喪の作業とマーラー
喪の文章。喪についてではなく、喪の行為として文章を書くこと。追悼の文章を書くこと。まずは自分のために。 けれどもあわよくば、喪われた命、恐らくは、このようにして書き留めなければ生成の絶えざる過程の流砂の中に埋没し、忘れ去られてしまう ハエッケイタスの擁護のために。そうした擁護もまた無力で、それ自体が流砂の中に埋没してしまうことはわかっている。客観的には愚行、 無意味な行為であることが明らかであるのに、それを止めることはできない。
死は他者である、ということは、かつてレヴィナスを研究していた時には明らかなことに思えた。ところが死の他者性は、他者性ゆえに 備えることができない剰余を必ず持っている。というよりその剰余こそが他者性なのだ。そうやって、嵐が来てみて、またしてもその嵐の最中で その都度不意に生命が喪われるのに直面する。常にその瞬間は不意打ちだ。そうやって今までそこに在った意識が不意に消滅する。 私を見つめていたまなざしは永遠に喪われる。永遠に、永遠に。残るのは活動を停止した生命維持のメカニズムの残骸。停止した自動機械だ。 意識はその自動機械のユーティリティの如きものに過ぎなかったのだ。
能にはいわゆる霊がごく自然に、当たり前のように出てくる。それは後には「怪談」という枠組みの中で恐怖の、排除の対象となるのだが、 能ではそうではない。彼らは大抵は己が成仏できない理由を述べ、僧形のワキに供養を請い、読経の功徳によって成仏する。彼らは肉体を 喪ってはいるが、別に不気味な存在というわけではない。これをチャーマーズのゾンビと比較するのはお笑い種だろう。ゾンビとは逆に、ここでは 意識のみがあり、身体は存在しない。ゾンビはまるで意識があるかのように身体のみが動くが、霊ではまるで身体があるかのように意識のみが動く。 そして更に考えてみれば、ここでの霊というのは意識の存在の制約条件を見事に裏返したものになっている。それは生物学的な制約を離れて存在したいという 無いものねだりの極限、意識自身の虚像なのだ。瞑想は言ってみれば感覚を遮断して意識のみを切り離す訓練だが、ソマティックな感覚まで 無くすことは困難だ。そこでは身体すら外部なのだ。ゾンビとゴーレムの西欧はいざ知らず、日本には意識なきロボットを擬人化する志向的スタンスがある一方で、 意識をその存在の物理的な制約から分離したものとして見做す志向もまた存在するということなのだろうが、それは多分ごく自然なことなのだろう。 能の多くが夢幻能で、それが繰り返し繰り返し、洗練を重ねつつ演じられ続けてきた理由の一端が実感できるように思える。だが、さしあたっては それは願望に過ぎない。意識は生命維持機構が発達させてきたユーティリティに過ぎず、それはある条件さえ整えば、生命の維持に必須なわけではない。 否、意識を持たない生物はいくらでもいるだろう。だが、私にとってはそのユーティリティがかけがえのないものなのだ。そして私自身もまた、 そうしたユーティリティに過ぎない。そして私は、他の意識の消滅を経験し、それが生じることを認識し、更にはそれがいつか自分に起きることを 色々な知識や経験によって知っている。けれども、知識としては持っているにも関わらず、自分自身の存在を脅かすのと同型の出来事が、自分がともに生きてきた 同型の存在に起きることによって自分の中におきる反応にいつまでたっても慣れることができない。それもまたそのように事前にプログラミングされている のかも知れないが。(もしそうだとしたら、「それは自分にもいつか起きる」という認識を持つことは、私にとってではなく、そのプログラミングを行った主にとって 一体どのような効用があるのであろう。)
そして今度もまた、マーラーがそう感じ、ワルターへの手紙に書いたように、私もまた「一からやり直さなければならない。」 マーラーは何故、そうした時に音楽を書いたのだろう?逃避のため、自己治療のため、などなどといった説明が色々あるのは 知っているし、それはそれぞれ正しいのだろう。それは喪の行為そのものだったに違いない。だが、それが作品として定着され、 ミームとして存続するのはどうだろうか。マーラーは自分の作品を精神的な「子供」と見做していたのだ。そして確かに、生命の連鎖とは 別の仕方で、その「子供」はマーラーの死後も命脈を保っているように見える。マーラーは、作品を創ることを、無意識の裡の反逆として 捉えていたのではないだろうか、と私には思えてならない。「原光」の歌詞が物語るあの葛藤は、素朴な装いではあるけれど、反逆の 一形態に感じられる。愚かなファウストの行いにもそうした「反逆」の影が見える。
