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阪神タイガース 詳細年表⑪

今回は1981年(昭和56年)から1985年(昭和60年)までを記載したいと思います。
この頃のタイガースは掛布、岡田、巨人から移籍した小林繁等スター選手は存在しタイトルを獲得する等で活躍していましたが、リーグ優勝からは遠ざかっていました。
ファンも優勝から遠ざかったことから、優勝の喜びを忘れ、または優勝を経験したファンも少なくなっていたと思います。
そのような中でついに歓喜の年が訪れました。
リーグ優勝、球団初の日本一となり、球団史の中でも記念すべき年となりました。
このときの優勝を経験したファンにとっては忘れられない年となっていると思います。
また、この優勝したときのメンバーはその後もファンの間では支持を得ているのではないでしょうか。
まさに、それまで溜まっていたものが爆発したという1年でした。

1981年(昭和56年) 

2月12日

二年連続の米アリゾナ州テンピでキャンプ、大阪国際空港を出発。(3月15日帰国) 

2月18日

元監督・藤本定義死去、76歳。 

3月18日

第五十二回対阪急定期戦(甲子園)、2分け。 

3月29日

第三十回対南海定期戦(大阪)、1勝1敗。 

4月3日

戦没プロ野球人の霊を慰める「鎮魂の碑」が野球体育博物館脇に建立され除幕式が行われた。 

4月7日

広島戦、岡田が初回3点本塁打を放ち、球団初の勝利打点を記録。 

4月24日

ヤクルト戦で敗れ8連敗(3度目)。 

4月28日

大洋戦(横浜)で勝利、小林が通算100勝達成。 

5月31日

大洋戦、伊藤宏光が斉藤から左前安打、連続打席無安打が60でストップ。 

6月4日

広島戦、6回、榊原、北村、吉竹で1イニング3犠打のセ・リーグタイ記録。 

6月24日

広島戦で岡田が1回満塁本塁打を放ち、6・23広島戦で山本和、6・19大洋戦で藤田平に次ぎ史上2度目のチーム3試合連続満塁本塁打。 

6月30日

巨人戦、藤田平が5回にシーズン2本目の満塁本塁打、球団初のチーム月間4本の満塁本塁打となった。 

7月8日

大洋戦で2回、掛布が1イニング2安打のセ・リーグタイ記録。 

8月7日

中日戦、この試合第3打席まで掛布が2四球を挟み10打席連続安打のプロ野球タイ記録。 

8月26日

ヤクルト戦(甲子園)、先発の江本は8回表途中、交代を命じられロッカールームへ引き上げる途中、新聞記者を前に「ベンチがアホやから野球がでけへん」と吐き捨てた。 

8月27日

前日の江本の発言が首脳陣批判としてスポーツ誌を賑わせ、球団からの事情聴取の末謝罪し、任意引退を申し出て受理された。 

9月22日

巨人戦、2回無死一、二塁から榊原の三ゴロで三重殺を喫した。 

9月29日

中日戦、福間納が1イニング最多暴投2のセ・リーグタイ記録。 

10月3日

中日戦、若菜、掛布、川藤でチーム最多犠打3のセ・リーグタイ記録。 

10月10日

米教育リーグ(フロリダ州)に中日、大洋との混成チームで参加。(11月7日帰国) 

10月11日

中西監督が成績不振による引責辞任を発表。 

10月12日

大洋戦最終戦(甲子園)で藤田平が規定打席に達し首位打者獲得。

チームは67勝58敗5分け、勝率.536の3位、5年ぶりのAクラス復帰、優勝は巨人。
藤田平が.358で首位打者、他にカムバック賞を受けベストナインにも輝いた。
掛布は打率.341、23本塁打、最多出塁数243を記録、8月には10打数連続安打の日本タイ記録(当時)を打ち立てるなど不振から脱出。
岡田は打率.289、20本塁打。
佐野が勝利打点15を挙げ、この年新設された最多勝利打点のタイトルを受賞。 

10月14日

中西監督はAクラスを置き土産に退団。
小津は次期監督に広岡達朗の招聘で動き、広岡もかなり乗り気になるも、球団の「3年契約」、広岡の「5年契約」と要求を譲らず破綻となる。
しかし、この後安藤統男と5年契約を結んだことから広岡がフロント人事やチーム編成の権利についてまで細かな条項を定めた契約を求めたことが原因とされる。 

10月23日

ホテル阪神で安藤統男・監督就任発表。
小津が「タイガース再建の切り札」と、二軍監督だった安藤を昇格、就任させた。
契約年数は異例の長期5年だった。 

11月25日

ドラフトで明治大の平田勝男らを指名、入団。 

12月24日

下田コミッショナーが、全国のプロ野球使用26球場、新設予定の6球場に対し、正規の広さの球場とするよう要望書を発送。

この年のシーズンから反発力を高めるため加工された圧縮バットが使用禁止となった。
その結果、「美津和タイガー」の圧縮バットのCMに掛布が起用され、撮影されたが一度のオンエアでお蔵入りになった。

