【ブルアカ】世界と立場と関係性と責任について
要訣
上の作品選択には意味があります。相補的に語ることで上に挙げた全ての作品の魅力を幾つかの軸で強調することを目的としています。それは確かに比較ですが、相補のとおり互いを引用することで互いの価値を更に際立たせることを目的とし、上下比較は全く発生しない、少なくとも目的としないnoteです。キーワードは「世界」「立場」「責任」「関係性」です。それぞれの作品が何らかの特殊な色を帯びており、他作品で強調することでその面白さを照らすことができればと考えています。ですので、ご自身の愛する作品について読みたいときも、他の作品について語る本noteの文章は補助資料的に活用できるでしょう。
以下の目次の次に大項目で簡単な作品紹介を行いますが、必要なければ目次から本文に進んで差し支えありません。
簡易な作品紹介
ブルーアーカイブ
主要な想定読者は先生ですので、ほぼ紹介の必要はないでしょう。巨大学園都市キヴォトスに着任した超法規的組織・連邦捜査部シャーレの顧問、が世界の危機から猫探しまで八面六臂の大活躍をする透き通るような過労の物語です。過労値は生徒の日常で回復できます。
溶鉄のマルフーシャ/救国のスネジンカ
パン屋の姉妹が額面からイカレた控除を受けた手取りの給与をやりくりして色々なものを守るハイテンポSTGです。偉大なる祖国やその外延である門などを外敵から守るたいへんやりがいのある仕事です。濃密かつハイテンポに過ぎていく1日1日を積み重ねることで見られる少女たちの絆がある。また、分厚く着込んだ衣類やタイツなどによる低露出、そしてリロード速度を上昇させるためストイックに行うシャワーによる脱衣で僅かに見える白く瑕疵のない肌が人を狂わせます。先生向けに述べるならば、シグレくらい着込んでいる子が好みの人には服が刺さります。脱ぎ方も。最高指導者の高配に感謝。
りりぃあんじぇ
「宇宙、冒険、そしてぷに。」をキャッチコピーとし、可愛らしいぷにっとした宇宙船、可愛らしいBGM、可愛らしいキャラクター、可愛らしい背景で宇宙の様々な星々を大冒険するお疲れの貴方におすすめらしいぷにぷにゲームです。「お疲れのあなたにぷにを差し上げます」などといかがわしい広告がたまに出てくる怪しいゲームです。僕はこのゲームで地獄ばかり味わっていますけどね。お疲れのあなたに差し上げるゲームではないと思います。
お疲れのあなたに向けたゲームだけあって、いわゆるメイン級とされるキャラクターが主人公を含めて全身善意と気配りでできているのか? と言いたくなるくらいパッシブで善意を装備しています。全員善人すぎて周りを大切にして自分を大切にしないのですね。誰かに優しくするときうっすらと自分の胸に傷がついて血が流れているタイプのゲームです。お疲れのあなたに向けたゲームではないのですが、お疲れのあなたにはこういうゲームが刺さるんですよね。夜のひつじの「相思相愛ロリータ」をはじめとするロリータシリーズも僕にそう教えてくれました。
キャラクターの傾向としては、メイン級とされる4人のヒロインのうち、特に三角関係が強調されるふたりの体格が
「117.4cm/22.3kg」
「119.5cm/25.5kg」
であり、チェリノ書記長(128cm)程度の身長なら違和感なく受け入れられるヒロイン層となっています。ヒロインはあくまで18歳以上、これは体面上の話だけではなく、ヒロイン達は身体的成長がある時点で止まっているという設定があるので、小柄なだけでロリとは限りません。身長だけ見るならロリどころかペド向けにすら見えますが……
タイトルからもうニッチ層を狙い撃ちにして大衆受けを狙っていませんからね。ですが、私はこのゲームのシナリオは非常に繊細で一般的なテーマを(ここでいう一般的とは皮相的・大衆的という意味ではなく、個別具体的な特殊なものではない、という意味です。「大人の責任」が一般的なテーマだというのと同じレベルで一般的と述べています)含んだ極めて上質なものだと評価しています。そうでなければ比較して照らすという本noteの素材に挙げません。りりぃあんじぇを引っ張ってくることには極めて強い意味があります。
なお、公式のHPや動画、Xアカウントなどは紹介できません。全てR-18なためです。FANZAのブラウザーは一般版とR指定版が併置されていることがままありますが、りりぃあんじぇの場合「りりぃあんじぇX」や「りりぃあんじぇR」がR指定なのではなく、「りりぃあんじぇ」というゲームがR指定です。健全版は存在しません。
ガールズクリエイション
空気の全てが上のPVで全て伝わるのでは? と言いたくなるくらい完璧なPVを持つゲームです。レッドオーシャンの極みである擬人化モノです。実在する芸術家とその作品を美少女にして、藝術都市を舞台として唯一の美術館の館長として美術館を運営しつつ犯罪に対処する……といったとにかく表面だけなぞるなら百回食べた味と言えるでしょう。わざわざこのnoteで挙げるのは、このゲーム、というよりこの世界における組織たちがある極めて強い特徴を持っているからです。このnoteにおいて意味もなく挙がっているゲームは一つもありません。ご安心ください。
DMM/FANZAゲーというプラットフォームにそもそも触れたこともない、あるいは艦隊これくしょんや千年戦争アイギスなどで太古に触れてそのまま離れたという人も多いでしょうから、そういった人向けにDMMへのアクセスからアカウント作成、といったレベルから序盤を進めるためのnoteも作ってあります。先のりりぃあんじぇとあわせて、もしnoteで気になったらこれを参考にはじめてみるのもよいでしょう。
含めたかったものの、含められなかったゲーム
本当はキーワードにひとつを加えて「It was a human.」というゲームで軸をもう一つ作るつもりでした。上に挙げたゲームたちはキーワード「世界」「立場」「責任」「関係性」において強い「自分-他者」という意識があります。このゲームを対比的に加えることで「自分-自分」という軸を強調したかったのですが、あまりにもnoteが複雑になること、またこのゲームを加えてしまうと内容が一気にとんでもなく内省的になってしまいかねないので、泣く泣く今回は措きました。しかしながら、このnoteを全て読んだならば、新たな軸でこのnoteの観点全てを相対化して相補的にさらに全てを魅力的にできるこのゲームをやってみたいと思うかもしれません(このゲームをプレイすることで、全てが皮相化するのではなく、かえって全てが魅力的になるはずです)。きっと損はしないでしょう。なので、ここに残しておきます。
溶鉄・救国
最初の一歩はマルフーシャ・スネジンカからはじめましょう。主たる読者をキヴォトスの先生とするこのnoteでマルフーシャたちから話を始めることには強い意味があります。ブルーアーカイブがサービス開始された2021年6月、つまり私たちが無限に2ndPVを噛んでいた頃、あるいは今ほどブルーアーカイブが爆発していなかった頃に、象徴的なインタビューが存在します。
以下は上掲の重要箇所の抜粋です。
上掲の抜粋で重要な点は「ブルーアーカイブ」というゲームがレッドオーシャンを分析してブルーオーシャンに戦略的に視線を向けているということです。
その中で挙がっているゲームのひとつが「ドールズフロントライン」です。ゆえに、ブルーアーカイブを語るときジャンルという観点でなぜ溶鉄・救国……「Sentinel Girls」というシリーズからこのnoteを始めるのかは自明でしょう。溶鉄のマルフーシャ、救国のスネジンカの主人公、マルフーシャとスネジンカのふたりはパン屋の少女です。それが何を意識しているのかは作者自身が示唆しているとおり言うまでもありません。
(パン屋の話で戦ヴァルまでは遡りません! ガンスリの話もやめろやめろ! 主題ではないので!)
非ソーシャルゲーム、インディーズである「Sentinel Girls」をレッドオーシャンのさなか、という競合の文脈で見ることは大雑把に過ぎ、そしてそれは本論の主目的でもありません。重要なことはこのゲームの「内容」において示されていることです。そして、それはブルーアーカイブでは別の切り口で取り扱われており、ゆえに相補的に双方の魅力を語りうると考えているのです。順番としてまず「Sentinel Girls」からはじめるのは、ブルーアーカイブが意識的にこのジャンルを分析した上でブルーアーカイブを出している、という時系列的な順序があるためです。優劣ではなくジャンル的な時系列の問題です。さらに、「Sentinel Girls」は「そういった作品」がある程度でてきてから、そのポストとして出てきている新しい作品だということも意識すべきでしょう。
さらに、陰鬱・重苦しいという「ジャンルの問題の代表」ではなく、あくまで「「Sentinel Girls」というゲーム」を選んだことには意味があります。それは後にすぐ明らかになるでしょう。
世界について
クソです。ただこの一言に尽きます。魔王のような巨悪がいてそいつが世界を苦しめているのではなく、様々な組織の様々な利害関係がぐちゃぐちゃに絡み合った結果として世界はクソです。こういったゲームに慣れ親しんだ人ならこれはわかりやすいでしょう。ドルフロやアクナイなどをすぐ思い浮かべられるはずです。
主人公であるマルフーシャたちが属する国、カゾルミアは侵略国家です。
国民は階級で区分され、低階級が更なる低階級を差別する、つまり上を睨むのではなく下を差別して溜飲をさげるよう学校教育レベルで教えています。
現在は周囲全ての国と戦争状態で、連合を組んだ敵国相手に公的には連戦連勝を語っていますが前線は後退し続けています。国の最高指導者がその事実を端的に認めています。
公費負担をなんとかするため国はありとあらゆる手段で増税を行い、給与明細は地獄の有様です。どれだけ基本給を上げても控除されまくって手取りはカスになります。
とにかくありとあらゆる手を使って国民から金を搾り取ってきます。
さらに増税の名目も悪質で、低所得者を狙い撃ちにしながら、増税対象となる彼らを国への「非貢献者」として蔑視するよう仕向けてきます。階級と同じく上ではなく下を睨み付けるように操作が行われています。
どうにかして零細PMCの試用で完璧な仕事を行い、正社員の座を掴み取ったところで、
零細であるがゆえに待っているのは多重中抜きです。
なお、正社員になれなかった場合、主人公は「個人事業主」となり零細PMCから業務委託契約を受ける形となり、個人事業主であること自体に課税されたり、インボイス制度、予定納税制度で搾り取られます。
我が偉大なる祖国カゾルミアはクソです。
では我が偉大なる祖国カゾルミアと戦争を行っている連合、その代表的な相手である「敵国」が人道的かというと、たいへん人道的で自国民に優しいです。そのことは祖国カゾルミアですら常識です。なぜなら敵国はそれをスローガンに掲げているからです。
敵国は自国民にとても優しいです。そのことは、幾つかのエンディングで窺い知ることができます。自国民には。
生身の人間が戦場に出る祖国と違い、敵国の人間は戦場に出てきません。自国民の人権を大切にするからです。その代わりに機械兵が出てきます。その部品に使われているのは、祖国の人間です。祖国の人間一人から大量の機械兵を生産できるので敵国は言葉巧みに投降を誘いますが、投降すれば待っているのは加工です。
祖国は確かに軍事力だけはなかなかのものです。特に「電熱線」と呼ばれる祖国の技術を用いた軍用品による攻撃は圧倒的な攻撃力を有します。
その代表である「電熱砲」はこのシリーズにおいてラスボスすら一撃必殺する攻撃力を持つものです。加工された民生品は他国に比べお粗末なものですが(「電熱線」が色々な意味で強すぎて民生品としての活用にあんまり向いていません。ただぶっころすことには色々と向いているでしょう。クソのパワー)、こと軍事に限り「電熱線」は圧倒的です。ただし、人体への悪影響がありますが。クソ。
しかしながら、それをもってなお劣勢、というよりも限界を迎えているくせに耐久できてしまうことが祖国の根本的な問題です。政府のプロパガンダにより情報を制御されている一般の国民ならともかく、ある程度の情報を握っているならば国が保たないことなどわかりきったことです。
ゆえに祖国カゾルミアを思えばこそ、継戦ムードである祖国の現状に抗し、一刻も早く降伏すべく動く革命的勢力が存在します。
「救国のスネジンカ」において祖国カゾルミアの継戦ムードに火をつけている原因の一人は「溶鉄のマルフーシャ」の主人公である、マルフーシャです。
祖国カゾルミアの正規軍において、自らを省みず、無茶な技術を用いて殆ど自暴自棄にさえ見える非人間的な立体機動で巨大な機械兵すら一撃で葬り去るマルフーシャの戦い方はセンセーショナルです。愛国の士です。政府のプロパガンダにとても都合が良い。
けれど、マルフーシャには愛国の思いなど微塵もなく、むしろ抱いているのは憎悪です。マルフーシャが最高指導者直轄の「溶鉄」で戦っている理由の一つは妹であるスネジンカのためであり、彼女を軍役に就かせないようマルフーシャはありとあらゆる手を尽くしています。
マルフーシャが戦えないと言ってしまえば、次に象徴として担ぎ出されるのはスネジンカ。だからマルフーシャは戦争が終わるか自分が死ぬまで闘い続けるしかなく、そうなる限りカゾルミアの抗戦は長引き、血が流れ続けます。
スネジンカが生きている限りマルフーシャにもカゾルミアにも安楽はなく、戦争だけが続きます。
なので革命軍としては基本的にはスネジンカに死んでほしいわけです。マルフーシャが戦う大きな理由を折り、ひいてはカゾルミアの勝利の象徴を砕き、戦争の火の勢いを弱めるためです。
別のもっと素晴らしい道もあります。
「スネジンカが死んでマルフーシャがダメージを負った」
これはプロパガンダとして弱いです。むしろ、下手を打つと革命軍は国賊であるとのプロパガンダを張られかねません。
なので、たとえばもっと良い使い方をするならば。
英雄マルフーシャは政府のプロパガンダが生み出した虚像であり、実際は略奪や拷問、命乞いのために他者の命を使うことさえ厭わない愚兵であり、親友をその利己のため奪われた「偽りの英雄」の妹であるスネジンカは革命軍に入り、姉と対立し熱き闘争を開始した! などとすると筋書きが良いわけです。
あるいはいっそ、スネジンカにマルフーシャを殺害させればもっと感動的です。
もっとも、姉をとても、とても、心から愛するスネジンカがそんなことをするとは到底思えませんが。何か理由があったはずです。
いずれにせよ、政府にせよ革命軍にせよ。
そしてこの革命軍のバックについているのは敵国です。敵国の技術と祖国の技術を革命軍が用い、資金が豊富なのは敵国が支援者だからです。
これだけなら、少数を犠牲にして小さな傷で事を収める。全ては戦争を終わらせるための副次的犠牲だったと言うこともできます。
しかしながら、敵国にそんな生易しいな意図はありません。
スネジンカが仲間を守るために、革命軍を相手に単身で徹底抗戦をするエンディングが存在します。
このエンディングでは、上掲の庇われたリシチカが逃げ切ってしまうと、先にクラサフカが交渉のカードとして用いたとおり「革命のお題目で英雄の妹を殺した国賊」として革命軍は政府側のプロパガンダでこき下ろされてしまいます。
自らが支援する革命軍に都合の悪い展開となった敵国は、この報道を知っておかしな評価を下します。
革命軍にとって、スネジンカ暗殺を政府のプロパガンダに用いられることは非常に都合が悪いのですが、革命軍を支援する敵国にとってはそうではありません。理由は単純です。
要は「早く終戦したい」という革命軍は敵国に踊らされており、敵国はいたずらに早く終戦するつもりなど毛頭なく、カゾルミア国内での対立を煽り続けて消耗させ、疲弊しきったところを突いて完全に叩き潰したいのです。敵国は「自国民には」優しい国です。革命軍の祖国を思っての早期終戦など知ったことではありません。自国にとって都合の良い終戦こそが目的です。
「敵国は祖国の兵を捕虜とした場合機械兵の部品にする」というのが上層部の常識でしたが、敵国はその常識にも縛られません。「戦力が高いと判断された捕虜は」敢えて開放して内乱をさらに混乱させるようなことをします。たとえば下の少女、先に「敵国は祖国の兵を捕虜とした場合機械兵の部品にする」と述べていた少女は、政府側という立場に縛られたマルフーシャのために、あくまで「マルフーシャ側」として戻ってきます。これは革命軍的には都合がとても悪いですが、敵国としてはもっともっと混乱してしまえというわけです。なお、このゲームには通常兵と上級兵が存在し、このシーンで開放されている捕虜は全員上級兵なのですが、通常兵が「戦力が高いと判断された捕虜」かどうかは定かではありません。マルフーシャはこの場にいない通常兵3人のことを口にしますが、その3人のことは物凄い勢いで遮られて別の話題に移られてしまいます。
まとめると。
祖国・政府:クソ
祖国・反政府(革命):クソ
PMC:クソ
敵国:クソ
これが「Sentinel Girls」の世界です。あまり深く述べてはいませんが、この世界の祖国のPMCは祖国の都合で乱立しているものです。目的は様々あるのですが、一番たいへんごもっともな理由としてはPMCの死者は「労災」扱いであり「戦死者」とは数えられません。そして、スネジンカが入社するPMCであるブルーピーコックは親会社に革命側、ひいては敵国の息がかかっています。仲間が全員政府のことを嫌っているのは、そういったメンバーばかりを集めるための会社だからです。ブルーピーコックという名前がもう挑発的ですからね。そしてもちろん革命や敵国の息がかかっていることを除いてもブルーピーコックはクソブラック零細です。ありがたいことに宿舎に戻る度にポスターでモチベーションアップまでしてくれます。賞与は削るのにね。
要はどこに所属しようがどうしようもありません。
畢竟。
立場
ここまでの世界は前提です。これだけなら別のゲームを挙げても構いません。あえて「Sentinel Girls」を挙げた理由はこの「立場」にあります。
この世界はクソです。そしてそんな世界で少女たちは消費されます。このゲームはそのことについて、非常に自覚的なひとつの姿勢を見せています。
マルフーシャもスネジンカも個人としては圧倒的な戦力を、それこそ象徴となるような力を持っています。しかし、マルフーシャは結局の所祖国の最高指導者に首輪をかけられており、スネジンカは零細PMCの新入りに過ぎません。どれだけ足掻こうが、イレギュラーになろうが、そんなものは立場のある者にとってはセンセーショナルなプロパガンダの道具にしかなりません。どれだけ実力や能力のある個人であったとしても、その力だけで世界を変えることなどできない。立場を得なければどう足掻いたところで「理不尽を押しつける側」からひたすら理不尽をぶつけられてマルチバッドエンドになるだけです。「その立場」で最善を尽くそうと努力し続けたところで先などないのです。全てがクソなのですから、最善を尽くすような駒は盤面を見ている者が良いように使って終わるに決まっています。しょせんは駒であることが悪いのです。
だからこそ、立場なのだというのがこのゲームのひとつのエンディングの示し方です。
しかしながら、これは尋常のことではありません。
たとえば祖国という枠の中で立場を上げたキャラクターは二人います。
そのうちの一人であるダチカ先輩は、これ以上パーフェクトな先輩はいないだろうという先輩ガチャUR級の人材であり、本人も血の滲むような努力を行い続けて、やっと6等級国民から5等級国民へひとつ上げています。
「祖国継戦の象徴」である最高指導者直轄の「溶鉄のマルフーシャ」ですら5等級から3等級へ、たったの2階級です。そして、「マルフーシャは2階級上げた」ということすらおそらく祖国のプロパガンダです。たったの2階級ではないですからね。とんでもない偉業です。マルフーシャのようにがんばれば階級を2つも上げることができるのだと。そうしてマルフーシャを祭り上げながら、これであるわけです。
祖国を憂う革命軍とて同じことです。
「このまま継戦しても無意味に多数の死者が出るだけ」
それを拒絶して一つの組織を立ち上げた革命軍の後ろ盾は敵国であり、革命軍は結局の所内乱で祖国を疲弊させるための敵国の駒に過ぎません。
ですが、何度も何度も何度も一日を終えるたびに基本給は叩き付けられます。
何かをしたいなら金が要るのです。
どれだけ立派な旗を掲げたくても、金を出してくれるスポンサーがいなければ何もできません。金がなくては革命はできないのです。
世界はクソです。立ち上がりたいときに、じゃあ誰が金を出すのかという話になります。
「Sentinel Girls」には多少はマシと呼べるような抗うための持続可能な組織がないのです。敵国と調停して早期終戦を目指した革命軍は敵国の傀儡です。組織を立ち上げ、持続させるということは簡単ではなく、立ち上げるためにそもそも立場やコネや金が要り、適切な手法を学ぶためにもそもそもの立場やコネや金が要ります。
抗うだけなら抗えます。その結果がマルチバッドエンドです。
彼女たちは皆、たとえ無意味であっても抵抗します。そしてその結果死にます。無意味には死にません。きちんと本人の意に反したプロパガンダに有意味に使われます。
駒のままでは抗えない。
対局者になる道がない。
それがこのゲームで少女達が置かれている立場です。
関係性について
ここまでも前提です。ここからが重要です。このどうしようもない世界で、立場をどうしようもない中で、それでも少女たちは懸命に生きているのであり、決して腐ってはいません。
軍から帰ってこない姉のマルフーシャを心配して妹のスネジンカはPMCに飛び込みました。飛び込みで試用されているスネジンカには右も左もわかりません。
新人であり、持ち金もないスネジンカには差し出せるものが何もありません。ただ訊くことしかできません。クソブラック零細PMCであるブルーピーコックが一々そのような新人に時間を割くことはありえません。
ですが、
ダチカ先輩は違います。
わざわざ黒板まで持ってきて丁寧に講釈を垂れます。新入りのスネジンカが困りそうなことを徹底的に教え込んでくれます。それだけではありません。
全く、一切、説明されませんが、始めて宿舎に入った日だけ、背景を見ると盛大に飾り付けが行われており、精一杯にスネジンカへの歓迎が伝えられています。
しかも、宿舎で使用できる設備ひとつひとつに「誰かが書いてくれたメモ」でチュートリアルがなされています。背景を見る限り、その誰かはとてもメモに付す絵が独特なようです。
ダチカ先輩については幾らでも化け物先輩エピソードがあるのですが、特に人が良すぎるのがスネジンカが資金難で仲間を雇えていない場合です。
これはこのゲームの根本的な問題です。
支給が26あっても諸々控除で手取り1です。お金は基本足りません。前の項で組織どうこうと述べましたが、そもそもまともに生きていけないのがこの世界です。そんな世界において、
ダチカ先輩は「仲間を雇う金がないなら飯食わせてやるからそれで食費を浮かせろ」と言える人です。それで浮く金額がこれです。
そもそもの支給額や最終的な手取りを給与明細で見た上だと、「10」という金額がどれほど重いかわかるはずです。
そうする理由はダチカ先輩にとって一言だけです。
革命派にスネジンカの命が狙われているときも、ダチカ先輩の姿勢は全くブレません。
だからこそ、彼らは親会社を含む「社」の意向を滲ませます。ダチカ先輩とスネジンカの関係は会社の先輩と後輩だからです。
ダチカ先輩が文字通りにものを言っているのであれば、有効な切り返しだったかもしれませんが、そもそもダチカ先輩はスネジンカに先輩風を吹かせているだけであり、根本にある「スネジンカを守る」姿勢は揺らぎません。重箱の隅をグチグチ突かれても、彼女は微塵も揺らぎません。
スネジンカと過ごしたブルーピーコックはクソ会社なりにダチカ先輩にとって思い出の詰まった場所でしょうが、それはスネジンカ含む皆との関係性あってこそのものです。ブルーピーコックありきではありません。スネジンカありきです。
あまりにもひどい世界で、ダチカ先輩はあまりにも光の先輩であり、スネジンカもまたダチカ先輩のために頭をフル回転させている後輩です。
