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「第10回香川靖嗣の會」(喜多六平太記念能楽堂・平成28年4月4日)

「第10回香川靖嗣の會」
能「野宮」

シテ・香川靖嗣
ワキ・森常好
アイ・高野和憲
後見・塩津哲生・中村邦生
笛・一噌隆之
小鼓・大倉源次郎
大鼓・柿原崇志
地謡・友枝昭世・粟谷能夫・粟谷明生・長島茂・狩野了一・金子敬一郎・大島輝久・友枝真也


 今回で10回目となる「香川靖嗣の会」。概ね4月の最初の土曜日に催されるので、 往き帰りの道端に桜を見ながらの観能となる。今年もまたそうであったが、 季節の循環の確かさに比べて、微視的な、と言われもしよう自分の周辺の状況は 常に揺らいで定まることがない。諸般の事情から、一旦は書き始めた感想を完成させる ことができないまま、2か月以上の時間が経過してしまった。それでもなお、感想を書きあげて 今、それを公開しようとするのは、この感想自体の価値ではなく、自分が幸運にも 経験することのできた演能自体の価値故であり、たとえ時期を逸してしまってもなお、 その感想を記録しておくことをある種の義務と考えているが故であることを、 かくも公開が遅れたことに対するお詫びとともに、最初に御断りしておきたい。


恒例の馬場あき子さんのお話は、「野宮」という能の解説を超えて、 典拠たる「源氏物語」における六条御息所についての詳細を極めた紹介で、 100万文字、20万語に及ぶ長大な「源氏物語」を何度も逍遥して目立たぬ小径迄知り尽くし、 恰もその作品世界の一員であるかのような行き届いた解説であった。

私個人について言えば、「源氏物語」の世界は、日本の古典であっても、幼少の頃より親しんできた 「平家物語」の世界と比べて、疎遠であったし、今でも疎遠であり続けていると言わざるを得ず、 寧ろ能を拝見することが「源氏物語」の世界への唯一の通路であると言っても過言ではない程であって、 直接的な能作者に限定されず、莫大な影響力を持っていた源氏物語が後世に遺した巨大な影響力の 圏に属する有名無名の人々の受容のプロセスの総体を背景とした解釈を通じて、 その世界を遠目に眺めているに過ぎない。

そうした私にとって印象的だったのは、従来様々な説が唱えられて来たらしいこの「野宮」という能の 作者を禅竹であると馬場さんが言い切っておられた点で、これについては寧ろこの日の観能を終えた後、 演能から受けた印象に照らして非常に腑に落ちたのを覚えている。厳密には永劫というわけではなくとも、 人間の尺度からすれば永遠に等しいような大きな時間の流れの中に置かれた、 有限の生を運命付けられた個体としての人間の、自己の限界をはみ出してしまった思念の寄る辺なさ、 だがまさに同じその思念の力によって個体としての限界を超え、 しばしば円環的と言われる時間構造(だがそれは能の作品自体の構造ではなく、観る者にとっては暗示され、 示唆されるといった形で浮かび上がってくるものなのだが)の中に閉じ込められて解脱を得ることができず、 本来ならば悪循環である筈の輪廻の中において、自己を超越し、或る意味において永遠に漸近し続けるという 逆説を突きつけられたように感じたのだったが、それは例えばかつてやはり香川さんのシテで「定家」を 拝見した時に受けた印象と構造的には並行するものがあったような気がするのである。(念のためお断りして おけば、だからといって、「野宮」と「定家」が似ていると言いたい訳ではなく、寧ろ直接的な印象は 全く異なるといっても良いのだが、その印象の由来については後で触れることになろう。)


