いとなるが、完封負けを喫した。 

6月21日

広島戦(甲子園)、4対3で勝利、江夏が通算100勝達成。 

6月25日

大洋戦でカークランドが100号本塁打。 

7月28日

広島戦(甲子園)試合前、戸沢が記者会見、「後半も金田監督代行が指揮を執ります」と発表。 

9月11日

大洋戦(甲子園)で0対0、14回時間切れ引き分けとなり、阪神6、大洋4、計10個の併殺を記録。
9回までの8個はセ・リーグタイ記録。 

9月19日

巨人戦(甲子園)で五回、「アルプススタンドに時限爆弾を仕掛けた」といういたずら電話があり12分間試合中断となる。
この時の対巨人3連戦で負け越し、優勝の望みは九分九厘なくなった。 

9月27日

中日戦で遠井が通算1500試合出場達成。 

9月30日

広島戦でチーム最少捕殺1のセ・リーグタイ記録を喫する。
二軍が8年ぶりにウエスタン・リーグ優勝。 

10月1日

広島戦(甲子園)でカークランドが本塁打を放ち、球団初の5試合連続本塁打。 

10月3日

中日戦で藤田平が通算100号本塁打達成。 

10月7日

巨人戦(甲子園)、村山が王、長嶋に本塁打を浴び降板、勝利した巨人の優勝が決定、これが村山の公式戦最後の登板となった。 

10月15日

この年限りで閉鎖された東京スタジアムでのヤクルト戦、5対1で勝利、球場最後の本塁打を田淵が放った。

シーズンは71勝56敗3分け、勝率.559、巨人に8勝16敗と大きく負け越したのが響き2位に終わる。

10月16日

村山、金田が全日程を終了し帰阪、阪神電鉄本社を訪ねシーズン終了の報告。 

10月25日

村山、戸沢の自宅に呼ばれ、来季は金田体制で行く旨を申し渡された。
午後六時から村山監督辞任、金田の監督就任発表の記者会見が行われた。 

11月2日

村山、現役引退を発表。
事実上の監督解任と現役引退という形で村山はユニフォームを脱いだ。
球団は背番号「11」を永久欠番とし、引退試合を行うことで多年の功績に
報いたいと伝えた。 

11月22日

アメリカのゴールデングラブ賞にならい、守備のベストナインを対象とした「ダイヤモンドグラブ賞」が新設され、記者投票の結果が発表された。 

11月25日

2代目監督・石本秀一、野球殿堂入り。 

12月10日

ホテル阪神でOB会が最初の総会を開いた。
現場に圧力をかけるといった誤解を招かないよう、あくまでも会員同士の親睦をはかる組織であることが確認された。 

12月11日

プロ野球実行委員会で、フランチャイズを1球団1都道府県に改めた。 

12月23日

七百万円を投じた安芸キャンプ時に使用する雨天練習場完成。

この年、野田誠三、勲二等瑞宝章受章。

1973年(昭和48年)


安藤統夫が主将に就いた。
この年、森谷一夫が仲間とのちの〝阪神タイガース私設応援団〟を設立。
目的はスタジアムに散らばる小さな応援団を一つにまとめ、頻発する暴力事件を協力して阻止することだった。

1月16日

福井県・永平寺で金田、江夏が座禅を組んで修行を始めるが、両者間には溝が出来た。

1月24日

社会人野球協会がプロ野球経験者のコーチ受け入れを決定。

3月10日

第四十四回対阪急定期戦(姫路・甲子園)、阪急2勝1敗。

3月13日

前年54試合の出場に留まったレオン・マックファーデンに対し、球団は5千ドル減額の参稼報酬額を提示、両者の話し合いがつかずセ・リーグ会長に調停を申し立てた。 

3月21日

村山の引退試合。
巨人とのオープン戦(甲子園)であった。
この日、試合前に全く練習していなかった村山のキャッチボールの相手を務めた明星中野球部の少年が、後に阪神入りする岡田彰布であった。
7回表、ブルペンから江夏、古沢、谷村、平山で組んだ騎馬に村山が乗り、上田二朗が先導しマウンドに送られた。
登板した村山はフォークボールで三者三振に切った。
当時、野球協約で「顕著な功績をもつ10年選手」に認められていた「引退試合」で収益は選手に与えられた。 