意味のわからん怪物を描かれても、先輩が自信満々で当然わかるだろうという顔をしていたら、段々悲しそうになってきたら、全力で答えに辿り着こうとする子です。
また、ダチカ先輩がスネジンカに限らず世話を焼こうとするように、スネジンカもダチカ先輩に限らずなんとか相手に寄り添おうとします。「嫌い」とばかり言う子を諦めず傍に寄り添い続けます。異常な程に。
そもそもマルフーシャという英雄に守られて軍役に就かなくてよいスネジンカが、そのマルフーシャを探すためにPMCに飛び込んできたのですから、この子は行動力の塊のような子です。
だからこそ最終的にマルチバッドエンドなのだとしても、そこにはパートナーとのあまりにも強固な絆が形成されています。
そして、性格の差こそあれ、それはマルフーシャにとっても同じことです。彼女は東部での防衛戦において仲間と共に戦い抜き、最終的に最高指導者に見出されました。ただし、見出されたのはマルフーシャただ一人。彼女の仲間達は全員一言で例外なく判断されます。
「スネジンカがそうしたように、マルフーシャが築いてきた仲間との絆」は「撤退のための時間稼ぎ」として消耗されます。
マルフーシャの戦ってきた大きな理由の一つは確かに妹ですが、その妹であるスネジンカを拒絶してまで闘い続ける理由は別にあります。
最高指導者を長とする祖国の考えを打ち砕くために溶鉄のマルフーシャは戦っています。「いらん」と言った仲間がいたからこそ今のマルフーシャは生き残っています。祖国においてマルフーシャが抜けても問題がないならマルフーシャは「替えが効く」人間であり、遡って仲間も「替えが効く」人間になってしまいます。だからこそ、マルフーシャは「溶鉄のマルフーシャ」として代替不可能であり、祖国に必要不可欠であり、戦争に勝利しなければなりません。
「溶鉄のマルフーシャがいなければ戦争に勝つことはできなかった」
「溶鉄のマルフーシャが東部で生存できたのは仲間がいたからだ」
「よって仲間がいなければ戦争に勝つことはできなかった」
マルフーシャはこれを証明する必要があります。絶対に戦争に勝たねばならず、そして「溶鉄のマルフーシャ」は不可欠な存在として異常な戦果を上げ続けなければなりません。「溶鉄のマルフーシャ」がいなければ勝てなかったと判断されるほどに。
祖国のせいで右目は殆ど見えなくなり、左手も損耗し、過剰な電熱線の力で自らを蝕み続け、スネジンカが倒してきた巨大ボスを召喚しても一撃で消し飛ばし、けれど戦闘中に何度も息切れをしてバリケードを張って息を整え、それでも戦うマルフーシャにとって、「反政府軍に入る」というスネジンカの提案は地雷そのものです。それは仲間と過ごしてきたその全ての日々を、100日間を、「いらん」と判断した最高指導者たちへの反逆を、反証を、否定するものだからです。
「溶鉄のマルフーシャ」という象徴は仲間の価値を「いらん」もの「ではない」と叫び続けるために、掲げ続けなければならないものです。
未来、ダチカ先輩がスネジンカにそうしてくれたように、過去、ライカ監査官がマルフーシャにそうしてくれたことは、断じて「いらん」「替えが効く」ものではないのですから。
責任
マルフーシャにはそれしか道がありません。今北部で戦うマルフーシャは、かつて東部で死んだ仲間の死の価値を背負っています。重要なことは、東部、あの場所、あの宿舎です。ノーマルルートだとスネジンカも追い込まれることになるあの場所です。マルフーシャは「ただ仲間が死んだこと」を背負っているのではなく、「仲間があの東部の戦いで、あの宿舎の防衛戦で死んだこと」を背負っています。あの防衛戦が有意義であるためには、戦争に勝つ必要があります。なぜなら、革命軍に入るとは「あの防衛戦を経て溶鉄のマルフーシャが生まれ、ひいては悪い意味で戦争が長引く要因の一つとなった」と認めることだからです。「いらん」と言った最高指導者どころではなく、それは仲間が自分を作ったことの意味を戦争をいたずらに長引かせたとして「マイナス」にします。仲間によって生きながらえたマルフーシャが終戦を遅らせる要因の一つとなっている以上、終戦が遅れている現状を悪だと言って革命軍に入るわけにはいかないのです。長引かせたのは、今のマルフーシャを作った仲間たちなのですから。
マルフーシャを見る人たちには、マルフーシャの戦い方は自暴自棄にしか見えません。死ぬか戦争が終わるまで暴れ続けると。ですが、マルフーシャの主観では見ているものはもっと狭いです。
マルフーシャ自身が犠牲になることは構いません。けれど、「戦争に勝つまで」彼女は絶対に戦い続けると宣言しています。死ぬまででも、終わるまででもなく、勝つまでです。マルフーシャが自暴自棄の結果単に何の意味もなく死ねば、仲間とはその程度のものだったことになります。戦争に負けたなら、終戦を遅らせた戦犯マルフーシャを作った要員どもに仲間が陥ります。勝つことだけが、「いらん」といわれた仲間の価値を「いる」と反証する方法です。力及ばず敗北することすら、マルフーシャには許されていません。替えの効かない「溶鉄のマルフーシャ」として戦争に勝利する。仲間に対し責任を果たせる方法は唯一それだけです。
他の道はありません。マルフーシャにはスネジンカがいます。スネジンカを守るためには立場が要ります。象徴「溶鉄のマルフーシャ」である限り、スネジンカは戦わずに済みます。そもそもマルフーシャには溶鉄部隊で戦う以外に道はありません。そして、その道を歩みながら仲間に責任を果たすなら徹底的にやり抜く他ありません。
スネジンカにはマルフーシャを説得する言葉はひとつもありません。
スネジンカにもその気持ちはわかる、あるいはスネジンカの方がもっとひどいことになるからです。スネジンカは祖国と敵国に仲間と家族を損なわれたとき、最悪の場合「勝利」すら目的にしません。
「仲間の価値の証明」途中のマルフーシャに、「大切な人を奪われる苦しみ」をまき散らせるスネジンカがそれ以上言葉を持てないのは当然のことで、最後の手段に打って出るのも、とてもスネジンカらしいです。
だからこそ、今このときのマルフーシャを助けられるのはスネジンカではなく。
あの100日を戦った仲間たちをおいてほかにありません。
たぶん、あの100日を戦った仲間でなければマルフーシャを客観的に評価できるでしょう。けれど、東部の宿舎を共にした仲間達は違います。
ストレルカはマルフーシャの行いを「頑張り」と言います。自罰でも破滅でもなく、出てくる言葉は「頑張り」です。マルフーシャは頑張った。何故頑張ったのかさえ真っ直ぐすぎるくらい素直に受け止めています。
「いらん」「無能」と呼ばれたみんなのための名誉の戦いだったと述べてくれます。
マルフーシャ自身が自分だけ生き残ってしまったことを罪だと思っています。みんなのおかげで生き残ったのに、最高指導者に選ばれたのは自分ただ一人で、皆は自分たちの撤退のための捨て駒になってしまって、視界がぼやけるほどに。
けれど仲間はみんなわかっているから、謝る必要はありません。
責に問う人がいないのですから、一人で背負い続けなくてもいいのです。ビオン、エノス、ベルカ。たとえその三人がやはり助からなかったのだとしても、少なくともそれを背負うのはこれからは一人ではありません。
みんなの名誉のために戦ったマルフーシャを責める人は一人もいません。実際に誰も責める気がありません。
さらに、事実として少なくともここにいる皆はマルフーシャが頑張ったおかげで助かっていると述べています。「溶鉄のマルフーシャ」があまりにも粘るので、敵国は反政府勢力を利用した。さらに混乱を煽るため捕虜を「人権尊重」の名目で解き放ち、政府軍には実際に「上級」を冠する精鋭、ストレルカ、アリビナ、フェリセット、そしてライカが合流しています。
当然ながら、祖国は大混乱です。内戦拡大で滅茶苦茶です。
しかも革命側の象徴は妹のスネジンカです。
さらに、革命側が大々的に報じた「救国のスネジンカが溶鉄のマルフーシャを撃った」という一報はマルフーシャの目覚めのおかげで政府側のカウンタープロパガンダに必ず用いられるでしょう。絶対そうします。そうしない理由がありません。
溶鉄のマルフーシャ対救国のスネジンカ
それが政府と反政府の打ち出すシンボルです。そしてそこで起きる大混乱を敵国が手を叩いて喜んでいるわけです。
夢かなこれ? と思うほどのエピローグの状況は、俯瞰するならこれまでの比ではない最悪の地獄です。マルフーシャが起き上がったせいで状況の泥沼度は加速します。
ただ違うのは「ポジティブバカ」の一言だけ。
当然のこと。マルフーシャがたった一人でも死んだみんなにそうしたように、あの100日を戦ったみんながマルフーシャの側に立たないわけがありません。
ただ、マルフーシャはその辛さをよく知っています。
結果的に敵国の策略で生き残ったとはいえ、最高指導者までおよぶ政府の判断として皆は国に一度見殺しにされています。撤退のための捨て駒にされたのが、今病室にいる四人です。拾われたのはマルフーシャだけ。他は皆政府に「いらん」と言われたのです。その政府のために「また」命を捧げないといけないのです。きっと、わかってくれないのに。
けれど、たとえばフェリセットという少女のことを私たちはよく知っています。
かつて彼女ができなかったこと。力及ばず慕う人を救えなかったこと。
変わらずに、彼女「達」がそうすると断言してくれます。マルフーシャは死んでしまったみんなの名誉のために戦うしかありませんでした。みんなもう死んでいるから、せめてそれくらいしかできることがなかったのです。けれど、マルフーシャが生きているならみんながマルフーシャにできることがあるのであり、国や政府のために戦おうなどとは誰一人として考えていません。マルフーシャが立ち上がり、「あの溶鉄のマルフーシャ」が認める最高の仲間達が合流したのですから、革命軍の思うように事は進まず、敵国が望むように、戦争はさらにひどいことになるでしょう。けれど全員が、ただマルフーシャのためだけに戦おうとしているのですから、そこはそもそも焦点にありません。この四人にはじめから大義名分などありはしないのです。マルフーシャには「みんなの価値を証明する」という責任がありましたが、他の何にでもなくマルフーシャの側につくと決定した以上、四人は傷ついたマルフーシャを支えることしか考えていません。マルフーシャが睨み付け続けていた最高指導者など眼中にもないのです。
みんなのために頑張ったこと。
それはみんなの名誉のためだったこと。
一人だとつらかったこと。
全部みんなで支えて、「もう大丈夫」と断言してくれます。
マルフーシャが歩いてきた道を何一つ否定せず、ただ当たり前のように四人が寄り添う。本当にどうしようもない世界で、マルフーシャたちの立場は政府に繋がれていて、革命軍の象徴は妹で、全ては敵国の掌の上。
何もかもどうしていいのかわからないような最悪の状況です。
ただし一人ではない。
それだけでもう少しだけ頑張れる。
マルフーシャが負ってきた責任に対する四人の答えは、満身創痍の彼女にとって、なによりも必要なものだったでしょう。あるいは、それがあそこで死ぬより辛い未来に繋がるのだとしても、今この瞬間の価値を否定するものでは、それはないでしょう。マルフーシャがあの100日の価値を叫び続けたように、この病室にはそれだけの価値が、どんな未来が訪れるかにかかわらずあるはずです。
そしてもう一人。あくまでこのnoteの主がブルーアーカイブであるならば、救国のスネジンカにおいて絶対に避けることのできない人がディフェンダーキャノンお姉さんにこにこ爆弾魔お姉さん、アブレック先生です。
この偉大なる祖国カゾルミアにおいて、10等級国民は人扱いされません。つまり、9等級国民であるアブレック先生は実質国民の最底辺に位置する人間です。教育のレベルで下位を嘲って溜飲を下げる国民性を涵養しようとしている偉大なる祖国カゾルミアにおいて、9等級国民の先生というのは尋常ではありません。
彼女は利他的で、道徳的で、真面目です。社内評価も高いです。誰がどう見ても、素晴らしい人格者にしか見えません。
しかし、彼女は確かな職歴を持っています。
「296年:アリョンカ中等学校懲戒解雇」
理由は勤務先、つまり中学校での爆弾づくり。
にこにこ爆弾魔お姉さん、というわけです。
とんでもなく良い人そうなのに、シンプルにヤバいのです。
わりとすんなり人の言葉を受け取りがちなスネジンカちゃんは、なので初見で滅茶苦茶アブレック先生に好印象を持っています。
こういう心配なところがある後輩なので、ダチカ先輩がきちんとみてあげているのです。
アブレック先生もその経歴を全く隠そうとせず、「気をつけてね」と意味深に忠告します。
けれど、その直後に世話焼きのダチカ先輩を可愛がるような人です。
ダチカ先輩はそのあまりの有能さと人格者ぶりにほぼ全員に好かれている少女なのですが、そんなダチカ先輩を「褒めてくれる」のはアブレック先生です。
ダチカ先輩がどれだけのことを皆にしてくれているかを知れば知るほど、ダチカ先輩を褒め、撫でてくれるアブレック先生の姿を嬉しく思います。
スネジンカちゃんが社食の尋常ではない不味さに苦闘しているときは、好き嫌いは駄目と言いつつも、いくらなんでも不味すぎることを認めつつ、好きじゃないからとチョコレートをくれます。
プロフィールに記載されているとおり、アブレック先生の好物はチョコレートです。
アブレック先生が食事をする姿も、姿勢正しく、死ぬほどまずい「ゲル状のあれ」も残そうとしていたものの、スネジンカちゃんが見ていると気づくや水で流し込んで無理矢理食べて「大人は好き嫌いをしない」と意地を張ります。強引に完食する姿にスネジンカちゃんが大人ってすごい、お見事でしたと評するほどの勇姿でした。
付き合えば付き合うほどアブレック先生は「良い人」です。「にこにこお姉さん」ではありますがどう考えても「にこにこ爆弾魔お姉さん」ではないのです。
アブレック先生は爆弾魔であることは否定しないので、スネジンカちゃんは「理由もなくそんなことをする人ではない」と判断して「何故」と訊ねます。アブレック先生の答えは「なんとなく?」です。
スネジンカちゃんは絶対になんとなくでそんなことする人には思えないとかなり強い疑いを抱いています。言い換えれば、それだけアブレック先生のことを良い人だと信じています。
けれど、事実としてアブレック先生が爆弾魔であることは周知です。9等級国民が教師になったというだけでもセンセーショナルなのに、爆弾を作って半年で懲戒解雇ともなれば、下を叩く国民性の国ではたいへん都合の良い大ニュースです。つまり、誰もが知っているとは言わずとも、滅茶苦茶有名な爆弾魔がアブレック先生です。教師として認めてやったのに半年で爆弾作った最悪の大人、実に9等級、というような人です。
けれど、やはりどう考えてもおかしいのです。最後の日。アブレック先生は会ったこともないマルフーシャのことを少し分かってしまいます。
マルフーシャはこの地区で敵を圧倒して一人で守り続けた。
それがテレビが言う溶鉄のマルフーシャの前日譚です。けれど、真実は違います。マルフーシャがその名誉のために戦い続けたものが抜け落ちています。
プロパガンダ越しにしか見ることのなかっただろう溶鉄のマルフーシャから、この東部の宿舎を見てマルフーシャの真実に辿り着ける人です。
だからこそ、そんなマルフーシャを救えるのはもうスネジンカしかいないと、アブレック先生は送り出します。
送りだそうにも包囲されているので、まともな方法では送り出せません。けれど、彼女は堂々と正面から皆の前に現れます。
スネジンカは気絶させたから逃げ出す心配はない、引き渡すのでどうぞというわけです。
革命派には大義があります。腐敗した国の打倒です。生徒を狙って学校を爆破しようとしたクズのような存在は、彼らがひどく嫌うものです。何の大義もなく、なんとなく子供を傷つけるような最悪の大人。祖国カゾルミアに存在して欲しくない悪です。彼女の利己的な振る舞いは、なので実に腑に落ちるものです。なにも犯罪者アブレックの言うことを聞く必要はありません。スネジンカの身柄を理由に命乞いをするなら、案内だけしてもらって処理すればよいからです。アブレック先生は包囲されています。アサルトライフルで突然暴れだそうとしても簡単に処理できます。そもそもそれを撃てる体力はもうありません。ハンドガンですら厳しいです。奇襲しようにも、奇襲するメリットがアブレック先生にはないのです。せっかく自分だけ助かろうとしているのに、暴れるならただの自殺です。なので、彼らはアブレック先生の案内に任せようとします。
ですが。スネジンカが信じたとおり、アブレック先生は絶対に生徒を、教え子を、後輩を見捨てるような大人ではありません。断固として守ってくれる人です。それ以外の姿を、アブレック先生はスネジンカに示したことはありません。そして、彼女はスネジンカが信じたとおりの人です。
アブレック先生は「にこにこ爆弾魔お姉さん」としての最期を遂げ、スネジンカは奇跡的に北部に辿り着くことができます。東部から北部へスネジンカが辿り着けるのはこのルートだけです。その結果は最悪、アブレック先生の犠牲により辿り着いた北部で既に姉は「戦死」、正規軍からは新たな「象徴」として笑顔で出迎えられ、スネジンカはそれを受け入れます。マルフーシャのように勝利するためではなく。彼女が望むものは勝利でも敗北でも終戦でもなく、継戦です。理由はただ一つ。
スネジンカが最も暗黒方面に落ちるのがこのルートです。トゥルーでは姉を射殺したショックで起き上がれなくなり、目が覚めている間もずっと後悔を口にする有様と化しますが、この末路では持ち前の行動力を存分に発揮して、ただただ戦争を継続しようとします。
つまりアブレック先生は最悪の道へ教え子を至らせてしまったのですが、それは結果論です。たとえば本当はマルフーシャの仲間が生きていることなどアブレック先生は知りようがありません。少なくとも、アブレック先生の妹であるビオンは上級兵ではない、つまりエピローグでマルフーシャを病床で包み込んだ四人の中にはいないので、プレイヤーの視点ですらビオンは生死不明、かなり死んでいる可能性が高いよりの生死不明です。
持ちうる秘密について最下層であろう9等級のアブレック先生が知りうることなどほんの僅かです。懲戒解雇された学校の先生でしか、彼女はないのです。何の特別な力もないのです。ビオン同様、アブレック先生は上級兵ではありません。アサルトライフルを持った零細ブラックPMCの一社員でしかありません。
けれど、大人であるならば、先生であるならば、何をしなければならないかを彼女は知っていて、それを実行できる人です。良い子は褒めて撫で、きちんとした姿勢を保ち、好き嫌いをせず、施しを与え、子供、教え子、後輩を守り、大人として責を果たします。
どんな方法を使ってでも、どんな代償を支払ってでも守る。
たとえそれが結果として実を結ばなかったとしても、そんなことは関係なく、教師であるならばそうしなければならない。アブレック先生はただそれを貫いた人です。
当然、彼女は報道されるような爆弾づくりなど行っていません。未来への可能性が完全に閉ざされてしまうおそれのあった一人の教え子を守っただけです。学校で爆弾づくりなどしてしまえば、どんなに真面目に生きてきたのだとしても、行き着く先は零細PMCで使い潰されて戦死するくらいしかないのですから。子供が未来への希望を失うことはあってはならず、アブレック先生は9等級の教師に過ぎない自分にできる全てでその子に未来の可能性を残しました。将来スネジンカにそうするように。
これが基調です。
けれど、と何かを強調することは難しいでしょう。
あまりにもたくさんのものや価値が絡み合っています。
露悪的に見ようにも、それでも輝いてしまうものがあります。
希望さえ、プロパガンダに使われます。
ただただこれは、そういうものです。
りりぃあんじぇ
偉大なる祖国で疲労したなどという非国民はいないと思いますが(そういった者は10等級とし更生施設に入れますので、国民として扱いません。よってそのような非国民はいないはずです。そもそもカゾルミアは正確な報道を心がけているため、適切な知能で適切に判断したならばカゾルミアが滞在して疲労するような国ではないと当然に理解されたはずです。むしろ、カゾルミアがなぜ世界から愛されるのか理解されたことでしょう)、お疲れ様でした、ぷにを差し上げます。
基調をしっかり敷いたので、これから乗せていくものはよりコンパクトに、けれど基調と照らして価値あるもののはずです。
宇宙
りりぃあんじぇの舞台は宇宙規模です。宇宙船で星々を旅します。りりぃあんじぇの世界と、特別な存在である小さいけれど力ある者たち、リリアンを主人公である「機械士」は昔話として語ります。
この物語は「プラネタリウム」を用いて語られています。何か特別な意味を持つ言葉ではありません。文字通り、プラネタリウムです。それも、ごくごく原始的な。
主人公である機械士は機械士と呼ばれるだけあって、機械弄りを愛しています。村の子供達を招いて、部屋を暗くして、プラネタリウムで星の輝きを擬似的に見せながら昔話をして、プラネタリウムの仕組みを楽しそうに語ります。子供達は仕組みの方にはあまり興味がありませんが、楽しそうにわかんねーと言って駆け去っていきます。わかんねーけど機械士の兄ちゃんがやるプラネタリウムは楽しいのです。
彼が住んでいるのはド田舎の長閑な村で、大がかりなことはできず、少し燻っているところはあるのですが、それでもみんな良い人です。仕組みはよくわかりませんが、プラネタリウムは美しいです。機械士がやっていることはいいものだ! と村の人に愛されています。年下の子供にも、年配のおばちゃんにも。
そんな機械士には幼馴染みの少女がいます。自称、道具屋の看板娘。コハルという名前で、えっちなのは死刑にはせず、村の人たちはこの幼馴染みに「さっさとくっつけよ~」と後方村人面をして見守っています。
幼い頃からずっといっしょで、機械士とコハルは子供の頃は「一緒に冒険者になろう」と言っていました。けれど、結局の所機械士は村で機械を弄っているのであり、コハルは道具屋の看板娘です。
二人して夢破れた、のではなく。
コハルの方は世界における特別な存在である「リリアン」になり、野獣に襲われた程度では何の問題もなく処理できるようになりました。
けれど、機械士はただの人です。「リリアン」は女性だけしか、などという縛りも厳密にはなく、ただただ機械士はただの人です。ただ機械弄りが好きなだけのただの人です。
つまり、子供の頃の二人の夢は機械士がコハルに追いつけないまま、冒険者としても成り立たせることができず、やぶれました。
それは機械士の心に傷として残っていて、村の人々もコハルは道具屋の看板娘に収まる器ではないと思っています。
けれど、それはそれとして「まあもったいないけどいいかあ」という穏やかで優しい諦めがあります。コハルがそこに収まっていることを許してくれます。むしろさっさと機械士とくっつけ~と不相応を応援してくれさえしています。二人でプラネタリウム屋をやるにせよ、今の道具屋の看板娘にせよ、コハルには不相応だけれど、「それより」二人の色恋の方が村の人は気になるのです。
おばちゃんから道具屋に「探していたもの」が入荷したと聞いて、道具屋に駆け込んだ機械士とコハルの会話はあまりにも気心の知れたものです。
興奮して道具屋に駆け込んでくる機械士に落ち着けとつっこみをいれつつ、「あれ」「あのパーツ」で「コレ?」と通じてしまう熟年の空気が二人にはあります。これは常にあります。常時発動しています。なんといってもずっと一緒に育ってきた幼馴染みなので、極めて強力な幼馴染み空間を常時発動しています。この村の人は皆顔なじみなわけですが、この二人は特に仲が良いのです。子供の頃二人で冒険者になろうと息巻いていたくらいには。
機械士の熱弁はやはりコハルにはよくわからないのですが、それはそれとしてプラネタリウムの時の子供と違って落ち着けたり促したりしながら「しょうがないなーこいつは」という空気で興奮した機械士を眺めているのです。
そして、そんな二人の間には薄らとした未練も走っています。
機械士である彼には縁遠いもの。
剣。
冒険者になろうと志していたとき、きっと彼が想像していたものでしょう。コハルは自然に差し出してしまいますが、機械士はそれを見て少し沈黙していまいます。二人の仲ですから、きっとコハルもその沈黙の痛みを理解していることでしょう。
