南北分断と日本の責任1

この文章は、朝鮮戦争が正式に終戦を迎えた場合に備えて書いたものです。発表の機会が無かったのでシリーズで紹介していきます。

朝鮮半島の分断には日本の責任もあります

 私は分断の遠因は、日本の植民地支配だと考えています。分断がなければ朝鮮戦争も起きなかったでしょう。「何でも日本のせいにするな」「もう謝罪はこりごりだ」という人もいるでしょう。
 とりあえず説明していきましょう。聞きたくないこともあるかもしれませんが、それが歴史の現実です。

 日本は、列強が植民地を拡大する中で、1910年の韓国併合から1945年の日本敗戦までの35年間、日本は朝鮮半島を植民地支配しました。
 この間、日本は漢城を京城(現在のソウル)と改称して朝鮮総督府を置き、現役の陸軍大将を総督として植民地支配を行ったのです。

 朝鮮総督府は、土地調査事業と称して土地所有権の確定作業を進め、広大な土地を国有地として没収し、日本人の官僚や企業家に払い下げた。日本は朝鮮半島を日本の穀倉地帯として利用しました。また労働力の供給地でもありました。

 朝鮮人は教育、官吏任用などで差別され、自治は認められず、言論・思想信条の自由・集会・結社の自由も認められていなかった。言葉も日本語に置き換えられました。

 1919年には、三・一独立運動という本格的かつ全国的な抵抗のデモが起きました。

 このデモを受けて、日本政府はそれまでの武断政治を改め、朝鮮総督は現役の陸海軍大将を充てることになっていましたが、文官も就任できるよう規定を改め、憲兵も廃止して警察に切り替えられるなどの措置を取りました。
 そして日本は41年、アメリカとの開戦に踏み切ります。ドイツも独ソ不可侵条約破棄によるソ連と戦争を始め、戦乱は一挙に全世界に拡大しました。

カイロ宣言の意味とは


 米英中首脳は第二次大戦中に、すでに終戦後の世界の体制を話し合いました。例えば1943年11月に出された、カイロ宣言では、「朝鮮は、適当な時期に独立すべきであること」とされていました。

 4大国による共同管理というシナリオが狂い始めたのは、ヨーロッパ戦線でドイツが降伏してからです。ヨーロッパの戦後処理、とりわけポーランドでの自由選挙実施に関して、スターリンが露骨に民族自決の原則を蹂躙したからです。

 それはルーズヴェルトの最後の日々のことでしました。
 ルーズベルト死後、ソ連の対日参戦が日程に上るにつれて、ワシントンの指導者たちは朝鮮独立問題の深刻性を理解し始めたのです。
 スティムソン陸軍長官はそれを「極東に移植されたポーランド問題」と表現しましました。


 ヤルタ会談とは1945年2月4日から11日にかけて、ソ連領クリミア半島のヤルタという場所で開催された、連合国側の戦争政策および戦後処理の問題についての話し合いです。
 参加したのはアメリカの大統領ルーズベルト、ソビエトの首相スターリン、イギリスの首相チャーチルです。

 当時のヨーロッパ戦線は、ポーランドにいるドイツ軍を駆逐したソ連軍がドイツ国境付近にまで進出し、アメリカとイギリスをはじめとする連合軍はドイツ西部のライン川の西岸を目指し進軍していました。
対ドイツの勝利がほぼ確実という情勢だったため、ヤルタ会談では戦後のドイツ占領地域の処理と、極東の戦略に関する具体的な合意、「国際連合」の設立について協議されています。

 会談が終了した2月12日に「ヤルタ宣言」が発表されています。
ただここで発表された内容は、戦後ドイツの管理体制とポーランドの再建、そして国際連合についてのみ。そのほかに協議していたソ連の対日参戦、戦後の日本周辺の領土についても合意されていましたが、秘密協定とされました。

小年表
1943年11月27日 カイロ宣言
1945年2月4日~11日 アメリカ、イギリス、ソ連首脳がヤルタ会談
1945年5月 ドイツが降伏第2次世界大戦終結
1945年7月26日 「全日本軍の無条件降伏」等を求めたポツダム宣言
1945年8月8日 ソ連が日本に宣戦布告する。
1945年8月14日 北緯38度線で朝鮮戦争を分割占領案
1945年8月15日 日本が無条件降伏
1945年8~9月 38度線の南と北に米軍とソ連軍が進駐
1945年10月24日 国際連合創設


よろしければサポートお願いします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!