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あの日の空は

特定非営利活動法人CFFのスタッフとして、フィリピンの現地スタッフと一緒にワークキャンプの準備にあたっていた時期がありました。あれはもう15年以上前。

2週間のワークキャンプで日本人とフィリピン人が共同生活をしながらその地域に必要とされる活動を行う訳ですが、大切にしているのは「目に見えて整えられる物」と同様に「個人の心の中に生まれる変化」です。

フィリピンはキリスト教の国なので、私たちも聖書を読みます。そこから人生のヒントやフィリピンという国を知る手がかりを得ます。ワークのない日にはスタディーツアーにでかけて、フィリピンの様々な社会状況を目の当たりにします。参加した日本人同士だけでなく、フィリピンの青年たちとも毎晩たくさん語り合います。タレントショーやバースデイサプライズなど、楽しいこともたくさんやります。

ワーク以外のそんな活動の中で、何度経験してもやはり心がざわつくのはピースセミナーです。

ある時私たちスタッフは、戦争の体験をお話してくださるゲストスピーカーを探していました。フィリピン人スタッフがお願いにあたって、なんとかアポイントを取り付けたものの、前日になってキャンセル。理由は「やっぱり日本人が怖いから」でした。

戦時中、日本軍がフィリピンの民間人にしたことは、フィリピンの教科書にも描かれており様々な石碑になって残ってもいます。戦争を体験していない世代にも語り継がれ、知らない人はいません。ゲストスピーカーをお願いした時の反応はたいてい、「日本人が怖い」もしくは「日本人が何をしてきたか教えてやる」という、恐怖か怒りかのいずれかです。

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ゲストスピーカーの方にピースセミナーでのお話をキャンセルされる時、私たちはとても残念な気持ちになって「ああ、許しや癒しの大きな機会を逃してしまったね」と話をします。もちろんそれは副産物であり、戦争の体験をフィリピン人と日本人がともに直接聞くことが何よりの意義であり、そこから立場を超えて始まる対話に希望があります。でも、機会を重ねていくうちに私たちは、お話をしてくださるお年寄りが、自らの体験を語ることで自身の恐怖や怒りを超えて、両国の若者の姿を見ることで大きな救いを得る姿を目の当たりにしてきました。涙を流しながら話を聞く日本人の姿。そんな日本人と、植林やら建設やらの作業を笑顔で進めるフィリピン人の姿。そんな時代の変化を感じる景色に、安堵の表情を見せてくれるおじいちゃんやおばあちゃん。

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「戦争」について語る時、そこには体験した人だけの「事実」があって、個人が真摯に語る物語には何一つ「間違い」はないと思うのです。必要以上に善悪に振り回されず、ジャッジや批判も手放して、それぞれが抱いている「事実」を受け止め、感情を乗り越えて新しい扉を開くことができたら・・・その道のりの長さを思うと眩暈がしますが、でもそこで初めて、かつて夢見た「未来」と呼ばれる時間が動き出すのかも知れません。

私たちが真に何かを理解することができるとしたら、それは自分の経験を通してだけなのでしょう。1人の人間が一生のうちで体験できることには限りがある。だからこそ、人類としての私たちは個別に多様な感性を持ち、それぞれに異なった体験を必要としているのかも知れません。持ち合わせた想像力で仲間の人生を慮り、言葉をはじめとする様々な表現に助けられながら理解を進め、人類の何かを少しづつ効果的にバージョンアップしているのかも知れません。「多様である」ということは、煩わしさをはるかにしのぐ大きな恵みです。きっと。

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ピースセミナーをはじめ、フィリピンでの活動について語る時「大学時代に仲間とスタートした活動体です」と堂々と言えるのは、恩師がどんな機会においても私たち学生を前に押し出して「やってごらん」「考えてごらん」とチャンスを与えてくださったからに他なりません。先生があらかじめ持っている答えを当てる、あるいは、教科書の中にある答えを覚えては吐き出す、創造性のない無機質だった高校までの授業。大学でフィリピンに出逢ったあの夏から始まった、壮大な挑戦と学びの数々。伴走してくれる恩師がいて、いつも語り合える仲間がいた贅沢な時間。

来た道を振り返るたびに私は、あの夏にフィリピン行きを決めた自分を称えて抱きしめたくなるのです。

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