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「第29回二人の会」(喜多六平太記念能楽堂・平成24年6月2日)

能「當麻」
シテ・香川靖嗣
ワキ・宝生閑
ワキツレ・宝生欣哉
ワキツレ・大日向寛
アイ・野村万作
後見・塩津哲生・中村邦生
笛・一噌仙幸
小鼓・成田達志
大鼓・国川純
太鼓・観世元伯
地謡・友枝昭世・粟谷能夫・大村定・粟谷明生・長島茂・友枝雄人・内田成信・金子敬一郎

伺うところによると「二人の会」も次回の30回が最終回とのことで、香川さんがシテをお勤めになるのはこの会では今回が最後。 その最後の番組は「當麻」。能が単なる演劇に留まらず、或る種の「奉納」としての機能を今尚喪なっていないと感じ、 とりわけ香川さんの舞台を拝見してきて、その思いを都度新たにしている私にとって、棹尾を飾るに相応しい最高の番組である。

能ではしばしば前シテとして登場する謎めいた人物が、何らかの執心により成仏することが出来ないでいるところを、 ワキの僧の回向により成仏をするという構造を持つが、この能では、囃子に呼び出されて前場で登場する化尼と呼ばれる 老いた尼は、彼女が伴う化女と呼ばれる若い女とともに、明らかにこの世ならぬ雰囲気を漂わせつつ、だがそこには憂いも鬱屈も 微塵も感じさせない。三熊野から大和路を経て京都に向かう途上であることを告げる聖もまた、喜多流では匿名の念仏聖ではなく、 間接的な仕方ではあるが、明らかに一遍という固有名を備えた人物であることが名乗りによって見所に明かされるのだが、 その聖に対して明かされる老尼の来訪の目的は「法事」である。同時に、舞台上の時間における「今」が時正の時節という季節の節目、 昼夜が等しくなる日、釈迦入滅の日というこれまた特定の日付を持った日であることが告げられる。「法事」とは特別な「日付」、 一回性の出来事を記憶し、それを繰り返し思い起こすことによって伝承する行為に他ならない。

こうした特定の日付の参照は実際には他の能でもしばしば起きているかも知れず、別に「當麻」の能に限られるわけではないの かも知れない。それこそ統計的な調査でもすれば客観的な事実が明らかになるのかも知れないが、にも関わらずそうした事実とは 別の位相で、この能を拝見していると、固有名をもった存在、一回性の出来事を記念する日付を記憶し伝えるための反復と いった側面がとりわけ強く感じられるという事実はなくならない。それはアイの門前の男の語りにも及び、そこでは(まるで後シテを 予告するかのように)中将姫が生身のまま浄土に赴いたとされる日付、皐月14日への言及がなされる。

実はワキの聖が出会った老尼と若い女は阿弥陀如来と観世音菩薩の化身に他ならず、後シテもまた、中将姫の精魂であり、 従ってここには成仏を願う心のベクトルもなければ、苦患の様を示しつつ遂には解脱するプロセスもない。中将姫伝説の総体のうちには 例えば継子虐めのようなモチーフも含まれるのだが、この能においてはそれは直接語られないし、伝説に基づくもう一つの能である 「雲雀山」での中将姫を守り抜く乳母の物狂いもまた、ここで語られることはない。「世の成り行き」の仮借なさと、そこでの暴力は 作品の外側においやられてしまい、この能の中では専ら、前場においては當麻曼荼羅の由来の中で生身の弥陀如来の来迎という 出来事が語られるし、後場の舞もひたすら浄土讃仰の舞であり、それらはいわば瞬間の裡への永遠の到来により絶対的な瞬間が (原理的には無限に)引き延ばされた断面なのだ。

決定的な瞬間とは、未来から 何かが到来するそれであり、例えばホワイトヘッドのプロセス形而上学における時間論の一解釈である「時の逆流」こそが事態を 適切に言い当てていると感じられるようなそれである。場違いを承知で自分の知る限り、類比できるものを探すとすれば、 例えば(背景となる筋書きも内容も全く異なるが)ゲーテの「ファウスト」の第2部終幕が要求し、マーラーが第8交響曲の 第2部で実現したような時間の流れが思い浮かぶ。表面的な否定の契機の不在についても並行しており、 「ファウスト」の終幕が繰り広げられる森深き山峡にも背後の文脈から射す死の影を読者が感じ取ることができることもまた、 ここでは二上山が(折口信夫の「死者の書」ではそれは明示的に扱われているのだが)死の影が差す場所であり、 それゆえ西方浄土のいわば「門」の如き存在であったことと並行しているかのようだ。 一方で、(それをここで詳述することは最早場違いとなるだろうから控えるが)一見したところ全く異質なものと思われるかも知れないが、 一回性の出来事が生じた「日付」を記憶し、「他なるもの」に向かう「対話」として詩を考えていたパウル・ツェランのこと、更には そうしたツェランの詩を取り上げ、一回性の出来事が反復によってしか他者には伝えることのできない構造についての 思考を、更には「芸術」と「崇高」の関わりの様相についての思考を繰り広げたジャック・デリダのことを思い浮かべずにはいられなかった こともまた、これは専ら自分の備忘のために書きとめておくことにする。

