『対話する社会へ』

「戦争・暴力の反対語は、平和ではなく対話です」

という帯に、まずハッとさせられました。

そもそも対話とは、人類が持つ特権の一つであり、人間の本性にもっとも添ったコミュニケーションの手段でした。人間同士をつなぎ交流させ、個人を成長・発達させる場であった対話は、民主主義の培養土でもあった、と。

それは、勝ち負けを決めるものではなく、意図的にある結論に持っていたり異議を許さないものではない。

対等な人間関係の中での相互性がある話し方で、論点を往復しているうちに新しい視野が開け、創造的な何かが生まれる。

個人の感情や主観を排除せず、理性も感情も含めた全人格を伴った自由な話し合い方であり、人間の持つ全体性で語るものである。

人間の言葉の始まりは対話であり、市民の言葉は対話である。幼児が生まれて初めて聞く言葉は親が注ぎかける対話の言葉であり、子どもは生まれながらにそれに応答する能力を持っている。

・・・そんなところが対話の本質と言えるようです。いくつか印象に残った言葉を。

・人間の個性は、具体的には特殊性をもってしか現れないけれど、その特殊性の土台には人権のような普遍性があり、共通の土台の上に、はじめて特殊性があること。社会制度としても、社会保障制度や社会資本という共通部分が特殊性を支えない限り、個人の能力の発展も社会の発展もない。

・民主主義とは個人が絶えず育てるものであり、作っていくものだ。自分が何もせず、社会に依存しているだけだと、民主主義は必ず崩壊する。だから自分が民主主義に対して一市民の責任としてどんな行動をしているかを、たえず振り返る。

・素人の人が言いよどみ、言葉を探しながらの説明をする時、聞き手は身を乗り出すようにして無言のまま熱い視線を送り、次の言葉を待っているのです。それに応じるように、話し手も自分の言葉を選びながら、地に足をつけて、真実を離れまいとするように話を続けるのでした。対話とは、聞く人の誠実さによって支えられているものだということがよくわかりました。

・市民が勉強し対話する拠点が無数にあれば、もともと能動的である人間は、一人ではないという精神的な後ろ盾を得て、政治や社会に対して傍観的ではなくなり、無責任な言動に流されずに行動する民主主義社会の個人になるのではないか。

・自分を知るためには他者の存在が必要であることを自覚させてくれるのも対話の持つ特典かもしれません。

・対話的土壌があるところではいい結果が生まれ、反対に対話のないところでは、防ぐことができた問題も軌道修正されないまま多くの犠牲を生む結果になっている。

・子どもは、周りから言葉をかけられ応答し合う対話の中で判断力をつけて成長し、個性的な人格を発達させていきます。子どもには、まず語りかけられる言葉があったのです。子どもが言葉を使うようになると、子どもの周りには人間と人間の間をつなぐ言葉と経験が循環します。それによって、幼児の思考力や感情が育っていくことを実感します。

・自由な対話ができにくい社会には、独裁政治による人間性の抑圧、あるいは過剰な自由競争で人々が自己防衛に走らざるを得ない共通性があるのではないでしょうか。対話には民主的というか、人権優先の思想が流れています。対話そのものが人権思想を作りだすのかも知れません。

・(心理学者セイックラの解釈では)対話の思想は、対話的関係から始まって生き方に至る態度。人と人との対話から得たものは、私たちの行為の核心になる。話してがそこにいる相手とのやり取りの中で、応答の言葉を組み込みながら、自分の周囲の社会という場と絶えずつつながっている。その中から新しい理解と発達が生まれる。オープンダイアログは「技法」や「治療プログラム」ではなく「哲学」や「考え方」である。

・対話の中で新しい言葉が生まれる。語り合っている人たちは、語っていることの社会的意味や社会的アイデンティティを対話の中で作り出している。対話は共有された新しい現実を作り出す。互いに応じ合う中で新しい意味が生まれ、変化し、新しい理解が生まれる可能性が広がる。「対話」はともに考えていく手段であり、そこでの理解は、一人の人間の可能性を超えるものとして、お互いの間で作られる。

・宙に浮いて人々の間をさまよい舞い上がっている言葉とは違って、人々の身体の中を通ることができた対話こそ、患者を治癒に向かわせ、人々を理解で結び付け、そして社会を豊かにしていくのだ。それは同時に個人の主体性を作っていくのだ。

・日ごろから対話の経験を持たないと、たとえおかしいと思うことがあっても、上の立場の人への忖度や自己保身のお世辞が先立ち、権力者や上司に対して、まっとうな意見を述べることに躊躇してしまうのではないでしょうか。

・社会が急速に個人化して、個性の違いや生活の多様化が進み、階層の分離が固定化していく中で、忖度や推察という一方的な思い込みでは、的外れになることが多くなっているのではないか。

