【ブルアカ感想】エデン条約編補習・地獄の存在証明の破壊と楽園への道程(「0068 オペラより愛をこめて!」感想)
地獄の存在証明の破壊について
楽園の存在証明
ブルーアーカイブメインストーリーvol.3「エデン条約編」のテーマは「楽園の存在証明」です。
「楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか」
五つ目の古則にて象徴的に示されるその問いは、パラドックスでありながら、楽園の存否に答えることは我々に課せられた宿題であるという暴力的な二択として立ち現れました。楽園――エデンは「他者の心」に読み替えられます。真の楽園に入ったものは楽園から出ないため観測できない。観測できてしまえばその者が入ったものは真の楽園ではない。そのことと同様に、他者の心を完全に理解してしまえばそれはもはや「他者」とは呼べなくなる、しかし理解できないのであればやはり他者の心など理解できないということになってしまう――。
この二択を真正面から捉えた場合の答えはエデン条約編2章で示されており、3章ポストモーテムでも象徴的に語られます。それは「不可能な証明」です。
だからこそ、楽園を成立させるための手段は、他者の本心に向かう手段は、誤解があっても、信じられないことがあっても、たとえどこにも到達できないとしても、それでも「信じる」ことしかないのです。
他者の本心に到達する手段はありません。ゆえに、進む道は常に闇です。「確証」という光は決して得られません。そんな中で信じるという宿題を「ずっと背負いながら」その先を目指すしかないのです。そして、楽園とはまさにその営為により宿題を背負い続ける者のそばに立ち現れるもの、信じる、信じ続けることで成立するものとして描かれることになりました。
エデン条約編という大きな物語が示す、それが一つの姿勢です。
地獄の存在証明
「楽園の存在証明」という問題には対置される問題があります。それが「地獄の存在証明」です。言及が僅かしかないため記憶にない方も多いかもしれません。錠前サオリと聖園ミカが一対一で互いを傷つけ合う「見世物」を傍観するベアトリーチェがそれに言及しています。
「互いに信じ合う」ことで成立するものが楽園であるならば、「互いに憎しみ合う」ことで成立するものが地獄です。エデン条約編とは楽園の存在証明の話であると同時に、地獄をなくそうという努力の話でもあります。
ブルーアーカイブメインストーリーvol.3「エデン条約編」1章1話の一言目。つまり、エデン条約編のシナリオ上の本当のはじまりのはじまりに、その態度は明白に現れています。
憎み合うのはもうやめよう。トリニティとゲヘナで地獄を成立させることを止めよう。その約束こそがエデン条約です。この物語は楽園を照らし出そうとしながら、地獄を直視して戦う物語でもありました。
「本当の全ての発端」――様々な分派が現代のトリニティとゲヘナのように憎み争い合う時代を止めよう、私たちは一つになろうと話をしたのが「第一回公会議」で、これも地獄を打ち破るためのものでした。
しかし、第一回公会議はトリニティ総合学園という形で大きな地獄を一つ解消すると共に、アリウス分校との間に深い地獄を表出させました。エデン条約もまた、地獄を消し去ろうとする約束のための努力であるはずが、その推進に伴い数多の地獄を生み出しました。たとえばマコトにとってそれはなかなか表に引きずり出すことのできないティーパーティーをヒナもろとも吹き飛ばす好機であり、たとえばアリウススクワッドにとってそれはトリニティとゲヘナを審判する契機となりました。「憎み合うのはもうやめよう」という約束をする日、約束をする場所は血と灰に染まりトリニティとゲヘナ間の互いへの憎悪は一時極限まで高められました。
憎み合うのはもうやめよう。これからは仲良くしよう。その努力を嘲笑うかのように、そのための努力が地獄を生みます。ゆえにこそ、他者との接触は地獄であり、互いが憎しみ合うことでその実在を証明しているとベアトリーチェは断ずるのです。