マーラーの知性は、ファウストの終幕自体が或る種の「比喩」、ある文化の拘束下での表現形態の一つに過ぎないという認識に到達していたようだ。 丁度、ある人が確かに見たという神や天使といった超越的な存在の幻視が、その人の想像力に拘束されて、ひいてはその人が埋め込まれた文化を 色濃く反映しているのと同様に、人間は自分の認識の檻の外には出られないというのを彼ははっきりと認識していた。自分がすべて移りゆくものの、 比喩の側にしかいないという認識が彼にはあった。だからこそ、例えば第2交響曲のフィナーレのプログラムを真に受け取って、質問をしてきた女性の態度に 彼は当惑したのだ。どんな得意の絶頂にあってさえも、彼は自分が創るものがまがいもの、フィクションに過ぎないこと、その仮象性、 虚構性をはっきりと自覚していたに違いない。にも関わらず彼が創作をしたのは、それが結局のところフィクションに過ぎなくても、 そうせずにはいられなかったからなのだろう。 それは不可能事への挑戦、マーラーが親しんでいたカントであれば純粋理性が突き当たるべく宿命付けられているとされるあのアンチノミーに他ならない。 マーラーがカントをどのように読んでいたかは詳らかにしないが、恐らく、そうした自分の能力を超えた問いを立ててしまう人間の性のようなものをカントが 自分なりの仕方で見出した点に共感していたのではないかと想像せずにはいられない。 彼の作曲は、彼なりのそうした不可能事への挑戦、私なりに言い換えれば、ある種の「反逆」の実践ではなかったろうか。
私=この意識は、それによって自分が偶然に生じたに過ぎない進化の盲目の巧緻を賞賛できない。寧ろショーペンハウアー的な盲目の意志にしか 感じられない。私はおまけに過ぎない。そのかわりレヴィナスのいう多産性が用意されていると言うかも知れない。だが、それは私=この意識のためのものではない。 多産性は遺伝子が自分の存続のために仕組んだメカニズムで、個体の生命維持機構の上にほとんど随伴的にしか存在しえない私には 関係がないことだ。勿論ハエッケイタスはクオリア同様虚構で、ついでにお前という意識も虚構だ、と消去主義者は言うだろう。 確かにある視点からはそれは正しい。けれども、私にとって私は存在する。お荷物だろうが、私は無くなるまでは自分に付き合っていかざるを えないし、つい数十時間前まで私を見つめていたまなざし、確かに存在していた他者の意識をなかったことになどしたくないのだ。 私は私なりの仕方で「反逆」を企てたいのだ。勿論、天才ならぬ私には、マーラーのようにはできないのはわかっているけれど、そして、 多くの意識たちが、聖書の鳥のように、播かず、刈らず、倉に納めず、それでいながら、私の記憶の外では喪われてしまう無償の優しさを 与えてくれながら、無から無へとひっそりと還っていくその慎ましさに、自分もまた同じように全てを消去して、姿を消すべきなのではという懐疑に捉われつつも、 一方でそれらの意識たちの存在の慎ましさ、寡黙さゆえに(彼らは黙っていれば自分からは主張したりはしないだろうから)、己の非力を顧みない愚挙であっても、 あるいは彼らにとってはとんだ「おせっかい」かも知れなくても、自分なりの「反逆」を企てたいのだ。
否、私にはできなくても、マーラーの遺した音楽は、そうした私の心のベクトル性を汲み取ってくれるように感じられる。それが勘違いであっても、 私はそれを(主観的な音楽ではなく、)意識の音楽、主観性の擁護の音楽として聴き取る。その音楽はあまりに個人的であるという廉で批判され、 蔑まれてきたし、今後も毀誉褒貶が相半ばすることだろうが、それでもミームとしてのその力は明らかなように思われる。そしてその音楽が、喪の行為であること、逆説的にも 肯定的な瞬間においてすらそうであること(第8交響曲)は、私には明らかに感じられる。喪の行為が私=意識にとって必要であり続ける 限りは、マーラーの音楽は私のかけがえのない伴侶、しかも私よりも遙かに長寿の、「神の衣」の一部となることが許された同伴者なのだ。 