幸松丸(こうまつまる)首実検でショック死 その2(全3回)


お兄さんの興元(おきもと)が亡くなったから、残されたのは2歳の幸松丸さ。興元に仕えていた家臣たちは皆、幸松丸を助けてまとまってはいたんだけれど、元就に幸松丸の代わりをしてくれるようにと頼んでいたんだね。興元の弟が元就だったからさ。幸松丸は子供だからね。元就はね、もちろん幸松丸を助けていくと約束していたよ。

大永(たいえい)3年、1523年。尼子経久(つねひさ)から毛利幸松丸に大内方の蔵田房信(くらたふさのぶ)がお殿さまの安芸鏡山城(あきかがみやまじょう)を攻め落とせという命令がきたんだよ。幸松丸はたった9歳の時のことだったよ。その頃の安芸の多くの豪族が尼子氏(あまごし)の味方になっていたからね。

6月28日幸松丸は元就に助けてもらいながら、大内方の蔵田房信が守る東広島にある安芸鏡山城を攻めて行ってお城を落とすことに大成功したんだよ。幸松丸はね、戦いが嫌いだったんだ。まわりの大人たちに無理やり戦いの場所に連れていかれたり、戦いから戻って来た者たちに声をかけたり、傷ついた者たちに声を掛けたりと9歳の幸松丸には大変なことだったんだね。
「安芸鏡山城が落ちました。我が毛利軍の大勝利にございます。さぁ、寺にて首実検をいたしますから、参りましょうぞ。」
「いや、行かぬ。いやじゃ、首なぞ恐ろしゅうて行かぬ。」
幸松丸はね泣きながら嫌がったんだよ。見たくなかったのさ。泥にまみれて酷い傷を負った兵たちや血を流しながら手足を震わせていた兵たちを見ることができなかったんだ。かわいそうで痛そうで何よりも兵たちの顔が怖かったんだ。体の大きな大人たちが苦しみながら死んでいくのを見るのが怖かったんだ。いやだったんだ。でもね、毛利興元(おきもと)の子なのだから、首実検に行かなくちゃダメと言われて、無理やり連れていかれてしまったんだ。

今日はここまで。読んでくれてありがとう。
嫌がる幸松丸の気持ち、分かるよね。
また明日、ポン!

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