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内的権威と外的権威

中学に行くのをやめた女の子が、和歌山にある「きのくに子どもの村学園」に見学に行ってきた感想をシェアしてくれました。

その中で、エーリッヒ・フロムの「権威」の話に出逢いました。

権威とは他の人を従わせる力で、ひとつは、権力、肉体的苦痛、罰則、辱め、社会的地位などに基調をおく「外的権威」。権威主義が拠り所としてるところです。

もうひとつは「内的権威」で、その人の人柄、学識、能力などから自然にかもしだされる権威。

外的権威は権威者が自らに付与し他に要求するものだが、内的権威は従う者が自然に感じ取るものである、と。

「きのくに」の話を聞いていると、もう、そもそもの土台がまったく違う。どんな社会を目指しているのか、何のための教育なのか、そこを考え語り合う余地がちゃんとある。バリのグリーンスクールもそうだった。「持続可能な社会を創る」という明確なテーマを教員も生徒も意識して学んでいるからこそ、日々やることを取り違えずに、すべてに整合性が取れていた。対して、例えば「普通の」学校は、今の社会がまず在りきで、そこで働くための、つまりそれを維持するための、乱暴に言ってしまえば労働力を確保するために人間を均一化する仕組みになっている、と思わざるを得ない。生徒のためを思っての指導も、結局はこの社会ありきの話(就職して苦労しないように、とか)だから、社会そのものを作っていく当事者になるための学びにはなっていない。なってせいぜい、この社会の仕組みを知った時に自分をすり減らしすぎたり損をしたり傷ついたりしないための予防線、程度ではないだろうか。

いくら「うちはいい学校だ」とか「生徒と先生の仲がいい」とか言っても、そこに練られた教育理念がないのであれば、それは単なる主観だし、結局はその時そろっている教員の雰囲気次第であって、「あたり」「はずれ」のくじ引きと同じなのだ。っていうか、私たちの社会がこんなふうである以上は、学校という場自体がそもそも「はずれ」なのではないだろうか。感性が鋭い子は、学校になんか行きたくなくなる。自分を守るために。それは生き物としての正しい本能なのだ。

教員個人が理想を求めて実践している教育活動はそれはそれで素晴らしんだけれど、結局それば個人の問題でしかないから、教師という個人と出逢う子どもたちの「運」の話になってしまう。学校自体がどうあるべきか、意図的に方向づけて実践し、チームとして取り組まなければ、いつまでも教員の感性頼みから抜けられない。人との出逢いは素晴らしいとか、そんな感動話で美化して本質からそれていく、いつもの日本のパターンなのです。

そして、そんな中でもがいている私もまた、このどうしようもない世界に加担しているとしか思えない。たとえ日々の授業や生活の中で生徒が何かを学んだり感動したりしたとしても、そんなものもすべて茶番にしか思えない時がある。子どもたちの成長に触れれば感動するし涙も流すし、ちゃんとそこには思いがあふれているのだけれど、そもそも私が立っているこの場所は、間違いなのではないだろかと。

ここ数日、そんなことを考えさせられるようなことがいろいろあった。不安にさいなまれながら、それでもとにかく今、頭に浮かぶことを。考えられうる方法で。少しずつ、必要な時間をかけて対話を重ねて。答えが見えてくるとすべての過程を吹っ飛ばして先に進みたくなってしまうのだけれど、「早く行きたければ一人でいけ、遠くに行きたければみんなで行け」を肝に銘じて。

権威の話からだいぶ遠ざかってしまいましたが、私の中ではしっかりつながっています。とりあえず、久しぶりに再会したエーリッヒ・フロムを読み直してみようかな。

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