あくまでも商品の評価。軽量化が意識されているという剣は、機械士にとっては重すぎるものでした。決して物体として重すぎるのではなく、それを剣として適切に運用するには自分にとって重すぎるのです。ふらつくほどではないけれど、これを握って冒険はできない。それを「はは、」と笑って受け止めるのが彼です。ある程度の強がりと、痛みと、コハルへの気遣いがあるでしょう。
リリアンであるコハルにとって、それは片手で軽々と持ち上げて棚に戻せるものです。凡人とはあらゆる能力が隔絶しています。二人がかつて夢見ていたもの、「冒険者」という夢において、コハルと機械士では全く釣り合いがとれないのです。機械士は役割を果たせませんし、コハルには容易すぎます。
コハルの前ではなんとか強がれるものの、機械士にとってそれは辛い記憶です。駆け出しながら一言一言を思い出してしまうほど。
昔は機械士がコハルを引っ張り回す側で、冒険者の夢も機械士が「コンビの」冒険者として語り、コハルが置いていかないでよと頼み、「最初の冒険はぜってーいっしょだ!」と約束しています。
その約束は果たされていません。
コハルは冒険者にぐっと近づき、そして追い越していきます。機械士は、ただの人間です。どれだけ努力してもたかが知れています。そして冒険者として要請されるだろう膂力について、彼は強烈な才覚はありませんでした。
モタモタしていたら置いていく。そうは言いつつもコハルが機械士を置いていくことはなく、「最初の冒険は二人で」という約束は果たされないまま、幼馴染みとして二人は育っていき、今では機械士と道具屋の看板娘です。
それは未練なのですし、村の人たちももったいないとは思っているのですが、まあそれはそれとして機械士とコハルがくっつくんだろうなあという空気が村にはあります。実際、時間の問題だったでしょう。
けれど、コハルが「剣」としてどうでもよさそうに未練を滲ませているなか、機械士は諦めているわけではありませんでした。
銃。そして弾。
膂力に依存しない攻撃。プラネタリウムで子供達を楽しませながら、それでも彼は試作を続け、成長し続ける彼女に技術力で追いすがろうとしています。訓練しても差が開くだけ、それなら頭と手を使う。そうやって彼は努力を重ねてきた人です。
そんな平和な中にうっすら傷があり、努力があり、まあなんだかんだ良い感じになあなあになってくっつくんだろうな。
そんな空気の世界を変えたのが一体の「魔獣」です。
魔獣自体は存在を認知されており、ただの野生動物よりずっと危険な生き物として警戒されています。
もちろん凡人の機械士が相手取れる生き物ではありません。本来であれば、逃げる人々と体の向きを同じくすべきです。
けれど機械士は逃げる人々に背を向けて魔獣に対峙します。
閃光弾。
彼の技術は確かに魔獣に通用しました。
加えて、彼は緊急時の冷静な状況判断能力に非常に優れています。
自分のリソースを確認し、相手の行動を読み、先手先手を打って強大な相手に戦術で挑みます。
先程閃光弾を受けたならば、嫌がって投擲物を弾くか回避するはず。どちらでもよいと小型爆弾を投げて、最も良い成果、弾こうとした前足で爆発させます。
その小型爆弾すら囮で、二度目、つまり先程確認した残数1の閃光弾を投擲し、しっかりと狙いを定める余裕を持ってから、
試作18号、彼の最大火力もしっかりと顔に命中し、全てが彼の読み通りに運びます。そして、最期に。
ただの一撃であっさりと事は終わります。状況は機械士が作ってリードしました。ただ、期待通りの結果は出ませんでした。理由はごくごくシンプルです。
作った道具が全部、弱かった。
試作してきた全てが通用しない、悪あがきさえさせてもらえない。
冒険者になれなかった機械士、このゲームの主人公の最も根本的な点です。十分以上に頭は回る。十分以上に努力している。けれど、彼が望む成果を出せるほどのものではない。いつだって置いて行かれて、届かない。彼の夢にとって、彼にとっては悪い意味で、彼は普通すぎるのです。普通以上の頭と努力をもってして、あと一歩どころか、全く手が届かないのです。
そんな彼を救ってくれたのが「謎の少女」。
体を重ね(R-18の作品なのでそういう意味です)、「国宝」を与えることで、謎の少女は機械士の命を救ってくれます。
謎の少女は機械士を旦那様と呼び、助けられたことを心から喜びます。もちろん、機械士には何が何だかわけがわかりません。魔獣と体面して力及ばず死に瀕して、知らない少女と交わって何故か傷が癒えていて、旦那様と呼ばれても、まるで理解が追いつかないのです。
魔獣相手でも対応できるリリアンであるコハルも大慌てで駆けつけてきましたが、幼馴染みが知らん女と明らかに事後なので、当然ブチ切れます。二人は交際こそしていないものの、状況的にもう「くっつくほかない」ものでした。夢はともかく、機械士と「そうなること」はコハルとしては望むところで、少なくとも「くっつくこと」は時間の問題で確定路線だったわけです。何しろ小村なので、ライバルがいません。むしろ村の皆は自分の味方です。つまり、外堀を埋めるまでもなく本丸に自分と相手がいるような状態なので勝負もなにもあったものではないのです。くっつくかくっつかないかではなく、どうくっつくかだけの話でした。
知らん女が嫁面をして機械士と明らかに事後なのです。
小村です。村の人は味方です。浮気しようものなら秒でバレます。しかし完全に知らん女なのです。
問い詰めても答えの意味が全てわかりません。コハルはリリアンとはいえ、ファンタジー小村の道具屋の看板娘です。遠く離れた星の王女と言われても意味がわかりません。星が意味するものをファンタジー小村の村娘のレベルで理解しているので、何が何やらわかりません。
旦那様の許婚と機械士を指して言われても、当然意味不明です。コハルは機械士の幼馴染みです。そんなものがいるなら知らないわけがないのです。機械士の相手として独走どころかそもそも自分以外の機械士の相手がいない状態から、突然知らん女が旦那様の許婚と言われても困ります。怒るレベルを超えて意味がわかりません。コハルは機械士のことをよく知っているので、この少女――ルミナの発言の意味がまるでわからないのです。ちなみに2024年9月1日現在、プレイヤーにも意味不明です。
ルミナとしては、「常識的な」話をしたつもりだったので、彼女は極めて強いショックを受けています。
機械士は確実に身に覚えがないとしながら、ルミナからすれば面識があるようだと判断し、彼女に配慮した言葉を返しています。
機械士の感覚としては「知らない」のですが、彼は相手を思い遣れる人です。明らかにルミナが自分と会っている様子なのに、「知らない」はあんまりです。とはいえ、「覚えてない」としてもあんまりです。
機械士は心優しい青年なのですが、ルミナもまた心優しい少女です。ただ沈痛な表情を浮かべるだけで、彼を責めることはありません。人違いをしているわけではないと言いつつも、覚えていないなら、と彼を尊重して一歩引きます。
覚えていない相手が旦那様呼びしてくるのは気持ちがよくないだろうと、すぐさま切り替えてしまいます。約束があったはずなのに、許婚だったはずなのに、全てなかったことにしてしまいます。あっさりと。
ルミナもコハルも機械士もプレイヤーも、全員各々のレベルで状況についていけていないのですが、とにかく一番わかりやすく解決できるおかしなことである「星の王女様」は一発で解決されます。
轟音と共に世界を押し潰すやたらぷにっとした感じの宇宙船。そして飛び出してくるメイド。
このメイドはリリアン――可愛い子ならだいたい好きなのですが、特に自らが仕えるルミナのことは溺愛しており、星の王女様だということを抜きにしてもルミナを個人として強く愛しています。飲み物に媚薬を混ぜて事に及ぼうと計画する程度には。
ルミナという個人を溺愛しているため、あっさり辺境の星の小村の知らん野蛮人に国宝(次期女王の証です。つまりルミナはただの王女ではなく継承権を持っています。その証拠は機械士の心臓の代わりに体内で仕事をしています)を使ったとなれば立場から鑑みてルミナを取り巻く状況は決して安穏ではありません。
継承権を持つ王女ですら死罪が見えてくるレベルの過失が国宝の紛失です。ですが、実際に紛失したわけではありません。野蛮人の心臓がわりに動いている、場所はわかっているのですから事は簡単です。
胸を開いて(物理)国宝を取り出せば万事解決です。
とはいえ、コハルは勿論のこと、「自分の旦那様」として助けに来たルミナ自身がそれを許可するはずがありません。
国宝は名前をルナリングと呼び、月の光に一晩あてるだけで二人の住む星で数える数年の期間は治癒の効果を発し続けます。たいへんな国宝です。
しかしながら、ルナリングは機械士の心臓の位置に埋まっているので、月の光を浴びることができません。つまり、機械士の命はあと数年。
ただし、高度な医療技術を要するとはいえルミナの母星に辿り着くことができれば、「すぐ何とかなる」レベルの問題ではあります。
距離としては「片道1年」。つまり間に合います。
ルミナはそうしなければ完全な治療とは言えないと頭を下げるのですが、機械士にしてみれば緊急的に命を救われた上に、完全に救うと言ってくれているのですから、向こうが頭を下げる理由は全くなく、むしろ本来頼み込むべき立場にいるのは自分だと連れて行ってもらうよう頼み込みます。
ルミナにしてみれば「拉致して結婚」が本人の了承を得た上で可能な状況なのですが、彼女はナチュラルに「行き1年」と「治療」だけでなく「ここへの帰還」まで「絶対」と約束します。
「旦那様」呼びを止めた瞬間に、機械士にあくまで「自分は覚えているけれど、機械士にとっては初対面の少女」という態度を確立させて、それを少なくとも2024年9月1日現在までルミナは貫いています。一方的に機械士のことを好きで尽くしているだけで、報いを一切求めてきません。もちろん、「そうなれたらいいな」と仄かにアピールすることはあるのですが、その振る舞いは非常に仄かかつ無害であり、さらに「思い出してもらう」のではなく「初対面の相手と一歩一歩積み上げていく」ような振る舞いを絶対に崩しません。機械士にとって不気味なことを絶対にルミナはしないのです。彼女は全てを我慢します。
こうして話は宇宙規模。幼馴染みの命の恩人が、完全に命を救うと言っているのですから、喜ぶべきところなのですが、コハルが心中穏やかでいられるはずもありません。
もちろん幼馴染みの命の恩人に救命とは無関係の人間として無理なお願いをするわけですから、敬語で誠実に頼み込む彼女なのですが、同時に降って湧いた恋敵が突然幼馴染みを拉致しようとしている現場でもあるので必死でもあります。滅茶苦茶感情的に難しいのです。
そこで戦略的に恋敵を排除しないのがルミナです。ほぼそういう発想をしませんし、万が一してしまうとそれだけで自己嫌悪に陥るだけで実行に移そうとはしません。
機械士くんとしては自分の治療で1年コハルを付き合わせるのは非常に心苦しいです。けれど、「当然ついてくるもの」として扱われないこと自体がコハルにとっては苦しいです。
二人が大人になって現実の前に屈して露骨に振り回すことはなくなった、子供の頃の約束を持ち出してまでコハルは機械士についていきます。
ルミナに屈して、雫も全てを認めます。
こうして王家御用達のぷにぷにした宇宙船に乗り込む未開惑星の田舎者二人なのですが、「すごい」の叫びも溜めから放ちまで息ぴったりです。熟年幼馴染みなので。
特に機械士は大興奮です。なにせ、「完全に置いて行かれた」彼は技術の塊に乗ってこれからたくさんの技術を目にします。「単に好き」という気持ちと、「置いて行かれた者」として追いつくために、彼は熱意を燃やします。
この物語の舞台である「宇宙」を説明するために、ほぼプロローグの紹介となりましたが、まさに「これ」こそがりりぃあんじぇの重点です。
機械士は頭脳があるのに力が及ばず皆が遠いです。これは2024年9月1日現在での彼の根本です。彼は皆の前では好青年的に振る舞っていますが、常に劣等感に苛まれ続けています。それは外へ刃を向けたものではなく、「迷惑ばかりかけ続けている。それなのに自分は何も返せない」という自傷として常に自らを傷つけ続けています。けれど、そんなことを口にしてもみんな困ってしまうので、機械士は誰にも言いません。旅は行きがたったの1年。「技術を吸収する」と述べる機械士ですが、「1年程度で何ができるというのか」というあまりにも短い旅の時間という問題が彼にはあります。彼は確かに村では並ぶ者なしの機械士です。誰も彼もがよくわからない機構や素材に熱弁を振るえます。けれど、宇宙規模ではあまりに彼は無知です。地頭は確かに良いでしょう。けれど、知識の絶対量がまるで足りません。彼がたとえ天才だったとしても、行きの時間はたったの1年なのです。お飯事、辺境の星の魔獣にすら届かない銃。彼とはその程度の人間であり、学んでも学んでも、宇宙レベルの基礎の基礎すら追いつきません。そして、彼は機械士です。知識を持つだけでなく、技術に降ろしてこなければなりません。つまり、宇宙船のシステムを十全に使いこなせるだけではだめで、そのレベルのシステムがどう作られているのか理解し、そのレベルの技術で役に立つものを作らねば彼の「機械士」としての立場はありません。今彼が必死になって作っている全ては「原始的な玩具」です。この苦境、主人公という座に座っていて、それに十分な性格と頭脳を持っているのに、「冒険者」に到れない、ましてや「宇宙」など。この「能力と努力はあるのに届かない」無力感は何度も強調されます。
コハルは幼馴染みをかっ攫われかけている上、幼馴染みの初めてを掠め取られ、一対一で全てが完結するはずだったのに突然敵が宇宙規模になります。辺境の小村からいきなり宇宙です。彼女に想像できるのはせいぜい別大陸の遺跡など、そのレベルです。「冒険者」という過去の傷を薄く残しつつも、十分妥協できるエンディングが待っているはずだったのに、プロローグが始まってしまいました。彼女は華やいでいく幼馴染みの周囲に傷ついています。もちろん、最大のライバルはルミナです。非常にお人好しであるルミナと非常に世話焼きであるコハルは性格の相性がとてもよいのですが、だからこそついルミナを応援してしまいさらに傷つき追い詰められるようなところがあります。
「空から降ってきた再会系の謎の少女」に対する「幼馴染み」なのでとにかく敗北色が濃厚なのですが、描かれ方がとにかく悲痛で傷口を刃でなぞるような痛みが常に彼女には走っています。「冒険はできないけど二人きり」だったのが今「冒険をしているけど彼が遠くなっていく」のがコハルです。あまりにも傷つきすぎて逆にヒロイン力が強いまである子です。
ルミナは許婚に何も覚えられていません。彼女にとってそれは不慮のことでした。「お嫁さんにしてくれる」という自分との約束は覚えていないのに、「最初の冒険は一緒」というコハルとの約束は覚えているのです。素のコハルの説明としてルミナに対し「逆に力になろうとしてしまい」と記載がありますが、これはルミナも同じです。機械士とコハルの空気感はとにかく徹底的に「特別」です。他者を完全に受け入れません。これは二人が能動的に拒絶しているのではなくて、二人していつも村の思い出トークで盛り上がるので(これは本当に、とんでもない頻度で発生しまくります)、純粋に誰も話には入れないのです。
他にもたとえば村の歌の話で突然機械士とコハルが盛り上がりだしても誰も輪に入れません。とにかく徹底的に「誰がどう見ても機械士とコハルはお似合い」なのです。傍目に「結婚するわこいつら」という空気しか出していません。なので、ルミナは仄かにアピールしつつだいたい一歩ひいています。ウェディング衣装を持っているのがルミナではなくコハルであることも、ルミナが自分から退いてコハルを推した結果です。とにかく「機械士とコハル」の関係があまりにも強すぎます。そして、ルミナという少女はそんな二人が楽しそうにしている空気をぶち壊すような真似はしません。ただただ邪魔せず静かに傷ついているだけです。りりぃあんじぇでは頻繁に不可侵幼馴染み空間が発生するのですが、発生するとそれなりの確率で傷ついていそうなルミナの姿をあわせて見ることになります。
「お嫁さんにしてくれる」「旦那様」そういった全てを飲み込んでルミナはひたすら我慢しています。ずっと傷ついてるのですが、我慢でチャージしすぎていて逆にヒロイン力が強いまである子です。さらに空から降ってきた運命のヒロインとしてまだカードを伏せています。
冒頭のプロローグで示される三角関係ではこのように全員が傷ついています。しかも、自分は傷ついているのに相手のためになることをしようと頑張っています。ひたすら優しいのです。傷つきながら優しくする。そんな地獄の三角関係です。りりぃあんじぇは一度外部とコラボを行ったことがありますが、コラボ先の子達から一瞬でその空気感を察されてしまうほど普段からそういう空気が出ています。機械士、コハル、ルミナ、全員でひたすら自分を敗北させているようなところがあります。
このうち機械士の敗北、彼の根本。「無力感」に2024年9月1日時点の最新メインストーリーで寄り添ったのが、この舞台である「宇宙」の説明では述べていない宇宙船に搭載されている人工知能である非プレイアブルナビゲートキャラクター「アポロ」です。詳しくは次項に譲るので措きますが、アポロには「自分は中古品でありルミナの搭乗に値しない」という劣等感があります。「捨てられる」という恐怖を抱きながら、「自分から別の宇宙船へ乗り換えた方がいい」という気持ちも抱いています。そんなアポロは、メインストーリーの最初から触れられていた情報ですが、船内をモニタリングすることが当然可能な立場であり、本来誰にも目撃されるはずのない、一人で追い詰められていく機械士の実らない足掻きをずっと見ていました。メインストーリーの最新では、そのアポロが「ずっと見ていた」と情報開示して彼によりよく頑張るための手を差し伸べています。無力感と劣等感を抱く者、そして「機械士の知識と知能のレベルを判断し今の彼に適切な教材を、設計図として具体的に出力して彼を教導する」というアポロにしかできない方法で、アポロは機械士を支え始めました。最初は「三角関係」が強調されていたのですが、「機械士の無力感」と「アポロの劣等感」はずっと強調され続け、ここが繋がるのではないかという匂わせは常になされていたので、「ついにきてしまった」のが今です。
そして、雫。彼女もコハル同様開幕で脳を破壊されています。コハルの思い人は機械士であり、機械士とルミナが事後なのでコハルの脳は破壊されました。雫の思い人はルミナです。雫の脳も破壊されました。機械士は魔獣に尊厳破壊されており、ルミナは何も覚えられていないので脳が砕け、あの場では全員の脳が粉々でした。呪われし地です。そんな雫は当然機械士に対してなにかとあたりが強いです。隙あらば殺しにきます、というのは大げさですが隙あらばボコりにきます。しっかり図鑑に「あなたに対して敵意を向けている」と明記されています。
ですが雫にも伏せられた過去の匂わせがずっとなされており、彼女は少なくともボディガードとして非常に優秀なのですが、「完璧・最強」ではないという姿を何度も描かれています。もちろん雫としては完璧でありたいので、そのたびに辛酸をなめており、だからこそ機械士の努力そのものは認めています。恋敵なので強くあたっているだけで、そもそも雫は機械士のような頑張って気を配ろうとするタイプの人間性をどちらかといえば結構好ましく思うタイプの人間です。それは雫が好きであるルミナの精神性に似ているものでもあります。なので、雫は機械士に強くあたってはいるのですが、徐々に仲が緩和していっている最中です。何か大きなイベントがあるわけでもなく、じんわり、じんわりと二人の距離は縮まっています。アポロは伏せて匂わせた上で伏線爆発で三角関係に乗り込んできたのですが、雫はシンプルに距離が縮まっていきます。先の通りコハルとルミナは勝手に敗北しているので、粛々と縮まっている雫の等速直線運動めいた挙動は周囲が七転八倒している中たいへん不穏です。
こういったメインの要素は特にR18要素の強いブラウザゲームでは本題化されず、個別でIFとして脇に置かれるのが普通です。たとえば先に挙げたウェディング衣装のコハルは個別ストーリーで機械士とくっついています。けれど、これはIFです。メインストーリーとIFは別であるということは、メインストーリー上ですら強調されます。りりぃあんじぇではメインストーリー中にそういったシーンが入ることがありますが(なぜなら健全版が存在しないので)、下記のように「IFはあくまでIFである」と明記されます。
そして、メインストーリー冒頭でやむを得ず緊急避難的にルミナと機械士が事に至っていることも、初めて降り立った星でコハルと機械士がやむを得ず緊急避難的にという大義名分を得て事に至っていることも、選択肢すら出現しませんでした。つまりそれらは正史だと強調されています。
ダメ押しのようにアンケートでは以下のように問われます。
「メインストーリー上で正式に結ばれるべきキャラ」を問われるのです。新衣装や好きなキャラではなく、メインストーリーで正式に結ばれるべきキャラを問われます。このアンケートはかなり火力が高く、それまで「複数選択可」の質問を何度も投げてきてから、択一でこれを問います。その他に自由な記載は可能ですが、運営開発上「ルミナ・コハル・雫・アポロ」は別格です。そして、その他で無理矢理記載しない限り、この四人から選ぶ場合は「択一」です。「ルミナかコハル」のような選択は選択肢としては許されません。その他に記載することはできますが、それを許すなら「複数選択可」にしておけばよいだけのことです。そういった選択肢になっていない時点でこの設問はかなり強火です。このアンケートが出た当時は今と同様アポロは非プレイアブルであり、かつ最新メインストーリーの爆弾が投下される前の伏線だけ張られている状態でしたので、アポロが別格であることはこの時点では嗅がせに来ている強さでした。
立場
例によってここまでが前提です。りりぃあんじぇはルミナの星を目的地とした長距離移動です。つまり、たとえば機械士とコハルの故郷である「辺境の星」のような場所を通過すると、そこにはもう戻りません。そのため、立ち寄った星に宇宙開発技術が発展していない場合は現地で出会った人々は去って行った宇宙船にアプローチをかけられません。技術的に不可能です。現地の人と約束をしたのに、慌ただしく出発してしまい約束を果たせなかった、ということもありました。その子はもちろんたいへん憤りますが、なにせ技術レベルが違い過ぎるのでどうしようもありません。
そして、物理的な距離の問題は宇宙船側でも十分に解決することはできず(可能ならば長い時間をかけて旅をしていません)、一度通り過ぎた星の人々とまた会えるかどうかは宇宙船側でも十分に制御可能なことではありません。
この宇宙船側とは「ルミナ・雫・アポロ・機械士・コハル」であり、この五人でルミナの星、「終と始まりの星」を目指しています。彼女達はもちろんルミナ、つまり「終と始まりの星」の女王についての継承権を持つ第一王女を代表とした一行です。
先のマルフーシャやスネジンカたちとはまるで立場が違います。宇宙規模で高い技術力を持つ「終と始まりの星」における第一王女の一行として、宇宙船、つまりルミナ一行は非常にオフィシャルな色を帯びています。かつ、ルミナ一行の行っている干渉は現地人にとって救いになっていますが、ルミナの公的な地位を揺らがすようなものばかりです。機械士との出会いからずっとそんなことばかりをルミナはします。コハル・ルミナ・機械士は目の前にある危機をどうしても見逃せず、「助けない」という選択肢を採れません。優しすぎてどうしても権威的には汚名になることばかりしてしまいます。
「終と始まりの星」の女王に類する権威がそれを許すなら、お人好しな王女の我が侭として受け入れられるでしょう。ですが、残念ながら「終と始まりの星」の女王に類する権威はそれを許容していません。
宇宙船アポロはルミナが望み、女王がルミナに与えたものです。けれど、その経緯は冷淡なものでした。
15年前、その宇宙船で「また外に出たい」と願ったルミナは、所有権を与えられた上で「幼稚な願いを二度と口にするな」と突き放されています。アポロとはその象徴です。