マーラーの音楽がすっぽり含まれるであろうロマン主義的な音楽観は、音楽史においては、あるいは今日の作曲の現場では もう命脈が尽きたことになっているのかもしれない。だが、それは私にはどうでもいいことだ。私にとって大切なのはロマン主義的な音楽観自体ではなく、 それが産み出した(というのは認めたとして)マーラーの音楽という個別の場合の様相だ。肥大した自我?こんなに醒めて、己(と己の同類)の 有限性に意識的なのに?情緒過多で感傷的?確かにそうかも知れないが、ここに自己陶酔があるとは私には思えない。こんなに外部が、死が、 他者の影が露わな音楽はない。それは時折、自分を飲み込む「世の成り行き」のミメーシスに転化さえするではないか。
ある意識が「存在した、生きた、愛した」という事実性そのものを顕揚し、あたかも擁護しているようにみせかけ、 そこに慰めを見出すように諭す哲学者の姿勢には、好意的に言っても無意識の詐術が潜んでいる。事実性は、 (悪意ある言い方をすれば)最悪の場合でもそうした哲学者の行為によって、ようやくはじめて意味を持つのではないか。 「事実性が滅びることはない」のは、如何にしてなのかといえば、「事実性が滅びることはない」と幾つもの意識が連帯しつつ、反目しつつ、 あるいは互いに無関係に言い続けることによってでしかありえないのではないか。「生きた自然の超自然性」などといったお得意の、 しかし変わり映えのしないレトリックを最後に至っても手放さず、そうしたレトリックによって何かが達成できたかの如く振舞う饒舌なジャンケレヴィッチの姿は 私には欺瞞にさえ見える。もし、自分で気づいていないなら、それはそれで哲学者らしからぬ(でも、現実には哲学者におきがちな、自分だけは 安全なところにいて、超然とした視点を確保できているという勘違い、ないし、そのようなふりをする詐欺と同様の)、度し難いお目出度さだ。 それでもなお、彼(の=という意識)が「死」というタイトルを持つ数百ページにも及ぶ大著を残したことは事実だし、その内容が持つ効果は全くの無ではない。
そうした哲学者の賢しらさに比べれば、マーラーの音楽はずっと素朴に見える。(彼はまた、そのナイーブさによっても蔑まれて きたのだった。)あるいは音楽はそんな目的のためにあるのではなく、もっと高邁な目的のためにあるのだとして、彼の音楽を安っぽく、低俗なものと 見做す立場もあるだろう。一方で、マーラーの音楽を精神安定剤の如く利用するとは何事か、結局マーラーの音楽をムーディに消費している だけではないかという批判もあるかも知れない。そしてこうした聴き方は、本来あるべき姿に違いないコンサートホールでの実演ではなく、 専ら自宅で、生活の糧を得るのに追われる合間に、しばしば断片的に、貧弱な再生装置で録音を貪るような受容のあり方に固有の非本来的なもの、 コンサートホールのマナーには全く相応しからぬ、品のない姿勢として蔑まれるかも知れない。 結構、きっとそうした批判は皆、多分正しいのだろう、どこかに輝いている真理の星の輝きの下においては。 だが生憎、地面に這いつくばって生きているに等しい私には、そんな真理の星は無縁だし、 マーラーをそんな真理に照らして聴き、理解しないといけないのであれば、私には30年前のはじめからマーラーを聴く資格などなかったし、 今でも勿論ないのだろう。
それでも多分、私はマーラーを聴き続けるし、マーラーについて書き続けるだろう。無言のまま永久に閉ざされた瞳の向こうに、 ほんの少し前まで確かに存在した小さくて純真なあの意識をしのび、せめて自分が存続している間には、この出来の悪い 神経回路網に決して忘れないように記憶し続けるために、そしてそういう自分もいつの日か、跡形もなく消えうせるという事実を確認し、 銘記するために。こうした書いた文章とて、永遠とは程遠い。紙に書かれたものは風化し、電子化したものは環境の違いで そもそも無意味な数値の羅列になりうるし、そうでなくてもディスクが壊れて喪われてしまうかも知れない。けれども、私は、自分が 記憶している「良きもの」が、自分の死とともに永久に喪われるのに耐えられない。少しはましで充分。その少しの程度の違いのために、 私はもうしばらくは書き続けるのだと思っている。
(2008.6.4、埋葬の後で, 2024.6.25 noteにて公開)
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