○日記5

飲んだせいか、日中に出た話題のせいか、父が亡くなったときのことを思い出して泣いてしまった。
生理前だからかもしれない。
関係ないかもしれない。

父が亡くなったときのこと、はたまに思い出すことがある。
父が亡くなったとき、というのは幅が広い。
もういよいよだという電話を受けたとき、特急に乗っているとき、亡くなる瞬間、病院を去る手続きのとき、食べたくないが体力のためにおにぎりを口に詰め込んだとき、漫喫で眠ったとき、葬儀の取り決めをしたとき、などなど、亡くなったことに関する事柄を思い出すとき、それは父が亡くなったときのことを思い出しているとカウントしている。

父が亡くなったことをお客さまのひとりにお話ししたときのことも、その中にカウントされる。
その方には父の入院のことも色々とお話しをさせていただいていたので、割と日にちが経たないうちに父が亡くなったことを伝えた。

お客さまはちょっと泣いた。
父とは面識もなく、私も昂らず落ち着いて話していたのに泣いた。
これからの人生で父親と話したり相談したりすることができないなんて、と泣いていた。
そして、父が74だったのでちょっと早すぎるとも言って泣いた。

その時の私は、そんな視点もあるのだなと思った。ご自身も数年前にお父さまを亡くしていて、私より一回り以上年上の方だけど、お父さまのことを尊敬していたことを以前の会話から感じていたので、より、父という存在がなくなったことの寂しさを感じてくださっているのだろうかと思った。

それから時が過ぎて、亡くなった悲しみがしんみりと思い出すものになった位からか、どんどんと実感する。

これからの人生で父親に相談することはできない。話すことはできない。

元々すごく会話をする親子ではなかったから、なにか悩みがあっても父に相談する機会はなかったかもしれない。

ただ、不在ではないだけで多分心強かった。なにか二三言、交わすだけの帰省でも嬉しかった。

父が亡くなったときのことをしんみりと思い出すたび、思い出しているものが上書きされているものだと感じる。こわくなる。
ベッドの上の父と最後に交わした言葉や、いろいろな場面が、もちろん記憶には留めておけなくて、思い出すたびに私に補完されて少しずつ無意識に変わっていく。

父が亡くなってしまって、たまに忘れないようにすがりつくように思い出している私が、その思い出を変えていることが悲しい。
そんなこと仕方ないと思えるときがほとんどだけど。
夜だからかもしれない。
生理前だからかもしれない。

お客さまはあのとき、私の感じるであろう悲しさを、先に思って泣いてくださっていたのかなと思う。(言葉ムズカシイ…)

父が亡くなったときのことを思い出すとき、お客さまがちょっと泣いたときのことも思い出すと、少し泣いてしまっている私は少し安心する。

夜だからかもしれない。
不安定だからかもしれない。

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