・(OECD教育スキル局長アンドレアス・シュライヒャー)教師という職業魅力は、相互に助け合う協力型の職場であること、継続的な研修と経験の積み重ねで、専門職としての技能が育ち、教えるだけでなく研究者としての資質が育つこと、教員同士が水平的な交流をしており横のつながりをもっていること、中央からの指令によってではなく大きな裁量権を持っていること。

・人間は、何によって良心的に動くか、何が生きがいになるか。それは対等な人間関係のもとで、全人格をかけた対話が行われ、個人に納得され、自発性を持たせるときにのみ発揮される。

・察する文化、甘えを許容する文化、依存の文化は、対話やディスカッションを必要としない。言葉にする重要性をあまり認識していない社会。異なっている人間同士であればこそ、対話によって、新しい理解の地平を拓くという喜びもある。対話する社会とは、多様な思考、多様な感受性に出会い、想像力を豊かにする社会。単一の価値観を持つ唯一の集団しかない社会では、個人の権利は守られない。

・日本人の対話には弁証法的な発展がない、ほめる書評とけなす書評しかないように、「ごもっともで」という一方通行か、反対のための反対か、両者は、はじめと同じところにいて、弁証法的な対話にならない(中根千枝「タテ社会の人間関係」)

・和を尊び、対話することを避けてきた社会のために日本人は何を捨ててきたか、それは「個人の考える力」を奪った。自由にしてよい、しかし責任をとれ、という西洋の個人主義とは異なり、勝手なことをするな、他人に迷惑がかからないように振舞え、という日本独特の規則原理は、個人主義もタラコスパゲッティのような和風個人主義になり「対話」も日本的風土にあった「会話」になっている(中島義道「対話のない社会」)

・「我々は考えなくなってしまった。考えなくてもいいからである。自分の言葉を失ってしまった。言葉を発しなくてもいいからである。多様な他者との生き生きとした関係を結べなくなってしまった。他者はいないからである。「そっと手を貸す思いやり」とか「ありがとう賞」という看板や賞は次々に増える。そして正確にその分だけ個人が個人に向き合うことがなくなっている。他者が見えなくなっている。いや他者との関係において自己は「ある」のだから、自分も見えなくなっている。自分が何を考えているのか、求めているのか、何をしたいのか、何を感じてるのか、さっぱりわからなくなってる。それに疑問も覚えない。こうした人間が犠牲者でなく何であろう。」

・多様性がなければ社会はもろい。同じであったらそれぞれの人が存在している意味がない。

・対話とは、ただの言葉ではありません。その人が持つ、人柄、対話的な態度と生き方なのです。

・政治に関心を持つ契機は、データではなく、人間との対話なのだ。

・対話によって他者が話す多様な声を自分の中に取り込み、それらの声の交わりを吟味し、関連づけ、まとめ、統合する心理的活動が、個人を発達させる契機にもなる。

・対話的授業が無理なく子どもたちに歓迎され楽しまれているのは、持っている知識の量ではなく、対話によって知っていくことの楽しさ、人間の持つ根源的な好奇心、驚き、「他人はどう考えてるか知りたい」という子どもの欲求にこたえてくれるからでしょう。

・対話は、結論を無理に出す必要はなく、その過程での新しい発見や思考にこそ意味があります。結論を一方的に与えすぎない。他人の意見を聞くことで考えを深める。初めから否定的に他人の発言を遮らずに辛抱強く聞く。他人への敬意。意見を交わすことによって協働で探求することができる。対話とは「これまで関係のなかった人と関係をつくっていく、コミュニケーション能力」でありそれを育てるのがシティズンシップ教育。(河野哲也子ども哲学で対話力と思考力を育てる」参考)

・自分の生活を小さな関係の世界の中に閉じ込めてしまうと、損か得かの目先のこと、簡単なことには敏感になりますが、自分の人生の意味を見出す思考は衰えていきます。日常の断片化したものをただ処理していくだけでは、自分の判断や行為の意味を考えることができなくなる。

・多様性が主張されると個人がバラバラになりコミュニティ意識がなくなると心配して、家族共同体意識、愛郷心、愛国心教育を持ち出す人がいますが、多様性そのものが問題を引き起こしているのではありません。対話のない生活、社会の中で差別が横行し、コミュニティから疎外され、人々が関係性を失って、暴力的な解決に出たり、その反対に思考停止の無関心が当たり前になっていくことが問題。

・対話する個人は、自発的な判断力を持つようになるでしょう。抵抗できる思慮深さを持つことができるでしょう。強制される愛国心でなく、人間としての共通性に目覚めるでしょう。

・対話をする時は自然にすっと話題に入り、決して先回りしないこと。叱ったりせず、〇〇のために、とか意図的にある結果にもっていこうとしないこと。上下関係で話すのではなく、あくまでも生徒の人格に対する尊敬の念を忘れず、聞き役に徹すること。

・教育こそは人々を抑圧から解放する。希望を失ったものは沈黙するが、対話をする人は希望を失わず現状を変えることができる。


政治にも、教育にも、日々の生活そのものにも大切なことがたくさん書かれていました。何度もこのページに戻ってきて読み直します。

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