南北分断と日本の責任3

ソ連は朝鮮半島まで手が回らなかったのです 

 北朝鮮でうたわれ、日本でもヒットした「イムジン河」という曲の2番に、こんな下りがあります。
 北の大地から 南の空へ飛んで行く鳥を見ながら「誰が祖国を 二つに分けてしまったの 誰が祖国を 分けてしまったの」
 北朝鮮に住む人々は、自由に往来できない南側をみて、こう嘆いたのでした。運命の「国境線」が決まった理由は、驚くほどシンプルであり、痛ましくさえあります。


 目の当たりにしたのは、1本の国境線が、どれだけ多くの人々の生活や思考、そして運命を変えるか、でした。

 中東は1916年に「サイクス・ピコ協定」で、イギリス、フランス、ロシアが、列強の思惑で旧オスマン帝国の領土を分割しました。当事者の意思と関係なく、多くは合理的な根拠もなく引かれた1本の線が、たくさんの人々を翻弄します。

 アジアでは、朝鮮半島の軍事境界線でした。

 それにしてもなぜ、領土拡張に強い野心を持っていたソ連が米国の提案を受け入れたのでしょう。それは、第二次大戦で大きな被害を受けた国内の戦後復興事業を優先課題としていたため、対外政策まで手が回らなかったことが挙げられます。

 さらにソ連は、自国の周辺にある東欧圏に関心を傾けていました。旧満州地区と朝鮮半島に対しては、「敵対的な軍事基地」にならなければよいという軽い認識だったのです。

アメリカの軍政は、旧朝鮮総督府の官僚を重用しました

 ソ連に比べ、アメリカの朝鮮半島政策はとても積極的なものでした。その裏には、共産主義の世界的広がりに対する危機感がありました。
 アメリカは朝鮮半島がソ連の影響下で共産化する可能性が非常に高いとみて、朝鮮半島については一部であっても必ず軍事占領し、確固とした反共親米政権を打ち立てようとしたのです。それが韓国だったわけです。

 当然、米軍政は、朝鮮の人たちの独立の動きを認めず、むしろ敵視しました。さらに、日本の統治下で官僚として働いていた人間を重用したのです。特に警察分野では「親日派」と批判される、日本政府に近かった人たちを再起用しました。

 9月には「朝鮮人民共和国」と呼ばれる臨時政府が結成されました。全国各地で人民委員会が組織され、実質的な行政単位として動き始めましたが、米軍政は朝鮮人民共和国と人民委員会を認めませんでした。逆に南の唯一の政権担当者は米軍政だと宣言したのです。信託統治への反対運動が広がりましたが、結局、独立を果たせませんでした。

 朝鮮のリーダーと期待された呂運亨は1947年、ソウルからの移動中、反対派によって狙撃され、殺害されてしまいます。軍政は1948年まで続きました。

朝鮮独立への動き

 今年は朝鮮半島に2つの政府ができて70年、いろいろなイベントが用意されています。

 韓国は3・1運動の実りとして中国の地でに誕生しました。臨時政府が来年100年となる。韓国はそこに国家の正当性を見いだしています。

 後付の理由ですが、かろうじて守り抜いたのは金九という右翼主義者の行動でした。彼は国連監視下に選挙を行うと言う米国の方針にしたがわず、選挙をボイコットします。

 さらに38度線を越えて、金日成と握手をしています。それが南北連席会議というものでした。
 

 金日成と金ドボンら4金会談を通じて虚心坦懐に話し合い、4月30日に発表しました。李承晩以外の当時の朝鮮民族の声が集まったのです。
 断固として南半分だけの政府は反対する。自らの力で統一政府を作るというものでした。これが朝鮮人の多数の声でした。

米国政府はこれを押さえ込み、韓国樹立を世界に表明したのです。


 この時の挫折感は朝鮮政治に影を落としています。さらに国連は大韓民国だけが正当な国家であると決議しました。48年12月12日のことでした。


統一国家の夢はたたれました。
 北朝鮮はアメリカとの対立反米の土壌の中で生まれた国でした。誕生その時から、反米が宿命付けられていたのです。

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