ルミナがその願いを口にしたのは15年前。今回の旅以外で外に出たのは8年前。継承権を持つ王女として、ルミナは徹底的に閉じ込められて教育され続けています。ルミナは単純に力で選ばれた第一位であり、それ以外の多種の言語や礼節などの勉学は第一位について考慮されず、判定後に叩き込まれ続けました。ルミナ以外の王女は少なくともルミナ以上には自由があり、継承権があるからこそルミナは徹底的に訓練漬けです。ルミナの不自由とは、「母親を含め、雫とアポロ以外がルミナと会話することは稀」と雫が表現するほど徹底されたものです。つまり、訓練は自室で自主的に行われるか、精々雫がいるかというのがルミナの常態です。
母親に甘えることを、母親自身から許されない。それがルミナの立場です。今ルミナが乗っているアポロこそ、それを許さないという証です。
姉妹たちもまた同様に冷淡です。
ルミナの「愚行」を今言うことを聞くならば許すと言いはしますが、それを拒絶した場合の出力はこれです。
母親である女王はルミナの行いに憤っていますし、姉妹はルミナから継承権を奪うつもりです。そして、その方法はシンプルに殺害です。
根っこが善良であたたかさに飢えているルミナに対し、家族はこれです。臣下や星の一般的な人々までがそうなのではないのですが、ルミナの家族はこうです。
そして、ルミナは家族どころかまともに会話できる相手は雫と、そしてアポロしかいませんでした。
ひたすら誰かを助けるなかで、汚名は重なり、女王の怒りと姉妹からの殺意を向けられているのがルミナです。これはそういった旅路です。
その上で、コハルにその場面を回想させてこういうことを言わせます。
お疲れのあなたに差し出されるぷにらしいです。
降り立った星でよかれと思って手を差し伸べて殺意を向けられたことも一度や二度ではありません。
最終的に感謝されても、宇宙開発技術が発展していない星です。先に述べたとおり、ルミナが困っているときにルミナを助ける術が、恩を受けた人々にはないのです。その技術がありません。
そもそも基本的に身分を隠して「異星人」ではなく「異邦人」として降り立つ星の人々と交流するのが基本なので、最初から縁が切れることを前提として動いています。
「終と始まりの星」の第一王女の立場は高いのですが、実権がないのです。ただ高い立場のリスクを背負って、中古・観光用の宇宙船で旅をしているのがルミナ一行です。
なので、「些か度を過ぎているお人好し」なコハルと機械士が宇宙船の一行に加わったことはルミナの精神にとって大きな救いになっていて、たとえばアポロは雫だけでなくコハルと談笑しながら探索に出るルミナを見て喜ぶのです。探索に出るわけですから、宇宙船には当然そのとき誰もいなくなり、いつもそのときアポロはひとりぼっちなのですが。そういう姿を逐一描写するのがりりぃあんじぇです。
あわせて、それだけ孤独だったルミナが極めて強く重い「約束」をしていた機械士が何も知らない、覚えていないことは彼女にとって大きな傷になったことでしょう。
雫はこういった立場のルミナの従者であるということを常に意識に置いて、ルミナ第一で行動しています。ルミナもコハルも機械士も善人なのですが、善人過ぎるという問題があります。立場に対していくらなんでもこの一行は人が良すぎるのです。そうすれば自分は傷つくとわかっていながら、よかれと思って動く節があります。その中で最も危険なルミナについて、「それはルミナ様にとって危険だから」とかなり過保護気味に慎重な態度を採る雫は絶対にこのメンバーから欠くことのできない大切な人です。真正面から欲を出すという姿もぜひ宇宙船メンバーは雫から学ぶべきでしょう。しかも雫は過保護気味なのですが、ルミナの考えを無碍にはしません。一通り反対して意見が曲がらないようならルミナの意志を尊重した上でルミナが傷つくことのないようにと動きます。従者の鑑です。主人の飲み物に媚薬を混ぜ込んで抱こうとはしますが。
アポロもまた「ルミナの宇宙船」という立場に敏感です。彼女は女王からの拒絶の意思表示そのものであり、格に見合わない中古の宇宙船です。本人は自身の優秀さをタイミングさえあれば主張しますが、時にそれは度を過ぎて必死な色を帯びます。「第一王女の宇宙船」として自分が相応しくないことはアポロ自身が一番よく理解しているからです。アポロがやらかした際、たとえば雫が突っ込むとき雫はアポロを深く傷つける意図はないのですが、アポロは必死になって弁解します。
田舎者という表現では足りないくらい未開惑星なファンタジー小村の人間であり、かつ技術を愛している機械士は純粋にアポロをすごいと思っているのですが、アポロは割と必死に乗ってきます。
機械士自身が言っているように、彼は割と最初からアポロを褒め続けているのですが、「宇宙」というものを適切に彼が把握しはじめたのがごく最近のことです。なにもわからない状態で圧倒されているのと、少しは物事を理解してきてから、その上でアポロって凄いことしてるな? と思うのとでは趣が別種なのです。
あまりにも広く、誰ともすれ違わない宇宙。その広大な宇宙の想像も出来ないような広さの情報をスキャンできるアポロは機械士にとって凄いものであり、宇宙の広さを体感した上でアポロは凄いと言うのはだいぶ嬉しいことです。
しょせん未開惑星の原始的な人間の驚きであり、第一王女の宇宙船に値しないことに違いないのだとしても、慰めと虚勢を張る助けにはなります。
また、アポロは劣等感が強いので何度褒めても褒め足りるということはないので褒めまくってよいです。それだけしてもあんまり褒められている自覚がないので、機械士とアポロの感覚はずれていたのですが。
そして、アポロが「真の最新鋭」を相手に失態を演じ続けてきたのも事実です。
彼女は「第一王女の宇宙船」として自身、つまり「APL-180」を名乗ります。「アポロ」と呼ばれるたびに修正していました。「APL-180」だと。「APL-180」という「製品」の名で性能を主張するのです。
「APL-180」は凄い。アポロはいつもなんとかそれを主張しようとします。ほとんどヒステリックなほどに。それは、「APL-180」は相応しくないと本心ではわかっているからです。
「APL-180」は捨てられる。だから「APL-180」はやれると主張する。でも「APL-180」は性能不足だとわかっている。アポロにはその不安があります。
けれど、皆アポロを単に「APL-180」と扱おうとはしません。宇宙船の皆が相手をしているのは他でもないアポロだからです。特に、身内があまりにも少なく友達がたった二人しかいなかったルミナにとっては、アポロはかけがえのない相手です。捨てるという判断はおろか、発想がそもそもありません。
そんなルミナの優しさをわかっているからこそ、アポロはルミナについては信じることができます。けれど、ルミナに許されているアポロが認められるかどうかについては、
「捨てられる」。ずっとその恐怖を抱いているのがアポロです。
この感覚は宇宙船の皆が持っているものです。秀でた力を持たない機械士は言うまでもありません。機械士にとって命の恩人であるルミナすら、こういった恐怖に突き動かされて動くときがあります。
そして、王女ルミナ、従者雫、宇宙船アポロ、許婚機械士、という特別な四人に対して、「なにもない」のがコハルです。だから、コハルもまた常にこの恐怖を抱えています。
宇宙船で宇宙を飛びながら、機械士が宇宙に、ルミナに行ってしまうのではないか。村に、自分に帰ってこないのではないか。
村から飛び出して機械士についていき、宇宙船で彼らの旅についていくコハルだからこそ、「それだけしかない」コハルは「特別な宇宙の冒険」の中で機械士が離れていく恐怖に怯えています。
皆「立場」があるなかで、コハルの「立場」は機械士以上に純粋な「お客様」です。
皆が「捨てられる」と思っているのがこの宇宙船です。強いて言えば雫が強く、だからこそ雫はとても頼りになるのですが、抱えている秘密を含めてわりと機会があればぽろりと素で話しそうな余裕を含めて、「本当に雫は大丈夫なのか、無理していないか」と心配になるところがあります。
この宇宙船は優しさと思い遣りに満ちていて、その中で皆不安に震えています。優しいのに繊細で傷ついているのがりりぃあんじぇです。
まず疲れている人に提供するぷにではありません。
複雑関係
作品外、コラボ先から察されてしまうほど関係性が面倒くさいことになっているルミナ様ご一行。
ここまで追ってきてくださった方なら、コラボ先のキャラクターたちのように未プレイでもこの宇宙船について察していただけるかと思います。
コハルのウェディング衣装の紹介があったが、
ウェディングイベント、地獄だったな? と。
その通りです。
りりぃあんじぇの関係性の初期は「三角関係」であり、「機械士・ルミナ・コハル」の三人に強くフォーカスされています(そして、先のとおり雫・アポロが不穏な色を見せています)。これはメインでもイベントでも数多強調されるのですが、ウェディングともなれば強調されないはずがないのです。
「立場」においてコハルという少女はあまりにも枠外です。「お客様」です。特別なものがありません。「リリアン」であるということは話が宇宙規模になった以上全く特別ではありません。もちろんリリアンは珍しいものですが、宇宙の星々を旅するのでどれだけ珍しかろうがいくらでも遭遇します。周囲はリリアンだらけです。そして、この旅においてコハルは何かの役割を担って立場についているわけではありません。ただ幼馴染みのためについてきた村娘です。
けれど、単に立場にフォーカスするのではなくそういった全てを含めた関係性で見るとき、コハルはあまりにも強いです。
「お似合いの幼馴染み」という関係性を殆ど凶悪といえるまでに強靱にしているのが彼女です。実のところ、辺境の星の小村に収まっていた頃の機械士は、昔はともかくメインストーリー開始時は異性としてコハルが彼に抱くほどまでには強烈な意識を抱いていなかったのですが、メインストーリー上で「ただの幼馴染み止まり」は明確に破壊されています。
コハルは常に明確にルミナをライバルとして意識しているのですが(IFである個別ストーリーですら常にルミナに取られることを意識しています)、メインストーリー上で彼ら二人はやむを得ず関係を持ってしまっており(いわゆる「しなければ出られない部屋」状態に追い込まれました)、その際機械士側からの「コハルへの意識」が明白に「幼馴染みだけ」から変化しています。これはこのとき限りのことではなく、この変化はメインストーリー上でもイベントストーリー上でもずっと引きずっています。この関係は初期実装のメインストーリーで持たれたものなので、サービス開始時から「そういう二人」だと強調されています。
その上でコハルは明白にルミナをライバルとして認識し、かつ踏み出すべきところでしっかり攻める子です。
さらにその上で、宇宙船の皆は心優しく、気遣いができ、相手のために自分が傷つくことを厭わない子が多く、コハルも勿論そうです。
「リリアンサイズのウェディングドレスは残り一着」と言われた際、コハルがまず考えるのは自分ではなくルミナのことです。
ルミナはとにかく我慢に我慢に我慢を重ねて立場上苦しいのに、関係性としても希望するものがあるだろうに、常に相手のためにと一歩引く子です。だからこそ、コハルはライバルとルミナを意識しつつも、同時にそんなルミナを応援せずにはいられません。このジレンマは彼女のプロフィールに記載されているのは先のとおりです。
コハルはそう判断して、真っ先に声を上げる子です。けれど、それに覆い被せるようにして声を張り上げてでも退くのがルミナです。
ルミナは普段大声を出す子ではないので、これはかなり異常な空気であり、普段退く時も彼女は静かに退くタイプなので、誰もがおかしいと思う動き方です。実際あまりにもルミナらしくないので機械士が気に掛けるほどです。
ルミナはふんわりとなんでもない風を装うのですが、もちろんなんでもないはずがないのです。
そして、そういうあまり綺麗ではない感情を抑制できたのに、「そういう感情が湧いた」こと、ただそれだけでネガティブな感情に陥るのがルミナです。善良さの塊のような子なので、相手が欲を出すことには寛容でも自分に対しては徹底的に善良さを求めて、汚いところが出てくるとネガティブになります。
その上で、そういった自分を俯瞰してバカだと評価してもいます。
ルミナとコハルは二人とも自分から敗北しまくっていると先に述べていますが、だいたいこういうことをしているのがルミナとコハルです。どちらかがリードするというより、コハルがルミナの背中を押して敗北したり、ルミナがコハルの背中を押して敗北したりします。
ルミナが傷ついて敗北するとき、だいたい二人は絶対不可侵の「幼馴染み空間」を発動して追撃ダメージを発生させるのですが(本当にこの空間は鬼のように頻発します)、このウェディングイベントで「コハルの強さ」が強調されるのはその「幼馴染み空間」ではなく、機械士の「……いいんじゃないか」です。その意味はすぐにわかります。
「結婚ごっこ」はウェディングイベントにおいて最も盛り上がる箇所であり、重要です。一回のイベントでそれが複数回行われるなら、たいてい幾つかがギャグでシリアスな一回があります。そしてそのシリアスな一回を掴み取ったのが「機械士とコハル」で、そこでの具体的な動作について、機械士とコハルはソシャゲ・ブラゲにおいてある程度穏当な進行をします。
コハルは熟年幼馴染みだけあって、機械士の気持ちをとても機敏に察します。それはウェディングイベントでも強調されています。
そんなコハルが、コハルの視点において、「跪いて手の甲にキスしてくる機械士」がどう見えているのか描写されています。ここがかなり強火です。
「結婚ごっこ」でコハルの手の甲にキスをした機械士が浮かべている表情は「彼を瞬時に理解できる」コハルから見て「申し訳無さそうな」「泣きそうなような」「喜んでるような」と極めて複雑で、つまり「どんな気持ちでしてるのよ」と表現されるような表情をしています。その上で、コハルの視線に気づくとキリッとした顔を作ります。
つまり、「結婚ごっこ」をするとき機械士はほぼ間違いなく現状についてコハルに申し訳ないという気持ちを抱えていて、今「結婚ごっこ」でコハルにキスしたことについて、泣いてしまいそうな気持ちになっていて、それでいてコハルとこうできたことを喜んでしまってもいます。さらにごっことはいえ彼は「真剣」なのであり、そういった全てを飲み込んで「結婚式」をする新郎としての表情を作ろうと本気で努めています。
「お似合いの幼馴染み過ぎてコハルが強い」というのは、つまりはこういうことです。二人の空気が自然体であるとか、積み重ねた時間が長いだとか、そういったことではなく、互いに互いを特別に想う気持ちが非常に強い、というのがコハルの関係性における強烈なアドバンテージです。コハル側が一方的に機械士を想っているのではなく、機械士の側も非常に強くコハルを意識していて、互いに矢印を向け合っている上で強烈な幼馴染み空間を頻発させている。これがコハルです。
結婚式という式を売っている「ブライダル」という少女に、彼らの星の簡素なプランをブライダル自身も経験してみるべき、というコハルからの提案に機械士はできれば回避したいなという気持ちです。
機械士としては、たとえ「ごっこ」であっても、それは「自分とコハル」だけの思い出にしておきたいものです。
ウェディングイベントは通常、「ヒロイン側に主人公を意識させる」比重の高いイベントです。ですが、りりぃあんじぇの場合違います。「特定のヒロインに主人公が強く思い入れる」様を強調します。ウェディング衣装の衣装違いキャラクターを複数出しておきながら、主人公の特別すぎる気持ちをただ一人に向ける様を強調するという無法かつ残虐な行いをします。
ルミナが心中で二人をそう評価するとき、二人が「お似合い」だということは、「二人が想い合っている」からこそ「お似合い」なのです。
そして、「二人がどれほど想い合っているか」についてもルミナは強く認識しています。
このウェディングイベントではスナック感覚での結婚ごっこが複数描かれましたが、「機械士とコハルの結婚」は「結婚は本気でするもの」だとルミナに改めて意識させるほどのものです。コハルだけでなく、機械士にも痛切な気持ちと、それを抑圧してでも貫く真剣さがあったことをルミナも熟年幼馴染みのコハルほど鋭敏にではなくともその真剣すぎる空気は感じているでしょう。
機械士とコハルがあまりにも真剣なので、「結婚はカジュアルにバンバンやるもの、サクッとやるそんなに重くないもの」という認識で結婚セールスをやっているブライダルも、同じ事をしようとして頭が沸騰して逃げ出すほどです。
誰がどう見ても二人が「ガチ」すぎて、それは周囲に「結婚式はガチでやるもの」と認識させ、「生半可な覚悟で結婚式はできない」という認識を共有させます。結果として「機械士とコハルの結婚式」は二人だけの特別なものとして、誰に重複されることもなく綺麗に保存されます。
この場合特に「ガチ」になりすぎているのが機械士です。コハルはあまりにも機械士が本気すぎて逆にある程度冷静になれているのですが、あらゆることに「ガチ」になりすぎて今コハルと自分が「結婚ごっこ」をしていることに「申し訳ない」「泣きたい」という気持ちすら湧きながら「嬉しい」と浅ましい感情も浮いてしまうのが機械士です。終わりだよこいつとしか言いようのない様です。
二人の結婚式について、結婚式押し売りガールのブライダルからの形容が「本当の愛を誓う結婚式」なので完全に決まっています。
ブライダル的な「結婚式」の文化とはとても軽いもので、「結婚したくらいでは手の甲へのキスもギリギリセーフ、真にキスするなどもってのほか。DNAを国に提出し、データ登録し、DNAの交換が許されるというエターナルパートナー制度を用いなければ婚前交渉などもってのほかです。
そういった文化圏にいる、つまり「結婚」の捉え方がまるで異なる、「エターナルパートナー」という別の極めて重要な愛の文化を持つ相手に「本当の愛を誓う結婚式」が伝わってしまうのが機械士とコハルです。
シンプルかつ軽いものである結婚にあえて「重要な意味を持たせる」クラシックスタイルは「ニッチ需要」を満たすという一定の営業的な成果も挙げ、メインストリームに至らないものの波及的なパワーもなかなかのものでした。
さらに、機械士は今回のことで「結婚」を意識して、更なる努力を決意します。彼はいつも無力感に苛まれていて、このウェディングイベントでもコハルの手の甲へキスして極めて強く傷つき、罪悪感を抱いているのですが、だからこそ彼は止まりません。無力であることは彼の特徴なのですが、地頭が良いことも、誰かのためになろうとするところも、もっとよい自分になろうと努力を怠らないところも、彼の特徴です。
そして、これは別のメインストーリーで機械士の姿を見てコハルが決意したことでもあります。
ルミナはそんな二人ととても相性がよく、そしてそんな機械士が好きです。だから、彼がいつか素敵な結婚式を挙げて良い旦那様になることを確信しています。
ただし、
これがウェディングイベント最後の一文です。
どう考えてもお疲れのあなたにさしあげるぷにではないと思うんですよね僕は。
また、りりぃあんじぇの個別のキャラストーリーはIFとしてそのヒロインと強く結ばれるのですが、「個別時空」とでも呼ぶべき特殊な設定がしばしば用いられます。2024年9月1日現在ではメインストーリー上でもイベントストーリー上でも描かれていない「機械士と行為すると強くなる」という設定と、それに伴い「不特定多数と機械士がしている」という設定です。
それ単体ならまあ「そういうもの」なのですが、それを前提として、コハルの個別ストーリーにおける機械士はこれです。
個別ストーリーでは本当に割と気軽に機械士はリリアンたちと関係を持つのですが(流されますし、それで役に立てます)、コハルとはしようとしません。他のリリアンは割とまあいいかあ、な感じなのですが、コハルにはこれなのです。
この宇宙船には雫が必要です。
さすがに常時暴れ回り、ウェディングイベントで無法をやらかしたので、水着イベントではコハルは衣装を与えられずに海ではしゃぐ皆を眺める立場になります。
そうやって眺めつつ脇役に収まっていれば「今回のコハルは大人しかったな……」となるのですが、そうならないのがコハルです。
海で他のリリアンと遊ぶ機械士を遠目に見て、感傷的なモノローグを出しながらぼんやりしつつ、彼女はふらりと倒れます。
コハルは非常にお節介な少女です。しかし、コハル・ルミナ・機械士には「自分を大事にしない、というよりそもそもあまりそういうことを意識できない」という悪癖があります。リリアンであり身体的に強いという感覚もあり、あまり気にせず少し感傷的に、遊んでるなーと機械士たちを眺めていた彼女は陽射しの中で脱水症状に陥りふらりと倒れます。
他の少女と機械士が楽しげな笑い声をあげて遊ぶ姿を視界に収めながら、自分は脱水症状に陥って「死」を意識するのです。そのとき、コハルの「死に方」についての考えが呈示されます。
重いのです!! 衣装もらえず脇役になるとコハルはこういうことをします。
このイベントは主役たちが遊び回っており、さらに主役たちを悪戯しながら見ている者がいます。この悪戯組はコハルが一人でいることには気づいています。
なので、普通の話の流れだと倒れているコハルを発見するのはこの二人になるのが話の流れとしても常識的な状況の俯瞰具合としても順当、なのですが。
コハルが倒れているのに真っ先に気づくのは他の誰でもなく機械士です。彼が第一に気づきます。たとえ遊んでいても、コハルが本当に危機に陥っていたらまず気づくのは彼なのです。それも、常にコハルを心配しているから、という気配りというよりも「コハルとも遊びたいからチラ見」していたから気づくという具合です。
悪戯組が事態に気づくのはこの直後です。機械士はコハルを見ているので、コハルが思っているような「機械士が笑って自分を置いていく」ような事は起きないのです。
割といつもアホなことをしているド田舎コンビなのですが、機械士とコハルはこういう空気を出してきます。たとえ衣装をもらえない脇役になってもこれを放てるのがコハルです。
本来主役となるべき衣装違いの悪戯組二人よりもなお早く、一番にコハルに駆けつけるのは遊んでいたはずの機械士です。
「気づいてくれた」。機械士のこの姿は不安になってしまうコハルにとってとても、とてもあたたかいものです。
そして、普段は憎まれ口を軽く叩き合っているふたりなのですが、素直な姿を片方が見せると、もう片方も引きずられて素直になってしまうという脆弱性を持っています。だいたい機械士がそうなります。
機械士くん、確実にもう大丈夫と機械的に判定が出て周囲も注意している状態でなお心配が止まりません。彼氏かな? 幼馴染みらしいです。
そして、薄らとついた傷を強調するばかりがりりぃあんじぇではありません。
そういった傷をしょっちゅう負ってしまうくらい優しい子ばかりなので、傷ついた子を発見すると群がってみんなで優しくします。だいたい皆内に抱え込むのでバレないのですが、今回のように盛大にバレてしまうとこうなります。器用に気遣って器用に隠す、そういう優しさがあるのでりりぃあんじぇで一人で傷つく子はだいたい一人で抱え込むのですが、バレたら最後徹底的にケアされまくります。普段が普段なので、このような風景を供給されるたび、ほんっっっっとうによかった、となります。
ルミナは微笑んだ……
ルミナは微笑んだ……
ルミナはこういう子です。
この極悪なまでの機械士×コハルのお似合い具合は、「ごく自然なもの」としてコラボでも描かれます。コラボ先からの帰還がこれです。
極悪非道です。世界の自然な法則でそうなっていると言わんばかりの「当たり前」感です。
マジでいいかげんにしろよ……
「立場」においてコハルは非常に弱いです。配役上の敗北ヒロイン力が強すぎます。実際敗北オーラを出しまくります。そして、「関係性」においてあまりにも機械士と強く結びついていて、二人の関係が自然なだけに留まらず、明らかに機械士がコハルを強く意識しているので「辺境の星」、小さなファンタジー小村で「この二人はくっつくはずだった」というのがどれほど「そうなって当然」なのか徹底的に叩き付けてきます。「お似合いの幼馴染み」が本当に「お似合いの幼馴染み」ならそれは強すぎますからね。それを一切ナーフせず原液でぶつけてくるのが機械士とコハルです。
オーバーキル! オーバーキル!
