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語録:ブルノ・ヴァルター宛1909年初頭ニューヨーク発の書簡にあるマーラーの言葉

ブルノ・ヴァルター宛1909年初頭ニューヨーク発の書簡にあるマーラーの言葉(1924年版書簡集原書381番, p.414。1979年版のマルトナーによる英語版では382番, p.329, 1996年版書簡集邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では404番, p.368)

... Ich durchlebe jetzt so unendlich viel (seit anderthalb Jahren), kann kaum darüber sprechen. Wie sollte ich die Darstellung einer solchen ungeheuren Krise versuchen! Ich sehe alles in einem so neuen Lichte -- bin so in Bewegung; ich würde mich manchmal gar nicht wundern, wenn ich plötzlich einen neuen Körper an mir bemerken würde. (Wie Faust in der letzten Szene.) Ich bin lebensdurstiger als je und finde die "Gewohnheit des Daseins" süßer als je. ...

(…)目下のところそれほど無限に多忙を極めているから(ここ一年半以来)、それについて話をする暇がとれません。このとてつもない危機的状況をなんと言い表したらいいか?一切がかくも新しい光の中にみえてきて――私はかくも活動のさなかにあるから、突如新たな肉体を得たと気づいてもなんら不思議に思わないかもしれません(さながら最終場面でのファウストのように)。今までになく生きることに飢え、「この世に生きているという当たり前のこと」が、かつてなく甘美なものに思われてきます。(…)

一つ前の手紙の半年後にニューヨークから書かれた手紙。「大地の歌」と第9交響曲の間の時期に相当する。実は「大地の歌」の創作の時期については 異説があって意見の一致を見ていないようだ。もっとも一つ前の手紙が書かれていた1908年の時期がその只中であるのは確実のようではあるのだが。
この手紙の文中の1年半というのは、勿論、1907年夏の娘の死と、自分の病の宣告という出来事以来の期間を指している。 ここでは第8交響曲のファウストへの言及が印象的で、マーラーが「死の影の谷」を抜けたことを告げているように感じられる。 「大地の歌」の創作は、まさにその「受容」と「回復」の過程そのものだったに違いない。そして更に半年後には、マーラーは第9交響曲に向かうのである。 第9交響曲の第1楽章についてベルクの言った感動的な言葉と響きあうものが、引用した文章に感じ取れるように私には思えてならない。
それゆえ、例えば村井さんがその著書でこの手紙を引用する部分で、「「人生」と「芸術」との関係など、しょせんこの程度なのだ。」と述べているのを 読んだときには、全く驚いてしまった。なぜなら私は、まさにこの手紙にこそ、とりわけ晩年のマーラーならではの「人生」と「芸術」との密接な関係を 見出していたのだから。ベルクも言っているように、第9交響曲の第1楽章は、この手紙で告げられている「回復」の、生きることへの意志の表現でなくて なんだというのだろう。村井説のように、音楽が表現しているものの方を「通説」(「死が私に語ること」式の死のイメージの表現なり、「死との対決」という プログラム)に縛り付けたままにしておきながら、それを利用して「人生」と「芸術」との分離の方を強調してしまうのには、私は強い違和感を感じずには いられない。音楽とそれによって表現されるものの関係を単純化してしまうから、分離が結論されてしまうのではなかろうか。
私は精神分析の専門家でも、文学や音楽の専門家でもないので間違っているかも知れないが、まずもって「死の受容」のようなプロセスが、 そんなに一直線の単純なものであるとは限らないように感じられてならない。個人差もあるだろうが、ニューヨークで指揮をしている時には このように書いても、半年後に再び孤独に戻った時に、再度、そのプロセスを―ただし、今度は、もはや「回復」した人間がとりうる距離感を 保ちつつ―反芻するようなことはありえないのだろうか? そしてもう一度、第9交響曲はそうしたマーラーの心理的な状態と無関係ではなく、 例えば、自分が「かつて」経験したことを、まるで他人事のように客観的に「芸術作品」の内容として「表現」するといったような、他の作曲家であれば もしかしたらあり得たかも知れないような(無)関係ではなく、もう少し微妙な繋がりを持っているように感じられてならないのである。
単純な伝記主義は、「人生」における外面的な事件に「芸術」を還元してしまいがちで、これはあまりにも粗雑だろう。また例えば職業的な作曲家、 しかもずっと昔の、音楽の機能がマーラーの時代とは異なっていた時代の職業的作曲家であれば、「人生」と「芸術」とを分離すべきなのは もっともだ。だがマーラーの場合には「標題」の問題を見直す必要があるのと同様、「人生」と「芸術」との関係もまた見直す必要があるとはいえ、それでもなお、 その音楽はマーラーその人の「心」と深く個性的な結びつきをもっていて、それゆえ聴き手の「心」に強く訴えるのだと私は思う。勿論、 作品ごとにその結びつきの具体的なありさまは微妙に異なるだろう。「大地の歌」と第9交響曲を一緒に扱うことはできないだろう。だが、 「大地の歌」に比べて第9交響曲がより個人的でない、などということは言えないと思う。寧ろ、(この点では村井さんの言い方に同感なのだが) 「個人的であるがゆえに超個人的な、普遍的な作品」なのだろう。もっとも、この言い方は正鵠を射ているとは思うが、このままでは些か レトリカルで、どうしてそのようなことが可能なのかについての説明こそが必要なのではないかという気がするし、他の部分での 「人生」と「芸術」との関係の説明と、矛盾こそしないが、説得力のある仕方では噛み合っていないように感じられるが。
私個人のことを言えば、第9交響曲の第1楽章のあるタイプの演奏を聴くと、まるでマーラーが周囲に広がる風景を享受するその様態そのものが、 自分の心の中に沁み込んで来るように思われることがある。風景ではなく、風景を味わう意識の状態が感じ取れるように思えるのだ。 「感受の伝達」の直接性において、音楽ははるかに言葉にまさっている。だが、それだけではない。音楽は生の経験の不完全な、色褪せた コピーには留まらない。マーラーはこの曲を書くことを通して、風景を享受する仕方を産み出したのだ。(勿論、音楽だけではなく、言葉もまた そうした産出に、別の仕方ではあるが関わることができるだろうが。)それは彼の経験に根ざしているけれど、 同時にその経験を超えてもいる。「人生」と「芸術」との関係は、やはり(他の場合はいざ知らず、マーラーの場合には)もっとずっと 微妙なものに思えてならない。
勿論、単なる思い込みだと言われてしまえばそれまでではあるが、でも私にとってマーラーの音楽は、そういう類の音楽なのだ。

(2007.6.11, 2024.8.7 邦訳を追加。2024.8.11 noteにて公開)

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