バルビローリのマーラー:第9交響曲・ベルリンフィルハーモニー管弦楽団(1964)
昔、この曲(それはその時分にほぼ唯一容易に入手できるバルビローリのマーラーだった。) を聴いた時の印象は、明るい、見通しの良すぎる、一面的な演奏というもので、マーラーの音楽の 持つ多様性、世界と主観との軋轢を十分に表現できていないと感じられ、ベルリン・フィルとの 有名なエピソードを聞いて期待して聴いたこともあって、ひどくがっかりしたものだった。 そしてその時のそういった印象は、決して見当はずれなわけではなく、現代のマーラー演奏なら 欠けることがないであろう、新奇な音響上の効果の強調も行われず、パート間のバランスや奇矯な アクセントの強調などの譜面の再現という点で不満を抱く人も多いのではなかろうか。 改めて聴いてみても、この演奏は他のバルビローリのマーラー演奏同様、非常に変わった 個性的な演奏だと思う。
実のところ予想外ではあったが、にも関わらず「マーラー的」でない演奏と感じたわけではなく、 違和感を感じたとは言っても、例えばジュリーニの演奏と聴いたときの違和感とは随分 異なるのである。 誤解を恐れずに言えば、あまりに「自然に」音楽が経過していくことに驚いたのだ。 表現主義的で、ある意味では音楽外の文脈や、更に場合によっては単なる演奏上の技術的な 指示ばかりではない総譜上の指示、あるいは音楽の経過が内包するプログラム (標題をつけるのを止めたとはいえ、マーラーの場合にはそれは別段「秘められている」わけではなく、 明らかであると思うが)を無視することはないのだろうが、実際には安易に内容に擦り寄ることはなく、 音楽を演奏することで実現されるものが何であるかに 虚心に耳を澄ます姿勢が優越していており、この演奏も純音楽的な解釈には違いないのである。 (シェーンベルクがこの曲を「非人称的」だと言ったのは、バルビローリの演奏が実現しているような ような自然さと関係があるかも知れない。「暖かい」といわれるバルビローリの演奏が、 シェーンベルクの有名な発言に対してどのような立場にあるかは、聴く人により様々であろう。 私は、寧ろバルビローリの演奏こそ、シェーンベルクの言いたかったことを探り当てている、と いうふうに感じているのだが。)
そうした前提のうえで、バルビローリの演奏では、その第3楽章は、世界を買おうとして破産した 主観の末期の心象たろうとする。「極めて反抗的に」というマーラーの指示は、意図ではなく、 実現されるものとして構想され、実際にそのように達成されているように思われる。 勿論、この演奏を黎明期に続くあのマーラーブームの時代精神に忠実な演奏と比較すること、 例えば2つほど例を挙げれば、レヴァインやカラヤンのような場合と比較することは、意味を なさないだろう。
マーラーブームの時代には「純音楽的な」演奏がもてはやされたものだった。曰く「健康な」 「神経症的でない」マーラー、、、そうした「流儀」の演奏とも、あるいはまた、今日のブーレーズの ような「客観的な」演奏ともバルビローリの演奏はほとんど接点を持たない。この演奏は純音楽的で ありながら、やはり今日においては特殊なのだ。 これがマーラーの第9交響曲の代表的な演奏として、より今日的な演奏と併置されるのは奇観ですらある。 演奏としての完成度の問題は措くとして、その音楽の捉え方では間違いなく、今日的な演奏とは 相容れないものがあるのではないかと思われるからである。
ちなみに、とりわけカラヤンの演奏は、バルビローリが指揮した同じベルリン・フィルに よるものであること、恐らく、カラヤンがこの曲に取り組むにあたって、パート譜への書き込みや、 あるいはもっと直接的に奏者たちの間に「生きた記憶」として身体化されていたに違いない バルビローリの解釈を―好むと好まざるとに関わらず、だが、想像するに、この場合には 多分そんなに否定的にではなく―自分の解釈を築きあげるための土台にしたことを思えば、 それにも関わらず決定的に存在するように感じられる断絶を聴き取ることは、ほとんど驚異的な ことなのかも知れない。もっともだからといって、ことマーラーに関してカラヤンととかく比較される バーンスタインの演奏が、バルビローリにより近いわけでは全くない。寧ろ、バルビローリの演奏に 聴き取ることのできる或る種の音調は、バーンスタインの演奏には全く聴き取ることができない ものだと私には感じられる。粘液質の歌い回しや、テンポの伸縮などの表面的な特徴から バルビローリをバーンスタイン「式」の主観的で自己投入型の演奏と同一視することがあると すれば、それは全く見当外れのことと言わなくてはならないだろう。
聴いてまずすぐに気づくのは、バルビローリのマーラーの特徴である、停滞しない緩徐楽章、 リズムの重いアレグロ楽章というテンポ設定だろう。特にこの曲では長大な両端の緩徐楽章の 淀みないテンポの設定のせいで、深刻に立ち止まりくずれおれるタイプの演奏や、そうでなくても、 新ロマン派的にゆったりとした呼吸の演奏に比べて、息の浅い、淡泊な演奏だと思われるかも しれない。バルビローリのテンポの設計は明確すぎるほど明確で、途中で道に迷って途方に くれることはないのだが、こうした見通しの良ささえ、採りようによっては、マーラーの 音楽の十全な再現たりえていないと批判的に考える向きもあるかもしれない。しかし、私は、 その同じテンポの設定のもたらす説得力の強さを圧倒的なものだと思う。そして、このテンポ 設定は、即興的なその場の状況によるものではなく、勿論明確な意図をもって行われていると 感じる。
それは幻視のような効果をもたらす。音楽の向うにある風景。第1,4楽章、特に4楽章の第2主題が 強烈だ。この風景は、主観の外に実際にあるのではない。従って、聴き手にとっては二重の 窓から眺めていることになる。 こうした観点から見た場合、この演奏に一番近いのは多分、エルガーの第2交響曲の 同じバルビローリによる演奏だ。エルガーの場合も第1交響曲の風景が、意識のすぐ 外側にあって、そこへと踏み出すことが可能だったのに対し、第2交響曲では、外は 過去として内側に降りていくと見出すことができる、というかそれ以外には見出せない ものになっている。
かつてこの曲を頻繁に聴いていたころ、特に第1楽章に、その生活圏の風景が見えるように 感じられたことがあったが、このバルビローリの演奏を聴いたときに感じられるのは、 その風景がはっきりと回想する意識の裡にあるということだ。 それはその後聴いたジュリーニの演奏において風景がこの上も無く克明に見える、今、そこに 見えているものに感じられたのとは鋭い対照をなす。風景は現前せず、主体は風景を記憶の窓の うちに見出すのだ。
こうした直接性や所与としての無媒介性を決して装うことの無い、生の沈殿物の総体に媒介 された経験の生々しさ、そしてある意味では逆説的といえるかもしれない、媒介されているが ゆえの具体性は、この曲の演奏にあっては実際には極めて例外的な印象であると私は考えている。 そうした経験の感覚的ともいえるような直接性こそ、バルビローリの演奏の特徴であると思う。 そして、(多分この点が他の多くの演奏と異なる点で、かつ、バルビローリの他の 演奏、エルガーの第2交響曲やシベリウスの第6交響曲、第7交響曲の演奏と共通する点 だと思われるが)最後まで、主観は揮発しない。彼方へ消えていってしまうことはなく、 夜が明けて空が白んでいくのをここで感じ取るのだ。
(2002.4.30 公開, 2024.7.10 noteにて公開)
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