義家えと貞任との歌問答 2
天喜5年、1057年、 安倍の頼良しが殺されてしまったよ。 でも、頼良の後をついだ子供の、貞任、宗任の兄弟はお父さんの頼良以上に強かったから、 源頼義たちを困らせていたんだ。 安倍一族はね、 『作』と呼ばれている陣地から戦っていたよ。 さくはようさいのような物で、 その陣地の中には掘っ立て小屋があって、 その周りには10メートルにもなる堀が作ってあって、 その底には鉄の矢が幾本も上を向けて立てられていたよ。 堀の周りは柱でぐるり囲んであったよ。 柱の間から、矢を射ていたんだね。 源頼朝の子のよ義家はめっぽう強かった。 勇気もあったよ。 そんな堅固なさくも次から次へと落としていったんだ。 源の義家が栗谷川と衣川のさくを同時に落とした時のことだったよ。 その衣川のさくに安倍貞任がいたんだ。 さくから馬で飛び出して逃げて行く貞任を義家も馬で追ったよ。 「衣のたて(やかたか武具のたてにひっかけて)はほころびにけり」 義家は大声で歌をよんで下の句を貞任に投げたよ。 するとね、貞任は振り返って、 にっこり笑うとね、 「としをへし糸の乱れの苦しさに」 と上の句を返してきた。 「なんと!!」 義家はびっくりしてしまったよ。 感動したんだ。 無知で卑しいとされてきた田舎の武人が、 都の人以上に雅心を持っていたからなんだ。 義家ははたと追跡を止めたというよ。 これが前9年の役の時の義家と貞任の歌問答の有名な場面なんだって。 殺すか殺されるかの戦いの時に こんな歌を歌いながら戦って、 敵の気持ちを削ぐなんて、 やっぱり平安時代は違うね。 この時の義家の子供が頼ちかで、その子供が為良しその子供が、よしとも。 よしともは源のよりともや義経兄弟のお父さんのこと。 強かった義経には義家からの魂が入っていたのかもしれないね。 4444
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