1982年(昭和57年)

1月

引退した江本の著書「プロ野球を10倍楽しく見る方法」が発売、400万部超の売り上げとなり、これを契機に元選手による「暴露本」が続々と発売、一大ブームに。
江本は引退後、タレント活動、政界進出と活躍する。 

3月

甲子園球場の鉄傘がアルミ合金に葺き替えられた。 

3月6日

第五十三回対阪急定期戦(甲子園)、阪急2勝。 

3月14日

第三十一回対南海定期戦(甲子園)、阪神1勝。 

3月27日

韓国プロ野球誕生、ソウルで開幕。 

4月3日

大洋との開幕戦(横浜)、小林が完封目前の9回裏、突如打ち込まれ、同点にされた後、敬遠球が暴投となりサヨナラ負け。
この〝サヨナラ暴投〟の原因は、小林はこの頃には右手指の血行障害であったと引退時に告白している。 

4月7日

ナゴヤ球場での中日戦で同カードが1000試合到達、対戦カードが100      0試合到達は初だった。 

4月16日

巨人戦(後楽園)で、掛布が江川の投じた外角高め速球を左翼席上段にホームラン。
江川は「記憶に残るアーチ」「ファウルにしかならないはずの球をレフト上段まで運ばれた」と振り返っている。
この頃、江川対掛布は「伝統の一戦」を彩る名物となっていた。       この試合で小林は8回2失点の投球で3対2で勝利、江川との直接対決で初めて江川に投げ勝った。 

4月18日

後楽園での巨人戦でこのカードが1000試合到達。
2対5で敗戦。 

4月19日

阪神電鉄の取締役会は、田中隆造の後任に久万俊二郎副社長の昇格を内定。

4月27日

巨人戦で島野育夫・柴田猛両コーチが巨人・江川のバントを巡りトラブルを起こし、試合後に谷村友一責任審判暴行に近いことを働いた。

5月7日

この日の大洋戦(甲子園)から、先発要員の山本を救援専任に配置転換。     中継ぎの福間納、池内豊とのリレーでの勝ちパターンを目指した。

5月21日

166死球という異色の記録保持者・竹之内雅史が引退を表明。 

6月8日

ヤクルト戦で藤田平が200号本塁打達成。 

6月9日

ヤクルト戦、鈴木正幸に1安打完封で敗戦、捕殺・阪神3、ヤクルト1の計4はゲーム最少捕殺のプロ野球記録。 

6月17日

南海・上田二朗を金銭トレードで獲得、上田は2年ぶりに阪神復帰。 

7月2日

巨人戦に勝利、1分けを挟み球団5度目の11連勝。 

7月18日

広島戦で掛布が200号本塁打達成。 

7月21日

中日戦で敗戦、球団4度目の8連敗。 

韓国、ヘテ・タイガースの応援に阪神ファンがおもむき声援をおくった。 

8月24日

ヤクルト戦、掛布が通算1000本安打達成、1イニング2打席連続本塁打を記録。 

8月28日

広島戦、藤田平が3000塁打達成。 

8月31日

大洋戦(横浜)で藤田平の打ち上げたフライのフェア、ファウルの判定を巡り、島野育夫・柴田猛の両コーチが岡田功球審、鷲谷塁審、手沢塁審へ暴行、傷を負わせる退場問題が起きた。 

9月1日

小津安二郎球団社長は島野・柴田両コーチは「謹慎処分」で、練習には参加させるという甘い処分だったが、鈴木セ・リーグ会長はこれに激怒、島野・柴田両コーチに「無期限出場停止」、制裁金10万円、コーチ登録抹消の処分。
後に1985年に柴田は南海、翌1986年に島野は中日に復帰した。 

9月2日

大洋戦、山本和が33セーブポイントの新記録達成。 

9月9日

球団は島野、柴田両コーチの登録抹消手続きを取り、連盟は抹消を公示。 

9月29日

島野、柴田の暴力により、岡田球審が全治二週間、鷲谷塁審が全治一週間の傷を負わせたことに対して、横浜地方検察庁は両コーチを傷害罪で略式起訴、横浜簡易裁判所は両コーチに罰金五万円の略式命令を出した。 