この演能を拝見して最も鮮烈に感じられたのは、虚構の物語の一登場人物に過ぎない人間の 途方もない存在感であったように思われる。しかもそれは、上述のような私の「源氏物語」との接点の 希薄さを考えれば、ほぼ人の一生に等しい年月の時間経過を内包する「源氏物語」という作品の厚みと、 その中で一際存在感を放って六条御息所が幾度と無く登場することに起因するわけではないだろう。 勿論、冒頭に記した馬場さんのような方であればそうした 感じ方も可能だろうが、私の場合にはそうしたことは望むべくもなく、 それは専ら演能の力によるものに違いない。例えば同じ禅竹の「定家」の式子内親王であっても、 あるいは平家物語の人物であっても、能のシテとして造形された人物は、既にあくまでも物語の世界の それであって現実に過去生きた人物とは異なるには違いないし、他方では、六条御息所についても 徽子女王というモデルが比定されたりもしているようだが、こと六条御息所の場合について言えば、 そのリアリティは逆説的に見えようとも、フィクションの中にこそ存するのは確かであり、 より直接的には、目の前にある能舞台で繰り広げられる、高度に様式化され、抽象化された エピソードそのものに在るのは間違いない。勿論それは、謡の詞章や型付けに依存していはしようが、 力の源泉はあくまでも一度きりの演能の数時間の時間の中で起きた出来事であるのは疑いない。

勿論、こんな事は当たり前の事であって改めて書くようなことではないのだろうし、 実際にこのように書いてみたところで、具体的に経験したものの凄みの前には空疎にしか感じられないが、 それでも尚、虚構と現実のこうした交差を目の当たりにしての、えもいわれぬ感覚のあまりに強さに対して、 こうしたことを書き連ねて反芻してみる他、私には為す術がないのである。

桜の季節に秋の気配の濃いこの能を演じるのには色々と困難が伴うだろうが、少なくとも能舞台に向かっている間は、 外は満開の桜の季節であることなど、完全に消し去られてしまうのである。 まるで夢の中で現実とは異なる季節に迷い込んで、醒めてみると、夢の中の強固な現実感のせいで、 かえって現実の方が幻めいて感じられるといった具合で、仮想現実、拡張現実を経験するのに、 何も最近流行の最新のテクノロジーなど不要なものに感じられてならない。しかも登場する人物は全くの虚構の存在の、 更にその亡霊に過ぎない筈なのに、今尚記憶の中に克明に残っている人物の存在感は、実在の人物よりも寧ろ 鮮明な程なのだ。

毎回の「香川靖嗣の會」の演能が如何に素晴らしいものであるかについても、それを具体的に 書くことは技術的な細部を言い当てるだけの知識がない私には手に余ることで、何回か回を重ねる毎に その思いは強まるばかりである。恐らくは毎回撮影されているであろう舞台写真の一葉の方が 多くを語ることであろうから、総体的な印象については上に記したことにとどめ、以下では、 自分の上記の印象に関連した細部について、幾つか具体的に書き留めておくに止めたい。


前場、僧の前に登場する御息所の霊の姿に先ず胸を衝かれる。既に源氏物語自体の中で御息所の 年齢設定には曖昧なところがあるようだが、馬場さんのお話ではその若さに触れられていた。 思えば霊が現われる時に往時の何時の姿をとるものなのか、ということをあまり考えたことがなく、 何とはなしに「死者は歳をとらない」という言葉からか、没した年齢をイメージしていたようなのだが、 そこに現われたのは「葵上」他のエピソードでの生霊となる程の激しさとは一見して懸け離れた、 犯しがたい気品と誇り、そして知性を感じさせつつも、儚さ、脆さを感じさせるような寂しさを 纏った若い女性の姿であった。

後場で笛に導かれて車に載って橋掛かりを横切って登場し、彼女にとってはほとんど外傷的とも呼べる 経験であったに違いない車争いの場面を回想する箇所でも、そうした印象は変わらない。 身分のせいでもあり、知性のせいでもあるのだろうが、それ自体半ば無意識的な反応の如きものとして 撓めて押し殺してしまった思念は、彼女自身にも制御不可能な形で出口を求めて奔流の様に迸ることになる。 だけれどもそれはここでは最早、ほんの一瞬、或る種の気配の如きものとして感じられるに過ぎない。

それは実際に舞台の上でも、折節、その気品に満ちた相貌に一瞬翳を落してよぎっていたように感じられる。 これもまた既に言い古された修辞の類と取られてしまうのだろうが、美しく寂しげな表情の中に、 一瞬、あの「葵上」の般若の、鬼の表情が揺曳するのを現実に目の当たりにすると、こうした複雑な 構造を持った心の微妙な変化を見所に感じ取らせる能楽の凄み、そして勿論、そうした能楽の持つ ポテンシャルを十二分に汲み尽くして、一度限りの舞台の上に表現しきることのできるシテの技量に 圧倒されずにはいられない。


