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カフカの『隣り村』―隣り村に行こうと決心するなんて

特に文学的にすぐれているとは思えないのだが、ときどき思い出してしまうカフカの小品がある。短編集『田舎医者』に収められている『隣り村』だ。

私の祖父はよくこんなことを言っていた。「人生は驚くほど短い。今思い返してみると、何もかもがぎゅっとひと塊になっており、たとえば若い人が馬に乗って隣り村に行こうと決心するなんて、わしにはほとんど理解できない気がする。不運に見舞われることは度外視し、普通に何ごともなくすぎていくとしたところで、そのような旅には人生のすべての時間をもってしても、はるかに足りないのではないかと恐れたりしないのだから。」(ヨジロー訳)

これだけのあっけない話だ。カフカ文学にしばしば見られる<非到達性>をモチーフにしている。

■解釈

普通に読むと、認知症の祖父の話かと思ってしまう。隣り村に行くだけなのに、一生かかっても行けないのではないかと心配しているからだ。

◆論理の流れ

「祖父」の話の流れがわかりにくいので、西嶋義憲の論文を参考に、論理構成を概観しておこう。

1.人生は短い(テーゼ)

まず、一般的テーゼが述べられる。

2.何もかもがひと塊

次いで、自分の経験に照らして、人生が短いことが確認される。思い出の中では何もかもがひと塊のようなものとなっているので、人生は短いと言える。

3.隣り村に行くことを決心する

上では過去のことを思い返して、人生は短いと言っていたが、ここではこれから何か行動を起こすことを想像している。その例が、隣り村に行くことだ。そして、とてもそのようなことはできないと言う。なぜか?

4.一生でも時間が足りないような気がする

なぜなら、人生の短さをつくづくと思い知らされているので、ちょっと隣り村に出かけることでさえ、人の一生では時間が足りないのではないかと思ってしまうから。

全体をまとめるなら、<人生は驚くほど短い。だからどうして隣り村に行こうなんて思えるのかわからない>となる。

奇妙な話だ。やはり老人は認知症なのか?

◆「芸術は長く、人生は短し」

古代ギリシャの医者ヒポクラテスが言ったという「芸術は長く、人生は短し」という言葉が思い浮かぶ。元々はギリシャ語だったそうだが、ラテン語の"Ars longa, vita brevis"が知られている。英語では"Art is long and life is short"だ。

元々はars(art)は医の技術のことだった。つまり、ヒポクラテスは弟子たちに、医の道は長いぞ、人生は短いんだから、おまえら心して励むんだぞ、と言っていたのだろう。

東洋風に言えば、<少年老い易く学成り難し>だ。

ars(art)がいつの間にか、「芸術」となり、さらに<人生は短いけど、芸術は永遠だ、永遠に残る>という意味へと転化していった。

カフカのこの作品に当てはめるなら、<人生は短し、隣り村への道は長し>となるだろうか。

ギュンター・アンダースは次のように言っている。

かれ(=カフカ)は、世間でふつうに使われているいわば在庫品の言語を、というのは、その比喩的性格を利用する。比喩的な言いまわしの、いわば言葉じりをつかまえるのである。

(アンダース、75頁)

ヒポクラテスの言葉は比喩ではないが、それをパロディにした可能性もないとは言えない。ヒポクラテスの言葉はまじめなものだが、ars(医術や芸術)を隣り村に置き換え、<人生は短し、隣り村への道は長し>とすると途端にシュールで滑稽なものとなる。

カフカの『隣り村』ってジョークだった?

◆ゼノンの二分法のパラドックス

カフカの散文を読んでもう一つ思い出すのは、ゼノンの「二分法のパラドックス」だ。これは、次のようなものだ。

運動は存在しない。なぜなら始点から終点までの移動は、終点に達する前に両者の中点に達しなければならない。この中点に達するためには、この中点と始点の中点に達しなければならない。以下同様である。ところが、あるものが有限の時間に一つ一つ無限のものに触れることは不可能である。ゆえに運動は存在しない。

(中村秀吉、164-165頁)

つまり、AからBに行くには、AとBの半分の地点B1に行かなければならない。AからB1に行くためには、AからB1の半分の地点B2に行かなければならない。以下同じようなことが無限に続く。それゆえ、AからBに行くためには無限の地点を通過しなければならない。無限の地点を通過するためには無限の時間が必要になる。だから、AからBに移動することはできない。そもそも移動を始めたとしても、先に進むことすらできないことになる。だから、ゼノンは運動はない、と言うのだ。

カフカに当てはめると、隣り村にいくまでに無限の地点を通過しなければならないが、人の一生は有限だ。だから、隣り村に行き着くことはないのではないか、ということになる。

◆行動する人間と行動できない人間

ただ、カフカはそういう論理学的なことを言っているのではないだろう。もっと、人間的な感覚のことだと思う。

カフカの文章では、<隣り村に行くこと>が理解できないと言われているのではない。<隣り村に行こうと決心する>ことが理解できないと言われている。

考えすぎるがゆえに「決心」がつかないことが問題なのだ。

ここで老人と若者として示されているのは、人間の二つのタイプではないか。

思い立ったらすぐに行動し、さっさと目的を達してしまう人もいれば、何かしたいと思ってもいろんなことが心配になって、いつまでも行動に移せない人もいる。

後者の人間は出発前からいろいろなことを考えてしまう。道中、馬がけがをしたり、自分が病気になったらどうするか。盗賊に襲われることだってある。道が崖崩れなどでふさがっていることも考えられる。こういった「不運」に遭わなかったとしても、事前にいろいろなことを考えておく必要がある。馬で行くか、それとも歩いて行くか、弁当を持って行くか、途中の旅籠で食事するか、どの道を通るべきか、訪問相手にどんな手土産を持って行くべきか、などなど。――そういったことを考えていると、隣り村がとてつもなく遠いところにあって、そこに到達するには無限の時間が要るような気がしてくる。一生だけではとても時間が足りないような気さえしてくる。

もちろん、一生かかっても隣り村に行き着けないというのはすさまじい誇張表現だ。だが、そういった感覚はわからないでもない。

◆カフカはどのタイプ?

カフカはここでの「祖父」のような人間だった。日常の些細なことでも、なかなか決心がつかなかった。だから、さっさと行動できる人たちに驚いた。そういう人たちを見ると、カフカはいつもこの話の老人と同じような思いを抱いたのではないか。

カフカのこのような性格が一番大きな問題となったのは、結婚に際してだった。誰もが「隣り村」に行くようにあっさりと結婚へと踏み出していく。しかし、カフカはこの一歩が踏み出せない。果てしない逡巡の末に、結局、三度も婚約破棄をすることになった。

■参考文献

中村秀吉『時間のパラドックス』中公新書、1980

西嶋義憲「カフカの『隣り村』における「主観」世界と「事実」世界の対立――『木々』との構造的類似性――」、金沢大学国際基幹教育院外国語教育系『言語文化論叢』27号、2023、67-83頁

ギュンター・アンダース『カフカ』前田敬作訳、彌生選書、1971

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