10月16日

広島戦、池内豊がシーズン最多登板73のセ・リーグタイ記録。

シーズンは65勝57敗8分け、勝率.533、優勝した中日に4.5ゲーム差の3位。
山本和が15勝(救援勝利14)8敗26セーブで、セーブポイント(SP)40の日本新記録を打ち立て、球団初の最優秀救援投手のタイトル獲得。
先発投手では、小林が11勝、工藤一彦が11勝、伊藤宏光が10勝と山本和を含め4人の2ケタ勝利投手が誕生した。
福間、池内と救援陣の働きも目立った。
掛布は35本塁打、95打点で二冠王、打率は.325で3位、出塁232で中日・田尾とともに最多出塁の成績を挙げた。
岡田は初めて打率3割をマーク、14本塁打。
真弓は打率.293、15本塁打、藤田は打率.290だった。
チーム盗塁数は103となり、1961年(昭和36年)以来21年ぶりに3ケタを記録。
観客動員は192万8000人の新記録。

11月10日

2代目監督・石本秀一死去、85歳。

11月25日

ドラフト会議、法政大の木戸克彦を1位指名、入団。 

12月 ランディ・バース入団。

この年、若菜嘉晴が女性問題のトラブルで自由契約となった。
この年から、「デイリースポーツ」が首都圏で阪神中心の報道姿勢をうちだした。
この年、「ドキュメント面白プロ野球ファン応援合戦」という甲子園球場での野次を収録したレコードが発売された。
この年、甲子園球場は芝の二毛作に成功。

1983年(昭和58年)

二軍監督に中村勝広が就任。 

1月25日

元常務取締役・下林良行死去、75歳。
ハワイ・マウイ島キャンプ第1陣出発。(3月2日帰国) 

2月4日

ハワイ・マウイ島キャンプ第2陣出発。(3月2日帰国) 

2月9日

二軍がこの日から2月23日まで安芸キャンプ。 

3月11日

第五十四回対阪急定期戦(甲子園)、阪急2勝1敗。 

3月24日

前年「無期限出場停止」に処分を受けていた島野、柴田の処分が         解除となった。 

3月31日

阪神園芸・藤本治一郎が兵庫県文化協会から「ふるさと文化賞」を受賞。昭和15年阪神電鉄入社以来、グラウンドキーパー一筋で定年を迎えた。外野芝生の二毛作を確立、通称冬草夏草の種つけに成功、これらの努力が評価された。 

4月2日

第三十二回対南海定期戦(大阪)、1勝1敗。 

4月5日

改めて島野、柴田とコーチ契約を行い、連盟に登録、承認を受けた。 

4月9日

10年ぶりに本拠地・甲子園で開幕を迎えるもヤクルトに1対4で敗れる。 

4月16日

巨人戦(甲子園)で掛布が1000試合出場達成。 

5月3日

巨人戦(後楽園)で、藤田平が角三男(盈男)から左前打を放ち2000本安打達成。
阪神では1967年(昭和42年)の山内一弘以来だが、生え抜き選手としては初。 

5月15日

大洋戦(甲子園)で移籍してきた野村収が勝利投手となり、プロ野球史上初となる全12球団から勝ち星を挙げた。 

5月25日

中日戦(甲子園)、捕殺0の記録を喫する。 

6月2日

常務取締役・岡崎義人、専務取締役に就任。 

6月14日

巨人戦(後楽園)で小林が江川から本塁打を浴び、6対18で敗戦。 

6月30日

巨人戦(後楽園)、8対3で小林は3失点完投勝利、これが小林・江川の最後の直接対決になった。
小林・江川の先発直接対決は小林の通算2勝7敗となった。 

7月11日

実行委員会、日韓両国間の選手契約に関する協定は、日米間協定・韓米間協定と同一内容で締結することを承認。 

7月13日

巨人戦、山本和が淡口から三振を奪い通算1000奪三振達成。 

8月9日

広島戦で山本和が500試合登板達成。

8月14日

ヤクルト戦(平和台)で三回、二番・北村、四番・掛布、六番・藤田平、七番・長尾が井本から史上13度目・球団タイの1イニング4本塁打。

8月24日

ヤクルト戦(神宮)で勝利、8年連続10勝目を挙げた小林が試合後、安藤に引退を申し出た。
理由は右手指の血行障害だった。

8月

この月から甲子園球場が、還暦記念事業として電光式の新スコアボードの建設が約十一億円の巨費を投じて進められる。 

9月6日

巨人戦(甲子園)で真弓が江川から2ランを放ち、100本塁打達成。 

9月17日

広島戦(甲子園)で佐野が通算1000試合出場達成。 

9月23日

広島戦で野村が山崎から三振を奪い、通算1000奪三振達成。 

10月10日

中日戦(ナゴヤ)を11対6で勝利、巨人に次いで2球団目の球団3000勝達成、野村が500試合登板達成。 

10月15日

ヤクルト戦(甲子園)で七回コールドゲームでの全員安打を記録。        バースが25試合連続安打、昭和43年藤井栄治のチーム記録更新。 

10月22日

中日戦(甲子園)で小林が4番手で9回1イニングを被安打1無失点、これが結果的に現役最終登板となった。

10月29日

小林が引退を発表。
30歳、この年は13勝14敗と負け越したが、巨人時代から8年連続2ケタ勝利を続けていた中での決断であった。
通算139勝95敗17セーブ、阪神在籍5年間で77勝56敗4セーブであった。