3月24日

第二十二回対南海定期戦(和歌山・大阪)、南海2勝1敗。 

3月29日

セ・リーグ調停委員会は、球団がマックファーデンに提示した契約条件は妥当との決断を下した。 

4月15日

来日しなかったマックファーデンは調停を拒否したものとして任意引退選手となった。 

4月26日

巨人戦(後楽園)で田淵、3打席連続、3試合連続本塁打を記録、通算100本塁打達成。 

5月10日

巨人戦(甲子園)で、田淵が前日の巨人戦から4打席連続本塁打、1死球を挟み巨人戦7打数連続本塁打を記録。 

5月13日

大洋戦で権藤正が700試合登板達成。 

5月29日

巨人戦で18残塁のセ・リーグタイ記録。 

6月12日

巨人戦(後楽園)で8回裏、王の打席時の判定を巡り、江夏が退場処分となる。
実働18年間で唯一の退場宣告を受けた。
これは、球審・大里晴信に今にも手を出しそうな捕手・田淵の身代わりになったと江夏は語っている。 

8月5日

巨人戦(甲子園)、9回黒江の放った打球を捕球しようとした際、中堅・池田祥浩(当時純一)が右足をすくわれて転倒、決勝点を奪われ敗戦、後にテレビ番組で優勝できなかった理由と流布され「池田の世紀の落球」と言われる。 

8月22日

大洋戦(川崎)を前に、腰痛のため田淵、急遽帰田所病院で診断、8月30日まで休養する。 

8月30日

中日戦(甲子園)で延長11回を投げ、江夏がノーヒットノーラン達成。
延長戦での達成は史上唯一の記録であり、延長11回裏、自ら右翼ラッキーゾーンに本塁打を放ってのサヨナラ勝利でこれも史上唯一、世界でも類を見ない偉業であった。 

9月15日

「野球100年展」開催。 

9月23日

広島とのダブルヘッダー(広島)第一試合で上田二、第二試合で江夏が、同日にシーズン20勝達成。 

9月28日

大浜コミッショナーが来年度から使用球を馬皮から牛皮への変更を決定。 

10月10日

巨人戦(後楽園)、田淵が満塁ホームランを放ち6対5で勝利、ゲーム差0で首位に立った。
藤田平が通算1000本安打達成。 

10月18日

江夏に球団から「明日、事務所に来るように」と電話が入った。 

10月19日

勝てば優勝という翌日の中日戦(中日球場)を控え、呼び出しを受けた江夏が球団事務所に行くと、長田球団社長、鈴木一男常務から「明日は勝ってくれるな」と言われた。 

10月20日

中日戦(中日)、先発にこの時点まで中日に対して8勝2敗と自信を抱いていた上田二をおいて、江夏を立てるが2対4で敗れる。 

10月22日

雨で1日延びた「勝った方が優勝」の巨人戦(甲子園)、0対9の惨敗。
試合後、暴徒と化した阪神ファン約5000人がグラウンドに乱入、王らを殴打、球場2階に投石、ロッカーのガラスが割れた。
機動隊の指導で金田監督は関係者出入り口の鉄扉を開け、ハンドマイクでファンに謝罪した。
田淵のマンションで残念回を開いたメンバーでは〝江夏追放騒動〟が起きた。
田淵は敗戦後1週間、自宅マンションにこもりっきりで、外に出る気が起こらなかったという。 

10月

安藤のゴルフ仲間の甥の習志野高・掛布雅之がテストという形で二軍の練習に10日間参加。
スカウト・川西俊雄が獲得を進言、金田監督も球団に獲得を要望した。

シーズンは64勝59敗7分け、勝率.520、0.5ゲーム差で優勝を逃した。
江夏が24勝で最多勝利投手、上田二も22勝を挙げた。
以降、同チームで、同一年度に複数の20勝投手が出たことはない。 

11月20日

ドラフト会議、1位で中央大・佐野仙好、掛布らを指名。
まったく無名の掛布は習志野高から6位で入団。 

11月23日

ファン感謝デー終了後、権藤正による金田監督への「殴打事件」が起きた。
この事件で権藤はセ・リーグから厳重戒告処分、球団から謹慎処分を受けた。 

12月12日

権藤正が自由契約となり球界を去った。
監督殴打事件」に及んだのは引退を決めていたからであった。

この年、カルビーの「プロ野球カード」登場、フジテレビが「プロ野球ニュース」の放送を開始。
この年、中村鋭一が「阪神タイガースの歌」をレコーディング、テイチク・レコードから発売、半年で6万枚を売り上げ、ゴールデン・ヒット賞を受賞。
特定球団の応援歌がレコーディング、発売、ヒットするのは前代未聞だった。