しかしながら「地獄の存在証明」が「楽園の存在証明」の対である以上、不可避の課題が存在するのです。信じるという宿題を背負い続けなければ楽園は立ち現れません。それと同様に、「憎み続けなければ」地獄は保てないのです。だからこそベアトリーチェは長きにわたり憎悪を煽り続けてきたのですし、秤アツコが「自分たちのものではない憎しみ」から逃げる決断をしたあの瞬間からアリウススクワッドは地獄の深淵から少しずつ離れ始めました。錠前サオリは、そして聖園ミカはそのタイミングがあまりにも遅すぎたとし、もう少し早く良い大人に出会えていればと悔いますが、その悔恨は一蹴されます。
エデン条約編で語られる楽園の他のテーマのひとつ。「子供がチャンスを掴む機会は何度失敗しようが大人が何度でも作るもの」であり彼女達には「無限の可能性」があるという呈示が二人を照らします。
聖園ミカが聖歌隊室でアリウススクワッドを赦したあの瞬間に地獄は失われました。ベアトリーチェにとって「地獄」とは単なる彼女の世界観ではありません。彼女は憎悪のコントロールによりアリウス分校を手中に収めたのであり、また同じくユスティナ聖徒会の威厳のミメシスを得たのです。彼女はこの地獄の中で大人は子供を「捕喰」すると表現します。
畢竟、ベアトリーチェにとって子供が憎み合っていること、地獄にあることそれ自体はどうでもよいわけです。マエストロ、ゴルコンダ、フランシス、地下生活者のような世界観への拘りは彼女にありません。
子供は地獄にいなければならない――それは単に、大人が子供を捕喰するにはその方が都合が良いから。便利であり、目的に適っており、自身の望む境地を安堵するために必要だからに他なりません。子供が地獄にいなければならない理由は、ただそれだけです。
逆に言えば「大人のやり方」ではない超能力などで統制を行っているわけではないベアトリーチェにとっては、地獄を維持し続けることは自身が崇高に至るための欠くべからざる要素でした。子供が地獄にいることそれ自体は彼女にとって精々「面白い見世物」であるに過ぎませんが、地獄は彼女が手放すわけにはいかない何よりも有用な武器なのです。
だからこそ聖園ミカの赦しによる地獄の解消は激昂に値する、彼女にとって絶対に許容することのできない状況であり、地獄を失ったベアトリーチェは半端な状態で戦いに臨むほかなく、大人のカードを出すまでもなく、全員が疲労困憊、錠前サオリに至っては聖園ミカとの戦闘でまともに戦うことすら難しい状態で、更にメンバーの一人であるアツコを欠いたアリウススクワッドを相手に惨敗したわけです。地獄が維持されていればおそらく彼女は間に合ったでしょう、そもそも聖園ミカとバルバラの対処が困難です。しかし、地獄が瓦解してしまったせいで何もかもが上手くいかず半端に終わり、彼女はマクガフィンとして退場しました。
こうして、聖園ミカと錠前サオリ、そしてアリウススクワッドは地獄から解き放たれて歩き出します。解き放たれた一人、常に皆を守り責任を負い続けてきた錠前サオリが選んだ道は、「自分は生きていてもいいのか」という問いに答え、「何もわからない自分について知る」ための家出、一人旅でした。
地獄から楽園へ
「切り札」アリウスの傭兵錠前サオリ
地獄から抜け出して、一人歩き出した錠前サオリには何もわかりません。仕事をするということも、契約書を読むということも、そもそも自分のこともよくわかっていません。そんな中、高校中退の身分で追われながら裏社会で生きていかねばならないのです。
地獄を抜け出してからの錠前サオリは失敗だらけです。騙され、傷つけられ、ボロボロになり、報酬すら踏み倒されます。
エデン条約編4章で、聖園ミカに敗れ項垂れる彼女は「自分が正しいと思ってやってきたこと全てが間違いだった」と考えています。では彼女は足踏みをし続けているのでしょうか? それは違います。
ハルカを除く便利屋68と錠前サオリの邂逅は最終編の後です。便利屋の攻撃を受けている悪徳業者の呼び出しを受け、ヘルメットを被り再びスクワッドと別れた彼女が対決した相手が便利屋68です。このときの彼女はまさにヘルメットを被った下っ端Aのように雑に呼び出されている一人に過ぎません。しかし、「アリウスの傭兵錠前サオリ」はカヨコのような修羅場をくぐり抜けてきたと見える少女にすら極めて強力な裏社会の個人として認識されるようになります。