シーズンは、62勝63敗5分け、勝率.496で3位大洋に0.5ゲーム差の4位、優勝は巨人。
真弓が打率.353で首位打者獲得、初めて3割を打っての獲得であった。 新外国人として入団したランディ・バースは35本塁打を放ち、タイトルを分け合った山本浩二(広島)、大島康徳(中日)の36本に1本差であった。
1試合2本塁打5回はチーム最多であった。
中継ぎの福間が、規定投球回数((130イニング)に達し、防御率2.62で最優秀防御率のタイトルを獲得、リーグ最多の69試合登板、6勝4敗6セーブだった。
オフに、川藤幸三が球団からの引退勧告、二軍コーチ就任の要請を断り、現役続行を申し出るという一幕があった。
球団も熱意に折れる形で、年棒1200万円から減額制限25%(当時)を超える年棒480万円で更改した。
この話に感動した阪神ファンのタレントの上岡龍太郎、中村鋭一らがカンパし集めた金銭を川藤に持参したところ、川藤はその金で甲子園球場の年間予約席を購入、身体障害者を招待する「川藤ボックス」となった。

11月22日

ドラフト会議で1位・中西清起(リッカー)、2位・池田親興(日産自動車)、3位・中田幸司(興南高)らの投手を指名、獲得。

12月26日

日本シリーズのDH(指名打者)ルール採用問題で両リーグが協議するも一致せず、コミッショナーの裁定により、日本シリーズではDHルールを昭和60年から採用、以降隔年採用等の裁定があった。

この年、巨人戦のテレビ視聴率がピークとなった。
80年代は20%台をキープしていた巨人戦の視聴率は、90年代以降は増減を繰り返しながら減少傾向となった。

1984年(昭和59年)

OB会会長に田宮謙次郎、就任。 

1月

甲子園球場右翼席下に球団事務所を移転。 

1月22日

ハワイ・マウイ島キャンプ第一陣出発。(2月11日帰国) 

1月27日

ハワイ・マウイ島キャンプ第二陣出発。(2月11日帰国) 

2月14日

安芸キャンプ(一軍・3月2日まで) 

3月6日

甲子園球場、電光式の新スコアボード完成。(3代目)
田中会長、久万社長らが出席し、竣工式、点灯式が行われた。      スコアボードと並行して左翼スタンドの床面改造も行った。

3月16日

コミッショナー・アピール、応援時に他人に迷惑を掛けない旨の内容の「応援倫理三則」が実行委員会で了承された。
応援時、他人に迷惑を掛けない旨の内容。 

3月17日

第五十五回対阪急定期戦(甲子園)、阪急1勝。 

3月25日

第三十三回対南海定期戦(大阪)、南海1勝。 

3月30日

元取締役・細野躋死去、93歳。 

4月12日

大洋戦、掛布が250号本塁打達成。 

5月25日

実行委員会で試合時間短縮のため〝乱数表〟の6月8日以後禁止を決定。 

5月31日

中日戦、バースが9回満塁逆転本塁打、球団満塁本塁打100号となった。 

6月13日

中日戦、安藤監督急病のため4回裏より佐藤コーチが代理で指揮をとった。 

6月28日

ヤクルト戦、真弓が1000試合出場達成。 

7月16日

広島戦、佐野が100号本塁打達成。 

8月9日

ヤクルト戦で連続得点11のリーグタイ記録。 

8月1日

甲子園球場開設60周年、この甲(きのえ)子(ね)の年、還暦を迎えた。 

8月9日

ヤクルト戦、9回連続11点をあげ最多連続得点のセ・リーグタイ記録。(チーム2度目) 

8月19日

広島戦、真弓が1000本安打達成。 

8月22日

中日戦、佐野が1000本安打達成。 

8月24日

球団5度目の8連敗。

8月25日

大洋戦(甲子園)で、藤田平が阪神では吉田に次いで2人目の2000試合出場達成。

8月

巨人戦(後楽園)試合前、巨人の外国人レジ―・スミスと息子を数百人の阪神ファンが取り囲み小競り合いとなった。
スミスは不起訴処分として阪神ファンに節度ある行動を求めた。 