そして、「許婚」であり「王女」であり「約束」を未だ伏せられているルミナの一歩一歩はとても仄かで健気です。
コハルが周囲を絨毯爆撃して一切の弱体化なくお似合いの幼馴染みとして暴れ散らかしている中、ルミナは決して機械士に無理強いをせず好きな人のために尽くします。
その姿は本当に仄かな輝きです。
ある星でルミナは自分と似た境遇、父王に話を聞いてもらえない王女のために力を尽くしましたが、その時を振り返ったルミナの言葉がルミナ自身に当てはまるでしょう。
この報われてくれ!!!!! という強い思いと弱パンチのようにひたすら続けられる仄かで健気なアタック、そしていざとなったときに繰り出す自らを省みない献身、さらに未だ伏せられている「お嫁さんにしてくれる」という約束。
コハルがどれだけ暴れても、あるいは暴れるほど柔らかにぺちぺちしながらチャージを続けているルミナの不穏な強さが高まります。
さらに、ルミナが我を出して暴れ散らかすとどうなるか、というパワーの一端はコラボ先で仄めかされています。
ルミナという少女は本当に優しくて穏やかで利他的な良い子なのですが、明らかにヤバいです。世界の仕組みでそうなっている機械士×コハルに自分が運命の相手だといつブチ込んできてもおかしくない不穏さを常に漂わせています。コハルはルミナという少女のそういった不穏要素と、そもそもルミナが滅茶苦茶可愛くて良い子で機械士のことが大好きであるというシンプルな事実を適切に評価しているので、ライバルが宇宙規模に広がった今、自身の最大の恋敵として認識している相手はルミナなのです。彼女は絶対に強い。その確信があるからこそコハルは慢心せず、不安になり、暴れています。絶対変身があるのに第一形態で既に滅茶苦茶強いボスみたいな風格を出しているので、怖すぎて仕方ありません。
ルミナは普段温厚なので、ほぼ発生しないことなのですが、「スイッチ」が入るとヤバいです。仏様かな? というくらい温和で寛容な子なので、本っっっ当にレアなのですが「そうする」と決めた場合の彼女は優柔不断どころか「果断」の塊なので危険です。伊達や酔狂で法律違反を連発して王家の恥として命を狙われていません。ヤバい女です。猫パンチしか撃ってきませんが、ヤバいのはわかっているのでコハルは警戒しまくっています。
これが、「機械士・コハル・ルミナ」の三角関係です。みんな良い子で、みんな強くて、その三人全員がなにやら勝手にびったんびったん七転八倒して自分で勝手に敗北しています。
なので、これがりりぃあんじぇの主たる要素……だったのですが。
それだけでは終わらないことはずっと匂わされていました。
機械士とアポロです。
機械士と機械(宇宙船)なのですから、そもそもの相性が良すぎます。
そして、コハルと機械士は「辺境の星」で育ったドをいくらつけても足りない田舎者なので、APL-180で管理している庭園程度で素直に大感激します。
自分の性能についてとにかく「捨てられる」と不安なアポロなので、こういった賞賛を幾度も受けることはかなりの影響があります。特に、機械士の場合は「ユーザー」ではなく「技術者・機械士」としてAPL-180の機能に感激している面を多々見せるので、アポロとしては揺さぶられるところ大です。
さらにアポロは宇宙船内であれば浴室にも平気で出現し声をかけてくるので、プライベートでも距離が非常に近いです。必然的に付き合いが非常に濃密になります。その上、機械士は一個の相手としてアポロに応じ、「入浴中にアポロが出てくるのを咎める」ような態度を見せます。つまりAPL-180扱いをしません。驚いて怒るような姿であからさまにアポロ扱いしてきます。APL-180するな、アポロと認識してるからびっくりする! と常に女の子扱いするのです。アポロはすごい。勉強してアポロのすごさを少しずつ把握できはじめてきた。アポロは女の子。機械士側がずっとそういった認識なので、アポロも調子が狂います。アポロを技術的に評価するという点を除けば、この点はコハルも同じで、その点が「お決まりの台詞」に現れています。
こういった「象徴的な変化」は「劇的なイベント」を経て何かを明言させてから発生しがちですが、りりぃあんじぇではあまりそういったことがありません。普通に日常を過ごしていると、「いつの間にかそうなっている」ことがあります。APLなんちゃらはその一例です。後にもうひとつを別の子で見ることになるでしょう。
こういった点でアポロと辺境の二人、特に機械士は相性が良いです。
そして、「APL-180」と「凡人」として二人は相性がいいです。アポロが劣等感を抱えて危機的に自分の性能を叫びながら、それでも最後には自分は乗り換えた方がいいと理性的に認めてしまっていることは先の通りです。
特に雫が「ルミナ様絶対主義」で「完璧ではないにせよかなりデキるボディガード」の付き合いの長い相手なので、アポロの不安は強いです。
雫は思ったことはズバズバ言う人間なので、「機械士・コハル・ルミナ」の自己犠牲七転八倒クソボケトリオには非常に良い薬なのですが、ことアポロとなると素では噛み合いが悪いです。
雫は何も不必要にアポロを傷つけたいわけではありません。機械士のことは隙があれば攻撃しますが、単にズバズバ言っているだけです。なので、それがフォローに働くこともあります。判断したことを普通に言っているだけなのです。
こういったフォローは「APL-180はスペックが足りない」と捉えられかねない面もありますが、アポロが「APLなんちゃら」を発さないことをつっこまれたのがこの回でもあります。
「コハル・ルミナ」が表ルートだとすると「雫・アポロ」が裏ルート的なところがあります。雫は言いたいことを言っていて、アポロについてだけはうまく働きません。機械士に対して「殺しますよ」「死になさい」と言っても問題はないのですが、アポロに素で評価をズバズバ下すとアポロに大ダメージが入ります。雫側の温度は変わらないのですが、アポロ側が上手く雫を処理できません。そこに田舎者二人が田舎者丸出しで飛び込んできてワーワーやかましく潤滑油になるので「ルミナ・雫・アポロ」という関係性に油がさされて「ルミナ・雫・アポロ・機械士・コハル」の宇宙船組として徐々に上手く回り始めるのです。アポロは自分の立場についてかなり危機的な自己認識だったところを、少しずつ救済されつつあります。
機械士の側も象徴的にはプロローグで示した通りですが、改めて幾つか示しましょう。
機械士が「冒険者」としてコハルに並び立とうと磨き続けてきた「技術」、その「武器」としての象徴が「銃」です。
その「銃」が「辺境の星」の魔獣に全く通用しなかったことは先のとおりです。規模が宇宙に広がると、当然評価は以下になります。
彼の銃はあくまで「辺境の星」という環境で撃つことを想定されて作られています。宇宙を飛ぶ宇宙船内での戦闘は全く想定されていません。「そもそも撃つこと自体危険」である上に、非リリアンである凡人としての敵の武器はたとえば「レーザー」です。ファンタジー小村の村一番の機械士の銃ではお話になりません。撃てもしない、相手にもならない。それが彼の磨き上げてきた力です。
敵対している相手の技術レベルが高すぎるから役に立たない、という話ではありません。彼の銃は根本的に役に立ちません。
たとえば「辺境の星」――つまりだいたい異世界ファンタジーの小村を想定しておけばよい舞台から、更に原始的な、集落間で命の奪い合いが頻繁に発生するような原始集落を基本とする星でも彼の銃は役に立ちません。
もちろん対リリアンで有効な武器ではありませんが、そんな原始的な、槍などで戦う人々の戦いにも機械士の銃は役に立ちません。
コハルは技術をとても素朴に捉えています。あくまでユーザー目線、宇宙船の技術も段々使い慣れていきますが、あくまでも一般的なユーザーです。けれど、機械士は「銃とは何か、どのように出来ているか、どのように機能する道具なのか」を「技術者」として適切に理解しています。
だからこそ、役に立たないと理解しています。
機械士は十分に頭が良いです。機転も利きます。「機転のみ」で幾つもの窮地から仲間を救ってもいます。けれど、それはあくまで悪あがきの「奇策」なのであり、彼にはいつでも応戦可能な「通常攻撃」や「スキル」が一切存在しません。
はじめて降り立った星。ある意味ではコハルとの約束が果たされた二人きりでの冒険のはじまり。その舞台で彼の通常攻撃として想定されていた「銃」はそもそも使用禁止です。
彼という平凡な人間はいつもそうです。
アポロと同じく「気にしすぎ」です。しかし、だからこそ「コハルですら気にかけることができず」彼を深く傷つける言葉を放ち、その事実に気づくことすらできません。「そんなことより」です。コハルにとって機械士とは大好きな相手であり、価値の塊なので、「彼の無価値さ」に寄り添うことはコハルには無理なのです。コハルにとって、彼は価値がありすぎてそこにピントを合わせられません。
そして、彼は努力を怠りませんが努力を怠らないからといってそもそもどう努力すればいいのかという話があります。
先生がいない。教材もない。目の前にあるシステムを何とか我流で飲み込んでいくしかない。そして、立ちはだかるのはあまりにも大きすぎる技術のギャップ。頑張ろうにも、砂漠のど真ん中に放り出されるようなものです。とりあえず歩いてマップを埋めてはいますが、ほとんど放浪しているようなものです。頑張ってはいるのです。その知能を活かして効率化もしているのです。そうするしかない、とにかく最大限頑張るしかない。彼自身もそれをわかっています。
けれど。
それでは「届かない」ことをプロローグの時点で彼は思い知っています。自分にできる最大限の努力を果たす。それだけでは凡人の彼がどこかへ辿り着くことはないのです。そして、それを緩めたところでみんなから遠ざかる勢いが増すだけです。だから、届かない最大限の努力をするしかなくて、それでも届かないのです。その象徴が彼の死です。
あるいは、「部屋中に散らかる機械の部品」。それは単なる彼の「趣味」だけではなく「抵抗」であり「叫び」です。機械士が「度を過ぎている」ことはコハルもわかっているので、幼馴染みの呼吸で彼が無理をしていそうなら上手いこと制御しています。けれど、それは対処療法です。「彼の無価値さ」についての根本的な解決にはなりません。
そして、コハルにはそれを解決できません。彼女は道具屋の看板娘です。宇宙船どころか、機械士がそもそも持っていた技術のレベルすらよくわかっていません。
ルミナや雫は高い教養を持っていますが、それは「技術者のレベル」を前提にしていません。目線が違います。「道具の使い方」を教えること、あるいは「教科書的な説明」をすること、それが彼女達の限界です。
機械士は高い知能を持っていて、知識のレベルが全く足りない技術者。
誰にも頼ることができず、誰にも辛い姿を見せることができず、一人で頑張るしかなく、一人で頑張っても無駄なことは自分が一番よくわかっている。
彼のそんな姿を見ている人は誰もいません。
シャワールームさえ監視している、最近APL-180をことさらに主張しなくなったアポロを除いては、ですが。
地頭も腕も良い上に努力家で、知識不足の人間。最先端の宇宙船の人工知能「APL-180」であればそれに対し適切なソリューションを提供できます。
けれど、アポロがそれを機械士に提供する理由がないはずなのです。少なくとも、今までそうだったのですから。
けれど、たくさん彼の尊敬を受け、たくさん彼の姿を見てきた「アポロ」にしてみれば、話は別です。
「誰も見ていない場所」での彼の姿は「見ていられるもの」ではありません。
「アポロ/APL-180」が共感「できてしまう」最悪の想定すら彼はしています。
声高に自分の性能を叫び「大丈夫だ」と言ってきたアポロだからこそ、機械士の強がりの背を支えることができます。泣き叫ぶ姿を見ていないことにして、彼の尊厳を守りながら。
だから、彼女は「ルミナの宇宙船」らしい建前を与えています。
けれど、この言葉はアポロらしくありません。アポロとはかなりわかりやすい子です。良い意味で、たとえば機械士に適切な教材を与えられる、というような意味で。この答えは漠然としすぎています。
なので機械士としては釈然としないのですが、それは「アポロ」をいつも見ているからこそ釈然としないのです。
アポロ自身はその理由を持っています。
認めはしませんが。
アポロはふんわりとAPL-180をあまり主張しなくなりました。劇的なイベントや明言はありません。つまり、急転換せずゆっくり変わっているかわりに自分の変化やどの方向にどう変わっていっているのかにあまり目を向けていません。
この爆弾が投下されたのが2024年9月1日現在での最新メインストーリーである「火と荒野の星」の1話です。
この星はこの爆弾を含め、機械士とアポロ、機械士と雫、機械士と技術といった点に爆弾を放り込んでいます。
なにせ何かあると挨拶がわりに爆弾を爆発させる、「爆弾が第二の言語」の爆弾の星ですからね。爆弾はいくら放り込んでもよい。
なんですかねこれは?
ソシャゲ・ブラゲのシナリオ面を楽しむ者であれば逃れることのできない苦しみですね。
苦しい……苦しい……
コハルとルミナはハチャメチャに強いです。
そして、彼女たちが「表面ヒロイン」でありアポロが「裏面ヒロイン」であることがなんとなく掴めるかと思います。
コハルとルミナにとって機械士は好きな人で、そもそも価値があります。彼の存在も、彼が彼なりに彼女達の目の前でやっていることも、二人はかけがえなのないことだと思っています。そして、技術という機械士の課題に干渉できません。
アポロは機械士の無力感を自分の劣等感で共感でき、高性能な人工知能と高性能な宇宙船という機能で彼を「教導」できます。これは「アポロにしかできないこと」です。
実装されていない、そもそもホログラムとして姿を出すに過ぎないアポロが「メインスーリー上で機械士と結ばれるべき相手」の一人として独立した選択肢として強調されている強さはここにあります。
そのアンケートが実施されたときは、この爆弾が投下される前だったので、導火線に火が付いていることしか理解できていなかったのですが。盛大に爆発しましたね。さすが爆弾の星。
この「機械士×アポロ空間」には誰も入れませんからね。「機械士×コハル空間」と違って見せつけられまくることもないでしょう。設計図と睨めっこして工具を持ち材料を扱わねばなりません。教師と共に勉強しているので、「機械士×アポロ空間」は全身全霊です。ガチでやっているのと、ハイレベルなのとで、誰も入ってこられないし、集中しなければならないので進んで誰かを招き入れることも必要がなければしないでしょう。
延々匂わされ続けた果ての爆発は激しいものでした。
これ、「アポロ参戦!」みたいなものなので「ここからがこの二人の本当のはじまり」みたいなところが本当に怖いです。
最後に、雫。幸いにして雫の好きな人はルミナ様です。
雫の宇宙船メンバーの認識は、ルミナ様、コハル様、アポロ、男です。
これは「アポロのAPL-180自称」と同類の、けれど別側面です。
アポロのそれは一人称であり、雫のそれは二人称なのです。
なので、アポロと雫は裏ヒロインなのですが、裏の中でも種類が違うのです。
これは雫と機械士の鉄板のやりとりです。「なにかやらかしたとき」や「侮辱するとき」に限らず、雫は機械士を「男」としか呼びません。機械士は何度も「名前呼んでくれ」と頼むのですが、「男」です。
雫はズバズバ物を言うタイプなので「恋敵」→「エネミー!」→「男」をズバズバ出力します。「機械士・コハル・ルミナ」は過剰に気を配る分、雫は一刀両断してきます。全く気を遣わないわけではなく、必要に応じて気を配ることはでき、三人が優しすぎるので「あえて」シビアな点に踏み込んでいる節はありますが(そしてその姿勢は三人に優しく、アポロにはダメージ的に効きます
ちなみに、気配り狂い組はいつもこんなことばかりしています。
閑話休題。さらに、雫は宇宙船メンバーで一番と評される特徴を持っています。
雫にとって機械士は突然ルミナ様を寝取った(文字通り(寝てから言ってよ~))男であり、そして雫は嘘が上手です。
なので、雫と機械士の関係性は雫がずけずけものを言い、機械士が手加減してくれ! と言うのが常態であり、その基本は大きく揺らぎません。
最新のメインストーリーの1つ前の話でも、機械士が敵に拉致されているという危機的かつシリアスな状況で「男」呼ばわりしています。しかも言っていることが滅茶苦茶物騒です。これが雫の対機械士の常態です。
しかしながら、このメインストーリーの実装後、この衣装の雫が実装された際の個別ストーリーというIFでは、咄嗟に雫の口から出る言葉は違います。
また、彼女は機械士のことを基本的に「ルミナ様を毒牙にかけるクズ男」と認識していますが、
個別ストーリーというIFのような本当に礼を述べるべきだと自身が判断した場合は、彼の名前を呼ぶことを自覚的に行います。
そして、最新のメインストーリーでも雫のスタイルは一見変わらないのですが、
このスタイルは変えないままに、最新では何かが違います。
短い場面で連続して彼のことを「機械士」と呼びます。明らかに目立ちます。誰だって突っ込みます。
その当たり前の問いを受けた瞬間の雫の反応がこれです。
そして、雫の答えはスマートです。コハルもすんなり受け入れます。
ただし。
雫は宇宙船で一番嘘が上手いのですが。
雫の「機械士呼び」は事前に仕込まれていました。さらに、「名前呼び」をすることもよっぽどのことがあれば「ある」とIFですでに仕込まれています。
この「雫の機械士呼び」をコハルが指摘する話は、最新メインストーリーの第1話として、機械士×アポロのラインが成立する話と同時に発生します。爆弾を二発起爆します。さすが爆弾の星だなあ……
ルミナとコハルを表軸で動かしながら、雫とアポロを裏軸でメインストーリーとして同じ話で起爆するのは関係性が盛大にごちゃついてきてたいへんな状況です。そして、表軸のルミナとコハルは好感度MAXで自滅の七転八倒をしているのですが、裏軸の雫とアポロは好感度マイナスやゼロからプラスへ動き出しており、アンケートで問われた「ルミナ・コハル・雫・アポロ」という「メインストーリーで結ばれるべき4人」として正体が揃いつつあります。
さらに、りりぃあんじぇは「主人公」をなんと呼ぶべきかメインやイベントをぱっと呼んでいるだけだとなかなかわかりにくく、非常にわかりやすいところだと、たとえばコラボ先などでようやく「機械士」とネームが振られているくらいなのですが、この最新のメインストーリーでは雫は「機械士」と彼の通称を際立たせるようになり、更に彼自身も
この爆発の星で「機械士」として何かを成し遂げそうな空気を発しています。
何ですかねこれは?