1974年(昭和49年) 

1月10日

日本野球規則委員会で、プロ野球で投手の「セーブ記録」の採用を決定。 

2月7日

大浜コミッショナーがバットメーカーに対し「樹脂加工は木目の剥離を防止
するため、反発力に影響を及ぼしてはならない」との要望書を発送。 

2月18日

セ・リーグが理事会で「最多セーブ」の表彰を決定、各球団の登録チームカラーを定めた。 

3月2日

第四十五回対阪急定期戦(姫路・西宮)、阪急2勝1敗。 

3月17日

第二十三回対南海定期戦(甲子園)、阪神2勝1敗。 

3月19日

セ・リーグ理事会がカムバック賞の制定を決定。 

3月21日

太平洋とのオープン戦(鳴門)、自身の結婚式のため欠場の藤田平の代役で出場した新人・掛布が二安打の活躍。 

3月24日

近鉄とのオープン戦(日生)、母が亡くなり欠場の野田征稔の代役で掛布が四打数四安打、開幕一軍入りを果たした。 

4月5日

セ・リーグ理事会が最優秀監督賞の設定を発表。 

4月6日

岡山県営球場での開幕戦、池田厚子さん(池田隆政氏夫人、昭和天皇の第四皇
女)が始球式を行った。 

4月10日

広島戦(広島)、若生を救援した江夏が球団初のセーブを記録。 

5月17日

実行委員会が、新人選手の契約金および参稼報酬の最高額制限撤廃を決定。 

5月21日

巨人戦(後楽園)、3回打者12人で8点、4回打者10人で6点と、2イニング連続打者一巡を記録、17対7で勝利。 

5月30日

巨人戦で藤田平が通算1000試合出場達成。 

6月13日

広島戦(甲子園)で江夏が2000奪三振達成。 

6月22日

巨人戦で一枝修平が通算1000試合出場達成。 

7月22日

オールスター・ゲーム第2戦(西宮)で先発した江夏が3イニングを無安打無失点で投げ抜き連続無失点回数を16とした。 

8月8日

大洋戦で田淵が満塁本塁打含む3安打、2本塁打、6打点、8・6から対大洋3連戦13打席全出塁。 

9月10日

この日の巨人戦から、警察当局の要請もあり巨人戦入場券の前売り方法を往復はがきによる抽選に切り替えた。 

9月15日

田淵の父・綾男が心筋梗塞で急死、64歳。
田淵は金田から帰京を勧められたが、直訴してこの日の大洋とのダブルヘッダー(甲子園)に出場。
第1試合で3安打、第2試合で自己最多を更新する38、39号を連発した。 

10月5日

巨人戦ダブルヘッダー、本塁打王を争う田淵、巨人・王が共に7四球の四球合戦となった。

10月10日

蔵王観光中の吉田義男に「マスコミのある人物」から西宮市の電鉄本社取締役・小津正次郎宅にすぐ来るよう連絡が入った。

シーズンは57勝64敗9分け、勝率.471で4位。
巨人が10連覇を逃し、中日が勝率1厘差で20年ぶりの優勝。
田淵は45本塁打で2位、藤田は自身初、チームでは遠井五郎以来7年ぶりの打率3割(.302)達成、古沢憲司がチームトップの15勝を挙げた。 

10月18日

金田は辞意を申し出て了承された。

10月25日

役員会で、戦後1952年(昭和27年)春以来、歴代最長23年間、オーナーを務めた野田誠三が辞任、取締役相談役になり、約14年間、球団代表から社長を務めた戸沢一隆も辞任。
代わって、オーナーには野田忠二郎(本社社長)、球団常務の長田睦夫が球団社長に昇格した。
新任の取締役になった鈴木一男(阪神電鉄事業部長)は常務に昇進。
本社副社長・田中隆造が中心となり新監督に吉田義男を迎え、就任を発 
表。
吉田はヤンキースの〝ケンカ屋〟ビリー・マーチンがつけた背番号「1」をもらい指揮を執った。

11月18日

パ・リーグのオーナー懇談会で指名打者制(DH制)の採用を決定。
翌50年から実施、とりあえず二年間を試験期間としたが、現在まで続くことになる。

11月25日

藤本定義、藤村富美男、野球殿堂入り。

11月30日

グランドホテルで2リーグ制確立25年祝賀パーティー開催。

12月20日

実行委員会は日本シリーズ、オールスター・ゲーム、両リーグ交流のオープン戦では指名打者制を採用しないことを決定。

12月21日

3代目オーナー・野田誠三、野球殿堂入り。

1975年(昭和50年) 