9月5日

後楽園スタヂアムが日本初の屋根付き球場の建設を公表、昭和63年春完成予定。 

9月14日

小津はオーナー・田中隆造の出席を得て球団役員会を開き、安藤留任をとりまとめた。
シーズン後半、監督問題が採り沙汰されていたことから、小津が先手を打ったのだった。 

9月16日

ヤクルト戦、藤田平が通算2008試合出場達成、吉田を抜き球団最多出場記録達成。 

9月19日

 福間が74試合登板のシーズン最多登板のセ・リーグ新記録。 

9月29日

西宮球場での阪急対西武戦、西武の田淵、現役最後の試合。
阪神の応援団も駆け付け、スタンドには阪神の旗も揺れていた。 

10月3日、5日

セ・リーグの本塁打王争いで37本で並んでいた掛布、中日・宇野勝の直接対決で、安藤と中日監督・山内一弘は敬遠作戦に同意し、掛布、宇野双方共2試合で10打席連続敬遠となった。
両者共本塁打王になるも、ファンの怒りは高まり、セ・リーグ鈴木会長は「タイトルのための作為的な行為はファンを裏切るもの」と指摘、下田コミッショナーも批判する問題に発展する。
安藤は辞意を伝えたが、小津の説得で続投に傾いていた。 

10月6日

セ・リーグ鈴木会長が2試合にわたる10連続故意四球に対して「野球の権威その技術に対する国民の信頼を確保する野球協約の根本理念に反する」と異例の声明を発表。
藤田平、退団を表明。
米教育リーグ(フロリダ州)に広島と混成チームにより参加。(11月15日帰国)

シーズンは53勝69敗8分け、勝率.434、優勝した広島に23ゲーム、3位巨人に14.5ゲームの大差をつけられての4位に終わった。
山本和が10勝24セーブ、SP34で2度目の最優秀救援投手のタイトル獲得、メジャーリーグに行こうとしたが、球団の許可が出ず断念。
福間は77試合に登板、西鉄ライオンズの稲尾和久の78に迫るものであったが稲尾へのリスペクトからか無理して記録を作らなかった、とされる。
バースは打率を.326と上げたが本塁打は27本に減り、打点も73だったことから安藤はバースを来季の構想から外し、球団には戦力外と伝えていた。
藤田平が引退、2010試合出場、2064安打は球団最多記録であった。 

10月4日

日本シリーズ期間中、水面下で行っていた新監督に西本幸雄(元大毎、阪急、近鉄監督)を擁立する動きが表面化し、ついに安藤は正式に辞意を伝えた。(5日の最終戦終了時とも) 

10月8日

安藤が納会の席で辞表を叩きつけた。

10月12日

安藤監督、辞任会見。
電鉄社長・久万が取締役・三好に後任監督候補は本社で西本に絞った旨を告げた。

10月14日

夕方、久万と西本が大阪コクサイホテルで密談。
西本は即答しなかった。 

10月16日

小津、西本に正式に監督就任要請。
この時も西本は即答しなかった。 

10月20日

西本、球団事務所に出向き正式に監督就任要請を断る。 
久万はこのことと、後任は吉田義男に要請する旨を三好に電話で伝えた。 

10月21日

三好と吉田が岡山のホテルで密会し、吉田が監督就任を受諾。 

10月22日

球団取締役会では、後任に村山の名が出た。
小津は村山を監督にと考えていた。 

10月23日

新監督には吉田が8年ぶりに復帰、就任発表。
フロントも刷新され、小津社長、田中オーナーが去り、新オーナーに久万俊二郎(阪神電鉄社長)、球団社長に阪神電鉄専務取締役の中埜肇が現職のまま就任、新体制で球団創設50周年を迎えることになった。
吉田は前回監督時の反省を踏まえ「一連托生内閣」を掲げ「土台作り」を宣言、  スローガンとして、「フレッシュ・マインド、ファイティング・スピリッツ、フォア・ザ・チーム」の三つを掲げ、「3F」と称した。        また、吉田は安藤が戦力外としていたバースの長打力を評価し球団に残留を求め、バースは残留となった。 

11月10日

ドラフト会議、和田豊(日本大)らを指名、獲得。 

11月15日

郵政省が「プロ野球50年」記念切手を発行。 

11月19日

東京・ホテルオークラで日本プロ野球五十年の記念式典が開催され、下田コミッショナーが挨拶、松永光文部大臣が祝辞を述べ、映画「日本プロ野球五十年」の上映が行われた。

この年、契約第一号選手・門前真佐人、死去。

1985年(昭和60年) 

