「偽善」で生きて、何が悪い
西日本で豪雨被害が起きている。
僕の地元の福岡も、相当たくさんの雨が降ったらしい。よく行っていた久留米のゆめタウンの駐車場は、水でびしゃびしゃになってしまったようだ。
災害が起きると、被害を受けていない地域でも様々な変化が起こる。
寄付を募る人、寄付をする人、支援物資を送る人、ボランティアに行く人、千羽鶴をおる人、自粛ムードを煽る人。
たくさんの善意が溢れる中、悪意や文句も入り混じる。
「それは偽善だ」「まーたこの人は売名行為だよ」などの言葉も少なからず聞こえてくる。
まさに、混沌。
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生きていると、「本当」とは何だろうと無性に気になることが、ある。
「本当」という言葉は、こと人生の大事な場面では必ずひょこっと顔をだしてくる厄介な代物だ。
例えば就活ではそれが「本当にやりたいこと」なのかを、
例えば結婚ではそれが「本当に好きな人」なのかを、
そしてなんなら、どのような行動をする時にも
それが「本当の気持ち」からくるものなのか、を。
あぁうるさい。
世の中は本当かどうかにとてもウルサイ。
そもそも、本当って何?
誰が、どうやって本当かどうかを決めるんですか。
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善意からくる行動も、結局全ては自己満足のためだろ、と言ってしまったらもはやそれまでだ。だって、自分に対する満足が含まれないわけがない。
善意の行動をすることで自分も少し嬉しい気持ちになるから、満足した気持ちになるからやっているんだ。それはそうに決まっている。
むしろ聞きたい。
自己満足ですらないもの、
全くもって自分の満足にならない行為をすること、
それこそ「イツワリ」ではないのですか?
相手のための行為が自分のためにもなって、それ自体の何が悪いのですか?
行為には、行為を行なった人自身の思惑なんて実はあまり関係ない。
相手が嬉しい行為であればきっとそれは正しい行為だし、
どんなに相手を心から想っているつもりでも、
相手にとって迷惑ならばそれは迷惑な行為、するべきではない行為なのだ。
じゃあ。それなら。なおさら。
相手の満足と自己満足が一致するなら、これほど喜ばしいことはないじゃないか。
相手のことをきちんと考えて、相手が喜ぶ行為をしたなら、外野にいくら「偽善」だと揶揄されても関係ないじゃないか。
被害者でもないのに、当事者でもないのにそれは偽善だそれは売名行為だと嘯くすべての外野の人に言いたい。
「君たちが偽善と感じるかどうかは関係ない」
「大事なのは行為を受け取る人がどう感じるか、だ」
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僕は父から、
「お前は世のためにいいことをしろ。そして、ちゃんとその対価をもらえ。」
と言って育てられた。
だから、
いいことをして、きちんとお金や評価をいただく。
これが僕の人生の信条です。
いいことをしたら、それが褒められる。
それがきっかけで知名度も上がる。
それの何が悪いんだろう。
相手が喜ぶなら、そして自分も嬉しいことなら、いくらでもやったらいいじゃないか。ここで間違うべきじゃないのはきっとただ1つだけ。
自分が喜ぶことで相手に喜んでほしいことをするのではなく
相手が喜ぶことで、自分も嬉しいことをすること。
それだけのはず。
自分でも相手でもない「誰か」は一つも関係ない。
本当を決めるのは、「それを受け取る相手」と「自分」です。
周りでガヤガヤいう第三者じゃない。
今まで寄付をしてこなかったからとか、金額が小さいからとか、そんなことは関係ない。
被害地域で寄付を受け取る人は、それが最初の寄付だろうと十分ありがたいし、
100円だって塵も積もれば山となる。
塵がないと、山はできない。
足を引っ張り合う世界ではなく、善意がめぐる、そんな世界になっていくことを願って。
「偽善」で生きて、何が悪い。
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平成30年7月豪雨緊急災害支援募金(Yahoo!基金) - Yahoo!ネット募金
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