同じ現象が、恐らくブラックマーケットを中心とするであろう裏社会全体で生じています。0068の時系列における錠前サオリ。その存在は巨大な連合であるアランチーノ・ファミリーの首魁であるドン・アランチーノが襲撃を見越した「切り札」として彼女ただ一人を登用し「切り札」はそれで足ると判断した程です。「何重にも策を弄する」と繰り返し強調された用意周到な人物であるアランチーノは錠前サオリさえいれば自分は安全であると判断しています。それだけのネームバリューが0068時点の彼女にはあるのです。
確かに錠前サオリはまだまだ裏社会ではニュービーです。裏社会の「作法」に全く不慣れな彼女は笑えるほど使いやすいコマであることでしょう。しかしそれと同時に、彼女はアリウス分校の地獄を生き延び、白洲アズサの師たるアリウススクワッドの長、一時は聖徒会と数多のチームを率いてゲヘナ・トリニティ両校に対しテロを仕掛けて大打撃を与え、満身創痍の状態で及ばないながら聖園ミカとすらやりあってみせる強者の中の強者です。特に裏社会で想定されるであろう市街地や屋内でのゲリラ戦は彼女の独壇場であり、稼ぎを中々得られない彼女が日銭を得るため次々仕事を請けているのは容易に伺え、裏の情報網に「錠前サオリは傭兵として個人で戦闘における切り札たり得る」との認識が根を下ろしているはずです。少なくとも、アランチーノは「錠前サオリは切り札である」と認識し、便利屋68は「錠前サオリは強敵だ」と認識しています。数多の護衛やライバル勢力を虫ケラのように蹴散らしていた便利屋は錠前サオリただ一人の出現にこれ以上ない警戒を示しています。
新参気取りで自分のことがよくわかっていないのは本人だけで、周りから見れば既に「錠前サオリはヤバい」のです。そして、一度は交戦したことのある便利屋68ですら彼女の真髄をそのときにはまだ見極められていませんでした。アランチーノを護衛しながら錠前サオリが単騎で処理した人数を見て、彼女達はまず乱戦の結果を疑ったほどです。
そして、錠前サオリもまた便利屋68の組織名を強く認識しています。ハルカとの邂逅は彼女に裏社会の「作法」を強く印象づけましたし、その後、最終編後の描かれていない戦闘でも錠前サオリにとって便利屋68は難敵でした。
ここまでが、0068邂逅時点での「傭兵」錠前サオリを取り巻く状況です。
"普通のことだよ"
0068において錠前サオリは基本的に真面目に仕事をしています。ヘイローを破壊する方法を徹底して学んで来たアリウス仕込みであり世間知らずの錠前サオリが徹底するところの真面目ですから、それは白洲アズサ同様世間とかなりズレているのですが、とにかく本人は基本真面目です。そんな彼女が平常心ではいられない場面がありました。
ドレスについてです。
よせばいいのに、錠前サオリは墓穴を掘ります。物凄い勢いで掘り進みます。温泉開発部もかくやという激しさで激しく墓穴を掘って自爆します。
とてもコミカル、かつ可愛らしいシーンなのですが錠前サオリの成長の証でもあります。エデン条約編4章の段階では彼女ははっきりと次のように口にしています。
きっと、錠前サオリを一番心配していて、好きなものの話なんて一度も聞いたことのない家族の一人である姫がこの狼狽えまくっているサッちゃんを見たら喜ぶことこの上ないでしょう。
もっとも、このお姫様は茶目っ気たっぷりなのできっと錠前サオリを少しだけからかったりもするのでしょうが。
錠前サオリはこういうのが好きということは実のところプレイヤーである私たちは早くから知っていました。
・サミュエラ「ザ・ビヨンド」
・お肌を透明にするBBクリーム
・チェリーローズカラーのグロス
彼女が特に喜ぶ贈り物はコスメ関係で、つまるところ錠前サオリはお洒落にかなり興味があるのです。ドレスを選ぶとき高揚していたのはほぼ間違いないでしょう。
さて、ここで弟子の白洲アズサと比べると錠前サオリの魅力的な性分がもう一つわかります。