これはソシャゲ・ブラゲのシナリオ読みマンの宿痾……永遠に救われることはない……
このように、「世界」が「辺境の小村→宇宙」になり、コハルは「立場」からして許婚であり王女であり彼の命の恩人であるルミナこそが機械士の相手に本来なるべき、だから自分の「立場」は危ういと思っており、ルミナは機械士とコハルの「関係性」からしてくっつくのはお似合いの二人であるべきで、「許婚」という「立場」を失って「関係性」が機械士と細い自分を弱いと思っており、アポロは共感で通じ合ってしまった機械士に自分にしか出来ない方法で手を差し伸べており、雫は「死になさい」と言いつつ今「男」ではなく「機械士」と呼んでいます。
今のりりぃあんじぇの宇宙船組とまたどこかがコラボすると、おそらく死ぬほどめんどくさいと察知することでしょう。
それはそうです。ぐっちゃぐちゃのどろどろなのですから。
優しい地獄。
お疲れのあなたにさしあげるぷにの姿か? これが……
責任
このようなりりぃあんじぇの超! めんどくさい関係性において、「責任」はプロローグの時点で超! 簡潔に明示されています。なのでほぼ述べることはありません。
コハルが宇宙船に乗ることについて、機械士の態度はこれです。
家族のいない自分と違って、実家の道具屋があるコハルが年単位で自分のために費やしてくれる。それならば責任は自分が取る。それが機械士の責任の取り方です。
そして、「コンビの冒険者」「幼馴染み」「いつか夫婦になる二人」であるコハルが、それを認めるはずがありません。
コハルは機械士に責任を取られることをよしとしません。機械士と約束を果たし、一緒の二人になるためには、機械士に依存した存在であってはならないからです。自分の責任は自分で取る。それが本来必要のない異物として旅に同行しているコハルの責任の負い方です。
それに対して、お人好しすぎるルミナに雫が先回りします。
ルミナは人が良すぎるので、機械士とコハルが責任の奪い合いをしているのはどうでもよいのですが、ルミナに責が及ばないよう予め切っておくのです。これが何でも抱え込もうとするルミナに対し、本来負わなくて良いたくさんの責任を負おうとする彼女を守ろうとする雫の在り方です。
そして、雫のそのような庇護を優しいとありがたく思いながらも、そっとその庇護下から前に出て最終責任者にとして雫に命じるのがルミナです。
責任一つで四者四様でこの様です。
指でそっと触れてもほろりと崩れて傷がついてしまいそうな、そんな旅路です。ですが皆優しいのです。そして優しいからこそ傷ついて、優しいからそれを隠して、万が一誰かの傷を見つけてしまった場合はケアします。バラされたくない傷ならそっと、そうでないなら盛大に。
優しい地獄なのですが、その地獄で開いた傷口にきっと気づけば寄り添ってくれる。優しい地獄の薄らとした見えない傷の上に絆創膏のように優しさが優しくはられているような状態です。
やっぱりお疲れのあなたにさしあげるぷになのかもしれません……
幕間
お疲れ様でした。ここまで5万字です。主たる読者として先生を想定していながらブルーアーカイブの話一切ないですからね。けれど、これは必要な作業でした。このnoteが何を述べているかを示すためには、まず溶鉄・救国の話を行い、りりぃあんじぇの話を行う必要がありました。ここまでが風呂敷を広げる話で、ここからはnoteにおいて風呂敷を畳みます。
このようなnoteの時系列を示すと二項対立を繰り返しながら後のものがよくなっていくという弁証法的な「誤解」をしてしまう方がいらっしゃるかもしれませんが、そのような意図は全くありません。
先に述べたとおり、溶鉄のマルフーシャは新しい作品であり、りりあんもまた同じです。現実の時系列で言うならそもそも救国、りりあん、ガークリはブルアカ以降にリリースされた作品で、どの作品も魅力的な独創性を持っています。
そのうえで、まず祖国の話をして、次に宇宙船の話をしたことには意味があります。特に「立場」と「関係性」を強く意識してもらうためです。
「立場」とはたとえばひとつには、ブルーピーコックの正社員であったり、最高指導者直轄の溶鉄部隊の隊員であったり、終と始まりの星の第一王女です。祖国においてはそもそも意見を通すための立場に皆がなく、そこに至る、あるいはそれができる組織を作ることが現実的に困難を極めることは先のとおりです。また、ルミナで示したように高い「立場」に権限が伴わず、敵意・殺意を買い続ける例もあります。また、機械士とコハルが得ることのできなかった「辺境の星」の「冒険者」もまた立場です。彼らはあの星のどんなプロの「冒険者」にもできない冒険をしていますが、この狭義の意味での「冒険者」ではありません。それは「辺境の星」の制度に認められた立場だからです。
「関係性」はこういった決まり事に完全には依存しません。ブルーピーコックでは9等級国民という最底辺の人間であるアブレック先生が上司であるダチカ先輩の頭を撫で回していますし、単なる「お客様」でありなんの特別な立場も持たないコハルは機械士との関係性において最も暴を振り回しています。
そして、「立場」は「関係性」のなかでときに規定から外れてメタファーになります。それはたとえば「冒険者」であり「許嫁」です。コハルはひたむきに努力して誰かのためになろうとする機械士を見て、頑張ろうと思い、機会士もまた無力な自分を向上させるために足掻き続けています。
機会士とコハルは「幼い頃交わした約束」において「コンビの冒険者」です。この時二人は「キョカ」などの難しい概念はよくわかっていません。ただ、「最初の冒険はふたりで」と言うように、二人は「並び立っている」必要があります。コハルは部屋に散乱する機械の部品や、自分の探求を蔑ろにしてまで他星の人々の作業を手伝う機械士の姿を見て頑張ろうと思いますが、機会士はコハルが「あたしが前衛、あんたが後衛」と当たり前のことを言い、そして後衛として何もできない自分の無力を噛み締めています。今の二人にとって「冒険」や「冒険者」は「辺境の星」の制度とは無関係なものであり、そうでありながら「関係性」の中で二人を位置づけるそれぞれの要素になっています。
ルミナの「許嫁」もそうです。これは現状何の力も持たず、ルミナ自身がそれを全く振りかざしません。ウェディングイベントといううってつけの話が来た際コハルに譲るくらいには無力です。しかしながら、機会士とルミナが体を重ねている、ルミナはその際死罪ともなりうる覚悟を実行している、という事実が「許嫁」という言葉に強い力を持たせてコハルに不安を与えています。そこに「王女」という強い権威が加わっているので、不確かな「許嫁」は強大な不安です。もちろんルミナはそのような権力の扱い方をしない子ですが。「婚約者」という「約束事」は立場上無力となったのですが、関係性の中に残っています。
また、「溶鉄のマルフーシャ」と「救国のスネジンカ」はそれぞれ彼女たちが嫌う政府軍・革命軍のプロパガンダです。それは象徴ですが、露悪的なまでに皮肉です。マルフーシャの場合は、そこまで祭り上げられてしまった結果敵国が動かざるを得なくなり、上級兵が彼女自身を助ける状況を結果として生みはしましたが、大局としては最悪さがより加速しています。「あくまで立ち上がったのは彼女たち自身だ」という体で彼女たちは祭り上げられます。自己責任で立ち上がったという共通認識でプロパガンダが敷かれているので、その体裁を崩さないように、離反できないように首輪がかけられています。象徴は自分たちの大切な関係性の外から、自分たちの嫌う巨大なものにより強制的に押し付けられることもあります。
こういった諸状況を確認した上で、話はガールズクリエイションへ、そしてブルーアーカイブへ移ります。それぞれのこれまで2作にない象徴的なポイントは「館長」と「先生」です。「提督」であったり「指揮官」であったりが思い出されるでしょう。それでよいです。つまりこれから語る2作でプレイヤーの分身とされるようなキャラクターには一定の立場と権限があり、「立場」上の「実力」があります。これはたとえば「機械士」とは大きく異なる点です。
とはいえ、こういった「立場ある存在」としての主人公は「部隊編成して出撃させる」以上、そのゲームシステムの正当化としてありふれているのですが(だからこそ徹底的に「なにもできない、なんの立場もない、無力。努力しても知能があっても届かない、何の特殊能力もない凡人」の機械士のそれでも創意工夫を凝らした「銃」が役に立たず、だからこそ部屋がグチャグチャになるまで努力して、その果てに「死んでおくべきだった」とまで追い詰められる様が新鮮なのですが)、「館長」と「先生」にはそれぞれ「奇妙な色」があります。つまり、「指揮官系」というジャンルの代表からこのふたりをピックしたのではなく、「このふたり」をピックする必要がありました。そしてこのふたりを選んだのは、先にマルフーシャたちやルミナたちを選んだこととつながっています。だからここは幕間でした。
ガールズクリエイション
善なる公的連携
ガールズクリエイションは先に述べたとおり擬人化ゲーです。舞台は「藝術都市」であり、実在の芸術家や作品を擬人化してヒロインとして取り扱っています。細かい世界設定的な精緻さは以下のnoteにありますが、本noteを読む際には深く理解する必要はありません。気になれば覗いてみるとよいでしょう。
まず今までのようにわかりやすく舞台を示しましょう。
舞台はひとつの都市、藝術都市アテネス。藝術家を志すならここに、と世界中の人々が思う都市です。そして、その都市で主人公である「館長」が拠点としているのが都市唯一の美術館である「夢幻美術館」です。
次に、敵です。
この世界の藝術家によって生み出された作品からはときに「イマージュ」が羽化して少女の形をとります(これが作品の擬人化です)。ただし、殺意などの悪意を込めて作成したならばそれが「死の芸術」と呼ばれる他に害を与える危険物として形をなし、これを作る「死の芸術家」や、「死の芸術」を用いた「芸術犯罪」がアテネスではあとをたちません。非常に分かり易い構図と言えるでしょう。伝統的とすら言えます。
ガールズクリエイションの異常さが際立つのはその一見「伝統的すぎる敵」との「戦い方」です。
まず、夢幻美術館はあくまでも美術館です。主人公である館長が新たにそこを引き継いだ際は、夢幻美術館は美術館としての体裁を全くなしていませんでした。展示すべき作品も、ぜひ美術館へと志す藝術家もいません。
そんな中でこつこつと館長は美術館の最低限の機能を立て直しています。メインストーリーがはじまる頃には最低限なんとか、というところまで立て直しができ、作品や藝術家、イマージュなども集まりだしているところです。この流れも伝統的でしょう。ある程度キャラクターが揃っている前提でメインストーリーが開始されるタイプです。
ただ、メインストーリーが始まってしまうとおかしな点があります。敵は「死の芸術」です。こちらの勢力は「夢幻美術館」です。作品を展示、公開する組織と犯罪グループは直接的な敵対関係には本来ありません。もちろん、美術館としては芸術犯罪などやめてほしいのですが、そのために動くことは美術館の本来的な機能ではありません。美術館とはあくまでも美術館です。
ゆえに、美術館はあくまでも自警組織としてアテネスを守ろうとしています。ここまでもまだ伝統的です。
美術館はその立ち位置を弁えた上で、本来の警察組織である「アテネス市警」や芸術犯罪への対処を含む公的決定をくだす「アテネス市議会」の領域を侵犯しようとせず、逆にゲームとしては異常なほど、徹底的にこれらの組織と報連相を行います。それは現実的に当たり前の姿なのですが、「都市の公権力と緊密に連携し、市民にも愛されている自警団」という圧倒的に強い「立場」をもって連携的な強力さで「犯罪者」を潰します。
勝てるわけなくね?
と溶鉄・救国とは逆に、こちらが非常に強いです。普通に犯罪やってこの連携に勝てるわけがありませんし、組織的にやろうにも相手は連携した公権力です。
こういった組織間の連携は利害関係により複雑になりがちです。ですが、ガールズクリエイションにおける組織は潔いほどに連携します。連携した上で「互いの本分」を尊重しています。
自警団の代表である館長と熱く警邏をやっているジャン刑事、ぶつかるどころかこの二人は親友です。
館長は捜査や張り込みといった美術館の管理職らしくない作業に手慣れていますが、これはジャン刑事と極めて仲が良く彼に学んでいるからです。
ジャン刑事の側も夢幻美術館の「美術館」を強く尊重しており、本来中流以下の人間にはとても手の届かない「至高」とさえ呼べるような作品の数々を一般に公開する仕事の価値を尊いものだとして、自らもしばしば鑑賞に訪れては浸っています。美術館に価値があるからこそ、専念させてやれないことが悔しく、けれどそんな自分のプライドではアテネスを守れないので今は歯を食いしばって美術館と協調する。けれど、それは美術館の厚意であり本務ではないことを絶対に忘れない。これがジャン刑事の姿勢です。
ジャン刑事と館長だけならまだ個人の話ですが、美術館と市警はとにかく仲が良いです。
夢幻美術館は定期的なもの、イベントや犯罪時の緊急的なものを含めたパトロールを常に行っているのですが、「現実的に当たり前のこと」ですがそれを市警に適切に情報共有しています。なので、市警もどれだけ若く気が逸っていても、美術館メンバーがパトロールをしているのは「今日も」と口にするように日常なのであり、美術館メンバーが歴戦なこともあり、ジャン刑事のようなエースでなく年若い人々はむしろ美術館の姿から学ぼうとする姿勢さえあります。
けれど、市警は決してその背に学ぶばかりの人々ではありません。
アテネス市警は自らにできることを全力で実行します。そのうえで、「協調」しているので自分だけではできないことも結果としてはできる、という戦い方をします。強力な藝術家やイマージュのあと一歩が届かないとき、身を呈せばその一歩が稼げる。そしてその一歩さえ稼げれば自分の力が及ばずとも守れるということを理解して実行できます。
アテネス市警が全体的な組織の空気として「こう」なので美術館としても全力で協調・尊重しているのです。
これは組織の気質の問題ですが、組織としての機能上の強みもアテネス市警にはあります。
「子供の誘拐事件が起きているが、市警はパンクして人員を割けない」というまさに美術館が動くべき状況での館長の初手はこれです。
「アテネスの本来的・公的な警察組織」とは「アテネス市警」です。美術館はしょせんパトロールについて自警団に過ぎません。本来の業務は美術館の運営であり、ストーリー上の「芸術犯罪」情報は組織の機能上「夢幻美術館」には集約されません。そして、それは問題になりません。組織間の連携が極めて強固なので、美術館にできないことでも市警が本来の業務をきちんと果たしていれば連携で事は済みます。
情報は単に受け取るばかりでなく、きちんと共有します。
互いにパンクしているので、互いの情報を擦り合わせつつ、互いの行動指針を共有して決定する。ここまでやって美術館は動きます。
議会も極めてオープンで、素で美術館と協調しています。そもそも美術館に議会の議員と兼務をしている藝術家がいるほどです。公職としてその兼務は問題ないのです。このレベルで「公」が連携しています。
加えて、「自警団に過ぎない」という夢幻美術館の警備における公共性の弱さはアテネス市議会の議長という立場から、夢幻美術館という組織への依頼という形で補強されます。
市議会は「政治色」が強いです。それを自覚した上で、かなり強力な「夢幻美術館」への「依怙贔屓」を議長は断言しています。
警察組織と協調している。市議会の経済的支援と政治的支援が入る。
これが自警団・夢幻美術館の圧倒的な力です。「擬人化美少女の謎パワー」が強いのではなく、「組織固めと連携」が強いのです。偉大なる我が祖国カゾルミアではまず期待できません。祖国の現状を解決しようと革命軍を立ち上げようにも金がなく、祖国を敗戦させるという利益を一にするだろう敵国をスポンサーにつけてみれば、その実傀儡にされてしまうような世界です。宇宙を旅するルミナたちは、王女様ご一行ですが、降り立つ星の人々はそんなことは知らず、宇宙規模、特に母星の王家から見ればルミナたちは汚名を重ねる犯罪者集団です。極めて高い立場で孤立無援となり、家族から「死ね」と刃を突きつけられています。
夢幻美術館の異常な強さがわかるかと思います。ブルーアーカイブですら連携力ではここまでではありません。思い出されるべきは最終編の非常対策委員会です。キヴォトスにおける「組織の連携」は「難題」です。エデン条約機構もそうです。先生が介入してなんとかしていますが、先生がいなくなると崩れる危険を常にはらんでいます。
アテネスのこの組織連携は館長の外交力に依るところも大きいですが、「夢幻美術館」「アテネス市議会」「アテネス市警」といった組織それ自体に一定の信頼があります。つまり、館長が倒れて直ちには崩壊しません。これは「館長がいなくなっても全く問題ない」ということではなく、「多少の不在はカバーできる」ということです。
組織があると「ギスる」のがお約束なので、複数組織を出しながら現実的に「連携」「リスペクト」を連打してくるアテネスの組織はあまりにも強いです。
藝術の取り扱いについても自警団としての方針としても「夢幻美術館」として対立し、かつ藝術家も擁している「新藝術騎士団」というライバル組織も確かに存在はします。
確かになんともだめなライバル組織らしく見えます。
見える、の、ですが。
「新藝術騎士団」は「芸術犯罪」を許しません。心から憤っています。子どもたちが噴水で遊ぶような祭りで、住民を殺すと脅迫し、実際に噴水では死んだ魚が浮いていて既に毒は撒かれている……こういった状況に美術館より迅速に到着し、安全確保を行うのが「新藝術騎士団」です。彼らは迅速性を持っています。彼らの速度と一定の戦力のおかげで守られる人も多いです。
そして「夢幻美術館」と「新藝術騎士団」はこういった「許しがたく、協調するほかない悪行」が発生した場合一次停戦して冷静になることができます。
ここにいる新藝術騎士団は持っていないタイプの藝術魔法で根本的に事態を解決する、と方針を決める美術館に対し、新藝術騎士団は今危険な毒入りの噴水に子供を近づかせない、という防衛を即担います。
しかも、この人たちはそこまでガチガチに怖くないことがあります。
「近づくんじゃねえ」ではなく、「焼きそば食ってろ」と子供を上手くあやしていけるのが彼らです。騎士団的な姿勢としては強硬でありたいのですが、結構人の良さを隠せない隊員が多いです。
なので、上手く共闘できたときは煽り合いつつ「まあ、今回は良かったんじゃないか」するのがこの二組織です。
こういったアテネスを守る人々の姿勢は美術館の少し皮肉好きな居候のいつもの皮肉と、その反応と評価にあらわれています。
銀行強盗(ん)を捕らえた後、遅れてやってきた二人を居候は皮肉ります。
それに対する二人の反応は「素晴らしい」「ごめんなさい、ありがとう」です。
つまり、アテネスで平和を守ろうとしている人々は、平和が守られていればいいのであり、手柄がどうのといった処理にあまり頓着しません。
そして、この「心が綺麗な」「正義」と、「誰が倒したかは問題ではない」ことはかなり傷を伴う形で描写されています。
館長の親友であるジャン刑事は、アテネス市警の象徴は死にました。
議会の議長であり象徴、美術館の協力者のネリーナも死にました。
固有の立ち絵を持ち、しかも一方は女性で藝術を扱えるという設定で死亡しています。ですが、「象徴となっていたその人がたとえ欠けても正義と連携は失わない」のがこの世界の組織です。
このメインストーリーで死亡したのは館長の親友であるジャン刑事であり、そして主となった美術館の藝術家は「名探偵」を自称するセキエンで、あまりにも苦い結末なのですが、「夢幻美術館」と「アテネス市警」の連携はジャン刑事が失われた後も終わることはありません。
そして、別のメインストーリー。アテネス市議会の議長、ネリーナの死後。同じくアテネス市議会の議員としても働く仲間であり、彼女に「アンちゃん」と可愛がられていたアングルは、ネリーナ議長の遺志を継いで彼女が昔、サービス開始時に確約はできないが、としていた姿勢を公に決定しました。
「アテネス市議会」と「夢幻美術館」の関係も、象徴が死亡しても変わりません。「アテネス市議会」の場合、議長がガールズクリエイションにおいてとても強い意味で「悪人だった」という点で権威が揺らいでいますが、代わりにその議長に可愛がられていたアングルが議長を倒した英雄としてプロパガンダを打たれて議会の面目を保っています。「救国のスネジンカ」プロパガンダと違うのは、アングルはプロパガンダを利用して我意を貫き理不尽な決定を強いることのできる英雄的かつ政治的な「立場」に立っている、押し付ける側だということです。そして、この「立場」を使った戦闘法は、アングルが議長ネリーナに教え込まれていたものでもあります。悪人・議長ネリーナについてアングルは許せないものの割り切れない思いを抱き続けています。
「正義」のためのアテネスの連携はこのレベルで強固です。そのため、本作の主たる敵陣営と目される「フィーニス」は現状どうしても決定打に欠けます(もちろん隠し球があるでしょうが)。「犯罪組織」が「連携した公権力」と敵対しているのですから、現状は「現実的に考えて当然」の力関係と言えるでしょう。
また、フィーニスの組織としての根本的な姿勢を、ガールズクリエイションの敵役としておそらく決定的に立ったネリーナ議長が一蹴しています。
なぜ彼らが「クソ」なのかはこのメインストーリーの幕間で極めて簡潔に触れられています。
「死の芸術」を用いて悪行をなしているフィーニスは正当化できない。しかしながら、彼らは被害者面をして加害行為を行い、自己正当化している。なので決定的に反りが合わない。
ネリーナ議長はごく普通にものを考えます。普通に考えて悪なのに、ごちゃごちゃと見苦しい言い訳をしているフィーニスの姿をクソだと唾棄しています。
彼女はただシンプルに他人を破滅させることが生き甲斐で、それを楽しく思う人間です。ただただシンプルにそうです。そして、シンプルにそれをやめるつもりが毛頭なく、そしてシンプルにそれは正当化されない、悪であると判断しています。普通に考えてこうなるだろ? を全部普通にやっています。そこで自己弁護をし始める姿が彼女にはクソなのです。
話せばわかるって言ったのか?
そして、ここが正義として連携しているガールズクリエイションの前に立つ深い断絶です。
「アンちゃん」と自分を可愛がってくれたネリーナ議長に、「どうして」と美術館所属、議員でもあるアングルは問います。
対するネリーナ議長はめちゃくちゃダルそうです。シンプルに無駄な話をされてそれ意味なくない? しています。
それでもアングルは「話せば分かる」と断言します。
けれど、そここそ断絶です。
「話せば分かる」と言われたのでシンプルにネリーナ議長は話します。
誰が善人で誰が悪人なのかも全くブレず、ごくごくシンプルに誰にでも納得のいく話をします。
で、何が「話せば分かる」のか?