1月19日

東京・多摩市営一本杉球場で江夏の引退試合がスポーツ誌「Number」とライター水谷脩らの協力で行われた。 

1月23日

杉下茂、野球殿堂入り。 

2月

安芸キャンプ。(3月1日まで)
1983年(昭和58年)からのハワイ・マウイ島でのキャンプを取りやめ、全員安芸一本に絞った。
吉田は前年ライトを守っていた岡田をセカンドにコンバート、木戸克彦を捕手に抜擢、安藤の方針で戦力外となっていたバースの慰留にも尽力した。 

3月10日

第五十六回対阪急定期戦(西宮)、阪神1勝。 

3月16日

第三十四回対南海定期戦(甲子園)、南海1勝。 

3月21日

甲子園球場外野席下(右翼側寄り)に阪神タイガース史料館が開館。 

4月8日

10代目監督・田中義雄死去、78歳。 

4月13日

雨で一日遅れとなった広島との開幕戦(広島)、二塁走者・北村昭文が隠し球で憤死、その裏適時打を浴びサヨナラ負け。
試合後、三塁ベースコーチ・一枝修平は謝罪、コーチ陣が自発的に罰金を払った。 

4月16日

巨人戦(甲子園)、4回裏、掛布、木戸、真弓で1イニング3本塁打。 

4月17日

巨人戦(甲子園)の7回裏、槇原からバース、掛布、岡田の3者連続のホームラン、バックスクリーン3連発。
中西にプロ入り初セーブがつき山本和、中西のダブルストッパー構想が現実となる。
この試合を含む巨人3連戦、甲子園では1979年(昭和54年)7月以来6年ぶりの巨人戦3連勝。 

5月6日

6連敗して迎えた中日戦(甲子園)、長短23安打を放ち、18得点を奪い勝利。
この試合の40打数23安打、打率.575はプロ野球新記録。 

5月15日

コミッショナー代行は、球場内への物の投げ入れを防ぐため、各球団・球場に対し観客のマナーについて周知徹底の協力を求めることを決定、通達した。 

5月20日

巨人戦(後楽園)で山本和が、江夏に次ぐ二人目の通算100セーブ達成。 

6月5日

巨人戦(甲子園)で山本和が通算100勝達成。 

6月23日

大洋戦(横浜)で掛布が広瀬から右翼へ本塁打、300号本塁打達成。 

6月28日

巨人戦、1対14で大敗、巨人にゲーム8本塁打を喫したのは初。 

6月30日

甲子園での巨人戦が開門後降雨で中止、観客約1000人がグラウンドに乱入、1時間45分にわたって占拠、警官が出動。
川島広守セ・リーグ会長がさっそく対策を取ると厳しい表情を見せた。 

7月5日

甲子園球場が3年ぶりに外野席のフェンスに有刺鉄線の復活を発表。 

7月10日

ヤクルト戦(甲子園)で真弓が梶間から左へ本塁打、150号本塁打達成。 

7月13日

巨人戦(後楽園)で岡田が西本聖から本塁打、100号本塁打達成。 

7月18日

オールスターゲーム前の前半戦最終戦の岡山県営球場での広島戦、左太腿を痛めていた岡田に代わり、新人の和田を起用、5打数4安打の活躍。       八番の平田が2,5,7,9回に送りバントを決め、1試合4犠打のセ・リーグ新記録。 

7月31日

中日戦、バースが自打球を右足甲に当て、剥離骨折で戦列離脱。 

8月6日

全治2週間の診断だったが、1週間足らずでバース戦列復帰。      スパイクの金具が響くため、運動靴を履き、プロテクターをつけて打席に立ち走塁時も痛む足を引きずりながらの闘志を見せ、ヤクルト戦(神宮)勝利。 

8月10日

球団社長・中埜肇は、平和台での中日戦を観戦、勝利後、吉田や選手たちにねぎらいの言葉をかけた。 

8月11日

中埜は大阪・梅田の電鉄本社に帰った。
中日戦(平和台)で中田良弘が勝利投手となり、昭和56年7月21日の広島戦以来の5年がかりの18連勝となり御園生崇男以来の球団タイ記録。 

8月12日

阪神ナインは翌日からの後楽園での巨人戦のため、福岡から羽田へ空路、東京入りした。
午後6時から練習予定であったが、野球道具が届いていないため、午後8時20分からとなっていた。
そんな中、羽田を午後6時12分に離陸した日本航空123便(乗員乗客524人)が御巣鷹山山中に墜落したニュースが入った。
この飛行機には中埜が搭乗していた。
中埜は民鉄協の会合に出席するため、常務取締役・石田一雄とともに東京の運輸省に日帰り出張していた。
中埜は搭乗直前、宝塚市の自宅に「7時40分には帰宅する」と電話を入れていた。 

