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バルビローリのブルックナー演奏について

ブルックナーとバルビローリというのは、直感的にはあいそうにない。とりわけブルックナーの 音楽がある種の宗教性と結び付けられている限りにおいて、そのように思っていた。例えばシベリウスの交響曲にある種の超越を感じ取ることは可能だろうとは思うが、それはいわば 垂直軸を著しく欠いている。音楽は地平線の彼方を目指すのであって、天上をではない。

バルビローリのブルックナーというのは、BBCの録音が出るまでは、その存在すら知らなかった。実際に聴いてみれば、やはり普通のブルックナー演奏とは異なる。強いて言えばエルガーのような ブルックナー。バルビローリの音楽はセンチメンタルであるがゆえに、ブルックナーには向かない、という言い方は 多分正しい。ブルックナーの音楽は自ずから生成する(かの如くに演奏すべきな)のであって、 歌われるのではないのだ。これはバルビローリを聴くのであって、ブルックナーを聴くのでは ないのかも知れない。

しかし、考えてみれば不思議なことで、シベリウスについては同じような解釈が恣意とは 感じられないのに、何故ブルックナーに限ってそのような主観性の残滓に恣意性を感じ取る のだろうか。バルビローリのシベリウス演奏は決して主観的な音楽ではない。主観と世界との相互作用の様相の 音楽なのだ。では、ブルックナーの音楽はどこから響いてくるものなのか?ブルックナーの音楽には もはや通常の意味での主観性と世界という枠組みはないのだろうか?

第8、第9と聴いてみると、第8交響曲の方がより自然に聞える。これは第8交響曲の方がより、 シューベルト的であることを意味しているのだろうか?宗教的な感情の拒否ということでいけば、例えばギュンター・ヴァントの演奏だってそうだ。 また、ケーゲルの演奏も宗教的ではない。けれども勿論、バルビローリの演奏はそれらとも 決定的に異なる。結局、バルビローリの音楽はセンチメンタルである、というのが事態の端的な 説明になっているのだろうか?いずれにせよ、バルビローリのブルックナーについては、すぐには判断できそうにない。 何はともあれ非常に感動的な演奏なのだから。このような演奏で感動することが寧ろ想定外の ことであって、当惑しているというべきかも知れない。

ブルックナーと並んで非常に地域性の強いものとしてはシューベルトの音楽が 思い浮かぶが、シューベルトの場合は、バルビローリのレパートリーの中ではもしかしたら意識的に 「周辺的」なものとして扱われているかも知れない。 少なくともその音楽は「ウィーン物」を集めたコンサートなりCDの編集の中核に位置づけられる のであって、バルビローリのレパートリーの文脈では「地域性」の標識がつけられているようなのだ。 否、もしかしたらロンドンから見た場合、ハイドン、モーツァルトを含めて、日本の音楽史的な 知識からすれば中心であるものが、「地域の音楽」として浮かんでくるのかも知れない。 こうした事情は、そもそもヨーロッパから遠く隔たった日本に住んでいれば、ある時期までは そもそも意識にのぼることすらないだろうし、仮にそれに対して意識的たりえたとして、 実感としてのトポスの感覚は持ちようがない。子供のときに聴き始めて何曲目かの作品がシューベルトの未完成交響曲であるというのは そんなに珍しいことではないだろうが、例えばカラヤンのレコードで聴くその音楽は、 まず端的に音楽であって、そうした地域性のようなものとは無縁なものなのだ。

だが、そうしたシューベルト演奏においてすらそうであるように、バルビローリのブルックナー 演奏は、実際にはそうした「地域性」の文脈とは 見事に関係がないように思われる。ただしそれは、無国籍的な寄る辺無さと裏腹の関係に あるかもしれない。そこで起きていることは、マーラー演奏で生じていることに 非常に近いように感じられる。(これについては第8交響曲の演奏に関連して既に書いたことが ある。)或る種の抽象性を経由した生々しさがあるように思われてならない。 第8交響曲のアダージョのぞっとするような深淵や第2楽章スケルツォの風景がちっとも 見えてこない不思議な道行は、寧ろ非・場所を指し示しているかのようなのだ。

勿論私は何も「お国物」はその国の人間の演奏したものでなければ価値がない、などと 言いたいのではない。(バルビローリにおける最も痛烈な反例はシベリウスだろう。) そうではなくてこのブルックナー演奏が、バルビローリの演奏の持つ不思議な無国籍性、 決して無意識的ではない、寧ろかなり自覚的な音楽の作り方、一見熱っぽく情緒的で 即興的にすら見えて、実際には周到に準備された怜悧な解釈に裏打ちされていることを はっきりと証言しているように思えるのである。 そしてどこまで意識的かは別として、或る種の「普遍性」をバルビローリが 体現しているということが感じられる。勿論、この「普遍性」を絶対視するという わけでもないし、実際のところはよくわからないのだが。けれども、例えば、 ヨーロッパの街を訪れてヨッフムのブルックナーの「感じ」が、身体的に、 ほとんど皮膚感覚的に「わかってしまう」のと比べて、このブルックナー演奏は ずっと意識的に練られたものだという感じをぬぐえないのである。

勿論その演奏は素晴らしく、ブルックナーの音楽の持つ深淵を、殊更に毒を強調する やり方でなく浮び上がらせたものだと思う。寧ろ、外から切り込まなければ取り出す ことができない実質というのがあるのではないかと思いたくなるほどだ。

(2007 公開, 2024.7.8 noteにて公開)

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