これはネリーナ議長に限った話ではありません。
「アテネスが平和だったので苛立った」
これが「程度」として「死の芸術」を生むほどの強さになり、「芸術犯罪」が発生するのがアテネスです。仮にネリーナ議長がなんとかできるとしても、他は? 芸術犯罪を起こす「死の芸術家」とはこういった手合です。
芸術犯罪は頻発しています。アテネス市警が麻痺するほどに。夢幻美術館や新藝術騎士団が自警団として奮闘してなお死者が出続けています。
その死の芸術家に「話せばわかる」と、しかも鉄火場で口にしているのです。しかも、普段は他の死の芸術家をラフに叩きのめしているのに、身内の議長に「こう」とは、「公人」としてなんとも妙な姿です。
それはシンプルではありません。
「心が綺麗な」「正義」の藝術家にはネリーナ議長が何を言っているのか微塵も共感できないのです。そしてネリーナ議長はそれでいいと断じます。
加えて、彼女はそういった「善性」を極めて容易くハックします。
「話せばわかりそうな」事情を敢えて話して、即ちゃぶ台をひっくり返します。
自らが最も不正であるのに、正義であると称えられる滑稽さを笑っています。
その「善意へのハック」はただの遊びとしてのみ使用されるものではありません。このメインストーリーにおけるネリーナ議長の策略は極めてお粗末なものでした。実際に勘の鋭い藝術家が秒で怪しさに気づいています。けれど、裏切りは成立しました。それは彼女が「善意」を的確に利用したからです。
強力に連帯している彼女たちの極めて大きな弱点は「善意」です。
「善意」で憤り、理由を探そうとする人たちを徹底的にネリーナ議長は煽ります。
とにかくネリーナ議長はノリノリです。三流悪党のように命乞いをして、突っぱねられた瞬間に嘲笑いながらこんな芝居はやめようぜと蹴飛ばしてきます。「話せばわかる」以前に「見ればわかる」ので、「いちいち訊くなよ」というわけです。それをめちゃくちゃ楽しそうに、善意を持つ者が不愉快になるように、徹底的に悪意をもって煽ってきます。
「私は悪だ。それを曲げるつもりはない。私の快楽のために死ね」
これがネリーナ議長のシンプルな姿勢です。
館長はそんなネリーナ議長に提案をしようとします。
もちろん自己犠牲は何の意味もありません。なので館長が絞り出した交渉がこれです。
館長側のメリットは、憎悪するネリーナ議長を仲間に入れてでも守らなければならないほど、アテネスの情勢が悪いこと、そしてネリーナ議長の能力が異常に高いことです。対して館長がネリーナ議長に提示するメリットが、世界と調停できるかもしれない趣味の模索です。
ネリーナ議長の評価は極めて常識的かつシンプルです。
そして、彼女の感覚が下す結論もまたシンプルです。
彼女の破滅的な趣味は、「優勢」から発されているものではありません。計画が崩れ、勝敗が見え始めてきても、彼女はなんら揺らぎません。
ネリーナ議長との戦いで一時我を失したアングルですが、責の問わせ方は公人としての姿勢を取り戻します。彼女は善人であるとともにネリーナ議長が手塩にかけて育てた議員・公人なので、それができる人です。
「法による裁きでは結局のところ自分はなにもかわらない」
それがネリーナ議長のシンプルな答えでしたが、
「今回ネリーナ議長が負けたように何が起きるかわからない」
それがアングルの切り返しで、これはとてもシンプルにその通りなので、その答えならば実際どうなるかはともかくネリーナ議長は受け入れてくれ、「数多いる死の藝術家についてネリーナ議長については」「絶対にわかりあえない」相手から「どうなるかわからない」相手になります。
まあその直後に死の芸術の奇襲を受けたアングルを庇ってネリーナ議長は死亡するのですが。
そういった「善意をもって現実的に最大限努力した結果」について館長はある意味ドライ、「うまくいかないこと」を織り込み済みで動くところがあります。
館長がネリーナ議長に放った交渉は本気ではありましたが、本気で交渉すること自体が上手く行かなくてもいい時間稼ぎとして機能します。つまり、「ネリーナ議長とはわかりあえない」場合でも対処できるように彼は動きます。動けてしまいます。「わかりあえない」場合まで考慮した一手を打ってしまえる人です。
この館長の精神性については、ジャン刑事の死を見送ったあとの姿に端的に現れています。
溶鉄・救国と違ってガールズクリエイションの公的な状況は素晴らしいです。けれど、ブルーアーカイブと違って「現在」の時系列で頻繁に死人が出ます。そして、りりぃあんじぇの宇宙船の子たちが持つような繊細さは館長にとって、過去に置いてきたものです。
彼は最善を尽くします。自分の力だけでなく、他の組織の力を借りて、それが可能で有益なら憎い敵とも便宜的に協調しようとします。
そして、それだけやって上手く行かず、死者が出た場合の痛みは、たとえそれが親友のものだったとしても彼を立ち止まらせるほどのものではありません。
それは自身を「アンちゃん」と可愛がってくれたネリーナ議長を失ったアングルにとっても同じことで、英雄的に祭り上げられた彼女はそれを利用して美術館の地位を盤石にする等、凹む暇があったら有効活用します。
星に願いを
ここまでだと苦くも現実的な希望へ進む現実主義なのですが、ガールズクリエイションは「それで満足だ」とは決して言いません。
議長のメインストーリーが行われた後、「ニコラス」というイマージュが実装されました。ベルテル・トルバルセンの「ニコラウス・コペルニクス像」がモチーフになったイマージュです。個性的なあの像を思い浮かべられずとも、コペルニクスの名だけで「地動説」は思い浮かぶでしょう。そこから宇宙、りりぃあんじぇを、あの優しい宇宙船を思い出していただいて全く問題ありません。
ニコラスはモチーフ、あるいはモチーフのモチーフどおり博識、特に星に強いのですが、「異常」なまでの善性を持っていて、アテネスの皆に愛されています。
「藝術」都市アテネスで「学問」の面白さを平気で開いてさらっとそれが流れるので尋常ではありません。とにかく彼女はめちゃくちゃ良い人であり、皆に愛されています。
ニコラスと過ごす時間を巡って喧嘩が勃発する程です。
対処できなくなったニコラスは館長のもとへ「こういった事態」への対処法を訊くのですが、館長は状況への評価も対策も極めて常識的かつ冷静です。
普通私人と私人がやりとりするのに「順番制」はありえません。ですが、実際に取り合いで喧嘩が起きているなら普通に考えるのではなく別物と認識すべきで、普通はありえないという枷を外せば「順番制」で片付きます。
かち、かち、と館長は綺麗に物事を畳んでしまいます。これが館長の強みです。善意を持ちながら良識的かつ常識的に上手く組織や仕組みを使うのです。「現実路線で善意の使い方が上手い」のです。
ニコラスは非常に敏い子なので「あまりにも答えが簡単すぎる」のでさすがに自分が愚かすぎると反省して、そんなことで煩わせてしまったことを館長に詫びながら部屋を辞します。
そして、館長はその先にまで考えが至っています。
「なぜ気づかなかったのだろう?」
それはニコラスが常識に囚われていたからでもなく、未熟で愚かだったからでもなく、館長に言わせれば「みんな大切な人で優先順位がつけられなかったから」です。ニコラスは良い子で皆に愛され、皆と打ち解けられますが、シャイなところもある子です。大切な人に囲まれてわいわいとなると皆が平等に大切なのでパンクします。だからこそ、平等性のために異常に善性があって異常に愛されるシャイなニコラスは順番制を使うべきだけれど、ニコラスは彼女の自己評価と違って敏いので、館長は彼女は気づくと思って言わぬが花とします。
けれど、ここまでは「善意の現実路線」の話です。
ニコラスの個別エピソードの2つ目は順番制で問題を解決してくれた館長をニコラスが天体観測に誘うものです。流星雨を眺めるふたりは各々の感想を抱いて、館長はそれをよいものだと思っています。夜空の見方が違うことは、藝術にとって当然ですが全くマイナスではありません。ジャンル差のレベルでも、個人差のレベルでも、空とは違って見えるものです。なので、それが「心を打つ光景」として共通していれば解釈が違っていることに何の問題もないのです。
そして、流れる星には願うものです。
ニコラスの願いは『このアテネスが争いのない素敵な街になりますように』です。
人死にが「現在」の時点で発生し続けている中で、宇宙の星々において個人などちっぽけなもので、それでもニコラスという少女の真剣な想いはそれです。
死の芸術家による芸術犯罪、ただアテネスが平和だったからという理由ですら発生するそれに、彼女の儚い善性がどれほどの力を持ちうるか、そもそもその善性そのものに「死んでくれ」と言われるほどの憎悪を向けられうると既にメインストーリーで明示されていながら、それでもそう語られます。
ニコラスの願いは小さな個人のもの。
けれど、館長はそれも星と同じで、その輝きが集まれば輝く夜空になると断言します。そして、それこそが「夢幻美術館」の役目であると。
館長は親友を失っても歩みを止めない、その繊細さを過去に置いてきた人です。"いいやつ"と評されて、だから「死んでくれ」と言われた人です。
それでも、
できそうもないことを「きっと、できるさ」と言う理想が、現実的に強固な善意の取り組みの上に走っています。友が死んでも、否定されても、「きっとできる」と言い切ります。それこそが「死んでくれ」と言われる彼の性分であり、そんなことはわかった上で、貫かれている理想です。
だから、ガールズクリエイションは現実的に努力しながら、夜空に輝く星々という理想を諦めることは絶対にありません。
これがガールズクリエイションの世界であり、あるイマージュの願いであり、夢幻美術館の責任であり、館長のあり方です。
抄:レンブラント・レイニー
そんな館長は基本的に「順当に滅茶苦茶強い」のですが(これは機械士の「順当に滅茶苦茶弱い」姿と対照的に双方を魅力的に見せるでしょう)、明々白々な弱点をふたつ持っています。
ひとつは「夢幻美術館内に夢幻美術館の敵とすべき者」がいることです。
しかも、サブキャラクターではなく初期実装のメインヒロインの一人、夢幻美術館がまともに回りだした頃の古参メンバーの一人として存在します。
その藝術家は「レンブラント・レイニー」
彼女は表の世界において藝術家であり、
裏社会において「死の芸術」のコレクターです。
需要者として、ブローカーを介して「死の芸術」を蒐集して楽しんでいます。しかも、ブローカーが平身低頭するほどのお得意様として。
なにか裏があるのではなく(そういった事情を読み取ろうとすれば、ネリーナ議長が嘲笑い出すでしょう)、シンプルに彼女は「死の芸術」が好きです。
そんな彼女を館長は全く疑うことができず、正義の藝術家であり仲間だと信じています。けれど、それは光でもあり、闇でもあり、その細かい関係性は以前noteにしたのでこのあたりで於きましょう。詳細が気になる人は以下を確認してもよいかもしれませんが、全く読まずともよいです。
「家族」の責任を負うということ
もう一人、館長が「一度完全に扱いに失敗した」少女がいます。
それが、記憶喪失の天才藝術家アルテです。
館長は基本的に藝術家やイマージュと非常に「上手く」やります。
彼は現実をきちんと見つめながらも理想を抱いた善き大人なので、先のニコラスに限らず、美術館のメンバーとはだいたいうまくいきます。
けれど、アルテについては失敗してしまっています。
アルテは記憶喪失の居候です。夢幻美術館という組織・建物はあるにせよ基本的に藝術家は自身の拠点、家を持っているのですが、アルテはそれを持ちません。アルテは家を持たない居候として館長と同居しています。
館長、アルテ、そして学芸員のサンソヴィーノの三人が「夢幻美術館という建物(つまり組織でなく)」で暮らしており、そこに仲間として藝術家たちが仕事をしにきているのです。
アルテは「天才」を自称しており、館長もそれを認めるところですが、とにかくアルテは作品を生み出そうとしません。だいたいぐうたらしています。ぐうたらしているのが好きな子ですが、シンプルに「スイッチが入らない」という問題も抱えています。一度スイッチが入ると習作を物凄い勢いで描きはじめ、短時間で大量の、高品質な絵を習作として量産します。だからこそ館長もアルテが「天才」であることに審美眼ある夢幻美術館館長として太鼓判を押しています。
けれど、彼女はサボっています。
たとえば先の議員、過労に過労を重ねているアングルが談笑して精神を回復させようと美術館を訪ねた場合、
当然のごとく館長の部屋にはアルテがいます。特に理由はありません。
この状況は当然のように頻発します。
館長は基本的にアルテがだらだらしていると容赦なくツッコミますが、これはアルテ自身が望んでいることでもあります。
その上で、たまには優しくしてほしいとも述べています。
館長はこの意を汲んでアルテに容赦なくツッコミつつ、たまに優しさをみせます。上手くやろうとしています。
ですが、一度盛大にアルテとの関係で大失敗をしています。
「天才美少女、家出する」というそのものずばりなタイトルのイベントで、開幕から家出です。
いつか起きると思ってた。
全プレイヤーの確信だったと思います。
館長がピンときていないのもでしょうねと皆思っていたことでしょう。
あんまりピンときていない館長のところに、館長・アルテに加えてもうひとりの同居人である学芸員のサンソヴィーノが飛び込んできて、事の次第を問いただします。
ガールズクリエイションやったことなくてもだいたい館長・サンソヴィーノ・アルテの関係性と力関係と館長がどういった具合にやらかしたのか、もうこのやりとりだけで読めてしまう人が少なくないかもしれません。
既プレイヤーはタイトルだけで館長が何やらかしたか分かって爆笑していたので……
アルテは作品を作りません。気まぐれに習作やデッサンに手を付けることはあっても、「作品」として藝術家が提出するものを作ろうとしません。
館長には確かな審美眼があるのでそれらを「すばらしい」と当然判断するのですが、アルテは「仕上げる」ことをしません。
館長があまりにもしつこいので、アルテも強く言い返します。
これでぴんとこない方でも、次で館長が実に館長らしくアルテが不安に思っている地雷を踏んで気づいていないことがわかると思います。
そうして館長目線ではしょうもないいつもの喧嘩になっていきます。
館長的にはいつものやりとりで「アルテがごろごろしている→描けー」している通常バージョンの憎まれ口の叩きあいのつもりだったのですが、アルテが飛び出していきました。
館長は何も気づいていません。
コミカルなのは館長は正論を言っていることです。
アルテは才ある藝術家です。美術館に所属させ、かつ居候させているという名目もあります。「じゃあ描けよ」は何もおかしくないのです。
けれど館長自身がアルテが家出したことに「後ろめたい」気持ちがあるのです。「夢幻美術館の館長」として堂々としていられる正論しか言っていないはずなのに、どんどんしょぼくれていきます。
この掌ころころ具合でだいたいわかるでしょう。館長と、サンソヴィーノと、そしてアルテの関係が。
ここまで館長とサンソヴィーノのやりとりがわかりやすくどういったものなのか示されているので、それはもうじゃあアルテは何なのか答えは出ているようなものです。
このサンソヴィーノ、非プレイアブルのナビゲートキャラながら個別ストーリーも実装されているのですが、
藝術家の場合、親愛10で寝室開放、サンソヴィーノの親愛も10なのですがなんですかねこの「Coming Soon」という文字列は……
FANZAゲーのナビゲーターっていつもそうですよね!!
ダメ押しに普段の三人の夜も出しておきましょう。
どれだけクソボケでもさすがにわかるでしょう。
ここまで見るとアルテ側が全力で甘えているように見えますが、実はそんなことはありません。
館長は外交力が高いのですが、特に公・官僚仕事に対してうまくあたれます。しかし、ビジネスや貴顕相手となってくると得意分野ではなくなってきます。特に美術館を回し始めた最初期はきらびやかなパーティーについての経験値が全く足りません(今も得意ではありませんが)。
なので、「おいしいごはん(最初期の美術館はすかんぴんです)」でアルテを釣って、アルテがそれに乗っています。
アルテはだらだらしつつも、常時子供っぽさと同時にどことなく上品さが漂っているので、多少過剰さはありますが社交もすんなりのりきってしまいます。
文句を言いつつ、この程度はとさらりと流してしまいます。
なのでごはんでアルテを釣って大成功だった……という話ではなく。
アルテは自信のない館長のために、所作や言動を予習しまくり、一生懸命身につけて会場に臨んでいます。館長のために頑張って、しかも館長のために頑張っていることはバラしたくなく、あくまで軽く余裕で手伝ってあげたという体を作ろうとする子です。全力で恩に着せてはくるのですが、それ自体がある程度目眩ましで、館長のために頑張ってなにかしたい子です。
アルテが家出したときの衣装についても、個別ストーリーで入手経緯の言及があります。アルテのスケッチを見た貴顕が、手術に恐怖する子のためにと買い取りを要求し、そういうことならとアルテが何枚も描くと言いだし、それへの対価が家出衣装です。
重要なことはこの衣装はアルテが選んでいるということと、細かい所はアルテ自身がアレンジしたという点で、館長の感想を受けたアルテの反応がこれです。
「滅茶苦茶高価な服が手に入る」となると「館長が好きそうなものを選んで、それが目論見通りヒットすると喜ぶ」のがアルテです。もちろん、「館長の好みに刺さることをする」のが目的で「そのためにあれこれ考えている自分」は見せたくないので、これは失言です。
この他にも、アルテにはたとえば寝室では上になるのが好き(主導権を握れるからではなく、それが一番「してあげられる」形だから)という特徴があったり、確かにアルテは館長に甘えているのですが、滅茶苦茶甘える分滅茶苦茶尽くしてもいます。しかも本人は軽くやっている風にして軽い恩を被せておしまいにしようとしてきます。
そのうえで、パーティーに着いてきてくれたことへの「お礼」はアルテから素で答えると「館長とサンソヴィーノといっしょに夜食を食べる日々」です。
夢幻美術館の館長として藝術家アルテを憂い、言うべきことを言って「それだけ」の館長の正論にサンソヴィーノが「クソボケ」と笑顔で説教する理由が誰でもわかるでしょう。
館長は「夢幻美術館の館長」として「堅実すぎるほどに強い」のでその「館長」という立場で「藝術家アルテ」に「適切に」対応するとアルテはひどく不安になるのです。
「館長」は「順当に善く上手くやり過ぎる」ので使えない藝術家を無理してなんとか面倒を見ているように見えても仕方がありません。
冒頭の喧嘩で「私が私でいるだけ」のことの価値をアルテが訴えていたのはそういうことです。そしてそこにポイントがあるということに館長は全く気づいていませんでした。
でしょうね。
追撃に家出少女がこんな風景を見送っているのでもう終わりとしか言いようがありません。
アルテは記憶喪失で天涯孤独の身を拾われているので、文字通り寄る辺がなにもありません。
万事そつなくこなす「館長」ですが、ここまでしなければ「館長・サンソヴィーノ・アルテ」という関係における「彼」は「立ち上がる」勇気が出ません。そこのところはそつなくこなすどころか七転八倒している人だからです。
とにかく館長には経験値がありません。当たり前です。本noteとは関係のない非本質情報ですが、館長は未婚の男性です。子供はいません。そんな経験値は0なのです。難しい年頃の我が子を上手く相手するための経験は0です。無関係情報ですが。アルテもまた記憶喪失で天涯孤独なので色んなものがありません。
けれど、ありがたくもサンソヴィーノから「仲直りのこつ」を教えてもらっています。だから、それをやるだけです。
だめです。とにかく下手です、夕暮れの帰り道でひたすらこういうことをしています。そうしてなかなか上手く切り出せない時間を二人でどうにかしようとした挙げ句、
こういう時により早く勇気を出せるのはアルテの方です。「館長」は万事そつなくこなすのですが、領域外となると途端に上手くやれなくなります。対してアルテは自分の身についていない社交術すら館長が求めるなら身に付けてきます。サンソヴィーノに後押ししてもらってもなお、根本的にアルテがはやいです。天才美少女を自称してふんぞり返ってだらだらしている穀潰しと、穏やかで理知的で常識的な館長なら、どっちが先に謝りそうかというと逆に見えますが、この二人は「家出した方」と「家出された方」です。関係ない話ですがこういうときの尻に敷かれている系の父親はとてつもなく雑魚です。
たいへん偉そうな謝り方ですが、アルテの方から先にここまで歩み寄ってくれるのです。サンソヴィーノも溜息ものでしょうが、ここまでしてもらっては覚悟を決めるほかありません。
「夢幻美術館」は「藝術都市アテネス」唯一の美術館であり、擁する藝術家とは「館長がその審美眼で認めた価値ある藝術家」たちです。そういった「立場」が「夢幻美術館」にはあり、「館長」とはその代表性を持っています。
だから、「描かないアルテに価値がないからなんてことじゃ、絶対にない」という言葉は「美術館の館長」から「藝術家」に対する言葉としては出ないのです。なぜなら、作品を生まない藝術家を美術館が擁する理由がないからです。
けれど、「アルテがアルテである」というだけで「夢幻美術館という組織」ではなく「夢幻美術館という建物」に棲んでいる「館長・サンソヴィーノ・アルテ」という関係は十分であり、「描く描かない」でその関係が崩壊することは絶対にないのです。
けれど、サンソヴィーノに「クソボケ」扱いされた館長は一応「館長」として「正論」を口にしており、それを言われた方がフォローしています。
アルテ本人がそれを悟られるのを嫌がるので、注意して見ていてもなかなかつかまらないのですが、アルテという子は我が侭に見えて、支えて尽くす性分がかなり強いです。そして、甘えきっているようにみえて不安も強い子です。
タイトルが「天才美少女、家出する」な時点でわかりきっていたことではあります。「家出」とは互いにそのような関係だと認識していないければ発生させられない行為です。他に帰る家があり、その上で理想を共にし館長と共に戦っている夢幻美術館の藝術家たちと、三人暮らしのアルテは根本が違います。アルテは確かに藝術家です。けれど、館長にとってアルテとは藝術家ありきではありません。「家出」という概念が成立する関係性がまず「絶対」として存在し、その絶対に「天才美少女藝術家」が付随しているのです。逆ではありません。たとえばブルーアーカイブの「先生」は「生徒」という「子供」に対し「大人」として義務を果たします。選択によっては「生徒」ではなく「お姫様」と言うことができます。けれど、「絶対」としてシナリオ上の強制で「家出が成立する関係」を「藝術家」より主たるものとして置くような、つまり「この特定の生徒の主属性は生徒ではない。それは従属性である。これからもずっとそうであり、それは絶対である」と断ずるような無法はさすがにやりません。そこはブルーアーカイブにおいて貫かれている重要な軸であり、ガールズクリエイションにおけるアルテとの関係性においては破壊されなければならないものです。
最終編で先生がキヴォトスに帰ることと、それは全く別種のことです。館長はこの瞬間「極めて私的に」責任を負いました。大人として子供に、でもなく、館長として藝術家やイマージュに、でもなく、「家出した子を迎えに来て家に連れ帰る」という責任を抱えることを決めました。これは「姉として妹に」としてアロナがプラナにやろうとして「先輩として後輩に」という別の形で成立した「家に帰る」の、アロナが本来望んでいた方の形です。館長とアルテがどういった関係なのかはともかくとして。姉妹は二親等、親子は一親等で「家に連れ帰る」場合年長側が負う義務の重さも全く異なりますが無関係。
夕暮れ道を美術館へと歩く館長とアルテの姿は、アルテが見ていた「家に帰る親子」の姿に、劣るところは何もないでしょう。
家出の後、アルテが呟く寝言の内容と、あんまりにも「らしすぎる」館長の姿はおしまい! と言う他ありません。
逆にR-18版がある作品で「アルテをヒロインにして倫理的に大丈夫なのか」と心配になる人もいるかもしれませんが、なんのことかよくわかりませんので問題ありません。
ガールズクリエイションにおいて、「藝術家」は初期状態で全員加入していることになっており、衣装違いがどれだけ存在しようとも「親愛」は「一人の芸術家」との関係を示しています。そのため「10」まであげることで衣装の所持によらず閲覧できる「親愛ストーリー」は、絶対に誰もが見ることのできるものなのですが、家出前の最初期実装時、この親愛ストーリーのアルテは「館長が喜んでくれると嬉しい」をシロップの中に砂糖をじゃりじゃりになるまでぶちこんだような話なので、凶悪極まりなく、アルテとの関係性を改めて強烈に決定づけられたあと見ると倫理的に大丈夫なのかと不安になりますがFANZAでは挨拶にもならないので問題ありません――というか何のことだかよくわかりませんね。無問題です。
問題ないどころか、
アルテという少女はガールズクリエイションにおける「センターヒロイン」です。変化球でもイレギュラーでもなく、この子がど真ん中に置かれているのがガールズクリエイションです。
「ともだちが来てる、はいるぞー」が自然に発動する相手が特別の中の特別なのは当たり前なのですが、倫理……いえ、何も問題はないのですが、問題がないのに、敢えて雑にわかりやすく言うなら、戯画化しない、生々しい系のヤバインモラル倫理の雰囲気がアルテにはあるのですよね。大丈夫なんですかね。何の問題ですか?