8月13日

東京の定宿、サテライトホテル後楽園で吉田は選手達に、強いタイガースを作るために懸命になることが社長に報いる道だと思う、との旨の言葉を言った。
しかし、チームが受けた衝撃は大きく、この日から6連敗、三位に転落してしまう。 

8月16日

家族により、中埜の遺体が確認された。
63歳、球団創設50周年を記念したネクタイピンが決定的遺留品となった。 

8月17日

中埜の遺体が荼毘に付されたこの日の広島戦(広島)はセンターポールには両球団の半旗が掲げられた。
この広島滞在中、選手会長の岡田は選手を集め連敗脱出のため、決起集会を開いた。 

8月20日

中埜の密葬が行われた。 

8月24日

ヤクルト戦(岡山)でバースが100号本塁打達成。
304試合目というスピード記録だった。  

8月27日

首位広島を甲子園に迎え、10対2で圧勝、この日首位に立ち、以後ペナントレース最終戦まで首位を走ることになった。 

8月28日

中田良弘、プロ入り初完封。 

8月30日

大洋戦(甲子園)で弘田が代打で出場、ヒットを放ち通算1500試合出場を勝利打点で飾った。

8月31日

大阪・吹田の千里会館で中埜の社葬が営まれた。  

9月1日

大洋戦(甲子園)、5万6000人が入り、年間観客動員新記録樹立。

9月4日

ナゴヤ球場での練習中、山本和がアキレス腱を断裂、今季絶望となる。

9月10日

大洋戦(横浜)で真弓、吉竹春樹、バース、平田が各2本、掛布、長崎各1本で1試合計二塁打10本のセ・リーグ新記録、10対2で勝利。

9月11日

大洋戦(横浜)、10対2で圧勝、優勝へのマジックナンバー「22」が灯った。

9月15日

中日戦(甲子園)で観客5万8000人、主催試合200万人を突破し204万8000人となる。(うち甲子園が195万2000人)

9月20日

ヤクルト戦(神宮)でバース47号、掛布33号が出てBK14回目のアベックホームランとなり1068年の巨人の王・長嶋に並んだ。

10月1日

広島戦(甲子園)で長尾泰憲が代打で出場、通算1000試合出場。

10月10日

前日からの徹夜組約5000人を含め5万8000人が甲子園に来場、観客動員250万人突破。

10月12日

広島戦(広島)でバースが大野から、外国人選手の最多本塁打、勝利打点21のセ・リーグ新記録、セ・リーグ新記録のチーム206本塁打となる49号本塁打を放ち勝利。
球団史上初、単独チームとして米教育リーグ参加のため、ファームディレクター・小林治彦を団長とし、中村二軍監督ら29人が大阪空港からフロリダ州のセントピーターズパークに向け出発。(11月16日帰国)

10月14日

広島戦(広島)でバースが2本の本塁打を放ち、4試合連続、22の勝利打点はともにプロ野球新記録となり、7対3で勝利、マジック「1」とした。       シーズン137犠打のセ・リーグ新記録。

10月15日

阪神ナイン、広島から空路、東京へ移動、神宮室内で練習を行う。       大阪・伊丹空港からはリハビリ中の山本和が選手会長・岡田の呼びかけで東京に向かった。
祝勝会場の宿泊先サテライトホテル後楽園の駐車場はテントが張られ、シートで覆われた。
神宮球場には当日券を求める徹夜組が長蛇の列を作っていた。

10月16日

ヤクルト戦(神宮)を5-5で引き分け、午後9時59分、1964年(昭和39年)以来21年ぶり、2リーグ分立後3度目(通算7度目)のセ・リーグ優勝を達成。
この日、明治神宮球場は東都大学リーグをデーゲームで開催予定だったが、朝からタイガースファンの集結が予想され警察署からの要請もあり、史上初めてプロ理野球が優先され、学生野球延期となった。
この年のタイガースの熱狂ぶりは、プロ野球のみならず日本野球界全体における歴史的な出来事だった。
サテライトホテル後楽園の駐車場で祝勝会、大阪の街も歓喜に包まれ、大阪・ミナミのお祭り騒ぎでは、興奮したファンが何人も道頓堀に飛び込んだ。
ケンタッキー・フライドチキンのカーネルサンダース像も川に投げ込まれるという狂喜乱舞の夜であった。 

10月17日

ヤクルト戦(神宮)でバースが54号本塁打を放つ。
1964年(昭和39年)に王(巨人)がマークしたプロ野球最多(当時)の55本塁打まであと1本に迫るが、残り4試合不発に終わり、記録更新はならなかった。 

