音の身ぶりの変形とモンタージュ:マーラーから見たシューマンについて
マーラーがシューマンの交響曲のオーケストレーションに手を入れたことは今日では良く知られていて、その楽譜をリアライズした演奏の CDすら存在するのもまた、マーラーに親しんでいる人であれば周知のことであろう。マーラーの研究が進んだ今日では、マーラーの 発想を知るためのよすがとして、自作よりも寧ろ他人の作品の編曲を調べるといったアプローチが取られることもしばしばで、 シューマンの管弦楽法の手直しは、恰好の資料を提供していることになるのだろう。いわばそれはマーラーをより良く知るための或る種の 迂回路の如きものというわけだ。
翻ってシューマンの側から見た時に、マーラーの手直しはシューマンのオリジナリティを損なう余計な作業ということになるのかも知れない。 皮肉なことにこちら側からの風景でも、そこに見出されるのはシューマンよりはマーラー自身の姿のようなのだ。だが、人によってはそこに マーラーがシューマンの交響曲をある意味で(ベートーヴェンと並んで)特別扱いする思い入れのようなものを見出し、マーラー化された シューマンではなく、シューマンをいわば自分の原点の一つとして、いわばシューマン的なものを継承しようとするマーラーを見出すことも 可能ではなかろうか。
更に言えば、シューマンの作品の中での交響曲の位置づけの方も微妙であって、コンサートのレパートリーとして定着し、新しい録音も 絶え間なくリリースされるとはいうものの、やはり本領は初期のピアノ曲にあるという見方は根強いものがある。形式上の独自性という点でも、 初期のピアノ曲の方のそれの無比の独創性をまずは評価すべきなのは論を俟たないだろう。それ比べれば交響曲は或る種の退行である と見做されたり、そうではなくてもこちらは形式的に難ありとして留保がつくこともあれば、自分に向かない方向に向かう自滅的なプロセスを 辿ったサンプルとして否定的な評価をされることもあるようだ。実際にはシューマンの交響曲にも形式上の独創を見出す見解もないではなく、 実は個人的には寧ろそうした見解に共感することが多いのだが、シューマン自身がそこに「新しい道」を見出したブラームスの交響曲の評価と 比べれば、シューマンの交響曲の評価は毀誉褒貶相半ばするといったところだろう。ピアノ作品の独創性が顕揚されるあまり、シューマンは シンフォニックな発想を得意をしなかったかのような評価が為されることもめずらしくない。
ところでその形式についての評価が毀誉褒貶相半ばするという点では、マーラーもある意味では同じという見方も出来るだろう。 特にマーラーの交響曲を成立順に眺めていったときに、特に後期の作品の形式は旧来の図式論ではいわば出発点をしか言い当てる ことができない程、形式原理の換骨奪胎が進んでおり、従来とは異なりつつも、その後の音楽が放棄してしまったかに見える大規模な作品を 構成する原理を見出すことに成功しているように見える。巨視的な形式に関するカテゴリとしては、アドルノがそのマーラー論において示した 3つないし4つのカテゴリーが著名だろう。
一方でいわば微視的な構成の原理としてアドルノが指摘するのが、変奏ならぬ変形(ヴァリアンテ)の技法であるのだが、例えば第4交響曲 第1楽章の分析を追っていると、それが道化師の鈴で始まる作品であることも相俟ってか、どことなく、シューマンの作品における音の身ぶりの 変形とモンタージュという構成原理のことを思い浮かべてしまうのは私だけだろうか。
勿論、巨視的な構成原理もそうだし、それ以外のトピックでも、リゲティ等が指摘するコラージュ性や複数の時間の流れは一見したところ シューマンの音楽の性格とは異なったものに見えるが、フモールやイロニーの存在や或る種のカーニヴァル性、更には音響的な実現の仕方は異なるとは いいながら、発想としては類縁のものを感じさせる空間性に対する意識というように、直接的な影響ではなくても、その志向においてマーラーが シューマンと共通する部分は少なくないように感じられる。「遠くから」という指示は、マーラーの場合には実際に舞台裏や舞台から離れた高いところで 演奏する指示であり、コンサートホールにおける音響の効果を狙ったものである、というのが一般的な了解だろう。だが、マーラーの場合においても それはリアルな音響空間のそれであると同時に理念的な空間性への意識とも無関係ではありえない。第6交響曲のカウベルや低音の鐘のように、 マーラー自身も警戒して述べているが如く、一見すると標題音楽的な描写的なものと受け取られがちな指示は、寧ろ音楽自体が切り開く ヴァーチャルな空間の質に対する形容なのである。一方のシューマンの場合の「遠くから」は、それがピアノ曲の楽譜に書き込まれているからには、 或る種の発想指示と捉えられるのが普通であり、こちらは実際の奏法上の具体的な対応物を持つわけではなく、けれどもやはり音楽が自ら 産み出し、その中で展開される空間の質に対する指示なのであって、超越性なり彼方への一般的にはロマン主義的という言葉で一くくりに されるであろう共通の志向を見てとることは寧ろ自然なことにすら感じられる。否、冒頭で言及したシューマンの交響曲へのマーラーの改訂作業は、 まずは演奏現場での解釈者としての作業であるという点を忘れるわけにはいかないにせよ、そうした点での共感に基づいたもののように思われる。 (一例だけ挙げれば「ライン」交響曲第1楽章に出現するホルンのシグナルは、明らかに空間的な質を担ったものだが、その質を確保すべく、 マーラーは、自作で行うようなゲシュトップフ奏法を指定している。実現される音響はこれはシューマン的というよりはあからさまにマーラー自身の ものに近づくこの改変は、見方を変えればマーラーがシューマンの音楽に、自分の音楽に通じる質を見出していたが故のものであると私は思われる。)
いや、そもそももっと状況証拠的なところでの接点なら幾らでもあると指摘する人もいるかも知れない。ジャン・パウルやホフマンへの傾倒、 子供の魔法の角笛や、リュッケルトといった詩人への嗜好、ヘルダーリンに対する高い評価、更にはゲーテに対する傾倒(「ファウスト」の 終幕に音楽をつけたという点でも両者は共通点を有する)というように、文学的嗜好の面での共通性は小さくない。更には音楽外的な 伝記的な出来事が音楽を語るときに絶え間なく進入する点でも共通しているといえるかも知れない。
だがここではもう一度、音楽そのものの構成原理に立ち返って、音の身ぶりの変形とモンタージュというシューマンにおける主要原理と マーラーのそれ、そして交響曲の形式原理に関して、シューマンを通してマーラーを眺めることを追求してみたいような気がする。 一般にはマーラーはワグナー派に分類されているし、交響曲においてもブルックナーと対にして語られることが多く、(パウル・ベッカーの 分類によれば)オーストリア的な交響曲の流れとしてシューベルトの系譜に位置づけられることはあっても、シューマンと比較して 論じられることはほとんどないと言って良い。そして勿論、一見して明らかな違いを等閑視しようというわけではないのだが、 にも関わらず、全く恣意的な比較に留まるわけでもないのではないかというように思えてならないのである。
(2013.4.23,27, 2024.7.24 noteにて公開)
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