ガールズクリエイションにおける「館長とアルテ」は「アルテにここまでした、してきた、思わせた責任を取らせる」関係です。寝室するかどうかは健全版があるので措くとしても、「アルテを家につれて帰る」という責任はとることに決まったのでそういうゲームです。
藝術家が主役のゲームで「藝術家であることが関係性における従属性」で「それとは独立に絶対の関係性を持っている」女がセンター張ってますからね。
ゲームとしてもプレイヤーとしても「何か問題でも?」とすっとぼけることはできるのですが、他ならぬ館長がアルテに対して強火で責任を負っているのでそうさせておきましょう。どういう責任を負っているのか知りませんが。
ブルーアーカイブ
こうして他のゲームで照らしていくとブルーアーカイブの世界は極めて特殊です。誤解のないように述べると「キヴォトス」が特殊なのではありません。具体的にいきましょう。ここで語ろうとしているブルーアーカイブの世界の特別性はプレナパテスがいた世界にはありません。付け加えるなら、連邦生徒会長が至った終着点にもありません。連邦生徒会長がこのゲームの冒頭で述べたような「誰かのミス」のせいで、連邦生徒会長やプレナパテスの世界がこのnoteで述べるブルーアーカイブの特別性を満たしていないというよりもむしろ、連邦生徒会長やプレナパテスの尽力もあって、ブルーアーカイブの世界が特別になっていると言うことができます。現時点でポイントを指すなら、多次元解釈的に無数に存在するキヴォトスのうち、私たちがいるキヴォトスを指して特別と述べています。
ブルーアーカイブで語れることはたくさんあるのですが、こうして3つの辿ってきたので、今回はその道に限って進みましょう。
わかりやすく一つ例を与えるなら、連邦捜査部シャーレです。
あるいは、クラフトチェンバーがそうであり、シッテムの箱がそうであり、我々がよく知るアロナがそうです。
そして、大人のカードはそうではありません。
何の話をしているのかというと、「今ブルーアーカイブが観測しているキヴォトス」は「先生の立場が人為的に整えられている」ということです。
先生がシッテムの箱とメインOSであるA.R.O.N.Aを持ち、大人のカードを持っていても、それだけではだめです。
「超人」とさえ呼ばれる連邦生徒会長でも駄目です。
重要な点は、「先生」(先生とプレナパテスを含みます)については次のように表現されていることです。
先生は同じ状況で同じ選択をする。それだけでは、何も変えられません。同じことが無限に繰り返されるだけです。
大人のカードはプレナパテスも持っています。だから、大人のカードが全てを塗り替えたわけではありません。つまり、先生の存在だけではどうしようもありません。プレナパテスの世界は滅びを迎えていますし、先生の方が正しかったと述べて連邦生徒会長も終着点へと至っています。
連邦生徒会長は、終着点へと至ったことについて次のように評価しています。
思い出してほしいのは溶鉄のマルフーシャ・救国のスネジンカです。どうしようもない場合、ことは「マルチバッドエンド」に至る他ありません。あるいはガールズクリエイションを思い出してもよいです。星に手を伸ばしても、今もなお人は死にます。
連邦生徒会長は最終責任者、世界に責任を負う者として先生を選び、自らはその場から退きました。しかし、「連邦生徒会長がいない」だけではプレナパテスの世界も滅びます。プラナがあちらの世界にも連邦生徒会長がいないことを含意した言葉を放っています。
先生だけでは届かない。プレナパテスのそれのような世界が生まれるだけ。「先生」が何かミスをしているわけではありません。「先生」は同じ状況で同じ選択をします。つまり、「先生」を使うと決めて上手くいかないなら「状況」を変える必要があります。
ゆえに、先生のもとにたとえば「アロナ」という明らかな異物が存在します。「連邦生徒会長を退かせて先生に任せる」ということを「ただやる」だけではだめなのです。「シャーレを用意する」「シッテムの箱、クラフトチェンバーを託す」「アロナを秘書とする」といった諸条件を整えてから「先生」を走らせることで先生が適切に機能します。
つまり、「先生」に可能性を見出したならば先生として活躍できる「立場」を徹底的に用意する必要があります。
地下生活者によって突然「先生」が爆死する場合、「先生」は同じ状況で同じ選択をするので、状況設定が駄目です。「先生」は同じようにしか動かないので、これは「先生」ではなく状況を用意した連邦生徒会長などへの指摘事項になります。
これが発動しないように徹底的に状況を準備する必要があるのです。選んだ先生が期待通りに機能する限りにおいて、全てを打破する立場を予め作っておくこと。つまり、物語が始まる前の段階で「「先生」をどう走らせるか」という問題があったのです。
救国のスネジンカでは「どっちもクソ」という問題がありました(どっちもどころかどこへ行ってもクソです)。ブルーアーカイブではその問題は「超人」連邦生徒会長により物語開始前に解決されています。「連邦捜査部シャーレ」と「その顧問」という「異常な立場」が用意されており、「大人のカード以外の先生の道具」も事前に準備されています。
4thPVなどで象徴的なとおり、上手く状況を設定できなければ迎えるのはマルチバッドエンドです。「先生」は同じ状況で同じ選択をするので、そのことについて「先生」に何か求めることはできません。同じ状況で同じ選択をする限り、状況が変わらなければ無限に同じことになるからです。
だから、本来であれば「バッドエンドの種」がそこらじゅうに埋まっているキヴォトスを「不可解なチャートで全解決する」ような「人物」を選び「状況」を設定しなければなりません。
キヴォトスという世界はのほほんと学生が日常を送っていると突然滅亡するところです。理不尽な滅びを押しつけられます。「悪い大人」は「対応できなかった方が悪い」として被害者が「理不尽を押しつけられる側にいる」ことを非難するでしょう。だから、世界に責任を負い全ての子供の矢面に立てる人を選び、その人が解決できる状況を設定する必要があります。
キヴォトスでは平然と「初見殺し」で理不尽が行われます。それを「初見プレイ」で対応しなければなりません。
これは通常だとどうしようもありません。たとえば地下生活者の突然の爆破はこちらの可能な状況を事前に把握して致命的な一撃を不意打ちで決めてくるので初見では対処できません。
初見殺しを初見で対応する場合、一番手っ取り早いのはバグ技です。対応できないなら、対応できるキャラを連れてくればいいです。
これは実際にゲームとして実例があります。たとえば「スターオーシャンセカンドストーリー」の「音楽ロード」です。ごく簡単に言うと
こういった完全なバグ技が存在します。「SO2」は主人公を2人から選択でき、それぞれどちらかのルートでしか仲間にできないキャラがいるため、このバグを利用することで本来そのルートでは使えない仲間を使うことができます。
プレナパテスからプラナとつよシロコを引き継ぐというのは、「ゲームキヴォトス」において「シッテムの箱のメインOS」などの初期設定が違うセーブデータ【1】のキャラをセーブデータ【2】に持ってくるような所業です。上の「SO2」のように想定されていない挙動であっても、システムがそうなっているならそれは発動してしまいます。「バグ技」とはそういうものです。「バグ技」で呼び出した「バグキャラ」で「バグ技」を使って「バトルシステム」をバグらせて「戦闘画面に出せるキャラを増やす」などバグ技にバグ技を重ねたバグの極みでしょう。
プレイステーションのバグゲーならここまでバグ技を重ねるとたいてい不整合でフリーズしますがキヴォトスでは挨拶にもなりません。さらに先生はバグ技以前の問題として「ゲームキヴォトス」にあってはならないものを持っています。
初期所持アイテム「大人のカード」なキャラクターはあってはならないはずで、実際連邦生徒会長が外から召喚しているので別ゲーどころかリアルからゲーム内にキャラクターがコンバートされているようなものです。そしてそのカードを使って「ゲームキヴォトス」のチャレンジモードか何かのセーブデータ【3】のストーリーモードで想定されない意味わからんレベルのキャラを現在のキヴォトスのセーブデータ【2】に持ってきて使ってくるレベルで意味分からんことをしてくるのでゲームが破壊されます。
バグゲーはゲーム破壊してなんぼですからね……
対し、TRPGには「GMの決定は全てに優先する」という(GMとPLの信頼関係を前提とした)ゴールデンルールが存在するため、GMであればそういったルール的な処理を許可しない決定が可能です。
なので、GMとしてゴールデンルールを用いることができるのであれば、バグり散らかした先生のやり方を封じることもできるのですが、「現に強制ができていない」という事実があります。ゴールデンルールとは上位のルールです。それはルールに優越しますが、相手が付き合っている限りにおいてです。TRPG、ひいてはボードゲームは相手が要ります。信頼で合意を築くにせよ、この卓ではと関係を破壊してでも強引に強制するにせよ、「ゴールデンルールを使う」には「立場」がいります。つまり、先生を強制的に着席させ、TRPGのPLとし、それに合意させる理不尽を強いる立場にあらねば、ゴールデンルールを叫んでも何の意味もありません。レトロゲーでバグ技を連発して理不尽を強いるような相手に、理不尽だと叫んでも無駄なのです。
新しい「コンテンツ」だよ、などと言いながらバグ技で持ってきたバグキャラでバグ技を使ってバトルシステムの配置人数を増やして別データのキャラをバグアイテムでロードしてくるような理不尽を強いてくる相手に、理不尽だと叫んでも意味はないのです。
それはマルフーシャたちが、スネジンカたちが、いくらそう叫んでも無駄だったように、理不尽を強いられる側が理不尽だと叫んでも無駄なのです。
たとえば黒服はホシノに適切に理不尽を強い、先生がその理不尽を立場とルールで折った上で大人のカードをちらつかせて更なる理不尽の用意があることを見せるとあっさりと退き、むしろ協調的に情報を提供しました。
最終編でも、サンクトゥムタワーが砕け散り、ゲマトリアが壊滅した直後に先生と情報共有を行い、さらに虚妄のサンクトゥムを破壊したあとはウトナピシュティムを共有するなど、「不可解な探求者・ゲマトリア」としての「立場」を黒服は保ち続けます。
その黒服でさえ、先生と協調しなければ利益を満たすどころか破滅するという点で理不尽を押しつけられており、それにとにかく反発する、というつもりはありません。そういった姿勢のベアトリーチェは理不尽どころか順当に叩き潰されました。バグらせる必要もなく通常の進行でベアトリーチェは撃破可能だったので、ゴルコンダの言う通りあれではシナリオ進行上の舞台装置に過ぎません。
「先生」とはプレナパテスのように、あるいは連邦生徒会長と共に歩んだ「先生」のように、絶対の勝利を決して約束はしてくれません。
しかし、「先生」は全ての子供を守り、世界について責任を負い、自分の世界についてだけでなく、そもそも「否定すべき世界の条件」を掲げて戦っています。
これは「そういった世界は滅ぼす」という意味ではなくて、世界にたった一人でも理不尽に押し潰されて泣いている子供がいるなら、その責任を「大人」が負い、解決し、「そうではない世界」にするよう動かなければならない、その責任を大人は負わなければならないという姿勢です。
たとえ最悪の終わりを迎えるのだとしても、孤独な宇宙の一つの星であっても、先史の幼気な無垢の恐怖を救う術が今はなくとも、そんなことは関係なく、大人はそうあらねばならない。
現に「奇跡」を起こし、そんな大げさなことではなく日常のまわりを見るよう、そこに「奇跡」を見出すよう子供に促すブルーアーカイブは、確かに優しいです。
けれど、子供にとってそのような世界であるよう「大人」は世界に責を負わねばならない、と厳しく突きつけています。それができない、「大人になりきれなかった」青二才にブルーアーカイブはひどく冷淡です。
そして、責任を負うその姿は決して子供に将来を悲観させるようなものであってはならず、「そんな大人になりたい」と思わせるようなものでなくてはなりません。スネジンカが良い人、お見事、と懐くアブレック先生を、かつて救った先生のように。
「にこにこ爆弾魔お姉さん」は最期まで笑っていました。ナノ先生は韜晦しながらも余裕たっぷりに、館長はその姿勢をこそ"死んでくれ"と言われても「きっとなんとかなる」「きっとできる」と空を星で輝かせようとします。
「ブルーアーカイブ」において特殊な点は、「大人の責任」として「子供が苦しむ世界について大人が責を負う」よう要請しながら、キヴォトスの責任は最終的に負うべき者として先生に集中するよう出来ている点です。
これは、先生しか人格者がいないという意味ではありません。柴大将には生徒の去就についての権限も、連邦生徒会長を代行しETOを宣言する権限も、生徒会長選挙の保証力もない、ということです。
「理不尽を押しつける立場」
子供を苦しめようとする悪意がそういった立場にいるとき、「理不尽なまでに」戦える立場が先生しかいないのです。それは先生の人格や実力や能力の強さの話ではなく、「立場」の話です。
「立場」
実力でも能力でもなく、置かれている立場こそが奇跡的に強力であり、そこにいるのはただ一人で代替が効かない。
連邦生徒会長が信じた「先生」は極めて強力です。どんな迂回路を取ろうが無駄。「みんな」と一緒に破壊してくる。学園都市という法に逆らうことはできない。
だからこそ、最も手軽に用いられる策は決まってこれです。
先生は健在であらねばなりません。死ぬことはおろか、拉致されたり意識を失っているだけでもキヴォトスの状況は悪化します。数千の学園都市を有するキヴォトスにおいて、24時間365日の連絡を受け付けています。
先生はそれについて、責任を負うことは心の荷を解く楽しいことと述べていますが、強調的に二度強いネガティブに陥っています。
虚妄のサンクトゥムの再出現問題を解決できないとき。
ホシノが恐怖へ反転したとき。
助けてくれたのは、それぞれホシノとユメです。
楽しいと笑う先生に辛さ、苦しさがないわけではないのです。そうすべき姿勢を見失いかけることさえあるのです。それでも「みんな」といっしょに、「この状況」ならと連邦生徒会長はそこへ繋がる選択肢があると信じました。
「孤絶」であることはメリットがあります。
特に極悪である者はまず先生を狙ってしまいます。そここそが弱点に見えるからです。
けれど、先生が真に奇跡の担い手であるならばそれだけは行ってはならないのです。
それは、空崎ヒナを狙撃するようなものです。
先生を攻撃する――その事実が自身の存在を「悪質な敵」であるとして先生に知らせてしまいます。
地下生活者のように隠れ潜んで攻撃しても、奇跡のような道を歩んできた先生は、先生自身の力ではなく、プレナパテスと共に歩んできたプラナの、ナラム・シンの玉座にいたからこその混沌との親和で存在を認知されてしまいます。
先生に攻撃するとき、脅威として認識しなければならないのは先生を含めた「みんな」と「みんな」が起こせるバグ技を含めた全ての奇跡的状況であり、それを排除できない限り、「何度でも」先生は解決してしまい、攻撃は反撃の糸口にされてしまいます。
先生を攻撃することは、あまりにもわかりやすい先生への情報提供です。
シャーレのセキュリティは甘いことが度々指摘されています。
「防御は甘いからどこからでもかかってこい」と常に誘惑されているのです。
それこそが罠なのです。先生自身、それを罠だと認識していないでしょう。単にシャーレを「生徒が気軽に訪ねやすい場所」にしているだけです。けれど、先生が先生として適切に機能している限り子供の敵対者がまず先生を狙おうとすると、まるでトラップが機能したかのような外観を呈してしまいます。予めコンボを伏せていたかのように、次々と奇跡が連鎖して状況が詰みます。
そして、「みんな」と共にいる先生はあくまでも「生徒のための先生」です。兄でもなく、父でもありません。家族ですらない大人、他人であるはずの人がそれでも「子供は子供だから」という理由だけで十分だと動くからこそ意味があるのであり、「この子は妹や娘である」という意味で「家族としての責」を別個に負うことはありません。「先生」を剥いで先生を好意的に呼ぶ存在は非常に稀です。たとえばごっこ遊びでレンゲが、極めて特殊な存在であるデカグラマトンがその登場において、ただ「名前で呼ぶ」ことをしていますが、ただそれだけのことが非常に珍しいのです。先生本人が「先生」である自身を好んでいるのもあって、先生を見ようとするときに「先生」を敢えて剥がそうとする子はあまりいません。仮に先生がそういう姿を見せるために少し無理をしているのだとしても、それを含めて普通のことだと百花繚乱のミステリアスで焼き鳥を食べる姿がやけに様になる少女が認めてくれるでしょう。だからこそ、先生が好意や敬意を含んだ上でごっこ遊びでもなく真正面から「先生」を剥がされることはそうそうないのです。幼馴染みとして名前を呼ばれたり、メイドの主としてご主人様と呼ばれることはあっても、「ただ剥き出しに名前を呼ばれる」ことはそうありません。
それは「先生」という種類の「大人」であるとき決して悪いことを意味しません。子供のために頑張る様々な大人がいるとき、先生のような「先生」がいることは決して悪いことではないのです。そういう風に頑張ることも必要な大人の姿のひとつです。
ただ、マルフーシャやスネジンカたちのように「身内しかいない、どこを寄る辺にしようにもどこもクソ」というような様や、ルミナ一行のように「宇宙船という閉鎖空間で地獄のように人間関係が優しくこんがらがっている」様や、館長のように「他の組織と連携し、自分の組織内の仲も良好に保ち、自宅での関係はへたくそながら尻に敷かれて上手くやれている」といった様を見てくると、先生のような関係性の持ち方は面白く見えるでしょう。特にスピンオフ作品のような立ち位置だとその特殊さがよく見えるかもしれませんし、絆ストーリーやASMR、ダイアローグなどのような「近さ」を見ると、だからこそ誰かと「ずっとゼロ距離」なべったりさが困難なことも痛感してしまいます。
ブルーアーカイブの責任の負い方を先生に集中して語りましたが、これは本noteの特質ゆえです。「最終的な責任をどこに持っていくのか」という点で、理不尽を押しつけられた側が「その立場に甘んじた自己責任」とそこまで含め理不尽を押しつけられきる様や、「最終責任」の重さを皆が知ってぐるぐる回している地獄の宇宙船や、責任を組織と職分で割り切ってリアリスティックに分担しているけれど、リアリスティックに死者を含む犠牲者が出続けているアテネスなど、様々な最終的な責任の負い方を見てきたからこそ、ブルーアーカイブにおいて最終的にどこに責任がいくのかという点は対比的に協調され、かつブルーアーカイブと対比して他の作品の責任の負い方も魅力的に見えるはずです。
また、ブルーアーカイブの特徴的な点は「あってはならない世界」について述べている点です。「あってはならない世界」について「大人」がどうしなければならないかも身を以て示している点です。
いついかなる時であっても、どんな世界であっても、子供のために踏み出して責任を負う。普通に見て普通にかっこいいその大人の姿は、大人は普通そうあるべきだというブルーアーカイブというライトで照らしたとき、よりわかりやすく見えるかもしれません。それでも、何かが変わるということはなく、かれら「大人」にとっては当たり前のことを当たり前にやっているだけでしょう。そして、そんなところがとても魅力的です。
あるいは、「結婚するということ」や「家族の関係を持つこと」をブルーアーカイブから見てすごく特別なことのように見たり、逆にそういった窓からブルーアーカイブを見て、先生の姿に「先生してるなあ」と苦笑したりもできるわけです。
そして、「立場」がない苦しさをこれでもかと味わわされるからこそ、完璧な「立場」があるならばこその奇跡的な奇跡の重なりと、それでも垣間見える絶望の重圧に先生ですら屈しかけることの重さを強く感じられるはずです。あるいは、「立場」のある世界を普段見ているからこそ、どうしてあの世界には「立場」がないんだと救えない少女たちに歯がみすることにもなるでしょう。もしくは、これだけ必死にみんなで「立場」を作って協力しているのにそれでも出てしまう死者と、それでも前に進み、そして星空を諦めない姿に痛みを感じることでしょう。「立場」と「関係性」で地獄になっている宇宙船は本当にお疲れのあなたにさしあげるぷになのか。いやでも疲れ切った大人にこそじんわり染み入るんですよ……
本文だけで8万字弱、しかもブルーアーカイブを主体とすると言いながら溶鉄のマルフーシャ、救国のスネジンカ、りりぃあんじぇ、ガールズクリエイションという選択で「個別」ではなく「全部」をひとつのnoteで語るからこその価値があるんだと発狂していたので、今回楽しくついてくることのできる人がいたならば、その人は異常者です。10等級とし更生施設に入れるべきです。あるいは疲れているのでぷにを摂取した方がよいでしょう。
けれど、語りたかったことを少しだけ語れました。
何かの作品を熱狂的に愛して語っているとき、その作品だけに依存しているのではなく、様々な編み目・文脈の中でその作品に熱狂している部分もままあります。そして、編み目で熱狂してしまうと、その編み物の中にいる全てへの熱狂度が概して上がってしまいます。相補的に語るなどとかっこつけましたが、要は好きなタイプの作品がポンと放り込まれると頭の中で勝手に「僕はこれが好き」が連鎖反応して、一つの作品を享受した結果、今まで享受してきた愛する様々な作品の価値までもが突如爆上がりして、気が狂って死んでしまうのですよね。
よくブルーアーカイブでエロゲエロゲ言っている人がいると思いますが、その人たちがその圧縮言語で何を言いたいのか安易に展開させるとこのnoteのような大惨事になると思います。今回はむしろインディーズにエロブラゲなので僕としてはこれはブルアカエロゲトークではあんまりないですからね! ブルアカエロゲ話は別のnoteで一度しましたが、これはブルアカエロゲ概念の可能なほんの一面に過ぎない……数多いるブルアカエロゲ語り人にそれぞれのブルアカエロゲ概念が濃厚にあることだろう……!
話せばわかる! 話せばわかる!
僕たちはきっとわかりあえるはずだ!
たとえ作品を知らなくても、文脈を共有していなくても!
それ自体を徹底的に話せばきっと触れ合える部分があるはずなんだ!
聞いてくれ、この発狂には事情があるんだ!
信じてくれ!
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