白洲アズサはヒフミの布教を受けたモモフレファンです。そして、彼女との絆の象徴であるペロロ博士を除くと特にお気に入りなのがスカルマンです。メモリアルロビーでは思いっきり抱きしめて可愛いと夢中になっていますし、バレンタインのミニシナリオもスカルマンにちなんだものです。アズサはこういった可愛いもの好きの自分を先生にことさら隠そうとはしません。しかし錠前サオリは自分の趣味が露見しそうになると物凄い勢いで言い訳を始めます。
そもそも彼女は先生にドレス姿を見られただけで頬を赤くして我を失っています。ドレスの話も聞かれてもいないのに自分からまくしたてて自爆しているのです。
つまるところ、トリニティの「氷の魔女」白洲アズサは別に先生に素を見られてもあまり困らないのですが、彼女の師匠錠前サオリはかっこつけている、先生相手にイメージを崩したくないわけです。誰にでもそうというわけではありません。まだ先生を認識せず便利屋と話しているときの彼女は普通でした、先生を認識した瞬間、錠前サオリは壊れます。なんとかかっこつけたがってあれこれ理由を語って自爆します。実際、先生は錠前サオリに彼女が希望するような印象も持っています。
錠前サオリはこのイメージをなんとか守りたいわけです。これは単に未熟なのでしょうか。成長に伴い改められるべきことでしょうか。
「そうではない」ということが既に語られています。
自分を偽ること。自分を繕うこと。いいかっこうをしようとすること。それは何も悪いことではありません。むしろ、そんなことは珍しくもなんともないどこでも見られる当たり前のことに過ぎません。
先生が大人だから余裕を持って言えているわけではありません。このことは先生を含めて普通のことなのです。0068で先生に遭遇して挙動不審になった錠前サオリと全く同じ挙動を月雪ミヤコにベッドの下と本棚の裏を探られた先生が示しています。
・みんなと簡単に仲良くなれる101のモモトーク必勝法(ベッド下)
・モテるためのファッションコーディネートブック(本棚裏)
見つかった先生が「生徒と仲良くなることは大事だから……!」などと必死で言い訳するところまで含めて錠前サオリと同じです。これは普通のことなのです。
そんな普通のちょっと恥ずかしい日常会話ができていること。それは確かに地獄から出た錠前サオリが旅で得た確かな成果のひとつでもあるのです。アランチーノに言わせれば「ニヤニヤ」しているその空間は、とても大切なものでした。
五人掛けの椅子に六人で座るなんて
アリウス分校の生徒達は教育により「殺意」を教え込まれています。技術としてヘイローの壊し方を習っているだけではありません。かつて錠前サオリが白洲アズサに口にしたように、経典における最初の人殺しが殺害に用いたものは石です。百合園セイアのヘイローを破壊する。桐藤ナギサのヘイローを破壊する。「殺し」の指示は彼女達にとって当たり前で、錠前サオリは実際に先生を殺害するつもりで銃撃しました。無名の司祭の技術を用いた巡航ミサイルから先生を守るためにアロナは力を使い果たしていましたから、ヒナの身を挺しての防御と瞬時に駆けつけた救急医学部のセナによる応急処置等いくつもの奇跡が重ならなければ先生の命は危うかったでしょう。
しかし、0068における便利屋68と錠前サオリの対決の間には全く殺意がありません。彼女達は繰り返し同じ言葉を使います。それは「仕事」です。銃を向け合っているにもかかわらず、彼女達の間には憎悪がありません。つまり戦闘しても地獄が成立しないのです。それもそのはずで、彼女達の語る「仕事」とはごく普通の日常の意味での仕事でしかありません。そのことは、このイベントで語られる第三の仕事である先生の「BDづくり」が同じ「仕事」として常に同列で語られていることで強調されています。アランチーノの襲撃、アランチーノの護衛、BDづくり。これは全てキヴォトスでは同レベルなのです。「アウトロー的なハードボイルドさ」では勿論差はありますが、「仕事」として見たときこれらは同レベルです。だからこそアルは自分たちの仕事が先生の仕事の邪魔になっていることを常々気にかけているのであり、錠前サオリもまた先生に対してお互いに大変だとしみじみ口にするわけです。アランチーノにとってはたまったものではないでしょうが、キヴォトスの先生と生徒が送る日常においてはこれが「普通」です。襲撃任務、護衛任務、BDづくり。全部仕事で、それぞれ尊重すべきなのです。