そうしたことから寧ろ雰囲気は脇能のそれに近接する感さえあるこの曲は、人物の解釈であるとか人間的な心理の過程の表現で あるとかといった水準での演出の斬新さのようなものを受け付けず、そうしたものの介在無しに寧ろ直接に演者の技量や心境が 問われるという意味で難曲であろうことは素人目にも明らかなことなのだが、この日の上演はシテの香川さんは勿論、ワキの宝生閑さん、 友枝昭世さん地頭の地謡、一噌仙幸の笛と国川さん、成田さんの大小に更に後場では観世元伯さんの太鼓が加わる囃子、 そして野村万作さんのアイ狂言と、全てが揃った理想的なものであった。永遠を閉じ込めた瞬間を拡大して示すことに成功した 演奏に接して、私は途轍もなく高密度に圧縮されたもので、寧ろ簡潔とさえ形容したくなるような不思議な時間感覚を味わった。 夢の中の時間の流れが現実の時間の長さとは無関係であるように、終わってみると一瞬のことのような、でもたった二時間程度とは 到底思えないような長い時間が経過したような感覚に囚われた。それはまさに「時の逆流」に相応しい圧倒的な経験であり、 能の上演自体が、「當麻」の作品の題材である決定的な出来事の反復そのものであるかのように感じられた。このような上演に よってこそ、或る日付を持った一回性の出来事が時間を通って記憶され、継承されていくに違いない。そうした上演に接することが できた僥倖に感謝したいと思う。能の上演時間の全体が、というわけではないにしても、思わず「奇跡」という言葉を使いたく なるような瞬間の訪れを幾たびとなく感じた。

印象に残った部分を挙げるのは、それが多すぎて困難な程であるのは香川さんの近年の演能では常のことになっているが、 特に圧倒的であったのは、前場の頂点、否、全曲の頂点と言っても良い當麻曼荼羅の由来を語るクセの部分。 地謡の謡いの克明さに、まるでその場に立ち会っているかのような感覚に戦慄を覚えた程。 一般的な意味での人間的な表情とは異なるのだが、化尼の表情がいつしか変わっていき、 文字通り生身では決して見ることのできない筈のものに遭遇しているような感覚に捕われ、軽い恐慌状態に 陥りかかったように感じる。そして引き続いて「音楽」が鳴り響く中、シテの昇天の足どりによって老尼が紫雲に昇って 二上山へと昇っていく様を、シテが橋掛りを通って揚幕に消えて中入りとなるまで、まるで当たり前のように観ることになる。 クセ以降の囃子の効果は、囃子の響きそのものが「音楽」の模倣・表現であるというのではなく、寧ろ聴こえないはずの「音楽」の、 そしてその聴こえない音響がもたらす万華鏡のような色彩の共感覚を暗示的に浮かびあがらせるかのようだ。

後半では、まず囃子に呼び出されて揚幕が上がって橋掛かりに中将姫が出現する瞬間が圧倒的である。 以前の三輪では作り物の幕が後見によって降ろされた瞬間に会場が声にならないどよめきのようなものに包まれたのを はっきりと覚えているが、今回も中将姫が橋掛かりに現れた瞬間、やはり会場が一瞬凍りついたような緊張に包まれたのが 感じられた。早舞では、かつてやはり香川さんが舞った翁を拝見した折に感じたような、身体の芯からじわじわと暖かみが 湧き上がってくるような感覚を再び経験する。勿論、段の区切りはあるし時間は経過しているのだが、にも関わらず停止した 瞬間の中にいるような不思議な感覚である。それは自分が何か別の秩序のリズムに同期している身体の感覚のもたらす ものなのかも知れない。

実のところ前日までの疲れが抜けきらず能楽堂を訪れたこともあって、「當麻」という作品が要求する緊張に自分がついて いけるかに懸念を感じていたのだが、それもまた素晴らしい上演の前には杞憂であった。逆に自分の中に蓄積した澱の ようなものが流れ出し、恰も新らしい身体を得たような気分で能楽堂を後にすることができたことを、香川さんをはじめとする 演者の方々への敬意と感謝の気持ちを篭めて最後に記しておきたいと思う。

(2012.6.3,4 執筆・公開, 2024.7.31 noteにて公開)

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