逃げるキリシタン その2(全4回)


ここ、島原・天草地方は戦国時代、キリシタン大名が治めていたところだった。キリスト教を信じているキリシタンといわれている人たちが多いところでもあったんだよ。ポルトガル人から教えてもらった外国の神さまのことさ。マリアさまとか、主イエスキリストが神さまさ。運悪くちょうどこの頃ね、幕府からキリスト教禁止の命令が出された時でもあったんだよ。年貢が出せなかった村人たちやキリシタンだった村人たちには、そりゃぁそりゃぁ恐ろしい死刑が待っていたんだ。松倉城主は心ない無慈悲な人だったよ。村人たちが次々と殺されていったんだ。村人たちはもう我慢することができなかったよ。お腹を空かせた島原と天草の農民たちやキリシタンたちが、とうとう鍬(くわ)や槍(やり)を手にしてお城に攻めていったんだ。その数、2万人というんだよ。そのリーダーは天草四郎(あまくさしろう)といってね、たった15歳の少年だったというよ。これが島原・天草の一揆(いっき)さ。こうやって農民たちが大勢でお殿さまをやっつけに行くことを一揆というのさ。

戦いは続いたよ。次の年1638年になると、原城に立て籠もった農民やキリシタンたちを九州じゅうから集まって来た12万の兵たちでぐるり取り巻いてね、兵糧攻め(ひょうろうぜめ)にして最後には皆殺されてしまったんだよ。兵糧攻めとは、農民たちがいる原城のお城の中へ食べ物を持ち込まさせないよにする作戦のことさ。お腹が空いて動けなくなった村人たちは、鉄砲なんかで撃たれていったんだ。島原の農民たちが2万3千人そして、天草の農民たちが1万4千人も殺されてしまったよ。この頃ね、島原には4万5千人くらい、天草には2万1千人くらいの村人たちが暮らしていたというからね。どちらの村も半分くらいの人たちが命を落としてしまったんだね。遠くへと逃げて行った人たちもいたよ。

今日はここまで。
天草四郎は今でも有名どから、覚えておくといいよ。
では明日。お休み、ポン!

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