そうして仕事で対峙する中、壁を越えて錠前サオリに好意を示したのはアルちゃん社長でした。
「カッコいい」ことは彼女にとって非常に大切なことです。EXスキルでも「カッコいいでしょう」とわざわざ口にするくらいです。アルが錠前サオリに送ったこの言葉は彼女にとって最大級の賛辞なのです。カヨコに窘められてしまいますが、カッコいいものはカッコいいのです。先生とだけ話しておしまいにする錠前サオリに対して銃撃しながら「私たちの間柄」と挑発的に口にするムツキの頭にも、勿論ゲヘナ・アリウスという第一回公会議以前からの対立が念頭にあるはずがありません。ムツキにとって錠前サオリは「お互いドンパチやってきた仲」なのです。シカトなんて楽しくない、またあのときみたいに楽しく撃ち合いたいわけです。アルが「カッコいい」という評価で錠前サオリを捉えたならば、ムツキは「楽しいこと」に錠前サオリを巻き込んだわけです。お互い仕事をしていて、対立していてもそういうことは成り立つのだと実証しているのです。
しかも両者の対立は仕事関係でしかありません。錠前サオリの「効率的な」仕事によりアランチーノ・ファミリーは彼女を敵と見なしました。その状況下でアルはすぐさま錠前サオリとの共闘を選択し、錠前サオリもまた不慣れながらかつて戦った4人と肩を並べることになります。
便利屋68と錠前サオリの夢の共闘です。ストライカー5人ですからこの編成は通常行うことはできません。ハルカとの遭遇から始まる今までの便利屋68と錠前サオリの物語があるからこそ、編成不能の夢のストーリー戦闘が実現しているのです。全先生が大興奮した一幕でしょう。
そして、錠前サオリもまた便利屋68が彼女を好意的に評価したように共闘を通じて強い敬意を示します。
便利屋68が裏世界のトップクラスに位置するかどうかは諸説ありますが、錠前サオリにとってはその評価が妥当だと認識するだけのチームとしての練度が彼女達にはあります。そして、戦闘面については特にハルカについてその精神性に強く感嘆しています。
指導者としては極めて厳しく、数多の地獄を見てきた彼女が「本当に勇敢」だと評価を下すことは尋常のことではありません。かつていじめられっ子でアルに救われたハルカは、アリウススクワッドのリーダー錠前サオリをもってして勇敢と断言するに足る子なのです。
エデン条約編のはじまりは「憎み合うのはもうやめよう」でした。はじまりをエデン条約と捉えても、第一回公会議と捉えても、目的はそれです。憎み合うことすらなく銃火を交え、そして共闘したゲヘナ学園の生徒とアリウス分校の生徒が最後の辿り着いた場所は、ここでした。
もしかすると、エデン条約編が語ろうとする楽園を最も完全に体現しているのがこの五人掛けの屋台かもしれません。かつて憎み合っていた学園出身の生徒同士がいがみ合うことなく、ちょっと無理してでも五人掛けに六人で座って仲良くうどんを啜る。大丈夫、狭いけど少し詰めれば入れるから。そんな気持ちを全員が抱けていること、それが憎み合う両校が人数に足りない椅子に全員で座る方法なのでしょう。
錠前サオリは地獄から抜け出し、一人旅を始めました。錠前サオリと聖園ミカが地獄から抜け出すためには先生の導きが必要でした。けれど、その旅路の途中で辿り着いた五人掛けの小さな楽園は、彼女自身の足で歩いた旅の途中で、彼女が新しく出会った「仲間」と成立させたものです。アル、カヨコ、ムツキ、ハルカ、サオリ。その楽園に共に腰掛けた先生はきっと果報者であったことでしょう。0068において先生は大活躍をしていません。それでいいのです。それがよいのです。ただ見守っているだけで、錠前サオリは便利屋68の皆とこうして五人掛けの屋台に辿り着くことができる。その証明を見届けられることほど、先生として嬉しいことはないでしょう。
――幸せに、なれるだろうか?