2月

猛虎会、若虎会などが合流して私設応援団を自称するようになった。
人数は120人だった。 

3月8日

第四十六回対阪急定期戦(高砂・甲子園)、阪神3勝。 

3月15日

第二十四回対南海定期戦(大阪)、南海3勝。 

3月18日

鈴木一男、常務取締役就任。 

3月23日

巨人とのオープン戦(後楽園)、巨人前監督・川上の引退試合。

4月20日

巨人戦(後楽園)で、通算149勝で並んでいた江夏と堀内が直接対決、江夏が完投で150勝を達成。 

4月27日

広島戦(甲子園)、打者・掛布のときの投球の判定を巡り広島監督・ジョー・ルーツが抗議、ホームベース上に立ち一歩も引かない構え。
困り果てた審判団は重松球団代表に説得を要請、説得に従ったがダブルヘッダー第二試合には即座に古葉代理監督が指揮、ルーツは二度と指揮を執ることはなかった。 

5月5日

路面電車の阪神電鉄甲子園線が廃線。
外山の銅像が建っていた台座も無くなった。
広島戦で池辺巖が1000本安打達成。 

5月25日

ヤクルト戦で中村勝広が初球先頭打者本塁打。 

6月4日

ヤクルト戦で中村勝がゲーム二塁手最多捕殺11のセ・リーグ新記録。 

6月19日

中日戦(中日)で田淵が通算200号となる本塁打を放った。
714試合目で達成のスピード記録だった。 

7月6日

中日戦(甲子園)でロッテをフリーになり加入、「足長おじさん」の愛称で親しまれたジョージ・アルトマンが外人初の200号本塁打を達成。 

7月19日

甲子園でのオールスター・ゲーム第一戦、試合前に野田誠、藤本、藤村富の野球殿堂掲額表彰式が行われた。
江夏が先発、オールスターでの無失点記録を19イニングとした。 

8月1日

巨人戦で山本和行が10試合連続登板となった。 

8月14日

巨人戦で、広島から移籍してきた安仁屋宗八が通算100勝達成。 

8月20日

広島戦で6月に阪急から移籍してきた米田哲也が、金田に次いで二人目の5000イニング登板。 

8月30日

広島戦で中村勝がシーズン二度目のプレーボール本塁打。 

9月3日

ヤクルト戦で池田純一が1000試合出場達成。 

9月6日

近鉄・小川亨が吉田の連続無三振記録を更新。 

9月28日

中日戦(中日)で、この年三塁に定着した掛布が4試合連続となる本塁打を放った。 

10月1日

広島戦(甲子園)で中村勝広が、この年6本目、球団新記録となる先頭打者本塁打を放った。

10月11日

巨人戦で安仁屋が500試合登板達成。

10月21日

中日戦で6月、シーズン途中に阪急から移籍してきた米田が勝利投手となり移籍後8勝目。移籍前の勝ち星を合わせ10勝とし、二ケタ勝利の記録を19年とした。

シーズンは68勝55敗7分け、勝率.553、優勝した64年以来11年ぶりに巨人より上を行ったが、「赤ヘル旋風」で初優勝した広島に6ゲーム差の3位で終えた。
田淵が2年連続で40本の大台を超える43本を放ち本塁打王に輝いた。
13年連続本塁打王に君臨していた王は33本に終わり、田淵にタイトルを奪われた。
広島から移籍し救援に回った安仁屋宗八が防御率1.91で最優秀防御率賞とカムバック賞に輝いた。
観客動員は139万3000人の新記録となった。

12月2日

初代二軍監督・森田忠勇死去、70歳。

この年、戦時中に甲子園球場長であった石田恒信が阪神電鉄を退職。
この年、路面電車である国道線が全廃された。
全盛時には阪神は路面区間が国道線の他にも、甲子園球場横を通った甲子園線、天神橋筋六丁目まで乗り入れていた北大阪線が存在したが全てなくなった。
この頃、巨人人気が高まり、セ・リーグは巨人戦と他のカードの入場者数に大きな差ができるようになり、入場券の値段で格差がつき、各球団は巨人戦の放映権料に依存する体質となった。
巨人戦がないパ・リーグは、人気、知名度、興行面でセ・リーグと大きな格差が開くようになった。 


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