私が強く感じたのは、恐らくはそういうプロセス自体を客観視することさえできる知性の持ち主にとって、 それは担い難い業の如きものとして感じられるのではないか、といったことだった。 実際、そのプロセスは原理的に停止することができず、断念は断念の不可能性に他ならない。 それが故に彼女は幾度と無く、この場所に立ち戻り、回想し、この悪循環からの脱出を願いつつも ついに果しえない。しかもそれは、生前にこの地を訪れた時に既にそうだった筈なのだ。 言ってみれば、ここでは最初の1回目というのが欠落しているかのようである。 勿論始めは自尊心、誇りといった言葉で形容し、説明できたものかも知れないが、それもまた、 この地を訪れることにした時点で既に無意味なものとなっていたのではないかという気がしてならない。 否、私は「源氏物語」においてどうであったかを語る権利はないから、この能においてどうであったかを 言うことしかできないが、少なくともここでは、原作の「源氏物語」の文脈を最早離れ、自意識を備え、 最早そのようではないものとして過去を回想し、現在とは断絶した未来を思い描くことのできる、 自伝的自己を備えた人間の宿命の如き構造自体が立ち現われているように感じられたのである。

そもそも御息所にとってこの場所での出来事というのは、かつて既に、それまでの過去を断ち切る、 彼女の生の軌道における特異点の如きものであった筈である。彼女は霊となって後、成仏できないことを 嘆いて祈るのではない。その祈りは初めからこの場所に構造的に含まれていた筈なのである。それを思えば、 一般にこの能の最大の見せ場ということになっている、鳥居が形成する結界のこちらと向うを行き来する型は、 そうした構造にはそぐわないものになるだろう。実際にシテが祈る型が挿入された替わりに、鳥居から 足を踏み出す型はなく、寧ろそのことが一層痛ましさを感じさせずにはおかないかのようだ。 それ自体が彼女の不幸であったかも知れない程までに聡明であった彼女は、己が囚われている業に 対して無意識であったのではなく、寧ろ初めから自覚的であり、それゆえに、それを受容することに 耐え難さを覚えたのではないか。彼女が囚われた閉域は(そうした側面が含まれない訳ではないが) 自分で制御できない嫉妬心に留まるものではなく、(これまたそうした要素がなかったわけではなくても) 身分や年齢差という彼女の生きた社会が強制する障碍のみがそうした状況を惹き起こした訳でもないだろう。 嫉妬に身を任せた挙句の修羅場や身分違いの恋ならば寧ろ巷に溢れていると言ってよい。(そういう意味では 「葵上」は同じ人物を描きながら、その把握は全く異質なものに感じられる。)

彼女の相貌の背後に秘められた或る種凄惨で正視に堪えないものは、通常であればそうしたものとは 無縁なものとしてイメージされる、理性的なものが持たざるを得ない宿命なのではないのか。 ここで理性と狂気の弁証法を持ち出すつもりはないけれど、馬場さんのおっしゃられた 無常と妖艶の関係は、異質のものの出会いなのではなく、無常であるからこそ妖艶が成立するといった 構造を持っているように思われる。これは私だけの感じ方かも知れないが、私がそこに見たのは、 異質のものの取り合わせが産み出す興趣といったものとは懸け離れた、正視に堪えないほどの痛々しさを 感じさせる美しさであったが、私にはそれが、本能的に振舞うことや、自然な感情に身を任せることから 身を引き離し、自分では決して解消できないアンチノミーを抱え込んでしまった「人間」の精神の 姿のように思われたのである。彼女は一方で、自分がそこに閉じ込められた閉域から出て行くことを 願いながら、結局のところその閉域に留まることを自ら選ぶ。だから祈りから始まる序の舞の後に、 この一曲限り、急の舞が続かなくてはならないし、来た時と同じ破れ車に再び乗って帰っていく外ない。 「火宅」というのは、まさにその閉域を指し示す名前なのだ。