10月21日

吉田と岡田が中埜邸を弔問、優勝の報告ををし、冥福を祈った。        球団の役員会が開かれ、取締役名誉会長に田中隆造、中埜の死で空席になった社長に専務取締役・岡崎義人が就任、同時に電鉄本社から三好一彦が取締役として経営陣に加わった。
これにより久万・三好ラインが強化され、岡崎の立場が微妙になった。

10月22日

甲子園での公式戦最終戦となった巨人戦。
5対2で勝利後、表彰式が行われ、5万8000人の大観衆が見守るなか、吉田を先頭にペナントを手にしたコーチ、選手が場内を一周した。

この年の最終成績は74勝49敗7分け、勝率.602、2位広島に7ゲーム差をつけた。
チーム本塁打219本はセ・リーグ記録(当時)。
バース54本、掛布40本、岡田35本、真弓34本と4人が30本塁打以上、バース134、掛布108、岡田101と100打点以上を3人出した。
チーム打率.285は球団最高でまさにダイナマイト打線の復活であった。 チーム141犠打もリーグ記録(当時)。
バースは打率.350で岡田との争いを制し首位打者となり、三冠王となった。
最多安打(174)、最多勝利打点、最高出塁率(.428)のタイトルも獲得し、最優秀選手(MVP)にも輝いた。
チーム防御率4.16はリーグ4位。
リチャード・ゲイル13勝が勝ち頭。
開幕9連勝の中田良は81年から5年がかりで18連勝の球団タイ記録をつくり、12勝5敗。
中西は11勝19セーブ(30セーブポイント)で最優秀救援投手に輝いた。池田9勝、58試合に登板した福間は8勝を挙げた。
ベストナインにはバース、岡田、掛布、真弓の4選手が、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)には木戸、岡田、掛布、平田の4選手が選ばれた。
吉田が最優秀監督賞を受賞。
観客動員は初の200万人を大幅に突破し、260万2000人に達した。球団歌、通称「六甲おろし」もレコード、テープも売れ、全国区的な人気を獲得。
「トラキチ」という言葉が流行語になり、流行語大賞の銀賞を受賞。 

10月26日

日本シリーズ第1戦(西武球場)。
セ・リーグ全日程終了2日後で後楽園での最終戦後、大阪へは帰らず、立川に移動して迎え、池田が完封、3対0で勝利。 

10月29日

日本シリーズ第3戦(甲子園)試合前、西武監督・広岡は吉田に近づき、自身が目指す理想と球団が求める監督像の狭間で悩む胸の内を明かし、辞任の覚悟を伝えた。
事実、このシリーズ終了後、監督を辞任した。 

10月30日

日本シリーズ第4戦(甲子園)で入場者51554人のシリーズ最高記録。  

11月2日

日本シリーズ第6戦(西武球場)。
阪神は初回に長崎が右翼席に満塁本塁打を放つなど優位に試合を進め、午後4時12分、9対3で勝利、4勝2敗で球団史上初の日本シリーズ制覇を達成。
「隔年DH制」が実施された初年度で、史上唯一、全試合でDH制が採用された日本シリーズであった。
日本シリーズでもバースが三冠王とMVP、優秀選手にゲイル、真弓、長崎が選ばれた。
試合後、立川競輪場でビールかけの祝勝会。
その後、選手だけが都内に集まったが、川藤がゲストに1983年(昭和58年)限りで引退した小林繁も招いていた。 

11月5日

日本プロ野球選手会が東京地方労働委員会に申請中の労働組合としての資格を正式に認可された。 

11月6日

吉田と球団社長・岡崎が中埜の宝塚の自宅を訪問し、霊前にリーグ優勝のウイニングボールを捧げた。
遺影の前には「阪神日本一」を伝えるスポーツ紙が並び、中埜直筆の「和」と書かれた色紙があった。
このとき、吉田は涙が止まらなかったという。 

11月13日

吉田、第9回正力松太郎賞受賞。 

11月20日

ドラフト会議。
遠山昭治(八代第一高、のち「蔣志」))、中野佐資(三菱重工横浜)らを指名、獲得。 

12月10日

大阪・中之島のロイヤルホテル「桐の間」で午後三時半から球団創立五十周年記念式典が開かれた。
午後五時からは「光琳の間」でセ・リーグ優勝・日本シリーズ優勝をも兼ね祝賀会が開かれた。
現存の歴代監督も勢ぞろいし、各界の招待客1300人に電鉄本社、球団関係者ら200人が列席した。

住友信託銀行が発表した「タイガース・フィーバーの経済波及効果」という調査結果で「経済効果400億円」という見出しも掲載された。
オフ、吉田は「優勝して花道もできただろう」と川藤に引退勧告するも、川藤は現役続行を申し出た。 

12月25日

新人選手入団発表(ホテル甲子園)

この年、球団マスコット・トラッキーが誕生。


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