いつかの錠前サオリはミサキの問いに答えられませんでした。「全ては虚しいものである」というベアトリーチェの教えと苦痛ばかりが続く日々。終わらせたいと願うミサキにはっきりとした答えを示すことが彼女にはできませんでした。希望と幸福を語ることすら、彼女には禁じられたことでした。
それでも錠前サオリは諦めませんでした。何度でも、たとえ問いに答えられなくてもミサキを止め、ヘイローが砕かれそうになっていたアズサを救い、姫を守り、スクワッドの全員について責任を負い続けてきました。
今の彼女はようやく自分の人生に責任を負うために、少しだけ遅い一人旅を続けているところです。「全ては虚しいものである」という本来の金言からあまりにも歪曲された呪いからは、ベアトリーチェの打破以後少しずつ抜け出しつつあります。
それでも彼女の旅路は険しいものです。ただでさえ世間をよく知らない彼女が裏社会で生きていくのはとても難しく、仕事の対価として正当な報酬を得るという当たり前のことすら彼女にはやや難易度が高いくらいです。
「地獄」からは抜け出した彼女です。しかし送る日常はシンプルに「しんどい」ものです。そんな彼女に最上の言葉を贈ったのが、アルちゃん社長でした。
便利屋68は襲撃任務を達成できず。
錠前サオリは護衛任務を達成できず。
先生はBDづくりを達成できない。
ダメダメづくしの一日に、アルは虚勢を張ります。
実は、彼女にとってこうしてかつて銃火を交えた相手を励ますことは初めてのことではありません。彼女は同じように激励したことが以前にもあるのです。
陸八魔アルは物凄い人です。このときのアビドス高等学校は最後のアビドス生徒会である小鳥遊ホシノの退会により学園としての実体を失ったとみなされています。更に最強の戦力である小鳥遊ホシノを失った状態でPMCがアビドスに侵攻を行っています。そして、カイザーPMCの理事はかつてアビドス襲撃の依頼を便利屋68に投げた相手先でもあります。カイザーPMCはカイザーコーポレーションに属し、その実力は絶大です。莫大な借金、最低ランクまで落とされた信用により膨れ上がった金利、それに伴う預託金の指示。しょせん非公認の委員会に過ぎないアビドス廃校対策委員会が絶望に陥るのも無理はない状態です。そして、理事が言うように普通に考えてアビドスに手を貸す者など現れるはずがありません。利益がないからです。実体もなく、土地もなく、借金だけが莫大な小さな学園に味方して大企業を敵に回すのは普通に考えればあり得ないことです。
しかし陸八魔アルは違います。どうしようもない程ボコボコにされて、この先も苦しい道のりが続くだけだとしても、そんなことは彼女にとって些事です。仲間が危機に瀕している、だから助ける。考えるべきことは彼女に言わせればシンプルです。ハードボイルドなアウトローを自任する陸八魔アルとして、かつて憧れた覆面水着団の悄気た姿は許しがたいものであり、それを嬲り殺しにするようなカイザーのやり口もカッコ悪い小悪党のすることでありカッコいい大悪党を目指す彼女の気に入るものではありません。
ゆえに、アビドスに手を差し伸べてカイザーを吹っ飛ばす。それがカッコいいから。心中で大汗を流しつつも、貫徹される彼女のハードボイルドなアウトローとしての流儀です。ムツキが惚れ、ハルカが憧れ、カヨコが溜息を吐いてついていく陸八魔アルの、それがいつもの姿勢です。
錠前サオリは地獄からは抜け出しました。しかし、彼女には苦難の旅路が続くでしょう。だからこそ、錠前サオリは陸八魔アルから大きな学びを得ることができました。
日常の中で仕事をしていれば誰にだってよくある普通のこと。うまくいかない一日。それをいつも真正面から受け止めるのではなく、場合によっては受け流すこと。裏社会の新参者で上手くいかないことばかりの錠前サオリにとっては、本当に大切な学びでした。
ベアトリーチェによりねじ曲げられた金言よりずっと価値のある言葉でしょう。五人掛けの屋台に座る全員仕事に失敗した六人。せっかくのドレスもボロボロです。でも、まあ。こういう日もある。
錠前サオリとスクワッドの歩む道は険しいものです。それでも、結末はきっと彼女達が望むもので。だからこそ、こういう日もあると失敗してうどんを啜る夜だって、その素晴らしい結末を彩る色のひとつになるはずなのです。
そして、きっと訪れるだろうあたたかい未来はもう一つ。
「その日」のために旅を続ける錠前サオリに奢って一緒に食べたうどんの味は、きっと私たちにとって忘れられないものになるでしょう。ミサキの言うとおり、自分探しにリタイアはありません。旅先で足を止めて得たたくさんのものを手に、錠前サオリは皆のもとへ帰るでしょう。そして皆、ハッピーエンドを迎えるのです。
だからこそ、たとえ虚しくても抵抗し続けることを止めるべきではないのです。こういう日もあると乗り越えた先に、彼女達は素晴らしい未来を手にできるはずなのですから。
そして。
聖園ミカも幸せになれる。
錠前サオリが幸せになれるのと同じように。
なぜならば、
ミカ、考え直してもいいよ?
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