このように書くと、豊穣な間テキスト性に支えられ、現実の人間以上に存在感のある御息所の個性が 揮発してしまったとか、観る者が汲み尽くせない程繊細で豊穣な細部に満ちた、円熟の極みと言う他ない 香川さんの演能を不当に図式化してしまったという謗りを受けるかも知れない。 だが、そうではないのだ。 例えば、ジュリアン・ジェインズのbicameral mindの仮説を思い浮かべていただいてもいい。人は意識を持つ存在ということ自体、必然的で自明なことではないし、 具体的な意識や自己の様態は、寧ろ社会的・文化的な環境により水路づけられる可塑性を備え、 それゆえ例えば一卵性双生児すら、同一の意識を持つわけではない。御息所が虚構の人格であるが故に、 既述の様に、「葵上」と「野宮」の対比では、異なった可能世界の提示といった感があるし、 構造的には良く似た円環構造を持つ禅竹の能においても、例えばこれもまた香川さんのシテで拝見した ことのある「定家」を思い浮かべた時に、反復の中に自ら帰っていく様相のあまりの違いに驚かされる。 虚実皮膜という言葉があるけれど、ここではそれに留まらず、寧ろ純然たる虚構の存在であるからこそ、 端的に、人間の存在の持つ儚さと美しさとを、或る種の普遍性を備えつつも、同時に具体的で、 より直接観る者の心を揺さぶることができる仕方で提示することができるのであり、恐らくは1000年近い 年月を隔てて、だが自分もまた囚われている共通の宿命の構造が、可能な限り最も美しい形象を伴って 提示されているからこそ、それに共感しつつ、自分自身のみでは決して到達し得ない慰謝を感じ取ることが 可能なのだと思う。

勿論、こうした感じ方が、例えば当日の見所の全員に共有されるという意味合いで 普遍的であるというつもりはない。否、寧ろこれは、私だけのごく私的な経験であり、非常に偏向した受容の 仕方であることを認めるに吝かではない。だがそれを認めたからといって、その経験がある仕方で個別性を 超えた普遍性を備えた美の経験であること、そしてそれが祈りという契機と固く結びついていて、 かつ上述のような意味合いでの意識と自伝的自己を備えた人間の構造の奥底に達する根源性を備えて いることについては譲るつもりもない。人によってはたかが一回の演能の鑑賞に過ぎないのに、何を大袈裟な、 とおっしゃるかも知れないが、最早美しかった、面白かった、上手かったでは済まされないような 演能というのがありえて、例えば今回のケースがそれに当るのだと私は思う。このような経験をしてしまえば、 技術的な個別の細部がどうだったというのも、受けとったものの総体の不可分の一部として記録するので なければ意味がないように思えるのである。


近年のテクノロジーの発達は、仮想現実や拡張現実というのを或る種の比喩に留まらない、本当に現実との 境界を曖昧にしかねないものにしようとしているようだし、ナノテクノロジーを活用した医療技術や 遺伝子操作等によって、現在の人間にとって逃れがたい宿命であった筈の個体としての有限性が ある技術的特異点(シンギュラリティ)に到達した向こう側では最早宿命ではなくなるといった主張が 現実味を帯びつつある現在において、このような演能に立ち会うことができるということは、単なる 伝統の継承を超えた可能性を感じさせるものであるように思われる。勿論、テクノロジーの可能性と、 それと裏腹の危険性を自覚的に引き受けた現代の先鋭的な試みは貴重だし、その中にも際立った成果が見られることを 知らない訳ではないのだが、そうした先端での最上の成果と拮抗し、ほとんどそれを圧倒しかねないような 達成に、伝統芸能の舞台で接することができるのは驚きでもあり、だが、数百年の年月を経て受け継がれてきた ことを思えば、寧ろ当然のことのようにも感じられ、いずれにしても、そこに人間持つ無限の可能性を感じさせずに いられない。

些か極端な言い方になるが、「香川靖嗣の會」を拝見することは、自分には及びもつかないようなことを達成する力を 人間が持っていることを身をもって体験する機会であるように感じられてならない。 そのような貴重な経験をいつもさせていただいていることに対する感謝の気持を記して、この感想を終えたい。

(2016.4-6, 6.11公開 7.11修正, 2024.7.1 noteにて公開)

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